山を下りるにはまだ早い 第一章 四人部屋 旅館に着いて最初に褒められたのは、拓海の字だった。 「読みやすいお名前ですね」  女将さんに言われ、池上拓海はペンを止めた。宿帳には、石動宏和、と書いてあった。 「こいつのです」 「字の話だろ」  宏和が手を伸ばすと、拓海は宿帳を横へ滑らせた。 「読み仮名、いするぎでいい?」 「そこまで知ってて、何で確認するんだよ」 「仕事では大事なんだよ。確認」 「俺の名前を書くの、お前の仕事じゃない」  女将さんは笑いながら、皆さんのお名前もお願いします、と言った。胸の名札に間宮梢とある。作務衣の袖が肘まで上がり、左手の小さな絆創膏が、宿帳を押さえるたびに曲がった。  僕は青凪祐助と書き、ペンを森野亮へ渡した。亮は住所まで書いてから、僕の方へ宿帳を戻してきた。 「郵便番号、見せて」 「お前も同じだろ」 「そうだっけ」 「三本向こうだぞ、お前んち」  拓海が横から覗いた。 「川、越えるから違うかもしれない」 「ほら」 「いま考えた」  亮は拓海の肩を押し、僕の書いた数字をそのまま写した。最後に宏和が自分の名前の読み仮名を埋めた。拓海の字を直さなかったのは、女将さんの前だからか、褒められた字だからか、僕には分からなかった。  帳場の奥で湯の沸く音がした。女将さんが四つの茶碗を出すと、亮が急にいい姿勢になった。玄関の戸の上には、折返し、と墨で書かれた板が掛かっていた。  この名前が気になったのは、僕より宏和の方だった。せっかく来たのに帰れって言われてるみたいだ、と言ったくせに、ほかの候補の写真を見ても、最後はここの古い建物へ戻った。亮は風呂が広ければいいと言い、拓海は四人で一部屋なのかと二度訊いた。  僕が最初に予約の画面を送ったとき、亮は、四人部屋にしろよ、とだけ返した。宏和は駐車場の写真を欲しがり、拓海はその日のうちに職場で休みを確かめた。そこから僕の試験が動き、宏和の家の用事が入り、夏の旅行が九月の終わりになった。  途中で三人なら空いている日があった。僕はその日を送らず、次の月の予定を開いた。二十歳になったら何かしようと亮が言い出した頃には、僕だけまだ十九だった。 「皆さん、学生さん?」 「三人です。俺だけ働いてます」  拓海が答えた。 「今日は寝ます」 「寝られないよ。こいつら」  亮は僕らを指し、拓海に手首を下げられた。 「いま、お前が言ったんだろ」  女将さんは熱い茶を置いた。茶碗を持つと、僕の指先の方が冷えていた。山へ入ってから運転を代わり、最後の坂では対向車が来るたびに、肘を体へ寄せていた。僕が小さくなっても車の幅は変わらない。分かっていても、また寄せた。 「お風呂、何時からですか」  亮が訊いた。 「三時からです。今、清掃の仕上げを。九時まで入れますよ」 「露天も?」 「ええ。雨が強くなると、閉めますけれど」  亮は玄関の外を見た。空は白かった。 「降りますかね」 「そこまでは、私にも」 「すいません」  素直に頭を下げたので、僕は笑った。亮は茶碗を持ったまま、宏和へ顔を向けた。 「先、風呂でいい?」 「建物も案内してもらえるって」 「風呂も三時だって」  宏和は鞄から予約の控えを出しかけ、戻した。 「十分だけ、先に見たい」  亮が僕の足を軽く蹴った。もう長くなる、と口だけで言っている。宏和は、見たい所に丸をつけるからと案内を頼んだ。亮は茶を飲み終え、先に売店へ行った。  帳場の脇が売店になっていた。山菜の瓶と焼き菓子が並び、その下に青いイルカのキーホルダーが入った籠があった。山の中で、いちばん目立つ色だった。  亮はイルカを一つ取った。 「何につけるんだよ」 「車」 「借りてるのに?」  僕が訊くと、彼は考えてから、家の鍵、と言った。 「急に安くなったな」  拓海が言った。亮は財布を出した。三百円だった。  輪を開こうとして爪が入らず、亮は宏和へ渡した。宏和はまだ見学の話を聞いていたが、鍵を受け取ると、話を止めずに輪へ通した。 「ほら」 「ありがとう」 「値札、残ってる」  拓海が亮の手から取り、イルカを裏返した。値札を爪で擦って剥がし、鍵を戻した。亮は買ったイルカを手のひらへ載せた。目が少し離れていて、背中には塗り残しがあった。 「まあ、俺に似てる」 「どこ」 「いいところ」  僕は茶碗を置いた。女将さんが手を出したので渡しかけると、宏和がまとめて盆へ載せた。 「二〇一号室です。お荷物、先にどうぞ」  鍵の札が宏和から僕へ来た。僕は階段へ向かい、右足を一段目へ載せたところで、襟を引かれた。 「祐助。靴」  見下ろすと、右足だけ階段に載り、左足は玄関の敷物に残っていた。どちらにもスニーカーを履いていた。 「運転、疲れた?」  拓海が訊いた。亮が上から笑っていたので、僕は、まだお前を乗せたまま走れる、と答えた。 「何で俺を」 「ほかは静かだから」  スリッパに履き替えると、拓海が鍵を持って待っていた。  部屋は、鞄を開いたままでも歩けるくらいには広かった。窓のすぐ外に木の幹が並び、山の上の方は見えない。拓海が広縁の椅子へ座り、もう一脚に足を載せた。  亮はその足を持ち上げ、下へ腰を入れた。 「重い」 「持ったの、お前だろ」 「どけろってことだよ」  拓海は膝を曲げ、踵だけ亮の腿へ残した。亮がさらに押し返すと、椅子の背に頭をぶつけた。 「痛い」  普通の声だったので、僕は笑ってしまった。拓海はこちらへ向き、痛いんだけど、ともう一度言った。 「分かった」 「分かった顔じゃない」  宏和が部屋へ入ってきた。手に小さな館内案内を持っている。 「楽しそうだな」 「いま痛がってる」  僕が言うと、宏和は拓海を見て、ああ、と言った。それだけだった。  座卓には急須とポット、小さな菓子箱、白い電話機があった。亮が菓子箱を開け、饅頭を四つ数えた。僕は浴衣の棚を開けたが、似たような襟ばかりで、どれが大きいのか分からなかった。 「亮の、後で選ぼう」 「何で俺のだけ難しそうなの」 「袖が短かったら、二枚つなげるか」  拓海が言うと、亮は彼の足を下ろした。拓海も座卓まで来て、鞄を引き寄せた。僕が持ち手を持って寄せると、片方だけ伸びた。 「そこ、持つな。切れる」 「持ってから言うなよ」  僕は底を畳へ下ろした。亮も片手を出していたが、もう持つところはなかった。  拓海は持ち手へ巻いた黒い帯を外した。金具に赤い糸が挟まっていた。ほどけた鞄の裏から出たものだった。 「母ちゃんの鞄。俺の、届くの明日になった」 「使うの今日だろ」 「明日届くって言ったじゃん」  宏和が持ち手を裏返した。赤い縫い目が、端から三つほど抜けている。 「直してから借りろよ」 「帰ったら俺が直す。さっきも言った」 「俺には言ってない」  拓海は帯を膝へ広げた。鞄の底まで回してあった長さが、畳へ垂れた。二つに畳み、端を一緒に丸めて上着のポケットへ入れた。宏和は持ち手を鞄の口へ入れた。案内の紙を広げる場所がなく、先に財布を開いた。 「金、いまやる?」 「もう払った分だけ。あとで忘れるから」  亮は饅頭を咥え、片手でポケットを探った。鍵のイルカが先に出てきた。 「それで払うの」 「俺の方が損だろ。三百円だぞ」  宏和が携帯へ数字を入れた。車の代金とガソリン代。僕が出した駐車場の三百円。昼食は各自で払った。 「祐助の買った飲み物も」 「あれはいいよ」 「何で」 「三本だし。俺が飲みたくて止まったんだから」  宏和は入力する手を止めた。 「四本だろ」 「お前、自分で払ったじゃん」 「ああ。そうか」  拓海が自分の鞄から水を出し、ラベルを見ていた。 「百四十円」 「書いてないだろ、そこには」 「覚えてるから」 「じゃあ何で見たんだよ」  拓海はボトルを僕の方へ向けた。 「軟水だって」  亮が噴きそうになり、饅頭を手で覆った。宏和は笑わずに入力を続けていたが、口を一文字にしたまま、次の画面へ進まなかった。  宏和がレシートを避けるより早く、水の底が案内に丸い跡をつけた。拓海はボトルを広縁へ退けた。亮のイルカは、座卓で倒れていた。  合格通知にも、あんな跡をつけまいとしていた。拓海が司法書士の試験に受かった夜、亮の家で鍋をした。汁が飛ぶたびに、拓海は自分の袖を紙の前へ出した。僕が空いた菓子の缶を後ろへ置くと、ようやく紙が倒れなくなった。 「見た?」  僕はその晩、三回訊かれた。合格した人の番号を三回読んだ。宏和は皿を紙から離し、亮は肉を取るときだけゆっくり箸を上げた。飛んでも知らねえぞと言っていたのに。蓋が閉まらないほど入れた鍋は、最後に汁まで減っていた。 「これ、立たねえ」  亮がイルカを掌へ戻した。 「泳ぐやつだからな」  拓海が広縁から帰ってきた。僕は笑った。研修と登録を済ませて町の事務所に勤め始めても、こういう返事は変わらなかった。 「はいはい」  いま、拓海が電話に出た。 「あ、ごめん、はい」  宏和の指が止まった。亮は饅頭を飲み込んだ。 「母だと思った。はい。今、出先で。月曜の朝の、付箋のところです。……水野さんに先に見てもらえますか。俺からも連絡します」  電話を切ると、拓海は携帯を座卓へ伏せた。 「上司」 「はいはい」  僕が言うと、空の包みが飛んできた。受け取ったが、少し湿っていた。  亮が、休みでも来るんだなと言った。 「俺の付箋が『ここ』だけだったから。月曜までに、ちゃんと頼み直す」  拓海は水野さんへ文字を打った。宏和が肘の下からガソリン代のレシートを抜いた。  宏和の携帯が震えた。彼は相手を見て、立った。広縁の端へ行き、僕らに背を向けた。 「着いた。うん。それは月曜に。……いや、俺に聞かれても」  亮が拓海へ饅頭の箱を寄せた。残りは一つだった。拓海は取りかけ、僕の手に包みしかないのを見た。 「お前、食った?」 「まだ」 「何で包み持ってんだよ」 「投げてきたからだろ」  拓海は箱を僕へ押した。饅頭は、思ったより重かった。 「大学で習ってるのと、それは別。俺、壁は直せない」  宏和の声が大きくなった。亮は膝を抱え、拓海も携帯から顔を上げた。  宏和は何度か頷き、分かったから、と言って切った。 「祖母。物置の壁、剥がれたって」 「見に行くの」  僕が訊くと、宏和は座り直した。 「俺が一回見ないと、業者に頼めないんだって。見ても直せないのに」 「孫の顔が見たいんじゃねえの」  亮が言った。宏和は亮を見た。 「だったら、そう言えばいいのに」 「言われたら行くのかよ」 「行くだろ」  宏和は自分の携帯を見た。壁の写真が来ていた。僕へ向けかけたが、亮が覗き込んだので、そのまま三人の方へ出した。 「これ、落ちる?」 「俺に聞くなって、ばあちゃんにも言った」  拓海は少し拡大し、携帯を返した。 「月曜じゃなくて、業者へ先に電話だけしてもらったら」 「したくないんだよ。知らない人に」  宏和は返事を打った。しばらくして、俺が電話番号を探してやる、と言った。亮は饅頭の包みを細く畳みながら、うん、と答えた。  僕は饅頭をかじった。箱はもう空だった。  拓海の携帯がまた鳴った。今度は画面を確かめていた。 「はい。今さっき、あんたと間違えて、偉い目に遭ったんだけど」  母親だった。彼は僕の前に落ちた包みを取り、宏和へペンを求めた。 「椎茸。大きい方? 二袋? 重くない? ……乾いてるのは知ってるよ」  亮は膝へ顔を伏せた。 「山口さんに。ああ。帰りでいいだろ。いま買うと部屋で邪魔になる」  拓海は紙へ丸を二つ書き、電話を切った。 「誰に買うの」 「母ちゃんの職場の人。山口さん。ここ行くって言ったら、あっちで椎茸の話になったんだって」 「一人で二袋?」 「母ちゃんも食うんだろ。明日、あっちで」  亮が包み紙の丸を指した。 「お前は?」 「俺は家帰るだろ」 「食う方」 「俺の買った椎茸で、俺だけいないんだよ」  宏和がペンを受け取った。拓海は自分の財布を出し、まだ開けずにポケットへ戻した。 「家に置く分もいるかな。値段見てからにする」 「椎茸で買えないほどするかよ」 「二袋と俺のと、お前が食う分も言い出すだろ」 「それはお前んちで食う」  亮が笑った。拓海も笑い、明日、母ちゃんが帰ってからか、と携帯の画面を見た。  宏和は案内を持って立った。僕らが座っている間にも、見学の時間が減っていた。拓海は携帯をしまい、僕へ顔を向けた。 「いま何か言いたい顔したろ」 「饅頭、食べてる」 「食い終わってからでいい」  僕は食べるのを早めた。亮が時計を見た。 「三時になるぞ」 「見学、三時過ぎだって」  宏和が言った。 「過ぎって、何分?」 「聞いてくる」 「帰ってこいよ」  拓海の声を聞きながら、宏和は戸口へ向かった。途中で戻り、充電器だけ鞄から出した。 「写真も撮りたい。四人で」 「いま撮れば」  亮は饅頭の箱を閉じ、頭の後ろの窓を指した。 「暗いだろ、ここ。逆光になる」 「じゃあ窓の方を向く」 「誰が撮るんだよ」  亮は考え、僕を見た。 「四人って言ったばっかだろ」  僕が返すと、拓海が笑った。宏和は携帯を構えかけて下ろした。 「下で頼もう。女将さんに」 「いま?」 「見学の前。揃ってるうちに」  亮は座ったまま、自分の上着を引き寄せた。イルカのついた鍵をポケットへ入れ直している。僕は最後の一口を食べ、四つの包みを重ねた。  拓海は丸を二つ書いた紙だけ取り、半分に折って財布へ入れた。それから宏和の案内を覗いた。 「見学って、下まで行くのか」 「まだ聞いてない。つながってるところを見たいんだよ」  窓の端から、もう一つの棟へ伸びるガラスの廊下が見えた。古い柱の向こうに、窓がいくつも続いている。宏和はそこを指し、指したまま、亮が上着を着るのを待っていた。 「十分だけな」  亮が言った。  宏和は案内を畳みかけ、止めた。 「最初に写真。そこから十分で、続きは俺一人でもいい」 「じゃあ、最初は行く」  亮は携帯を出し、まだ何も押さずに戻した。  亮が僕を見た。僕は鍵の札を指で回し、立った。  拓海は宏和の案内を指した。 「それ、置いてく? 写真、地図まで写るぞ」  宏和は紙を畳んでポケットへ入れた。拓海が先に廊下へ出た。僕は鍵を持ったことを確かめた。亮は空の菓子箱を鞄へ入れようとして、宏和に、それは置いていけ、と止められていた。  四人が出るまで、僕は戸を開けて待った。 第二章 並ぶ前 女将さんは湯飲みを重ねた盆を持っていた。廊下の奥から梢さん、と呼ばれ、僕らへ少し待つように頼んだ。  宏和は携帯を下げた。亮が玄関の白い壁の前へ行ったので、僕らも寄った。壁の下には宅配便の箱が二つあった。 「ここでいいんじゃねえの」 「下、切るか」  画面を横にしたところへ、胡桃のクッキーと胡麻の煎餅を持った女性が来た。 「どっち?」  亮も袋を見ていたので、僕が胡桃と答えた。女性は袋を開けかけ、携帯に気づいた。 「写真? 私、撮ろうか」  宏和がすぐに渡した。彼女は袋を窓際のテーブルへ置き、花村小鈴と名乗った。そこで本を読んでいる寒河江澄と来ているという。僕らも名乗ると、拓海だけが、俺は働いてます、と付け足した。 「真ん中、狭い。大きい人は端へ」  小鈴さんは僕と拓海へ少し寄るように手を動かし、携帯を下げたまま待った。亮は肩をすぼめて一歩後ろへ下がった。僕の右肩の上に顔が来た。 「遠近法で」 「箱に乗ってんじゃん」  拓海が腕を引いた。亮は片足だけ下ろし、僕は壁から離れた。  シャッターの音がした。小鈴さんの隣で、丸い眼鏡の女性が自分の携帯を下げた。 「今のでよかったかも」 「まだ並んでないです」  宏和へ見せた画面では、拓海が斜めになって亮の腕を掴み、僕は笑っていた。宏和だけが正面を向いていた。 「四人とも入ってるよ」  もう一人が後ろから覗いた。髪の内側だけ明るい茶色で、本を胸に抱えていた。 「陶子、私のもそれくらい自然に撮って」 「さっき、目が小さいって言ったじゃん」 「目は開けて、自然に」  三輪陶子、朝倉なずなと名乗った。なずなさんは、恋人です、と言って陶子さんの腕をつついた。  小鈴さんが携帯を上げた。 「もう一枚。亮君、そっちの端へ。顔だけこっち。息止めなくていいよ」  亮は端へ移り、笑って肩を下げた。僕も正面を向いた。宏和は届いた二枚を四人のグループへ送り、亮は最初の方を待受にした。 「揃ってる方じゃねえの」 「こっちの方が、お前、変」 「じゃあ俺のは揃ってる方にする」 「それ、俺が端じゃん」 「お前のは、それだろ。もう」  僕にも二枚とも来た。どちらかを消すつもりはなかった。  窓際へ戻ると、澄さんが足元の鞄を膝へ上げた。宏和はそこへ置きかけた丸椅子を自分の方へ引いた。 「花村さん、受付のお仕事ですか」 「司会と、受付も。どうして?」 「写真の並び方、すぐ決まったので」 「並ぶのに困ってたんだね。じゃあ、今日は役に立った。いつもは全員来る前から始めなきゃいけなくて、誰がまだか、喋りながらずっと数えてる」  小鈴さんは袋を開け、澄さんの膝から皿を取った。 「今日は来てる人だけでいいから楽。働いてる人、休み合わせるの大変だった?」 「俺は空いてる日、最初に全部出したんです」  拓海は亮を指した。 「三日」 「既読にした時点で返したと思ってた」  宏和は指される前に、家の用事が決まってなかった、と言った。 「私も一日ずれて、澄に合わせ直してもらった。明日の仕事、代わってもらったんだよ」  澄さんはクッキーを半分に割り、小鈴さんの皿へ片方を置いた。小鈴さんは見ずにつまんだ。 「二人のも撮りますか」  宏和が訊いた。小鈴さんは食べたまま頷きかけ、窓へ顔を向けた。 「庭で撮りたい。まだ明るいうちに。あそこ、二人で立てるかな」  澄さんがようやく鞄を床へ戻し、本を開いた。 「それまで私、ここで読んでる」 「私のお菓子まで取っといて」  小鈴さんは胡桃の袋を澄さんの前へ置き、胡麻の煎餅を亮へ差し出した。澄さんはクッキーをもう一枚取った。  拓海が携帯を読んだ。母ちゃんかと訊くと、水野さん、と答えた。事務所で月曜に来る人と、まず自分が話してよいという返事だった。 「俺がいる日、教えてたんだよ。先生にも会うけど、まず俺のとこに来るって」  彼は食べる前にもう一度文を読んだ。 「月曜、帰る前に飯食わねえ?」  亮が訊いた。 「土曜に月曜の飯決めるの」 「明日はみんなで食うだろ」 「六時半には出る。たぶん。遅くなったら先食ってろ」  僕は授業の終わる時間を思い出せず、あとで返すと言った。宏和は祖母の所へ寄ってから来るという。 「待つだろ。注文だけする」 「俺のまで?」 「お前、いつも同じじゃん」  宏和は、そうだけど、と言った。亮は六時半と入れ、店の名は空けておいた。  窓で紙が擦れた。灰色のジャンパーの男性が、日付の過ぎた紙を剥がしていた。近くの駐在所の福地篤だと女将さんが紹介した。新しい紙には夜間の車上荒らしへの注意と、道の狭い所に駐車しないようにとあった。 「この辺、夜も車が来るんですか」 「宿の人も通るからね。車に貴重品、置かないで。下りも急がないで」  宏和が駐車場を指した。 「借りた車なんです。下りの方へ向けといた方が、出やすいですか」  福地さんは窓へ寄り、車の前から砂利の低い方へ目を移した。 「ここで向きを変えると、坂へ頭を出すことになる。今のままで、一回切り返す方がいいよ」 「俺、切り返すの、あんまり」 「出る時に呼んで。横で見てるから。今は動かさなくていい」  宏和は携帯を出しかけて、しまった。 「じゃあ、明日」 「うん。出る時間が決まったら、梢さんに言っておいて」  女将さんが、朝、駐車場を片づける時に、と宏和へ言った。彼は車の方をもう一度見て、椅子を引いた。  福地さんは亮のイルカへ目を移した。 「それ、うちの娘が小学校の頃に買った」 「大人も買います」 「うん。いいと思う」  玄関脇の椅子から福地、と呼ばれた。白髪の男性が革の鞄を足元へ立てていた。福地さんは剥がした紙を折り、その人の所へ行った。  紫のストールの女性が僕の肩へ触れた。 「テレビに出てなかった? 名前の台の前で」  亮を見ないで、高校でクイズに出たと答えた。女性は辻待しのぶと名乗った。占いの名刺を後で持って来るという。拓海が掌を出しかけると、今日は何も持ってない、表を作る方なの、と笑った。  女将さんが戻ってきた。三時二十分だった。なずなさんは『山村の怪異』を開き、宏和の案内と重ねていた。 「この廊下、歩きたいんだよね」 「庭は、こっちから行けますか」  小鈴さんが訊いた。女将さんは、見学の最後に下の戸をお見せします、と答えた。 「澄、そこまで行こう。戻ったら私も座る」  澄さんは本へ栞を挟んだ。 「五分?」 「それくらいでしょ。庭、知らないで行くより」  宏和は案内の表紙を持ち直した。澄さんが本を鞄へ入れるので、僕は通れるように椅子を寄せた。  小鈴さんは僕へ、あとで一問だけ出してくれる、と訊いた。 「澄も、知ってるのに人前だと答えないんだよ。今日は仕事じゃないから」  澄さんは鞄を持ち直した。 「私は読みに来たんだけど」 「分かってる。一問だけ」  亮はイルカをポケットへしまった。 「俺の十分は、見学始まってからだからな」  宏和は、分かった、と言った。僕は携帯を持ち直した。拓海の返事がまだ来ていない。月曜の飯には行けると、風呂へ入る前に返そうと思った。 第三章 二つの一階 階段の手前で、亮が百円玉を求められた。髪を一つに結んだ女性が五十円玉を二枚持っていた。自販機が戻してくるという。  亮のポケットから先にイルカが落ち、彼女が拾う間に財布が出た。硬貨を替えると、水原です、と名乗った。 「ありがとう、森野君。梢さん、コーヒー、全部冷たいの?」 「まだ九月ですから」 「そっか」  缶の落ちる音を聞いて、僕らは階段を上がった。  本館二階の客室を過ぎ、ガラス窓の続く渡り廊下を渡ると、柱が黒くなった。女将さんが旧館の三階ですと言った。 「どこで上がった?」  小鈴さんが振り返り、宏和は窓から本館の壁を見せた。 「坂に建ってるから。屋根は同じくらいだけど、こっちの棟の方が下まである」 「一階、増えた」  亮が言い、拓海が、戻ると減るな、と返した。宏和は写真を撮ってよいか確認してから天井へ向けた。  なずなさんの本の写真もこの廊下だった。夜に足音がする話は、と尋ねると、女将さんは、物を取りに私も通ります、と答えた。陶子さんは今の方が柱の色が濃いと、なずなさんと写真を撮った。小鈴さんも携帯を出し、窓を見る澄さんを撮った。 「それ、髪、ぐしゃぐしゃでしょう」 「顔、見えないから大丈夫」 「私が見たいの」  小鈴さんが画面を出すと、澄さんは覗き込み、そのままコートを着た。小鈴さんは庭は下だよね、と女将さんへ訊いて、携帯をしまった。  旧館の二階へ下りると読書室の戸が開いていた。学校の机が窓から少し離され、椅子が二脚並んでいた。机の右端には低い木の台がついている。宏和が横へ回りかけ、椅子の背へ膝を当てた。 「前は窓にくっついてたんですか」 「紙が湿気を吸うので。戸を開けられるところまでしか動かせなくて」  宏和は戸の傍へ戻り、二脚の椅子も入れて机を撮った。  灰色の電話に、帳場は〇、と札があった。亮が夕飯の時間も訊けるのかと言うと、女将さんは六時半ですと答えた。  なずなさんが棚から薄い写真帳を抜いた。開いた頁には、さっき通った廊下があった。陶子さんが横から、窓に誰か立たせたら同じになる、と覗いた。 「向こうで見ていいですか。自分の本の方と、比べたいので」  女将さんは夕方までにこの机へ戻してくださいと頼んだ。陶子さんはもう携帯を出し、なずなさんは頁を閉じないで持った。二人の間で、廊下へ先に立つ方を決めていた。  向かいの談話室で、しのぶさんが名刺入れを開いていた。僕の部屋の番号を訊き、後で一枚持っていくと言った。 「テレビの人に渡した、とか、誰にも言わないから」 「こいつのテレビは仕事じゃないんです」  亮が言い、じゃあ仕事じゃない方で、と返された。  下の渡り廊下は本館一階のロビーへ続いていた。その奥が浴場だった。亮はもうそちらへ足を置いたが、女将さんが下の資料室もご覧になりますか、と訊くと、宏和は階段へ向いた。 「俺、もう風呂行く」 「うん。俺は下も見たい」 「祐助は」 「あと一つ」  亮は息を吐いた。下から箱を運ぶ声が聞こえ、渡り廊下から足を戻した。 「箱だけ。運んだら終わりな」  前掛けをした男性が箱を抱えていた。料理の笠原です、と女将さんが言った。亮は自分から受け取り、拓海も床の箱を取った。上の物置へ運ぶ。僕と宏和は、昔の厨房だった資料室へ入った。  壁際には煤のついた釜と飯櫃があった。宏和が釜の台へ屈むと、亮が戸口へ戻り、もう一箱持ってと頼んだ。宏和は釜の写真を撮ってから箱を受け取った。笠原さんも釜へ眉を寄せた。 「それで皆の飯、炊いてたんだな。俺が来たときは、もう使ってなかったけど」  彼は帳面から縦にも横にも折り目のある紙を抜いた。 「庄司さんへ、これだけ見てもらう。帰る前には返してもらうから」  女将さんが福地さんも来ていると言った。笠原さんは、昨日、今日見せると電話で伝えたと答え、前掛けを外して上へ行った。  部屋の机には白い電話と開いたパソコンがあった。水原さんが眼鏡を頭へ載せて座っていた。膝の紙を裏返した時に鉛筆が落ち、僕が拾った。 「ありがとう。眼鏡も見なかった?」 「頭に」  彼女は下ろして掛け直した。しのぶさんが新聞で名前を見たという。水原芙美。今は自分で書いて持っていく仕事で、前の記事を直すために来たと話した。 「この後、原稿を預けて、また取りに行きます」  携帯が鳴った。いったん鞄へ入れ、すぐに取り出した。笠原さんが戻った時には紙を持っていなかった。  水原さんのパソコンの脇へ、小さな紙が貼ってあった。〈庄司・四時、原稿の回収・十七時十五分〉。 「取材は、四時の方で終わるんですか」 「読んでもらう所まで。原稿は置いて、あとで取りに行くの。戻ってから探す方が長くなるから、記録にも、返す用事の名前を付ける」  机には、庭で撮った人の写真が二枚あった。片方の裏へ小さな丸がついている。 「この人も、こちらで?」 「六月。今度載せる方。二枚、送って選んでもらった」  彼女は丸のない方も同じ袋へ戻した。鉛筆を探す間、その袋が開いたままだった。 「庄司さんには、どの行を読んだかも録ります。持って帰って直したら、私が足した所まで返事みたいになるから」  四時の下へ一本、鉛筆を置いた。時計はまだ三時台だった。  女将さんは裏庭の戸を開けた。昔はここから厨房へ運び込んだという。小鈴さんが庭へ目を向けたが、白い霧に塀の向こうが隠れていた。 「このまま出て、玄関まで回れますか」 「今は歩けるようにしてないんです。表のお庭へは玄関から。雨になると滑りますから、こちらも中を通ってください」  澄さんは小鈴さんの袖へ手を掛けてから、先に戸を離れた。小鈴さんも戻った。  宏和が戻ると、拓海は資料室の戸口から机を見ていた。亮は米の支度も手伝うと言った。そっちは俺の仕事、お客さんは風呂へ、と笠原さんが断った。 「飯、何時ですか」 「六時半。よく食う?」 「はい」  笠原さんが厨房へ帰るまで、亮は見ていた。  女将さんが古い膳を両手で持った。僕は部屋の湯飲みが三つしかなかったと思い出した。電話で伝えてもらえますかと言われ、水原さんに断って受話器を取った。帳場は〇、客室は部屋番号。三回鳴って笠原さんが出た。 「湯飲みを一つ、二〇一へ。お願いします」 『ああ、四人だったか。夕飯の前に入れとくよ』  亮が片手を耳へ当てた。 「米も一つ」 「米は六時半」  僕が答え、女将さんが笑った。水原さんは窓で電話をしていた。白いタッパー、青いのはまだ凍ってると、家の人へ教えていた。明日は帰る、パンを買っていくと言って切った。  階段で宏和が資料室を振り返った。亮が建物は逃げないと言うと、宏和は昔の缶蹴りの話を始めた。 「缶を置く場所、先に見ないと」 「缶は蹴ればいいだろ」 「隠れる場所がないと、蹴りに出られないんだって」 「見てる間に呼ぶなよ」  宏和の声が強くなった。亮は階段を半段戻り、水原さんを先へ通した。宏和は一枚撮り、僕の足が引っかかると、こっちは一段高いと教えて前をゆっくり上がった。  拓海の電話から母親の声が聞こえた。音を小さくしようとしていた。 『亮君、大きくなった?』 「遠近法だって。母ちゃんも明日、来れば。帰り、駅まで一緒に」 『明日は山口さんの所に行くの。さっき言ったでしょう』 「先に、迎えに来るだけでも。俺が電車にすればいいじゃん」 『祐助君たちと帰りなさいよ。あなたが行ける日まで待ったんじゃないの』  女将さんが上がってきたので、拓海は脇へ寄った。椎茸を忘れないよう頼まれ、切ってから小袋も足すかと僕へ訊いた。 「家に置く方。あいつらに全部持ってかれるから」  後で見ようと答えた。電話の画面には四人の写真が残り、彼は亮の顔を大きくした。  談話室で、亮は羊羹を指して食べてよいか訊いた。小鈴さんが澄さんの前へ袋を差し出した。 「胡桃、ある?」 「もうない」 「私のは?」 「食べた」  小鈴さんが袋を逆さにすると、砕けた端だけ落ちた。 「さっきは半分、くれたのに」 「今度は私が食べたかったから」  彼女は端を食べ、袋を畳んだ。僕は長机へ座った。小鈴さんが隣の椅子を引く間に、宏和は入口へ戻った。 「今、十分、もう越えてるな」  亮が言った。 「うん。次、俺一人で行くから」 「そうじゃなくて。俺、こっちの十分も使ったんだけど」  宏和は立ったまま、携帯をしまった。拓海は空いた椅子へ手を掛け、亮のために長机から引いた。亮は座らず羊羹を取った。 第四章 待っている答え 「俺、これ食ったら行く」  亮が言った時、小鈴さんから一問だけ、と頼まれた。 「問題を持ってきてないんです」 「何でもいいよ。さっきの建物とか。出たら私も座る。ずっと喋らせるつもりじゃないから」 「建物は宏和の方が」 「出すのはお前がいい」  亮の返事で、僕は問題を探した。彼はまだ椅子へ座っていなかった。 「日本でいちばん高い建築物は――」 「スカイツリー」 「――東京スカイツリーですが、日本でいちばん高い山は何でしょう」  なずなさんが富士山と答えた。陶子さんと手を合わせ、取れたと喜んだ。亮は建物って言ったじゃん、と言って座った。 「もう一問。私も答えたい。食べ物にして」  小鈴さんが手を上げた。僕は次のLDKのDをダイニングと宏和に答えられてから、胡桃の英語を出した。澄さんが先に答え、小鈴さんはゆっくり隣へ顔を向けた。 「澄まで来ると思ってなかった」 「知ってたから」  小鈴さんはその皿から羊羹の端を取った。 「英語の本ですか、それ」  僕が鞄の口へ目をやると、澄さんは羊羹を食べてから本を出した。表紙に図書館のシールがあった。 「小説です。仕事で問題集を見てるから、休みは問題、読みたくなくて。算数ばっかりなんですけどね。胡桃はお菓子で覚えました」 「小鈴、私、これを読むつもりで持ってきたの」 「庭でも読めば。私、あとで撮ってもらうから」  小鈴さんが宏和へ言った。彼は、いいですよ、と答えて携帯を机へ伏せた。 「次、一人ずつにしないか」  白髪の男性が福地さんと入ってきた。窓を閉めてほしいと頼み、僕の前へ座った。庄司さんと呼ばれた。 「端から順にすれば皆さんへ当たるでしょう。テレビの大会、見ていたよ。最近の子は考える前に押してるみたいだ」  五問は作れないと答えると、自分なら一つあると言った。鼠の次は、としのぶさんへ出し、丑と答えられてから猫がいない理由を尋ねた。 「鼠に、日にちを嘘で教えられた話?」 「そう。それを聞きたかった。知恵があるからといって、人を騙してはいけないんだよ」  しのぶさんは茶を取り直した。水原さんが戸口で紙を出した。 「お借りしたものを返します。四時から、お話の続きもお願いします」  庄司さんの携帯が震えた。孫だよ、と言って眼鏡を掛け、送られた挨拶を声に出した。町内会で来週話すらしい。文を直すと、電話から大人が増やしたら長くなると声がした。 「じゃあ、どこを聞くんだよ」  笑いながら最後まで聞き、明日の晩御飯はそちらで食べると話して切った。水原さんは二枚の紙を重ね、携帯の横へ置いた。上には大きな黒い字で、講演の前に説明を訂正してください、とあった。下に主催の会の名前があった。 「講演、なくなるんですか」  亮が訊いた。 「主催から届いた文のコピーです。説明を確認できるまで、告知を待つと」  水原さんが答えた。下に、十二年前、警察の用事を女性の私用と発表した説明を訂正してほしい、とあった。  庄司さんの携帯へ、別の着信が来た。庄司さんは襟を直し、今、その水原さんと一緒です、と答えた。 「今日中には。来月話す内容まで変える必要はないでしょう」  小鈴さんが膝の手をほどいた。時計は三時五十分を過ぎていた。庄司さんは電話を切り、大きな字の紙を裏返した。 「私にも同じ文が来ています。私からも返事するようにと」  福地さんが言った。なずなさんは本を閉じた。  水原さんが下の一枚を庄司さんの前へ出すと、彼は、編集者へ先に通すのはやめてほしい、と言った。 「引用元の記事を訂正すると分かっていて、黙っていられません」 「本は私一人で出すものじゃない。予定を止めたら困る人がいる」 「それなら、今日、お願いします」  水原さんは、回想録へ使う前に、元の記事の誤りを直したいと言った。庄司さんはその原稿の最初の段落を声に出した。 「『当時宿に勤めていた女性が、尚人さんへ接触を依頼した事実は確認されていない。尚人さんは警察の求めで相手と会った』。ずいぶん簡単に書くね。女性の名は?」 「ご本人が、また名前が出るのは困ると」 「この、私の指示だったという所は、私の発言になっているの?」 「伺った話を、私がまとめた案です」 「まだ了承していないよ。それと尚人君がやめたいと言っていた件は、福地君へ。私は最近聞くまで知らなかった」  福地さんが紙へ近づいた。 「先に、警察の用事だったと認めてください。あの女性が頼んだんじゃないと」 「それは私が話す。君の話まで私が答えるわけにはいかないでしょう」 「弟が行くと言ったから、俺が頼んだから、それで終わらせるつもりですか」  庄司さんの腕で紙へ届かない手を、福地さんは引かなかった。水原さんが書き始めてから下ろした。  拓海の皿に羊羹が半分残っていた。本人はこちらを見ていなかった。  庄司さんは眼鏡を外した。ここでやる話ではないと言い、四時から読書室で四十分、原稿は五時十五分過ぎに回収という予定を確かめた。澄さんへ通してほしいと頼み、二枚を挟んだファイルを持って向かいへ入った。  福地さんは窓へ戻り、切抜きをまとめた厚い束を膝へ載せた。鞄へ押し込むと口が閉まらず、女将さんへ、ここに置いておいていいですか、と訊いた。 「ゴム、切れてるんだ」  拓海が上着から黒い帯を出した。荷物へ回す長い帯で、二つに畳んであった。 「これで巻けます。金具、こっちへ通せば。俺の鞄には、巻かなくてもよかったんで」  福地さんは礼を言って受け取り、紙の束へ二重に回した。赤い糸の挟まった金具が一番上へ来た。 「夕飯までには返すよ」 「四時四十分に。俺、そのあと風呂なんで」  小鈴さんが弟は何歳だったかと訊くと、十七、真島尚人、と答えた。自分は結婚して姓が変わったという。  水原さんは今話せないかと頼んだが、福地さんは出る用事がある、夜に、と返した。水原さんにも電話が来た。  僕は爪楊枝を半分に折り、拓海へ皿を渡した。澄さんが小鈴の答える問題を一つだけと頼んだ。胡麻の英語には、セサミ、とすぐ返った。小鈴さんが片手を上げたので僕も合わせた。  音を聞いて亮が立った。 「今なら風呂行く?」  宏和が尋ねた。 「行く。俺、何回言った」  僕は月曜の授業を確かめ、グループへ行くと返した。拓海も目の前で返事を打った。携帯を指へ挟んだまま皿を持ったので、僕も半分受け取った。  廊下で、水原さんが電話へ言っていた。 「六月の方も、これが出るまで載せないんですか。あちらには、もう撮った写真も選んでもらってます。待ってもらった時間まで、私からお断りし直すんでしょうか」  水原さんは壁に背をつけた。僕らの皿が触れる音で、携帯を反対の耳へ移した。 「私の名前で出すんでしょう。だったら原稿は私に書かせてください。……あの方が否定したら、そこで止めるんですか。前の記事は、本人の話として私が書いたんです」  水原さんは返事を聞き、壁から背を離した。 「確認できなかったことも書きます。確かめていない二行は外す。それで、訂正を私から返すところまで。明日の昼までには、録音も一緒に」  僕らが盆へ皿を載せると、彼女は読書室へ入った。戻って携帯を取った時、向かいから池上君の文も、と声がした。  戸の傍へ残ると、水原さんがノートを開いた。 「十二年前、千佳さんが私用で接触を頼んだ、と書いてよいか聞いた。あなたにはいと言われた、とノートにあります」 「確認したなら君の記事だ。私は原稿まで書いていないよ」 「私が載せました。電話も、二回、昔のことだからと断って。それは書きます。だから、あの時、はいと言ったところを」 「君がまとめた文を、今、私に読ませているんでしょう」  庄司さんが役職の違う段落を指すと、水原さんは赤いペンでそこを直した。 「役職は直します。あの時の返事も」  庄司さんは紙を裏返した。下にある水原芙美の四字へペンの先を置いた。 「ここは残るんだね」 「私が書いたので」 「それなら、まず君が書いた案として読んで。私が答えたかどうかは、その後です」  水原さんは紙を戻そうとした。庄司さんの指は離れなかった。彼は携帯を気にしていた。孫の文を読むのかと思ったら、録るのはその後に、と先に手を出した。  水原さんは赤いペンを置いた。紙を戻すと、右の袖口が机へ擦れ、折った所の白い裏が出た。携帯の蓋を後ろへ折り、机の端へ立てた。紙の上下が画面へ入るまで、ペンを横へ動かした。灰色の電話の角も入った。 「顔は?」 「どの行を読んだか、指と一緒に。音は入ります」 「なら、読んだ所までにして。五時に池上君も来る」  水原さんはノートを閉じないまま、録画を始めた。庄司さんの指が原稿へ来ると、画面を確かめてから椅子へ座った。 「その下は、池上君から来た文だね。ご本人が以前の宿へ戻りたいと」 「そちらはもう一度確認します。訂正とは分けて」 「了承を頂いていると聞いたから、今日も会うんですよ。私が誘ったことにはしないでください」  水原さんは下の二行を折った。線は引かなかった。僕は亮へ先に入ってと送った。拓海へ訊けばいいのに、今は紙が返されるのを見たかった。  福地さんが来た。窓側へ行こうとして椅子の背に膝を当て、戸の横へ残った。 「笠原君は、まだ厨房かな。手紙のことを直接聞いておきたい」  庄司さんが立ちかけると、福地さんは椅子の背へ手を置いた。 「弟の話が、まだ」 「君の弟が頼んだと、この文へ入れていいのか」 「そうじゃない」  庄司さんが椅子を引いた。福地さんは通れる幅を空けた。水原さんが原稿を向けると、庄司さんは手前へ引いた。署名の上へ右の掌が来た。 「そこは残してください。私が書いたので」 「残すよ。その前に、私が答えた所を。先に確認します」  手が紙を離れると、水原さんはペンを持ち直した。  階段から亮が呼んだ。 「先にって、何。お前が後だと、また露天だけ別になるだろ」  福地さんがこちらを向き、僕は戸口から離れた。水原さんは木台の携帯を確かめてから、また紙を読んだ。  僕は亮を追った。  拓海は盆を帳場へ返した所だった。亮の後を通り、僕へ皿を落とさなかったかと訊いた。僕は落としていないと答えた。 「向こうで、お前の文の話、してた」 「何て」 「お母さんが、戻りたいって」  拓海は階段へ置いた足を下ろした。僕が庄司さんの言った文を続けると、亮が上から呼んだ。拓海は手すりを一度掴んで、こちらを向いた。 「風呂、行ってて。俺、土産だけ買う」 「さっき、後でって」 「忘れるから」  僕は財布を持っていた。待つと言えば、また亮に呼ばれる。でも、どこを直したいのかまで、今度は拓海から聞けると思った。 「俺も行く」  拓海は頷かなかった。先に帳場へ戻った。僕は亮へ、もうちょっと、と言った。彼は返事をしないで階段を上がった。 第五章 先に買う 帳場へ戻ると、福地さんも下の渡り廊下から来た。庄司さんから講演の主催へ変更なしと返事してほしいと言われたが、まだ掛けていないという。 「今日の話まで、俺にも訊かれますから」  女将さんへ言ってから、携帯を持って外へ出た。拓海は椎茸の棚へ行った。母へ何と渡すのか訊こうとしたが、先に袋を取った。  売店の棚に干し椎茸の袋が並んでいた。大きい袋には、使い切れないくらい入っているように見えた。拓海は裏を読んでから、同じ大きさをもう一つ取った。 「二袋だったよな」 「丸、二つ書いてた」  僕が答えると、彼は財布を開き、包み紙を出した。丸が二つだけあった。  拓海は小袋を一つ足した。母ちゃんが全部渡すから、と言った。帳場へ持っていくと、女将さんが数を確かめた。拓海が千円札を出す拍子に、さっきの包みが落ちた。僕が拾おうとすると、彼の手の方が早かった。 「ごみ箱、こちらです」  女将さんが言った。拓海は紙を握ったまま、はい、と答えた。 「いらないやつなんですけど。一応」  財布へ戻すと、もう一枚、白い紙の角が見えた。名刺だった。二枚重なっていた。 「俺、それもらってない」  僕が言うと、拓海は自分の名刺を一枚出した。 「いる?」 「うん」 「お前、俺の電話番号知ってるだろ」  携帯とは別の番号が印刷されていた。名前の上に、司法書士とある。字が小さかったので、僕は少し近づけて見た。 「母ちゃん、これ、職場に持ってったんだよ。俺に何も言わないで。あと二十枚くらいくれって」 「渡したの?」 「五枚。誰に渡すか分かんないし」  女将さんが、お釣りです、と声をかけた。拓海は名刺を戻し、小銭を数えた。僕は自分の分を財布の内側に入れた。学生証へ重ねると、名前の活字の大きさが違った。  福地さんが帳場の脇で足を止めた。さっきは持っていなかった買物袋を提げていた。 「池上君。五時からで。俺は下へ出るから、一人で行ってもらえるね」 「はい。夜は先に話してください。母ちゃんが頼んだんじゃないって、名前出して」 「それは、俺が話す。君は、自分で言うんだね」 「俺が、ここへ来たことは」  福地さんは拓海の袋を見た。椎茸が二袋、外へ膨らんでいた。 「お母さんにも読んでもらってからでいい。水原さんに渡したら、それで終わりじゃないから」  拓海は頷いた。  女将さんが土産を袋へ分けた。福地さんは鞄へ手を入れ、今度はポケットを触った。 「車の鍵、預けてなかったっけ」 「今日は、頂いてませんけど」  もう片方のポケットから鍵が出てきた。福地さんは女将さんへ見せ、あった、と言った。携帯に来た文を読み、娘の迎え、月曜だった、と呟いた。 「今日じゃないんですか」  女将さんが訊いた。 「今日は向こうで食ってくるって。迎えの話も一緒に来てたんだけど、そっちは返してなかった」  福地さんは買物袋を足元へ置いた。片手ではうまく打てず、鍵も袋へ入れた。 「月曜の、何時」  自分で言いながら書き、続けて途中まで打った文を消した。 「駅から電話して、じゃ駄目か。来た時に動けないかもしれないもんな」  送ると、袋の底から鍵を取り直した。拓海は釣銭をまだ数えていた。  女将さんが土産の袋を拓海へ渡した。福地さんは携帯をもう一度見て、ポケットへ戻した。鍵は、今度は手に持ったままだった。  僕が小袋の方を持つと、小鈴さんの声がした。 「二枚目。その右側。うん、私の書き方が分かりにくかった、ごめん」  窓際へ目をやると、澄さんは本を開いていた。脱いだコートが膝にあり、その上で鞄を押さえている。小鈴さんは横に立ち、携帯を耳へ押し当てたまま、指で見えない紙を指していた。  彼女が電話を切ると、澄さんは本を閉じた。 「終わった」 「私、先にお風呂に行くね」  小鈴さんは時計を見た。四時二十分を少し過ぎていた。 「もう? 庭、行かないの」 「着替え、取ってくる」 「待って。一緒に行く」  澄さんは立った。小鈴さんも鞄を持ち上げたが、持ち手が椅子に引っかかった。 「明日の人、初めてなんだよ。分かんないって言われたら、放っておけないよ」 「うん」 「私が渡した表だから」  澄さんは鞄を持ったまま待っていた。小鈴さんが顔を上げた。 「庭、明日でもいい?」 「明日、晴れるかな」  二人の間を通るわけにもいかず、僕は菓子の棚へ目を戻した。拓海が、ほら、と顎で階段を示したので、一緒に上がった。小鈴さんの声が後ろで聞こえた。 「澄だって、通知見てたじゃん」  返事は聞こえなかった。  部屋へ上がると、宏和は窓際で携帯を充電していた。亮は僕らが入るのを待たず、タオルを取って立った。 「行くぞ。今度は俺が先」  拓海は土産を置き、亮のリュックへ当たった袋を戻した。宏和が浴衣を棚へしまう間、亮は戸口にいた。 「さっきの、仕事?」  僕は尋ねた。 「母ちゃんの話。人と会うだけ」 「椎茸とは別?」 「別。それ、誰かと話してどうするんだよ」  彼は小袋を押し、僕の方へ寄せた。 「宿、決めたあとでさ。ここに来るなら、ついでにって」  僕は頷いた。相手の名前を訊けばよかった。けれど拓海が仕事を始めてから、名前を聞いても、言っても知らないだろ、と返ってくることがあった。今、また知らないと言われるより、このまま椎茸の話をしたかった。  亮が袋を覗き込んだ。 「合格のときの鍋、あれも椎茸だった?」 「俺が逃がしたのは椎茸」  僕が答えると、亮は首を振った。 「後から入れたの。安い方」 「舞茸じゃなかったか」  拓海が言った。 「そう。それ。肉はいいの買ったんだぞ」  宏和が窓際から戻ってきた。 「まだ言うか、それ。肉代は俺が」 「買いに行ったのは俺だろ」  亮は笑い、僕へ袋を返した。拓海が、参考書より高くついたな、と言った。宏和は案内の紙を鞄へしまう途中で止まった。 「参考書は買ってないじゃん、俺」 「うん」 「出すって言ったら、金の話もうすんなって」  僕は袋を座卓へ置いた。試験の前、二人の間が少し変になったことは覚えていた。その後は普通に会っていたので、聞かずにいた。 「古いの使ってたから、買い直したらって言ったんだよ。貸すのでもよかったし、受かってから返してくれても。そこまで言う前に切られた」  宏和は案内をしまった。鞄の口を閉じず、拓海を見ていた。 「俺、一回落ちてんだぞ」  拓海が言った。 「それは、知ってる」 「次も駄目だったら、お前に何て言うんだよ」 「俺の金で受けたんじゃねえだろ」 「分かってる。でもお前、何か買ってくるだろ。試験、終わったら」  宏和は鞄の口へ手を置いたままだった。 「何も買わないから受かれって、言えねえよ」  亮が顔を上げた。拓海は口を開き、閉じた。 「俺、あんとき、聞かれるのも嫌だったんだよ」 「じゃあ、俺に日は教えないでくれよ」 「お前には言いたかったんだろ」  宏和は口を開けた。亮はタオルを持ったまま、窓へ顔を向けた。僕も何か言おうとして、二人に聞かれていないことばかり浮かんだ。 「今なら、別に借りられるけど」  拓海がタオルを取った。 「今は、俺から貸す必要ないだろ」  宏和の返事が少し遅かった。拓海はタオルを肩へ掛け、椎茸の袋を一つ持ち上げた。中で、乾いたものが鳴った。 「来年、お前が何か受けるときは、俺が買う。肉」 「それ、鍋をしたいだけだろ」  宏和は鞄を閉じた。亮が戸口へ行った。  四時四十分に、女将さんが湯飲みを一つ持ってきた。今さらだけど、と笑って、三つの横へ置いた。拓海へは黒い帯を渡した。水原さんから預かったという。巻かれていた紙はなかった。 「お話、もう終わったんですか」  僕が訊くと、女将さんは帯を置いた手を引いた。 「原稿を置いて、また取りに行くそうです。携帯も、ご自分の鞄へ戻して。ここへ届ける時に、そうおっしゃってました」  拓海は湯飲みを見ていた。僕は、返事がもう書いてあるのかと訊こうとして、先に彼が帯を取るのを見た。 「福地さん、まだ下に?」 「資料室かしら。笠原の紙を待ってるようでした」  拓海は金具から赤い糸を抜こうとして、指を離した。帯を上着へ入れ、湯飲みの底の水を手で拭いた。 「鍋は、いい。今日は風呂」  僕は立ち、自分のタオルを取った。拓海が亮の置き忘れた携帯を持っていた。 「これも。お前」  亮は戻って受け取り、ポケットへ入れた。 「宏和、さっきの机の写真、一枚送って」 「どれ」 「読書室。母ちゃんに、ここ、こんなふうになってるって」 「自分で撮れば」 「お前、俺より、ちゃんと撮るじゃん」  宏和は携帯をしまう前に、机の写真を送った。僕にも同じのが来た。窓の机と空いた椅子、木の台。 「俺にだけで、よかったのに」  拓海が言うと、宏和は、まとめて送る方が早い、と携帯を鞄へ入れた。亮は戸口で靴下を脱いでいた。二人の話は、もう続かなかった。  僕がタオルを持ち直すと、拓海は上着から黒い帯を取った。 「記事、明日なんだろ」  僕が訊いた。拓海は頷いた。 「母ちゃんには、水原さんのだけじゃなくて、庄司さんの返事も、渡したい」 「どうして」 「俺が先に渡した文がある。そこへ返事がつくから」 「お母さんも、読んだの?」  拓海は左手を鞄の持ち手から離した。 「訂正してほしいって、言ってる」 「その文も?」 「まだ。俺が聞いたことを書いた」  彼は鞄を閉じ、寝ている方の持ち手を立てた。 「名刺、付けなきゃよかったな」 「水原さんに?」 「庄司さんにも。息子ってだけだと、話、後になると思って」  縫い目の抜けた持ち手が、少し外へ傾いた。 「母が頼んだんじゃないって、そこは電話でも認めたんだよ。福地さんが、そう言ってた」 「じゃあ、その返事は書いてくれるんじゃない」 「そうだな」  拓海は宏和から来た机の写真を開いた。椎茸の袋を横へ押し、二本の指で椅子を大きくした。 「ここで見てもらったって、母ちゃんに言えるし。水原さんが戻る時、俺もいた方がいいな」 「風呂は?」 「先に言ってくる。書いたの、見せてもらうだけだから」  僕は戸へ向かいかけた。亮はもう廊下にいて、宏和が靴下を鞄へ押し込んでいた。 「記事、読んだら、お母さんに見せればいいのか」 「俺から、先に。下の二行、変える」  拓海が言った。 「返事、もらったら、戻る。風呂、待っててって、亮に」 「自分で言えば」 「お前が行くじゃん。あと、帳場から、俺に頼んだもの、庄司さんへ届けてって言われたら」 「何を」 「封筒。水を買う時だけでいい。俺、あとからそこへ行くから」  僕は、水もまだ買ってないと言った。拓海は、じゃあついで、と返した。  拓海は戸の方を見た。亮の姿は、そこからは見えなかった。 「それ、持ってくの」  僕は帯を指した。 「忘れた物、取りに行くから」 「何を」 「下。俺は後で。先入ってて」  拓海が鍵を僕へ渡した。僕が受け取るのを見てから、椅子へ座った。右手の帯を膝へ置いた。  僕は廊下へ出た。亮が宏和へ何か言いかけ、先に階段へ行った。戸を閉めて鍵を回す前に、拓海はまだ中だと思い出した。 第六章 湯の手前 階段を下りる途中で、大学の友人から画像が来た。課題が未提出になっている、とあった。僕は写真を開き、上の日付を読んだ。 〈先週だぞ、それ〉  送ってから、自分の提出画面を開いた。先週だった。 「俺も間違えてた。タブレット取ってくる」  亮はタオルを持ったまま僕を見た。 「先入ってる」  宏和は頷き、亮と下りた。僕も、うん、と答えて部屋へ戻った。  戸を開けると、拓海はもういなかった。座卓の椎茸の袋は、窓際へ寄せてあった。タブレットを出し、同じファイルを正しい週へ送った。今度は提出済みと表示された。画像を撮って友人へ返すと、景色も送れと来た。 〈まだ風呂も入ってない〉  そう返し、タオルと財布を取った。  福地さんが玄関で靴を履いていた。 「降り出したよ」  外の砂利に、黒い点が増えていた。彼はしゃがみ、踵を直してから立った。 「山、下りるんですか」 「駐在まで。人と会うことになっててね」  福地さんが携帯を出した。画面には窓際の机があった。宏和がさっき撮った写真だった。 「そこ、俺たちも、さっきいました」 「池上君が送ってくれた。お母さんの記事も、そこで見てもらうんだってね」  僕は頷いた。タオルを持ち直すと、福地さんは画面を消した。宏和のいない階段へ目を向け、女将さんへ言った。 「朝、車を出すって言われたら、電話ください。切り返すのが心配だって」 「ええ。でも、明日のうちはまだ雨かもしれませんよ」 「じゃあ、待ってる間に慌てて動かさないように」  女将さんは厨房を振り返り、朝の支度を始める前に車の場所を確かめると言った。福地さんは戸へ手を掛けた。 「また顔を出します。庄司さんにも」 「お伝えします」  福地さんはガラス戸を閉めた。車のドアが閉まる音を聞いてから、僕は携帯の時計を見た。四時五十二分だった。  自販機の前で小銭を数えた。百円玉が一枚と十円玉が三枚。水を買うには足りなかった。  財布を開くと、千円札だけだった。拓海にもらった名刺が学生証の間から出た。角を折らないように戻した。さっき聞いた五時の約束は、もう始まる頃だった。  笠原さんが下の渡り廊下から来た。帳面の間に、折り目のついた紙を戻していた。 「返ってきたんですか」  僕は、さっき持って上がった紙を指した。 「うん。庄司さんに見せたところまでは、済んだ。夕飯の支度へ戻る」  前掛けの紐を背中で結びながら、厨房へ入った。  帳場で千円札を出し、両替をお願いした。女将さんが百円玉を十枚並べた。僕は財布の小銭を一度空けて、そこへ入れた。  女将さんが帳場の下から封筒を取り出した。 「旧館の読書室、分かりますよね」 「はい」 「庄司さんが、人に渡す書類を入れるのでと。私が持っていくと言ったんですけど、食堂の方を離せなくて」  宿の名が小さく印刷された白い封筒だった。口を開いたまま僕へ差し出された。中身は入っていなかった。 「このまま渡せば?」 「ええ。大きいのしかなくて申し訳ない、と」  タオルの上へ載せ、下の渡り廊下を通った。窓に細い雨粒がついていた。読書室の戸を軽く叩くと、返事がした。  庄司さんは窓際の机の左に座っていた。右にあるもう一脚は空だった。腕時計を外し、机に置いている。紙の端へ赤い字があり、彼は眼鏡を掛けていた。水原さんの姿はなかった。右脇の木台は空だった。 「ああ、すまないね」  彼は自分の携帯を伏せ、ファイルを左の脇へ挟んで、立ってこちらへ来た。右の袖口の釦が外れていた。眼鏡を指で上げ、袖を戻した。僕は封筒を渡した。 「原稿を返す前に、もう一度読んでもらう。私が直した所も、そうでない所も」 「水原さんが戻った時に?」 「ああ。池上君も、自分の書いた方から。返事だけ持っていかれるのは困るんだ」  彼はファイルを机へ置き、僕の封筒の口を広げた。 「女将さんから。大きいのしかないそうです」 「構わないよ」  庄司さんは机へ歩いて戻り、ファイルを開いた。さっきの黒い文字の紙が出てきた。 「福地君へ渡すんだ。さっき戻ると言っていたから。折ると読みにくいし、ちょうどいい」  紙が封筒へ滑り込んだ。口は閉じず、机の端へ寄せた。 「今晩、孫へ一問、出せるかな。私も答えてみたいんだよ」  庄司さんが眼鏡の箱を原稿へ載せた。眼鏡は掛けたままだった。 「じゃあ、握手の問題で。十人がいて、全員がほかの人と一回ずつ握手します。全部で何回でしょう」 「九十回」  速かったので、僕は笑いかけた。 「私の九回と、君の九回、と数えたんだが」 「俺との一回、俺も数えました?」  庄司さんが右手を出した。僕も出した。握る前に、彼が手を止めた。 「ああ。同じ一回を、二人とも」 「はい」 「半分で、四十五。孫なら先に言うな」  彼は机へ手を戻した。紙へ書きかけてペンを下ろした。 「いや、覚えた。私が九十と言ったのは、孫には言わなくていいね」 「言った方が、答えた後に笑えると思います」  彼は口を開け、それから声を出して笑った。 「そうか。そうだな」  池上拓海の名の隣に、本人へ確認、と赤い字があった。下の二行はまだそこにあった。彼は原稿を一枚戻し、またこちらを向いた。 「名前を入れてもいいかな。青凪君と私で、同じ一回を数えたと」 「名前は、いいです。夕食の間ずっと問題を考えるのは、無理ですけど」 「ああ。今日はこれだけ。ありがとう」  僕はタオルを持ち直した。庄司さんはファイルを閉じ、また左の脇へ挟んだ。 「女将さんに、封筒のお礼も」 「はい」  戸を閉めると、向かいの談話室から陶子さんの声がした。 「これ、窓が白いね」 「こっちの方が、顔はいい」  なずなさんが答えた。二人は窓際で携帯を並べていた。机に借りた写真帳が開き、同じ廊下の写真が載っていた。  戸の前を離れようとすると、拓海が階段のところから来た。 「まだ風呂、入ってないの」 「お前もだろ」  彼は笑わなかった。右手に、さっき丸めた黒い帯があった。 「封筒、届けてた。庄司さんに」 「うん。俺、そこ」  拓海は僕の横を通った。読書室の戸を叩き、返事を待って入った。僕は向かいの談話室へ会釈し、下の渡り廊下へ曲がると、水原さんが手前にいた。 「もう、回収ですか」 「早いんだけど、書けるところまでと思って。池上さん、今、入りました?」 「はい」 「じゃ、待ちます。話が終わるまで」  彼女は僕の携帯を見て、いま何分、と訊いた。五時にはなっています、と答えると、あの机に時計もあったね、と言った。 「お風呂?」 「まだ。先に水、買ってきます」 「私も、もう一本。さっきの、飲んじゃった」  彼女が僕の前へ出た。ガラスへ雨粒がつき、二人の足が並んで映った。  友人から提出できたと連絡が来た。五時二分だった。僕もできた、と返し、四人の写真を送った。  帳場で女将さんへお礼を伝えた。水原さんは棚の椎茸を見た。僕がまだ話しているうちに、読書室から電話が来た。女将さんは受話器を取り、庄司さん、夕食は六時半です、と答えた。 「ええ、封筒は届いたと、伺いました。お礼も。青凪さんが」  僕を見て笑った。電話が置かれると、水原さんは自販機を指した。二人とも同じ水を買った。  彼女は鞄を開けた。手帳型の携帯が中にあった。原稿の控えです、と紙を出し、膝へ置いた。下の二行へ赤い線を引いた。僕はその横の椅子へ座った。五時十五分まで待つ、と言ったのは彼女だった。 「青凪君は、答えを覚えるとき、どこまで覚えるの」 「何のですか」 「クイズ。答えだけ? 言い回しも?」  僕は水を飲んだ。 「問題によります。それ、記事とは違うと思います。俺が答えられればいいだけなので」 「そうね。次の文まで読んでもらえると、もう直せるんだけど」 「そこも、庄司さんが消したんですか」  僕は彼女の引いた線を見た。 「回収したら確かめます」 「じゃ、まだ」  水原さんは線の先へペンを戻した。水は開けていなかった。  電話がまた鳴った。女将さんは帳場へ戻った。 「笠原さん? いま食堂じゃないの。……ああ、福地さん、戻ったんですか」  水原さんが紙から顔を上げた。 「紙は、普通ののでいい? はい。下へ持っていきます」  女将さんは食堂へ声を掛け、紙を数枚取った。僕に渡さず、帳場の奥から来た人へ持たせた。 「資料室へ。笠原さん、そこにいるから」  しのぶさんが下の渡り廊下へ入っていった。肩から下げた小さな鞄を開き、釜の写真、まだ撮ってない、と携帯を出した。 「会場代の返事も、一緒に書いてもらってくる。口でいいって言われたって、経理には出せないから」  女将さんが、笠原に訊いてみてください、と答えた。僕が会釈すると、しのぶさんも手を上げた。  小鈴さんが来て、僕の画面に残った四人の写真を見つけた。あとで送って、と頼まれ、画面を出した。水原さんも覗いた。 「こちらが池上さん。名刺、頂いたんですよ」 「俺も、さっき」  小鈴さんが自分の写真を出した。澄さんの横顔だった。怒られたけど消せとは言われなかった、と言って、奥の廊下へ行った。  水原さんは紙を畳んだ。僕が立とうとすると、彼女は時計を見た。 「もうすぐ。池上さん、まだですね」  下の渡り廊下から、拓海が来た。白い封筒と灰色の電話を抱えていた。受話器の端が上着へ当たっていた。黒い帯が本体の下へ回り、金具の端だけが、彼の左の小指から下がっていた。 「何、それ」 「読書室の。通じないって」  僕が受話器を支えると、拓海は本体を抱え直した。 「さっき、庄司さん、掛けてたけど」 「一階で、挿してみた。向こうでは直らなかった」  女将さんは、こちらで見てからお持ちします、と電話を受け取った。拓海は帯を解いた。本体を持っていた形のまま、手がしばらく空いていた。  福地さんが後ろから来た。濡れたジャンパーを腕へ載せ、片方の袖を下へ垂らしていた。携帯の画面は、さっき玄関で見た窓の机だった。女将さんは電話を持ったまま立っていた。福地さんの、画面を送る指も止まった。  福地さんは携帯をしまった。 「封筒も、こちらへ」  拓海が白い封筒を渡した。福地さんは中を確かめた。紙を半分ほど出し、拓海へ顔を向けた。 「持ってきたのは、これだけ?」  拓海は電話を見てから、はい、と答えた。福地さんは紙を戻し、女将さんへ預けた。 「庄司さんから。警察で預かります。あとで、お願いします」 「はい」  女将さんは封筒へ小さな紙を載せた。 「君は部屋へ戻るんだね」  福地さんが言った。拓海は帯を二つに折り、掌へ巻き込んだ。 「返してもらいたいところ、まだ」 「分かっている。私が行くから」  福地さんは、ジャンパーを持っていない手を出した。拓海の指が開いた。帯が掌から相手の手へ渡った。福地さんは金具を布の中へ折った。 「戻しておく。それも、私から話す」  拓海は頷いた。僕は帯をもう使わないのかと思った。鞄の持ち手へ巻くには、部屋へ持って帰った方がいい。訊こうとすると、水原さんが立った。 「私も、原稿を。約束の時間なので」 「今、持っていきましょうか。電話」  女将さんが訊いた。福地さんは、こちらで見てから、と答えた。 「必要なら、携帯から帳場へ掛けます。その時、読書室へお願いします」  女将さんは電話を帳場へ置いた。  福地さんはジャンパーの片方の袖へ腕を通した。帯を反対の手へ替え、もう一方も着た。下の渡り廊下へ戻り、先に階段を上がった。水原さんは鞄を開き、控えを奥へ入れた。返してもらう紙の場所を空け、上へ続いた。拓海はそれを見ていた。僕が、俺らも風呂へ、と言うと、一回部屋、と答えた。 「落とすぞ、それ」  僕のタオルから携帯が滑りかけていた。握り直すと、拓海は階段へ向かった。時計は五時十五分だった。  僕が浴場の戸へ手を出すと、帳場の電話が鳴った。女将さんが受けた。 「はい、読書室へ。こちらでは通じていますよ、その灰色の方。いま手が空きましたら」  時計を見て、厨房へ声を掛けた。六時半の膳の数だった。灰色の電話は、帳場の上に置いたままだった。  男湯の脱衣所では、宏和が髪を拭いていた。 「何してたの」 「課題出して、両替して、封筒運んで、水飲んでた」 「封筒?」 「庄司さんに。女将さんから頼まれて」  宏和はタオルを耳から離した。 「お前、頼まれること多いな」 「お前らにも、頼まれる」 「聞きに行くの、お前がいちばん、戻ってくるじゃん」  宏和は笑わなかった。髪を拭いたタオルを畳み、僕の隣の籠を空けた。 「そっちはもう上がるの」 「中が暑かった。亮、まだ入ってる」  彼は隣の棚から自分の服を取った。僕は空いている籠へ財布と携帯を置き、その横に水を立てた。  浴室へ入ると、亮が湯船の縁に肘を掛けていた。顔から汗が流れている。僕を見ると、ようやく来た、と言った。 「拓海、部屋へ戻った。風呂で待っててって」 「まだ来ないのか。一回上がった。二回目」 「俺、まだ一回目にもなってない」  亮は立ち、縁を越えた。水がかかり、僕は足を引いた。 「露天、よかったぞ」 「まだ開いてる?」 「雨、細いから。行ってこいよ」  僕は桶を取った。早く入りたかったが、汲んだ湯は思ったより熱かった。片足ずつ流し、次を肩からかけた。壁の向こうに雨音がした。  どこかで低い声がした。  僕は桶を棚へ戻しかけた。湯の流れる音が続き、誰の声か分からなかった。脱衣所の方で、亮が宏和を呼んだ。 「一枚だけ。さっきの変な方、出して」  その後に、人が叫んだ。  亮だと思った。もう脱衣所へ出たはずだったが、何か忘れて戻ったのかもしれなかった。  次は女の人の声だった。 「誰か、来て!」  桶の縁を膝にぶつけた。汲んだばかりの湯が足元に広がった。 第七章 玄関 濡れた体に服を通すと、シャツが背中で丸まった。  宏和も亮も、もう脱衣所にいなかった。僕は籠から携帯と水を取り、財布をズボンのポケットへ押し込んだ。タオルを置いたまま、廊下へ出た。  小鈴さんが浴衣の裾を押さえながら走っていた。 「旧館。あっちから」  下の渡り廊下へ向かう背中を追った。読書室の入口になずなさんがいた。片方のスリッパが脱げている。僕を見ると何か言ったが、声にならなかった。  庄司さんが床に背をつけていた。肩は机の脚に近かった。左腕の傍にファイルが開いていて、紙の端が裏へ折れていた。なずなさんの借りた写真帳が戸の内側へ落ちていた。水原さんは左手で右手首を下から取り、顔を上げた。 「救急、お願いします。反応しなくなって」  宏和はもう電話を耳に当てていた。住所を言い、旧館の二階です、と付け足した。  陶子さんは庄司さんへ呼びかけた。返事はなかった。水原さんが持っている右手へ目を落とした。 「手を、離してください」 「さっきまで、話して」 「その手です。私が、下から持ちます」  水原さんが陶子さんを見た。右手首の下にあった左の指が開いた。陶子さんの手が下へ入り、腕を床へ下ろした。  陶子さんがファイルを閉じ、机へ載せた。亮が胸の傍へ膝をつこうとして、倒れた椅子の脚に当たった。陶子さんが椅子の背を持ち、起こした。脚の下から、黒い帯の端が出た。 「私が来た時には、首にはなかったんです。福地さんが起こして。腕へ回したところから、私は」  水原さんが帯を指した。陶子さんは首を見てから、椅子へ目を戻した。水原さんは帯を拾わなかった。  宏和が電話を床へ置き、音を大きくした。 「普段どおりの呼吸をしていますか」  電話から聞こえた。陶子さんは胸を見た。眼鏡の片方の柄が頬に残っていたので、顔から外し、机の端へ置いた。 「普通か、分かりません。呼んでも、返事しなくて」  宏和が繰り返した。電話の相手が胸を押すように言った。亮が膝をついた。水原さんが膝をずらした。胸の傍が空いた。  亮は電話の声に従って両手を重ねた。最初に押したとき、シャツの肩が突っ張った。肘が伸び、また押した。  拓海が戸口へ来た。倒れた人を見て立ち止まり、亮の背中を見た。起こした椅子はまだ机の横にあった。彼が壁際へ運ぼうとすると、背が机へ当たった。水のコップが縁から落ち、床で割れた。  拓海は椅子を浮かせたまま、濡れた床で足を滑らせた。左手が床についた。 「触らないで。ガラスがある」  陶子さんが言った。拓海は手を上げた。掌に赤い筋があった。 「切った?」 「ちょっと。椅子、どけようと」  彼は右手で椅子を押し、左手を胸へ寄せた。僕はタオルを置いてきた。なずなさんが袋から白いハンカチを抜いた。 「これで、押さえれば」  陶子さんが、ガラスに触れないで、傷の上へ布を、と言った。水原さんが受け取り、拓海の掌へ当てた。右の袖口が手へ滑り、白い裏の折り目が布に触れた。 「手を下ろさないで。ここ、私が押さえます」  拓海はその人を見た。右手で椅子を押すのをやめた。水原さんは彼を戸口の横へ座らせ、布の上から押さえた。 「AED、あるかって」  宏和が小鈴さんへ言った。小鈴さんは渡り廊下へ向かった。 「救急車、誰か玄関で」 「俺、行く」  僕は答えたが、戸口にいた。亮の顔を見ていた。さっきまで、自分の方へ早く来いと言っていた顔だった。今は下を向いていた。 「行けよ」  亮が一度だけこちらを見た。僕は頷いた。  水原さんが木台を見た。拓海の掌へ当てた布の端を持ち直した。携帯が立っていた。画面には、膝をついた亮の背中が動いていた。 「そこから動かさないで。手、押さえててください」  陶子さんが言った。水原さんは拓海の手へ目を戻した。  僕は戸口から離れ、玄関へ走った。  女将さんが帳場の電話を取っていた。小鈴さんがその横で、AEDはないですか、と訊いていた。女将さんは、置いてないです、と答え、電話の相手へ、警察の方も、と言った。 「玄関で待ちます」  自分の声が大きかった。女将さんが受話器を押さえ、お願いします、と答えた。  靴紐を結ぼうとして、手が震えていることに気づいた。輪にした紐が指から抜けた。踵を踏んだまま外へ出た。  雨は細く、冷たかった。看板を過ぎたところから、道が木に隠れていた。車はまだ来なかった。  携帯を出した。誰へ掛ければいいのか考え、誰も出てこなかった。母に知らせても、何が起きたのか説明できない。さっきの友人には、提出できたと返したばかりだった。  四人の写真が画面に残っていた。僕がその写真を送ってから、どれくらいだったのだろう。  十五分ほどして、福地さんが玄関から出てきた。ジャンパーを着直していた。携帯の時刻は五時三十五分になっていた。 「救急は」 「まだです。亮が、今」  福地さんは頷き、軒下から署へ電話を掛けた。繋がるまで何度か場所を変えた。僕は道の方を向いた。電話の低い声の間に、雨の音が入った。  厨房の方から笠原さんが出てきた。救急車は呼んだ、と僕が言うと、うん、聞いた、と答えた。 「外は寒いだろ」  彼は玄関灯をつけた。戸が閉まると、道の曲がり角がさっきより暗く見えた。  小鈴さんが傘を持ってきた。 「これ。濡れちゃうから」 「ありがとうございます」 「車が来たら、私も呼んで」  彼女は戻りかけ、もう一度僕の顔を見た。 「名前、青凪君で合ってるよね」 「はい」 「うん」  傘を開くと、柄が手の中で少し回った。握り直した。指の震えが収まり、今度は背中が冷えていると分かった。  救急車より先に、もう一台車が着いた。制服の警察官が降りてきたので、僕は読書室への道を言った。玄関を入って右、本館一階の奥から渡り廊下を通る。 「君が見つけたの?」 「違います。呼ぶ声を聞いて、風呂から」 「中にいる人に聞きます。ここで車を待っていて」  僕は頷いた。場所なら、迷わず言えた。下の階を見たいと言ってついていったのが、ずっと前のことのようだった。  救急車の赤い光が、玄関のガラスに映った。僕は手を上げた。曲がり角を越えてきた車が止まり、中から人が降りた。担架が運ばれるところで、小鈴さんが戸を押さえた。  僕も中へ入った。澄さんが廊下の人たちを壁際へ寄せていた。自分も寄ると、傘を閉じて、と言われた。開いたままだった。  その後は、誰が先にどこへ行ったか、よく分からなかった。  救急の人が拓海の手も見た。水原さんが押さえていたハンカチを外し、布を当てて包帯で留めてもらった。深さはここでは確認できないので、診察を受けてくださいと言われた。 「この人を先に。俺は、後で行きます」  拓海が答えた。庄司さんの担架へ目を向けていた。救急の人は、出血が続くならすぐ知らせるよう女将さんにも伝えた。  女将さんが客の人数を数え、笠原さんが戻ってきて頷いた。なずなさんは椅子に座り、陶子さんの手首を握っていた。宏和は救急の人へ何かを説明していた。手に持った携帯の画面が暗くなり、何度か押し直している。制服の警察官が読書室の戸口で写真を撮っていた。黒い帯はまだ床にあった。 「ここに、録画している端末があります。どなたの物ですか」  水原さんが手を上げた。 「入るところから。原稿を返してもらう時の」 「いまも録っていますね。操作せず、そのまま。置いた時の状態も確認します」  警察官は木台と画面を撮った。持ち主と録り始めた時を訊いてから、その場で録画を止めさせた。元の記録を確認して保全するので、編集も削除もしないよう言った。  机の原稿と赤いペンの位置を確かめ、救助のために動かした物を、一人ずつ訊いた。水原さんの端末は警察官の確認の下へ置かれた。  僕は渡り廊下の端へ行った。制服の警察官が、陶子さんに倒れていた椅子の向きを尋ねていた。 「私が起こしたんです。亮君が胸の傍へ行くのに邪魔だったから。脚の下に、帯の端が」 「眼鏡を、机へ置いたのも?」 「はい。顔のところにあったから。首の帯は、来たときには、もうなかったです。水原さんは、手首を持ってました」  水原さんが近づいた。 「紙も床にありました。私が戻った時は、もう」 「入ってからの順に伺います。まず、こちらへ」  警察官は彼女を空いた椅子へ座らせ、開いていたファイルについても確かめた。陶子さんは机へ置いたと答え、自分の手を見た。読書室から救急の人が呼び、警察官が戸へ戻った。  帳場には、拓海が運んだ灰色の電話があった。制服の警察官が女将さんへ、読書室の電話ですか、と訊いた。 「ええ。通じないと、池上さんが持ってきてくださいました。でも、こちらへ挿したら内線は通じました。戻す支度をしていて、声がしたんです」  女将さんは本体へ触らず、脇の線を指した。受け取ってから一度も読書室へ戻していない、と警察官へ言った。 「外線の方は、この電話で救急へ。上のは帳場に繋ぐ内線です」  警察官は手帳へ書いた。女将さんは、庄司さんからのお電話も、その少し前に受けています、と答えた。  僕がロビーへ戻ると、亮が渡り廊下から出てきた。シャツの胸が濡れ、両手を下へぶら下げていた。 「大丈夫か」  僕が訊くと、何度か頷いた。 「俺は」  それ以上言わなかった。僕は水のボトルを持っていたが、渡せばいいのか訊けばいいのか、うまく決められなかった。  拓海が傍へ来た。 「シャツ、裏返しだぞ」  胸を見ると、縫い目が外に出ていた。 「ああ」 「着替えてくれば」 「でも」 「今、やることある?」  僕が黙ると、拓海は、じゃあ行ってこい、と言った。いつもの言い方だった。僕は傘を畳み、壁へ立て掛けた。  階段へ向かいかけたとき、女将さんが福地さんを呼び止めた。 「お預かりしたものが」  白い封筒を渡した。福地さんは上の小さな紙を外し、中身を途中まで出した。 「池上君。私から預けたものだね」  拓海が足を止めた。 「福地さんから預かったのは、それです」  福地さんは制服の警察官を呼んだ。 「講演の主催から来た要求書のコピーです。庄司さんが持っていたそうです。預かった方は、こちら」  黒い文字が見えた。僕が渡した封筒へ、庄司さんが入れた紙だった。  近づくと、福地さんが、昼にもこの文面を皆さんが見ています、と付け加えた。僕は口を開いた。女将さんが救急の人に呼ばれ、拓海も廊下を空けるために脇へ寄った。 「俺、それ――」  亮が僕の腕を掴んだ。 「祐助。水」  声が掠れていた。僕はボトルを渡した。亮は蓋を回し、一口飲んだ。右肘を伸ばそうとして、ボトルを左へ替えた。それから肩を下げ、また飲んだ。 「宏和、まだ向こう?」  僕は頷いた。亮は渡り廊下を見た。戻ろうとはしなかった。  庄司さんが運ばれていくとき、顔は見えなかった。僕らは壁へ寄り、担架の通る分を空けた。  担架を固定する音がした。誰かが時刻を言った。女将さんは鞄を持って外へ出たが、付き添いは別の人に頼むと決まったらしく、すぐに戻った。  救急の人が、首と手首の状態も搬送先へ伝えます、と制服の警察官へ言った。僕は傍まで行かず、玄関の戸を押さえた。  警察官が、病院での確認を引き継ぐと言った。福地さんは頷き、車の前で何かを伝えた。戻ると、読書室には入らないでくださいと客へ声をかけた。  救急車が動き始めた。警察の車も後を追った。赤い光が木の幹を横切り、曲がり角の向こうへ消えた。  六時半だった。  宏和が玄関へ戻った。僕らを見ると、壁へ背をつけた。携帯を持ったままだった。亮が彼を見てから、腹減った、と言った。  僕は亮を見た。宏和も顔を上げた。 「いや。違う」  亮は自分でも分からないような顔をしていた。 「違わないけど。今じゃない」  笠原さんが厨房の戸口に立っていた。 「飯はあるよ」  そう言い、また中へ入った。僕は傘の水が床へ落ちているのを見た。着替えに行こうとしていたことを思い出したが、もう階段へ足が向かなかった。 第八章 雨の二人 宏和と部屋へ上がり、濡れたシャツを脱いだ。背中から布が離れると、ようやく息を大きく吸えた。窓の外は木の幹も見えなかった。  僕が亮のリュックから大きい浴衣を出すと、宏和はその下の上着を取った。 「お前のタオルもいるだろ」 「風呂に置いてきた」 「じゃ、後で。先に亮の」  彼は自分の上着へ腕を通した。僕は長袖を着た。四人で荷物を開けていた座卓を、二人で回って出た。  下へ戻ると、拓海が四人分の箸袋を並べていた。亮は上着を受け取り、ありがとう、と言った。着ないで膝へ広げた。胸を押していたときは両手が重なっていた。今は、その両方の掌に何もなかった。  六時五十六分に、濡れた傘を持つ男性と、髪を短く結んだ女性が来た。 「槙沢署の香坂です。こちらが鷲尾。最初に見つけた方と、通報した方から伺います」  宏和と水原さんが立った。福地さんは現場まで案内すると言い、鷲尾さんと渡り廊下へ向かった。  女将さんがおしぼりを出す間に、僕も帳場へ行った。灰色の電話があった。白い封筒はなく、警察へ渡したと教えられた。 「青凪君も、あとで。先に食べていてください」  戻ってきた鷲尾さんに、封筒を届けたのは自分だと言った。 「福地さんへ渡すって、庄司さんが。俺は、そこを見ました」 「こちらへ」  帳場の脇へ寄った。鷲尾さんは透明な袋を置いた。空の封筒を渡し、庄司さんが黒い大きな字の紙を入れたことを話した。折ると読みにくいからと、机の端へ置いたところまで。 「これを、最後まで読みましたか」 「説明を訂正してほしいってところまでです。下は、見てない」  鷲尾さんは袋を裏返した。紙の後ろに、封筒の口が透けた。あの口を閉じなかった手が見えてきて、僕は、庄司さんが立って来たと付け加えた。眼鏡を掛け、自分で机へ戻った。孫へ出す握手の問題を一緒に解いた。夕食中ずっと出題することは断った。時計を見たのは戸を出てからで、五時二分だった。 「その後、池上さんが入った?」 「はい。俺は水原さんと戻って、水を買って。十五分まで一緒でした」  鷲尾さんの書く速さにつられ、電話も帯もまとめて言おうとした。玄関で無線が鳴った。香坂さんが外へ出て、同じ道の名を聞き返した。 「下の道が崩れています。車は通れません。こちらから下りないでください」 「救急車は」  亮が食堂の入口から訊いた。 「先に通過しています。病院へ向かっています」  宏和が玄関のガラスへ近づいた。車の鍵を手に持っていた。女将さんは別の道を伝えるため、香坂さんと軒下へ出た。帳場の電話がまた鳴り、僕の携帯から電波の表示が消えた。 「ここから先も、今、話してください。車のことは後で伺います」  鷲尾さんに言われ、僕は携帯を机へ置いた。 「電話は拓海が持ってきました。帯で巻いて。俺も、受話器を支えた」  鷲尾さんは灰色の本体へ目を移した。 「運んでいる所を見たんですね」 「はい。福地さんへ、封筒も帯も渡しました」 「それより前は」  四時五十二分には駐在へ行くと言って、五時十五分には戻っていた。その間を言おうとしたら、鷲尾さんが、見たところだけで大丈夫です、と言った。  僕は女将さんの電話と、しのぶさんが資料室へ持っていった紙を話した。誰が何を書いたかは見ていない。  帳場の向こうで、陶子さんが写真帳を袋へ入れていた。 「返すとこだけ見てもらいたくて。私は隣で写真を選んでたから」  なずなさんは両手を膝に置いた。 「戸を開けた時、二人とも中にいた。庄司さんは椅子の所で、顔が下へ。写真帳を返そうとして、そこで肩が床へ」 「二人というのは」 「福地さんと、水原さん」  鷲尾さんは写真帳ではなく、なずなさんへ椅子を寄せた。 「二人の姿は見たんですね」 「福地さんが紙を。水原さんは椅子の後ろで。手は、よく。陶子が来てから、私、戸を押さえてました」  僕はもう一つ聞きたかった。二人が入る前に、庄司さんはどんなふうにいたのだろう。鷲尾さんが彼女に名前を確かめていて、僕は食堂へ戻った。  食堂へ戻る途中で、宏和に会った。 「車の場所は大丈夫だって。俺が見に行くのは駄目だってさ。鍵、誰に預けたらいいのかも、聞いてなかった」  彼はポケットへ鍵を押し込んだ。亮の箸袋は細く折られ、拓海の席は空だった。向かいの小部屋から声がしていた。 「拓海は」 「鷲尾さんに」  僕は携帯に、封筒、と打った。次に福地さんの名を入れ、疑問符をつけた。庄司さんが封筒の口を広げていた。福地君へ、と言った相手が、さっきは自分から拓海へ預けた物だと言った。  読み返す前に母の宛先を開いた。道が崩れて帰れない。それを書いて保存すると、封筒の二文字もまだ残っていた。  しのぶさんが食堂の入口から女将さんを呼んだ。まだ書かれていない費用の紙を持っていた。 「笠原さん、もう厨房?」 「ええ。先にお食事を」 「月曜、向こうへ説明するんです。返金できない会場代と、私の分は別にしてって。言っただけじゃ経理に出せないの」  福地さんが帳場から来た。主催へ電話するように言いましたよね、としのぶさんへ声をかけた。 「しましたよ。だから返事を待ってたの。あなたの字が欲しくて、立って待ってたんじゃありません。この紙一枚、まだできてない」  しのぶさんは携帯を出した。鷲尾さんが小部屋から戻ってきて、その時に資料室にいた人を訊いた。 「釜の写真、撮ったの。これと一緒に送るつもりで」  画面の下に五時十二分とあった。蓋の向こうで、福地さんが白い紙の端を押さえていた。戸口に拓海がいた。抱えた灰色の電話へ黒い帯が回り、金具の端が小指から垂れていた。 「ここで呼ばれて、廊下へ出たの。私の費用も一緒にしないでくれって。戻ったら二人ともいなくて」  亮が椅子を離れた。写真の時刻へ顔を近づけた。 「五時十二分。俺、湯ん中だ」  僕は写真の電話を見ていた。三分後に受話器を支えた、僕の指には何も巻かれていなかった。  拓海が小部屋から来た。鷲尾さんの横を通りかけ、画面を見て止まった。 「それ、お前の帯だよな」  亮が訊いた。 「うん。首に使った」  しのぶさんの携帯が下がった。 「庄司さんに。俺が掛けて、引いた。先生、離してって、俺も言った。倒れたから、外した」  宏和の足が椅子の脚に当たった。亮は拓海を見ていた。 「俺、お前、忘れ物取りに行ったんだと思ってた」  拓海は顔を上げた。 「電話が通じないって言ったじゃん」  僕が言うと、拓海は白い封筒が置かれていた方を見た。 「母へ掛けるって、手が来たから。俺が取って持って出た」 「じゃ、壊れてないの」 「分かんない。直しにって言えば運べると思った」  福地さんが、別で聞いた方が、と鷲尾さんへ言った。拓海はそちらへ向かなかった。  鷲尾さんが、その時のことも順に伺います、と言った。拓海は頷いたが、小部屋へ足を向けなかった。 「俺がやったんです。下で福地さんに言った。紙のことを話してくれるって。帯も渡した」 「それは、俺、見た」  亮は僕へ向かなかった。 「拓海、どんなふうに使ったんだよ」  拓海の右手が椅子の背を持った。 「まだ、みんなには、話してない」 「じゃ、いま言えよ」  拓海が口を開いた。鷲尾さんが二人の間へ来た。 「こちらで初めから伺います。森野さんも、後でお話を続けてください」  亮は椅子へ戻った。拓海は小部屋へ入る前に一度こちらを向いた。僕は水を机へ置いた。  しのぶさんは鷲尾さんの求めに応じて、携帯をもう一度開いた。食堂へ盆が運ばれてきたので、宏和は空いていた拓海の席からおしぼりの盆をどけた。 第九章 骨 拓海が戻ってくると、女将さんは笠原さんへ目を向けた。笠原さんが厨房の方を振り返り、女将さんは、出しましょう、と言った。 「お食事、召し上がれる分だけでも」  拓海は宏和の引いた椅子へ座った。僕は箸を取った。魚の皿を置く間、亮は膝の上着を椅子の背へ掛けていた。  僕は手を合わせた。いただきます、と言ったつもりだったが、自分の声は聞こえなかった。  魚の腹を開くと、皮が一枚で取れた。骨を避けたところを口へ入れた。細いものが舌に当たり、箸が止まった。  拓海が小皿を寄せた。 「出せば」  僕は顔を上げた。小皿は煮物の横にあった。 「呑もうとするな。出せ」  口から取って、皿へ置いた。拓海は自分の魚から背骨を外し、皿の端へ載せた。 「先にこれ取るんだよ。毎回、その食い方?」 「毎回じゃない」 「切身もあるしな」  僕は彼を見た。彼は右手で味噌汁の蓋を取っていた。左手の包帯が机の縁へ触れ、すぐに膝へ戻った。 「手、大丈夫か」 「血は止まった。後で診てもらう。今、そっちへ行けなくなったから、来てもらうって」  拓海は蓋を置いた。僕は自分の小皿へ骨を出した。  香坂さんが食堂へ入ってきた。箸を持ったまま、僕は顔を上げた。  庄司さんが亡くなったと告げられた。病院から連絡があったという。僕は彼女の手にあった無線を見た。通じない携帯を、膝の上へ置いていた。  僕は、孫なら先に言うな、と笑った庄司さんを思い出した。夕食の後には孫へ電話する。家で一緒に食べるのは明日。今日の予定も、明日の予定も、僕よりよく決まっていた人だった。  亮は首を動かさなかった。膝に置いた右手を、左手で覆っていた。 「病院には、着いたんですよね」  僕が訊くと、香坂さんは頷いた。そこへ着いたら、と思っていたことは言わなかった。亮は椅子を少し引いた。立たずに戻し、膝へ目を落とした。  香坂さんが廊下へ出た。拓海は味噌汁の椀へ手を戻した。僕の前には、まだ身の残った魚があった。  亮の魚は、もう頭だけになっていた。 「速すぎるだろ」  拓海が言うと、亮は皿を見た。 「食ったんだな、俺」  女将さんが、もう一匹、と訊いた。亮は、はい、と答え、すぐに、いや、と言いかけた。 「まだありますから」  皿が下げられた。亮は両手を机の下へ下ろした。僕は彼の前へ水を寄せたが、手は出てこなかった。  向こうの席で、小鈴さんが椀を持ち上げた。 「これ、何でしたっけ」 「蕪」  澄さんが答えた。小鈴さんは笑いかけ、途中で口を押さえた。 「さっき、聞いたのに。ごめん」  澄さんは水のコップをその前へ置いた。小鈴さんは取らず、椀を下ろした。  なずなさんは何度か箸を持ち直していた。陶子さんが椀を近づけると、蓋の上へ箸を置いた。 「私、足音の話、しなきゃよかった」 「関係ないよ」 「それは分かってる」  陶子さんは口を閉じた。なずなさんの椀の蓋を取ると、自分の椀へ目を戻した。  水原さんは膝に手帳を載せていた。しのぶさんへ、庄司さんとお知り合いでしたね、と声をかける。しのぶさんは煮物を飲み込んでから、仕事で何度か、と答えた。 「最近も、相談を受けました?」 「警察には話します」 「主催の方からの要求なら、訂正の記事にも関わりますから」 「少し、食べさせて。さっきから何も入ってこないの」  しのぶさんは自分の椀へ手を戻した。水原さんは、すみません、と言い、手帳を閉じた。編集部へも、と口を開きかけた。  しのぶさんは箸を持った。水原さんは閉じた手帳を膝へ戻した。机へ置き直した時、頁から付箋がはみ出していた。 「あの紙、今日来たものじゃないんですよね」  陶子さんが訊いた。 「ええ。私が昼にお借りしたコピーです。庄司さんの家へ届いたのは、少し前」 「じゃあ、今日ここへ来るって、書いてあったわけじゃ」 「そのようなことは、書いてありません」  水原さんはそう答え、机へ手帳を載せた。福地さんがタオルを持って食堂へ来た。小鈴さんに一枚渡し、濡れた浴衣の袖を見て、冷えますよ、と言った。 「携帯、充電しておいてください。通じるようになったときに、使えるように」  宏和が椅子の下の袋を取った。僕へ充電器を見せる。 「使う?」 「俺、まだある」 「そう」  袋へ入れかけ、やめた。近くの壁の差込み口を見る。 「誰か、使いますか」  小鈴さんが手を上げた。 「私、お願い。だいぶ減っちゃった」  宏和は立って、線をつないだ。肩が少し下がった。小鈴さんが椅子を引き寄せようとすると、澄さんは、食べてからでいいでしょう、とその皿を指した。 「うん。後で」  小鈴さんは携帯を壁際へ置いた。澄さんの携帯は、伏せたまま皿の横にあった。  新しい魚を持った笠原さんが来た。亮の前へ置き、頭の下、と箸を入れる場所を教えた。亮は探し、少しだけ身を取った。 「あ、うまい」  笠原さんは頷いた。亮の箸がもう一度そこへ入るのを見てから、厨房へ戻った。  僕も探したが、魚の骨がばらばらになっていた。 「次だな」  拓海が言った。 「次って」 「次に魚食うとき」  僕は皿の端へ骨を寄せた。 「池上さん」  水原さんが拓海を呼んだ。彼は箸を止めた。 「千佳さんの息子さん、ですね。お母様と、何度か連絡を取っているんです」 「知ってます」 「今日のお話を、お母様にもお伝えしたくて」 「母に伝えてください」  水原さんは帳場の方へ目をやった。 「今、連絡できませんから。庄司さんとは、どこまでお話を――」 「ここで?」  水原さんは周りを見た。椅子を引いて立ったが、拓海は座ったまま、箸を皿の上へ揃えた。 「少し、外で」 「俺、まだ食べてるんですけど」  彼女は止まった。拓海は残っていた身を一口食べ、飲み込んでから立った。僕の椅子が邪魔だったので、横へずらした。  食堂の戸口で、水原さんが手帳を開いた。 「あまり時間がないんです。今日お話しできるはずだった方が、亡くなってしまって」 「俺には、時間があると思うんですか」 「そういう意味では」 「じゃあ、何の話ですか」  亮が箸を置いた。僕が顔を向けたときには、もう立っていた。 「今じゃなくていいだろ」 「俺が話してる」  拓海が片手を上げた。亮は止まり、椅子の背へ手をついた。 「十二年前の記事です。私が書いた。お母様から、あなたもご存じだと」 「知ってます」 「当時の説明と違う資料が出てきています。訂正のために、確認を」 「十二年、確認してたんですか」  水原さんの手が手帳の頁に載った。 「最近まで、十分に調べていませんでした。去年、福地さんから改めて連絡を頂いて」 「三回目でね」 「ええ。一度目は、昔の資料が揃わないとお返事しました」  福地さんが入口まで来た。タオルが腕に残っていた。 「そこは、もういいでしょう。今、進めている話を」  拓海は福地さんを見たが、答えなかった。僕は椅子を引き、戸口へ行った。 「拓海。お前のお母さん、ここで働いてたの?」  彼は僕を見た。 「俺が小学校の頃。そこも、知らなかった?」  僕は首を横に振った。彼は手帳の方へ顔を戻し、また僕を見た。 「福地さんの弟が死んだとき、母ちゃんのせいになった。何かを頼んで、会いに行かせたって」 「昼に、違うって言ってたのは」 「そのこと。助けてくれって言われたんだよ。母ちゃんは。怖くなったから、もう警察の用事はやめたいって」  水原さんが手帳を閉じた。 「警察は、協力してもらっていたことを説明しませんでした。相手との揉み合いで転落した、と。千佳さんの個人的な用事で出向いたという説明を、そのまま私が記事にしました」 「名前も」 「はい。出しました」  拓海は食堂の中を一度見た。亮は立ったままだった。宏和は椅子へ戻っていた。 「書き直したら、前の家に届くんですか。母ちゃん、辞めたとき、挨拶もできなくて。辞めるって、先に電話したの、こっちなんですよ」  水原さんは答えなかった。福地さんが、池上君、と呼び、肩へ手を伸ばしかけた。拓海は横へずれた。 「触らないでください」  福地さんは手を下ろした。女将さんが厨房から顔を出し、千佳さんが辞めたとき、と言いかけた。 「女将さんの話は、今してないです」  女将さんは戸口に止まった。  水原さんは手帳を鞄へ入れた。 「記事は直してほしいと、仰っています。昔の住所も、今の勤め先も出さない。その条件を守ります。原稿も、お母様へ先にお送りします」 「今、仕事してるんです。母ちゃん」 「伺っています」 「邪魔しないでください」  水原さんは頷いた。拓海は返事を待たず席へ戻った。僕も隣へ座った。亮はまだ椅子の背を掴んでいた。 「座れよ」 「さっき、何で止めた」 「俺の話だから」 「ああ、そう」  亮が座った。椅子が大きな音を立てた。魚の皿を引こうとした手を止め、左で引いた。拓海が皿を持ち上げかけた。 「俺が食うから」  亮が言った。拓海は皿を置いた。  宏和が卓上の水差しを少し持ち上げた。拓海のコップは空だった。拓海が手を出すと、宏和は注がずに渡した。 「挨拶も、できなかったんだ」  僕が言うと、拓海は、うん、と答えた。水を半分まで入れ、水差しを机の真ん中へ戻した。 「出たら、前に住んでたとこへも届くのかな。直った記事」 「俺も母ちゃんに言った。一回見に行こうって」 「帰るの?」 「見に行くだけ。仕事が決まった頃、休みまで取ってさ。何しにって言われた」  水を注いだときの滴が、コップの下にも残っていた。拓海はおしぼりを探し、盆にはないと気づいた。 「その日は職場の人と飯行くから、駄目だって。別の日にしようとも言われなくて。楽しみにしてたんだよ、そっちは」  僕は椎茸の大袋を思い出した。二袋とも、その職場の人へ渡す。 「買ってきたの、明日、ちゃんと渡せるといいな」  僕が言うと、拓海は顔を上げた。 「うん。あれ、母ちゃんが買ってくるって言ったことになってるから」  言ってから、水を飲んだ。亮は魚へ箸を入れ、まだ身のあるところを探していた。 「福地さんは、去年から?」 「うん。水原さんに取り次いで、会うとこも探してくれた。最初は母ちゃんの職場で、休憩のときに聞くつもりだったんだって」 「母さんが、そこでいいって?」 「言った。でも、仕事辞めたくないって言ってるでしょって、福地さんが。俺も、休憩なら早いって思ってたんだけど」  拓海はコップを皿から離した。 「断ったらまた後回しになると思って、母ちゃん、もう職場でいいって。俺にはそう言ったのに、あの人は別の場所にした。俺より聞いてたんだよ。そういうところは」  宏和が机に広がった水へ目を落とした。拓海はコップを持ち、飲んだ。 「旅行も、その話のためにここにしたの?」  僕が訊くと、彼は首を振った。 「来てみたかった。どんなところか。みんなでも来たかったし」 「俺、ほかの候補も出したよな」  宏和が言った。 「うん。俺も、ここがいいって返しただろ」 「分かってる」 「お前のせいじゃない」  宏和は拓海を見た。拓海は口を閉じ、少しして、悪い、と言った。 「そういう話じゃなかった」  宏和は返事をしなかった。水差しを自分の方へ引き寄せ、コップへ注いだ。  亮が魚の頭の下へ箸を入れた。身が少し取れ、食べた。僕は自分の皿へ目を戻した。骨の間に、まだ食べられるところがあった。 第十章 返すもの 亮が茶碗を置いたとき、女将さんが皿を下げに来た。 「ほかに、召し上がりますか」 「今は、もう」  箸を揃えようとして、亮の右手の指が開いた。一本だけ皿へ落ちた。拾って二本とも箸置きへ載せた。  宏和も皿を重ねた。空いた机に拓海が水のコップを置いた。 「夕方、庄司さんに会って、母ちゃんの話もしたんだよな」 「うん。警察にも言った。母ちゃんが頼んだんじゃなくて、警察の用事だったって。そこは認めた」  僕は拓海を見た。 「それで、何で」 「来月の講演の場所まで教えてくれた。訂正したら準備に戻れるって。俺、母ちゃんが困った話をしに行ったんだよ。会場の最寄り駅、知りたかったんじゃないんだけど」  拓海はウェットティッシュを小袋へ押し込んだ。水原さんが離れた席で顔を上げた。 「庄司さんが認めたの?」 「母に頼まれたんじゃない。それは答えてました」  彼女が鞄へ手を伸ばす前に、鷲尾さんが拓海を呼んだ。拓海は小袋をポケットへ入れて立った。  福地さんが食堂の戸口に来た。 「池上君。こちらで話した通りです。私からも、見たところを」  拓海は返事をしないで鷲尾さんについていった。福地さんは僕へ、私は帯を戻しただけです、と言った。 「庄司さんと話しました。戻った時は床でしたが、私の声に答えて、袖を掴んだ。起こしました。そこからは、水原さんの記録にも」 「俺が行ったとき、返事、なかったです」  亮が小部屋の戸を見て言った。 「俺、胸、押しました。あの後、どっかで返事してたんですか」 「私が話したのは、その前です。君たちが来る前」  亮は顔を向けた。 「拓海が持って下りた後で?」 「そうです」  福地さんは鷲尾さんへ同じことを繰り返した。鷲尾さんは、その時間についても別々に伺います、と告げた。福地さんは先に食堂を出た。      *  香坂さんと二〇一へ上がった。鞄の持ち手へ巻いてあった帯を、拓海がほどいて福地さんへ貸したことを話した。四時四十分には、女将さんが返してくれた。水原さんから預かったと聞いた。  四つの湯飲みが座卓にあった。僕のシャツは鞄の横へ落ちていた。屈もうとして、触らないでください、と止められた。 「床の帯も、同じ物だったと思います。金具に、赤い糸が」 「見比べたわけではない?」 「はい。写真と手で比べたわけじゃないです」  香坂さんはそこも書いた。 「鞄の場所は、宏和が動かしました。俺が課題を出しに戻った時には、拓海はいませんでした。出ていった所は、見てない」 「その後、封筒を持っていった時は、庄司さんと話したんですね」 「歩いてました。俺の問題にも、答えました」  香坂さんは顔を上げた。 「はい。その時のことは、伺っています」  僕は湯飲みへ目を戻した。 「拓海より後でも、話した人がいるって。福地さんが」 「いつ話したのかは、こちらで確かめます」  香坂さんは、病院から首にも痕があったと連絡が来た、と言った。懐中電灯を座卓の下へ入れた。僕は、五時の話をもう一度言わずに立った。  僕が出ると、亮が手すりに片手を置いて上がってきた。次は自分だと言った。 「荷物、動かしたとこ、聞かれる」 「何を言ったかじゃなくて?」 「今は」  亮は上がった。廊下の下で、福地さんが水原さんと話していた。二人とも拓海より後に読書室へ行った。起こして、話したという。声が残っていれば、拓海の席をまだ空けずに済む気がした。  自分がつけた封筒の疑問符を、携帯で開いた。福地さんが言い直してくれれば、拓海の方へ持って帰れる。僕はそういう答えを待っていた。  階段を下りると、なずなさんが帳場の脇にいた。自分の本を鞄へ戻していた。借りた写真帳は、警察に預けたままだった。 「庄司さん、初めから床にいたんじゃなくて」  僕が言うと、なずなさんは顔を上げた。 「椅子の所に。戸を開けた時は。私が本を返そうとして、それから」 「福地さんが、紙を持ってたんですよね」 「顔の下に、あった。紙が。水原さんは後ろで」  彼女は本の角を鞄へ入れた。そこが引っかかり、陶子さんが横から口を広げた。なずなさんは本を入れ直した。  水原さんは返事が欲しいと言っていた。食べているしのぶさんにも、拓海にも。僕は食堂へ戻りながら、福地さんの顔の下にあった紙を思い浮かべた。  宏和は車の店の番号を見ていた。亮が戻ると、椅子の下から彼の鞄を出した。 「起こされて、話してたって。拓海より後で」  僕が言うと、亮は鞄を受け取った。 「何を話したんだよ」 「まだ。水原さんの記録にあるって」  亮は自分の携帯を出した。四人の写真が開いた。 「俺、これ、風呂から出て見たんだよ。宏和に大きいの出してって。あの声、その時だった」  宏和は番号の紙を机へ置いた。 「俺が通報したのは、その後。お前が先に押しただろ」 「その前に返事してたなら、俺が行くまでの間、何してたんだよ」  亮は写真を閉じた。僕はなずなさんから聞いた紙のことを話した。 「福地さんが持ってたなら、帯の方は、水原さんじゃないか。まだ後ろにいたって」  亮は水を飲んだ。 「水原さんに、俺が来る前、何してたか訊ける?」 「香坂さんに訊いてくる。記録、見られるか」 「拓海も、何で俺に待っててって」  亮の声が止まった。ボトルの蓋を机へ置いたまま、肘を膝へ下ろした。  僕は急須を持たなかった。拓海が戻るところへ、先に、話していたと持って帰りたかった。 第十一章 まだ話している 水原さんの控えは、透明な袋に入っていた。下の二行には赤い線があった。元の紙は読書室から警察が運び出していた。 「これも庄司さんが?」  僕が訊くと、水原さんは線へ目を落とした。 「消すと決めたのは私です。お母様に今の気持ちを確かめていませんでした」 「じゃあ、もう」 「使いません。池上さんへ、そこだけでも」  香坂さんが袋を戻した。水原さんは向かいの小部屋へ案内され、戸が閉まった。福地さんも、別の警察官と帳場の奥へ入っていた。  食堂には宏和と亮がいた。宏和は机へ紙を広げ、借りた車の店が朝何時に開くか調べていた。 「八時から。先に借りた電話で掛ける」 「拓海は?」 「鷲尾さんが聞いてる」  亮は水を飲んだ。蓋は卓に置いたままだった。 「手、いま、診てもらう人を呼んでるって」  拓海が帯を首へ掛けたことは聞いた。倒れてから外したことも。  その後で、庄司さんは話したという。  僕は帳場の方へ戻った。香坂さんが読書室から出てきた。 「俺が入ったとこ、映ってたって」 「はい。前を通った方が青凪さんか、確かめたいので」 「初めから見せてもらえますか。拓海の後で、どんなふうに話してたのか」  香坂さんは僕を見た。 「人が倒れるところも入っています。確認している記録です。今、見られますか」  僕は頷いた。顔を見れば、返事の声が誰のものか、分かると思った。  小部屋に水原さんはいなかった。香坂さんと、記録を扱う制服の人がいた。  机に端末が置かれた。元の記録を保全して、確認用に出したものだと聞いた。回収へ戻った時から、止めるよう言われたところまで、一つの記録だった。  画面に雨の渡り廊下が入った。 『戻りました。水原です』  戸が開いた。携帯が下を向き、倒れた椅子と、床に開いたファイルが見えた。庄司さんの目は開いていた。首に帯はなく、福地さんが黒い布を片手へ畳んでいた。 『池上君が首へ。本人から聞いた。これも預かった』 『救急は?』 『私から帳場へ。場所は私が言うから』  庄司さんの右手が、福地さんの袖を掴んだ。 『人を、呼んで』  声があった。僕は机の端を握った。 『ここで倒れたままじゃ。椅子まで、起きて』  福地さんの腕が脇へ入り、庄司さんが上がった。水原さんは携帯を木台に立てた。机の角が近くなり、窓の留め金が左上へ来た。灰色の電話は、そこになかった。福地さんは庄司さんの左へ残り、水原さんは空いた椅子の背を避けて右肩の傍へ来た。 『女将を呼ぶ。君が何をしたか、私から』 『俺が話すから。梢さんに、見たまま言われたら』  庄司さんは自分の携帯へ手を出した。福地さんがその腕を戻し、帯を両方の上腕の外へ回した。 『腕です。首には掛けていない』 『腕も、放して』  水原さんが端を受け取った。片手へまとめ、空いた手で原稿を取った。帯に結び目はなかった。 『首じゃないでしょう。腕を、下へ』  福地さんが携帯を耳へ当てた。 『梢さん。戻してください。読書室へ。ここで待ってます。ええ、そちらで見た後で』 『救急は』 『先に来るから。帳場には言った』  庄司さんはまた机の携帯へ手を伸ばした。片腕が帯から抜けた。水原さんの手が後ろへ引き、胸の黒い線が襟へ上がった。 『電話は私に。君の説明で済ませない』 『紙を、先に見てもらいたいんです』 『上がってる。首に』 『ちょっと。座ったままで、お願いします』  黒い布が顎の下へ来た。庄司さんの指が、その下へ入った。 『千佳さんが私用で接触を頼んだ事実は確認されていない。ここだけ、あなたの声で』 『その文は君が書いた。私の言った通りではないね』 『あなたに確かめたんです。聞かなかったことには、しないでください』  眼鏡が机へ落ちた。 『返して』 『下は消します。お母様には確かめていません』  帯が下がった。福地さんが眼鏡を渡し、庄司さんは自分で掛けた。 『人を、呼んで』 『帳場には言ったそうです。来るまでに、ここだけ』  庄司さんが立ちかけると、黒い線がまた襟へ来た。 『首、放して』 『はいって、私には言ったでしょう』  水原さんの声だった。彼女は一度手を下げ、また引いた。  福地さんが原稿の角を取った。 『どこを消すんですか』 『その下です。先に。そこ、持っててください』  水原さんの肩が前へ来た。福地さんは紙を離さず、もう片方の腕を彼女の肩の内側へ入れた。黒い端が、その袖の向こうへ動いた。 『俺が。こっちは』  水原さんの空いた手が、庄司さんの右手首の下へ入った。 『ペン、持てますか。ここを消してから』  庄司さんは手首を戻そうとした。  紙が上がった。右端には赤いペンのある手、左端には紙を折らないよう開いた指があった。ペンの後ろに白い袖口が見え、紙の上には福地さんの顎が出た。  二行へ線が走った。僕はそこを見た。拓海が母へ見せたくなかった文は、端から端まで消された。 『千佳さんのは消したでしょう。俺が尚人のを止めたって、笠原が持ってきたんですか』 『紙は笠原へ返した。君が上へ渡さなかったことは、君が答えるんだね』  庄司さんの右手首が紙の下で動いた。下から支える指は離れなかった。左手が顎の下の布へ入った。 『梢さんに、私から』 『電話は俺が掛けた。俺が言うから』 『君の説明で済ませない』  机へ出ようとした肩が、後ろへ戻った。 『首、放して』 『福地さん、ちょっと、紙が』 『先生、こっちを向いて』  肩の後ろの手が折れ、布が上へ引かれた。  紙が倒れ、顔を隠した。右端の赤いペンと左端の指は、そこに残ったままだった。紙の下で手首を取る指も動いた。机についた肘が滑り、椅子の脚が鳴った。 『庄司さん』  水原さんの声がした。なずなさんが戸口へ来た。 『写真帳を返しに、あの』  肩が床へついた。黒い端を持った手が開いた。帯は倒れた椅子の脚へ落ちた。  なずなさんが廊下を向いた。 『誰か、来て!』  陶子さんが来た。場所を空けてください、と言った。水原さんが持っていた右手首の下へ、自分の手を入れた。  その手首が、紙の下にあった手首だった。  宏和が住所を言い、亮が膝をついた。僕の腕が画面を横切った。拓海がコップを落とし、水原さんがその傷へ布を当てた。  香坂さんが再生を止めた。 「ここです。画面の前へ来た方」 「俺です。その後、玄関へ」  制服の人が時刻を控えた。画面の外でも、亮は胸を押していた。 「書いてくれたんですね。下の二行」  僕が言うと、香坂さんは原稿の袋へ目を向けた。 「線は、記録にも残っています」 「福地さんが、紙を」  僕は止まった。福地さんの顎は見えた。紙の二つの手も見た。その後ろで、首に帯が来ていた。 「最後に引いたのは、水原さんですか」 「それぞれがしたことを、こちらで確認しています。青凪さんがどこへ行ったかは、今の答えで大丈夫です」  端末が戻された。僕は席を立った。  食堂へ戻ると、亮は椅子の背へ上着を掛けていた。 「話してた?」 「話してた。床から起きて。下の二行も消した」 「首に、あれ、また来た?」  僕は水原さんが引き直したところを話した。『はいって私には言ったでしょう』という声も。  亮は上着から手を離した。 「俺、行った時には、もう首になかった」 「最後は、福地さんが紙を持ってた。両側に手があって。水原さんは、後ろに」 「じゃ、最後まで、水原さんが?」 「まだ、持ってたと思う」  亮は水を飲もうとして、ボトルを机へ戻した。 「俺が来た時、腕、持ってたのは誰だっけ」 「水原さん」 「何で、まだ持ってたんだろ」  僕は右手首を床へ戻した陶子さんを思い出した。水原さんの手は、その手首の下にあった。  赤いペンが二行を消していた。その後ろに、白い袖口があった。 第十二章 紙の向こう 宏和の車の紙には、店の番号が二つあった。 「こっちは営業所。こっち、事故の時の。返す日の変更で、こっちへ掛けていいか」  僕は紙へ顔を近づけた。二行の間に、宏和が引いた短い線があった。 「分からない。帳場で、外へ掛ける方、借りられるかだけは訊ける」 「俺が訊く。八時になったら」  宏和は番号を携帯へ入れた。僕はペンを持つ手と、腕の下にあった手を思い出した。水原さんは拓海の傷を押さえた。その時も、右の袖口が折れて白い裏が出ていた。  香坂さんは読書室の戸口にいた。帯が広げられ、机と木台の間に物差しが置かれていた。 「もう一度、手の所を見たいです」 「どの部分でしょう」 「紙を持ってる人。俺、福地さんの両手だと思って、亮にもそう言ったんです」  香坂さんは僕の顔を見た。 「手を見たのか、紙の上の顔を見たのか、分けて教えてください」  僕は顎だったと答えた。両側には指があった。名前を訊かれた時に、顔の方を持って帰った。  小部屋で端末が出された。水原さんは別の部屋にいた。古いノートも原稿も、ここにはなかった。  香坂さんが、必要な部分を確かめると言った。僕は最後まで、最初に見た画面を思い出した。  線が走る少し前から動いた。  水原さんが帯を下げ、庄司さんが眼鏡を掛け直す。立ちかけた肩をまた引く。そこまでは、彼女が端を持っていた。  福地さんが紙の角を取る。 『どこを消すんですか』 『その下です。先に。そこ、持っててください』  肩が二つ重なった。福地さんの袖が、水原さんの肩の内側へ来た。黒い端が袖の向こうへ滑った。  右の白い袖口が紙の端へ出た。ペンが二行を消した。  反対の角を持つ手は、そこへ近づかなかった。紙が揺れると、端を少し折って止めた。  紙の下で、庄司さんの右手首を取る指があった。 「この手首、俺が入った時も、水原さんが持ってました」  香坂さんはそこで止めた。 「陶子さんへ、下から持つよう言われて、放したところですか」 「はい。俺は、それを見た」  紙の右端の手はペンを持っていた。手首の下の手は、もう片方を押さえていた。  あの時の水原さんの右袖も、先が一つ折れて、白い裏が出ていた。  僕は自分の右手でペンを持つ形を作った。左は机へ置いた。そこへ庄司さんの手首を足すことはできた。後ろの帯まで、もう一本は出せなかった。 「水原さんの右手がペンで、左が手首なら」  声が止まった。福地さんの顎を見ていた。紙の両側に手があった。そこだけで、一人の両手にした。 「俺、二人の手を、一人のにしたんだ」  香坂さんは画面を動かした。線を引く手は紙の右端へ残り、反対の角は左側から引かれた。福地さんの顎も、そちらへ動いた。  同じ人の胸の前に、紙が収まっていたわけではなかった。  紙の下の指は庄司さんの右手首を取っていた。庄司さんの左手は、首の布にあった。福地さんの空いていた方の腕は、二つの肩の後ろへ回っていた。 『梢さんに、私から』 『電話は俺が掛けた。俺が言うから』  肩が後ろへ戻った。  水原さんのペンは、紙の右端にあった。  黒い端を持った手が、上へ動いた。  香坂さんはそこで閉じた。新しく足された手ではなかった。僕が二行の線と一緒に見た手だった。 「福地さんが、最後も」 「確認している行為については、お二人へそれぞれ伺っています」 「じゃ、水原さんは」  僕は言いかけた。彼女がいったん下げ、もう一度引いたところも、初めから入っていた。 「最後じゃなくても、引いたのは、あった」  香坂さんは頷いた。 「見えた区間のことと、病院で確かめることは、分けて記録しています」  僕は女将さんが帳場で受けた電話を話した。 「救急じゃなかったんですか。来るって、福地さんが」  香坂さんが女将さんの記録を出した。  読書室へ戻すのは、灰色の電話機だった。女将さんはそちらでは通じていると答えた。僕が風呂へ入る時には、まだ帳場に載っていた。  夕食の膳の数を厨房へ伝える声も聞いた。救急を誰かに頼む声ではなかった。 「四時台の方は、手紙を戻してほしいという用件です。笠原さんに伝えたと。こちらは、電話機です」  香坂さんが言った。僕は、笠原さんが帳面へ戻した折り目のある紙を思い出した。 「福地さんは、笠原さんに、何を」 「先に、笠原さんの話を伺います」      *  笠原さんは前掛けを外し、折り目のある紙を出した。 「千佳さんから預かって、俺が届けた。尚人君が、もう警察の用事はやめたいって。同じ物を二枚書いて、一枚に受け取った人の名前をもらった」  真島篤、とあった。 「目の前で書いてもらった。これ以上は無理だって。分かりましたって、返事を聞いて帰った」  笠原さんは今日の紙も置いた。こちらには福地篤とあった。 「千佳さんへ返さなかった。新聞が出て、俺が届けたって外で話してなかった。辞めるって言われた時は、厨房が一人足りなくなるから困るよって、先に」  厨房の中で皿の音がした。笠原さんは振り向かなかった。  福地さんは鷲尾さんと一緒に来た。拓海は別の部屋にいた。  鷲尾さんが、受け取った後のことを訊いた。 「上へ回しました」 「誰へ」  福地さんは紙へ指を出しかけ、袖を下ろした。 「その前に、俺が聞くつもりで。弟が昼に来ると思ってたんです。弁当を持ってくれば」 「届けた日から、渡すまでを伺います」 「あいつ、俺とは飯を食えたんですよ」  笠原さんが紙を袋へ戻そうとした。署名が折り目へ隠れた。 「だから、俺が聞いてから」 「渡してないのか」  福地さんは黙った。 「渡してません。俺のところに置いた。まず俺から話すつもりで」  鷲尾さんが書いた。 「今日、庄司さんからも、そのことを言われましたね」  画面の音は出されなかった。福地さんは頷いた。 「女将さんを呼ぶと言った。俺が話すって、言ったのに」 「帯を受け取った時のことを」 「水原さんが紙を書くから。俺は紙を持って、帯も。先生が手を電話へ出した」  福地さんは片手を机へ出しかけ、戻した。 「梢さんに俺がやったことを、見たまま言わせるって。尚人の手紙のことも。あの人は自分の指示だった方だけ言って、あとは俺へ」 「呼ぶのを止めたんですか」 「俺から言うからって。電話は、俺が掛けたので」  鷲尾さんはその返事を記録した。 「首から放してと言われたところも伺います」  福地さんは紙の方を見た。 「まず、俺が話せば」  笠原さんが袋を閉じた。鷲尾さんは紙の話へ戻らなかった。      *  亮へ最後の手のことを話した。 「水原さん、紙へ線を引いてた。もう片方で、庄司さんの手首を持ってて。紙の左だけが、福地さんの」 「じゃ、両手って」 「俺が。顎を見て、そう言った」  亮は椅子を引いた。座らなかった。 「俺が行った時の手も、同じの?」 「水原さんが、腕を持ってた。その前に引き直したのも、本当だった。福地さんが受け取って、その後も」  宏和が、帳場で電話を借りられると話した。 「八時に、俺が。外へ掛ける方」  僕は携帯へ時刻を入れた。拓海の事務所の番号は、まだ入っていなかった。  鷲尾さんが小部屋の戸を開け、僕らへ会うか訊いた。宏和は紙を折った。  僕は拓海に、誰が最後だったかを言いに行くつもりだった。  亮は席を動かさなかった。 「俺が待ってた時のこと、まだ、あいつから聞けてない」  僕は拓海が帯を掛けた時の話を、首へ使ったという一言から続けていなかった。  宏和が戸へ向かった。僕も行った。 第十三章 返してもらうもの 鷲尾さんが小部屋の戸を開けた。 「会いたくなければ、お待ちになっていてください」  宏和は僕に先に行けとは言わなかった。二人で戸へ行った。拓海は番号を書いた紙を鷲尾さんへ出した。 「月曜、十時です。水野さんが分かります。俺が先に会うって、言ったんです」  鷲尾さんは紙を受け取り、戸のそばへ戻った。拓海はもう一枚、机の端へ寄せた。宏和が椅子を引き、僕は隣へ座った。 「先生、離してって。紙のことだと思ってた」  僕が言うと、拓海は番号へ指を置いた。 「ここにも、事務所の。名刺の番号と」 「そこは後で」  宏和が言った。鞄の口は閉じていた。  僕は封筒を渡した時のことを話した。 「先生、左でファイルを挟んでた。その後、お前の方へ来た手は、右なのか」 「右の。帯の方へ来た」  拓海は番号の紙を置いた。 「まだ、掛けたとこ、聞いてない」  僕が言うと、拓海は右手を開いた。 「俺の二行、先に返してって言った。先生はそこも母ちゃんに読んでもらうって。本人へ確認、って、赤い字を」  僕が封筒を渡した時にも、その字はあった。 「今の母が戻りたいと言ったんですねって。違うなら、そこから確かめようって」 「お前は、何て」 「先に、警察の用事だった方を。そこを母に渡してから、俺の方は話すって」  拓海は番号の紙を少し引き、戻した。 「先生、女将さんも呼ぶって。母ちゃんへ電話するなら、場所も訊いてって。右が電話へ行った」 「お前が持って来た、灰色の?」 「うん。俺、机の横へ行った。電話、今は取らないでって」 「取ったのか」 「先生が手を戻した。俺に、どいてって。女将さんを呼ぶからって」  宏和は顔を上げた。拓海は戸を見なかった。 「先生、戸の方を見た。まだ俺が話してんのに。こっちも見てって言った」 「紙を?」 「俺が書いた所。そこを先に返してって」  拓海は自分の紙を持ちかけた。置いたまま、右手だけを横へ動かした。 「帯、持ってた。椅子の後ろへ回って、首に掛けた」  僕は椅子の背から手を離した。 「後ろから?」 「……うん」 「そこで、先生は」 「顔をこっちへ向けた。何するんだって。俺、返してって言って、引いた」  拓海の手が止まった。机の上に電話もファイルもなく、番号の紙と水があった。 「先生、放せって。俺も、分かったって言って、一回、緩めた」 「そこで、やめれば」  宏和が口を閉じた。 「右の指が、下へ入ったんだよ。帯の下。取られると思って」 「紙を取られるんじゃ、なくて」  拓海は右手を閉じた。紙の角が曲がった。 「俺が、また引いた」  僕は庄司さんが五時に出した右手を思い出した。握手の一回を二人で数えた、と笑った。  拓海は左掌の包帯へ顔を下げた。 「先生が膝をついて、俺も下へ行った。放せって、さっきより小さい声で。それでも」  手が机の端を離れた。 「肩が床についた。眼鏡が落ちて。先生の手が、もうこっちへ来なくなっても、俺、離さなかった」  宏和は椅子から足を引いた。鞄を膝へ戻した。  僕は、紙の方、と言いかけた。拓海の声を聞く前は、そちらの返事を持ち帰れればと思っていた。 「ファイルも床で開いてた。なずなさんが最初に見た時から」  拓海が顔を上げた。 「そこへ、何を返したんだ」 「外してから、ファイルを開けた。俺の文と名前があって、角を持って」  紙の角を持つように指が開いた。 「取ったら、先生の字もなくなる。名刺を付けた跡も。母ちゃんが読んだら、何を取ったって訊くから」  番号へ指を戻しかけた。僕は紙を取らなかった。 「まだ、持って帰れると思ってたのか」 「先生が書いた方を。俺がここへ来たから、母ちゃんの訂正ができたって」  拓海は紙へ顔を戻した。 「書いてもらう所を開いた。先生の方へ。こっちを先にって」  僕は最初に見た、裏へ折れた紙の端を思い出した。 「床へ?」  拓海は頷いた。 「俺が書いた方を直すなら、水原さんが戻ってからまた確かめるって。先生の字が来れば、俺が渡した文より先に。こっちを先にって、言った」  彼は水の蓋へ手を出しかけた。指を戻した。 「返事はなかった。肩、床についてたのに、俺、紙を向けた」  宏和が立ちかけた。戸へは行かず、鞄を椅子へ置いた。  僕は携帯を机へ置いた。 「これで呼べた」  拓海は自分のポケットへ目を落とした。 「俺のも、あった」 「見たんだろ。先生の顔」 「こっちを向いてた。息をしてるかは、見てない。俺は紙を拾った」  宏和が下を向いた。机の下で靴が少し動いた。 「灰色の電話を取ったのは、母ちゃんへ掛けられないように。女将さんも呼ぶって言われたから」  拓海はボトルへ手を伸ばしかけた。持たずに戻した。 「帯を巻いて、通じないって持っていけば、帳場で預かってもらえると思った」 「母ちゃんへ言うのは、自分から?」  僕が訊くと、拓海は顔を戻した。 「訂正の方から言って、俺の文は待ってもらおうって。ファイルは持ち出せなくて、白い封筒を取った。古い手紙は笠原さんへ返したって聞いたのに、まだ入ってるように思って」  僕は庄司さんが黒い字を封筒へ入れた時のことを思い出した。折ると読みにくいからと、口を閉じなかった。 「下で福地さんに、首へ使ったと、倒れたから外したって言った。手紙はなかったし、紙の方も先生と話すって言われて、待った」  拓海は戸を見た。 「俺より、ちゃんと話せると思った。電話も取ったって言った。でも、救急を呼んでとは」  言葉が止まった。僕は受話器を下から支えた時のことを思い出した。手を出す所は分かった。上着へ当たり、落としそうだった。 「俺にも頼めた」 「頼めた」  返事が早かった。拓海は僕を見た。いつも用事を頼む時と同じ顔だった。 「封筒を頼んだみたいに?」  拓海は頷きかけた。 「俺が持ってくと、今じゃないって言われそうで。女将さんから頼まれた客なら、入れてもらえると思った」 「俺が訊けば、入れる」  彼は番号から指を離した。 「それを知ってたんだろ」  僕は携帯を取らなかった。 「じゃあ俺に、何を待てって言ったんだよ」  拓海は紙へ顔を戻した。番号の下の名前を、またなぞろうとしていた。 「俺らには、風呂で待っててって」  宏和が言った。 「下で警察の人に会って、そこまで話したのに、まだ俺らのところへ来るつもりだったの」  拓海は僕を見た。 「祐助が封筒のこと聞いてたから。福地さんも上へ行ったと思えば、先にそっちを」 「俺が聞いてくれれば?」  拓海は小さく、うん、と言った。 「俺がしたのは言ったから。お前が、俺より後で先生が返事したか訊いてくれたら」 「返事はあった。そこは見た。でも、お前が引いて、倒れてからも離さなかった。その話は、なくならないだろ」  宏和が立った。僕も立ったが、戸へ行けなかった。 「俺、お前の後に返事があればと思った。それはあった。でも最後に何が起きたかを見ないで、お前に赤い線の話だけ、渡そうとした」  拓海は鷲尾さんを見た。 「仕事先へ、自分で電話します。母にも。記事より前に」  僕の方へ向き、番号の紙を出しかけた。 「水野さんへ、月曜、十時の人の続きだけ。引き継いだか訊いてもらえる? 俺が先に連絡するから」  宏和が戸を開けた。僕は机の前にいた。 「俺、あの人の話は分からないから」 「水野さんが分かる」 「連絡したかは、確認する。十時の人を待つって、そっちが聞いてたかも。でも、その人へ何を言うかまで、俺からは」  拓海は紙を机へ下ろした。 「うん」  鷲尾さんが番号を見た。拓海がそちらへ紙を寄せたので、僕は机の前を空けた。  戸へ行くと、拓海が、月曜の六時半、と言った。 「飯、俺、行けない」  僕は振り返った。 「お前、それ、まだ先だよ」  拓海は椅子に座ったままだった。      *  部屋には四枚の布団があった。亮は、どうだった、と訊いた。  宏和が最初に話した。僕は、拓海が手を緩めてから引き直したことと、床へついてからも離さなかったことを話した。 「離せって、言ってたって。あの人」 「お前が聞いたの」 「拓海から。右の指を、帯から外させようとしてたって。床の方も、聞こえてたって」  亮は水の蓋を取った。僕へ出し、途中で宏和へ向けた。宏和が飲んだ。 「俺、いま、顔見たら、返事しそうだ」  亮は布団へ座った。月曜の店の候補を開き、指を止めた。僕は横へ座らず、自分の布団の端にいた。 第十四章 隣へ座る 宏和が荷物からパンを出した。途中の店で買ったまま、袋が潰れていた。 「食べる?」  亮は首を振った。僕は半分、と言った。宏和は割ろうとして、クリームが指についた。皿がなくて、袋の上へ置いた。  亮は窓へ行った。障子を開け、すぐ閉じた。外は暗かった。 「俺、会いたい」  僕は口にあったパンを飲み込んだ。 「拓海に?」 「うん。来いって、言ってほしくないけど」  宏和は指を拭いた。 「訊く。会えるか」  彼は座卓の白い電話を取り、帳場へ掛けた。鷲尾さんをお願いできますか、と、自分で訊いた。  亮は僕らの座卓の端へ戻った。パンは取らなかった。      *  小部屋へ行くと、拓海は立ちかけた。 「座ってて」  亮が言った。拓海は座り直した。  僕は戸の近くへ残った。鷲尾さんが椅子を一脚寄せてくれた。亮は向かいに座らず、拓海から一つ分離れた隣へ座った。 「俺さ、今日は、湯、二回入ったんだよ」  拓海は亮を見た。 「祐助に聞いた。待ってたって」 「祐助から、待ってって聞いた。そのとき、もう二回目だった。お前、何か、忘れ物取りに行ったんだと思って」  亮は拓海の足元を見た。二人とも宿のスリッパだった。 「俺、あの人の胸、押した。顔、ほとんど見てない。手を置く場所ばっかり、見てた」  拓海は、俺、と言いかけた。 「いま、先に、聞いて」  亮が言った。 「お前が電話持って下りる前、床へ倒してたんだって。俺、そのとき、二回目へ入ってた」  拓海は頷いた。 「そこまで、聞いた」 「だから、何も知らない俺へ、待っててって、言ったのが」  亮は椅子を引いた。立たなかった。 「俺、今日、来るの、楽しかったんだよ。お前、行けるって言ったから。誰も減らさないで、四人で」  拓海は両手を膝へ置いた。 「ごめん」  亮は顔を向けなかった。 「いま、その返事を、俺がするの、嫌だ」  拓海は黙った。  鷲尾さんが時刻を見た。亮は椅子を戻し、立った。拓海も立ちかけたが、亮は足を止めなかった。 「亮」  拓海が呼んだ。 「俺、仕事と母に、自分で電話する」  亮は戸まで来てから、振り向いた。 「俺に、許可もらわなくていい」  拓海は何か言いかけた。亮は部屋を出た。  廊下で宏和が待っていた。パンの袋を持っていた。亮へ出すと、彼は一つ取った。 「飲み物、上にある」  宏和が言った。亮は頷き、階段を上がった。僕はその後を行った。 第十五章 下へ行く 二〇一へ戻ると、宏和は車の紙を開いた。 「八時になったら店へ掛ける。話すのは俺。名義も俺だから」 「俺は、何を」 「道のこと。朝、女将さんに聞いて。それを俺に教えて。下で父親に迎えを頼むなら、場所が要る」 「一緒に下りる?」 「俺、先に行くかも。電話の場所を確かめたいし」  僕は七時四十五分にアラームを入れた。 「起きてなかったら、呼んで」 「呼ぶ」  亮は洗面の袋を持ったまま座っていた。 「まだ、言いたいことある」  亮が言った。 「訊くか。会えるか」  宏和が電話へ手を伸ばすと、亮が取った。 「俺が」  帳場で拓海の左手からまた血が出ていると聞いた。救助中に切った傷だった。医療の人は通れるところまで来ていて、宿の人が迎えに下りているという。 「新しいタオル、一枚。持って来てって」  亮は自分の袋から出した。宏和が上着を取った。  小部屋で制服の人が拓海の左手を押さえていた。卓の端へ布を敷き、その上に腕があった。拓海は顔を壁へ向けた。 「痛い」  亮はタオルを女将さんへ渡した。流しの縁に赤い滴があった。歯を磨こうとして掌を開いたらしい。 「俺の歯磨き粉、上にある」 「ここにもある。磨く?」 「俺が、磨く話をしてるんじゃねえよ」  拓海が顔を向けた。制服の人が、手を動かさないで、と言った。亮は戸口の椅子へ手を掛けたまま止まった。  宏和は上着を膝と腹へ掛けた。左袖へ通そうとした拓海を止めた。 「そのまま。返すのは後で」 「ありがと」  宏和は頷いた。拓海の目へは顔を向けなかった。  亮が椅子を卓へ寄せた。 「代われますか」  制服の人が亮の顔を見た。 「押さえるのを?」 「はい」  新しい手袋を渡された。亮は片方をはめ、もう片方の口を開こうとした。宏和が袋を取り、僕は椅子を押さえた。  制服の人は布の上の位置を示した。亮の手がそこへ来るまで、自分の手を離さなかった。 「ここを、そのまま。動かしたり、途中で布をめくったりしないでください」  亮は頷いた。制服の人が手を引くと、亮の肩が下がった。卓の上で腕を置き直す場所を探していた。制服の人は隣の椅子へ座った。  僕も向かいの椅子へ座った。宏和は背後に残った。上着の裾が滑り、僕は膝のところへ戻した。 「俺が胸、押してたの、見たろ」  亮が言った。 「見た」 「何で、それから俺には」  拓海の左肩が動いた。亮は手を戻そうとして、制服の人に位置を確かめてもらった。 「痛い」  拓海が顔を下げた。亮は口を閉じた。  女将さんが卓の端へ紙を置いた。迎えに下りた人の名と、戻る道が書いてあった。制服の人は一度それを見た。亮は拓海の手の上へ目を戻した。 「少し、緩めて」  拓海が言った。  亮は制服の人を見た。その人は布の位置を見て、今は圧迫を続けてください、と答えた。 「もうちょっと」  亮はそれだけ言った。拓海は目を閉じた。  僕のアラームは七時四十五分だった。宏和は明日八時に電話する。その二つは朝の時間だった。亮の両手は卓の上にあった。 「母ちゃん、電話」  拓海が僕を見た。 「朝になったら、会ったこと、先に。俺が自分で。母ちゃんは頼んでないから」 「会ったことだけ?」  僕が訊くと、拓海は下を向いた。 「……頼むの、駄目か」 「今、返事要らないだろ」  亮が言った。手は同じ所にあった。  拓海は僕の方へ向いたままだった。亮が顔を上げた。 「俺が上へ戻った時、お前、着替えてくればって、祐助に」 「シャツ、裏返しだったから」 「それも、見てたんだな」  拓海が頷いた。 「俺には、風呂で待っててって。俺、何も知らないで」  亮の声が大きくなった。拓海は身体を丸めた。 「痛い」  亮は拓海を見た。それから自分の手を見た。制服の人が身体を寄せ、押さえる位置をもう一度確かめた。 「手当てを続けます。話は、あとにしてください」 「はい」  亮が答えた。拓海は返事をしなかった。  宏和が亮の椅子の横へ来た。 「俺、代わろうか」  亮は顔を向けなかった。右腕の袖が卓の縁へ引っかかっていた。 「……このまま、押して」  そこから先が出なかった。僕は制服の人へ顔を向けた。その人は手袋を取り、亮の隣から手を戻した。 「私が代わります。手を引くのは、言ってからで大丈夫です」  亮は頷いた。替わった人の手が布を押さえているのを見てから、自分の手を膝へ下ろした。  宏和が袖を卓から離した。亮は椅子を引き、立った。 「洗ってくる」 「待つ」  僕も立つと、亮は僕を見た。 「すぐ戻る」  流しへ行った亮は、手袋を外しても、しばらく掌を上へ向けていた。女将さんが石鹸を指した。亮は水を出した。  戻って来た時、拓海は目を閉じていた。亮は椅子へ座らず、戸口に残った。宏和は上着の裾を持っていた。 「俺、まだ何も言えてない」  亮が僕へ言った。 「聞いてた」 「途中でやめただろ。俺が」  彼は濡れた手を拭き、右肘を曲げた。 「もう一回言おうとしたら、また痛いって言うと思って」  僕は拓海を見た。声を掛ければ目を開けそうだった。亮は布を押さえる制服の人の手を見ていた。      *  医療の人が入って来ると、制服の人は救助中に切ったことと、圧迫を続けていたことを話した。僕も見たところまで話した。亮は手袋の空の袋を宏和から受け取り、女将さんへ捨てる場所を訊いた。  拓海は診療できる場所へ連れて行ってもらうと聞いた。警察官が同行する。  水原さんは別の椅子で待っていた。毛布を自分で肩へ掛け、パソコンの鞄を香坂さんへ返した。必要な連絡先を訊かれ、六月に取材した相手の名前も言った。福地さんの部屋の前を通らない方へ連れて行かれた。  拓海が上着を畳もうとすると、宏和が肩へ掛けた。左袖は通さなかった。 「返すから」 「捨てるなよ」  玄関へ歩く前に、僕は拓海を呼んだ。 「お母さんには、会ったってだけじゃ言わないからな」 「……うん」  拓海は上着を押さえた。 「車、明日は」 「今、聞けない」  亮が言った。拓海は口を閉じた。靴を履く時、右手だけでは紐を結べず、警察官へ頼んだ。僕らはそこまで行かなかった。  部屋には四枚の布団があった。亮は四枚目の端に座った。 「タオル、最初、持ってけばよかった」  宏和はその横へ座った。僕は名刺を財布へ戻そうとした。 「それ、もらってたんだ」  僕が差し出すと、宏和は受け取らなかった。 「俺、まだもらってない」  名刺を戻した。 「寝る?」  宏和が訊いた。 「目、閉じる」  亮が横になった。僕はアラームの七時四十五分を確かめた。電気を消すと、戸の下の光だけが残った。 第十六章 残した車 七時半に戸の音がした。宏和が出るところだった。 「先に下を見る。お前の方、あとで」  僕は布団から起き、亮の顔を見た。目が開いていた。 「朝飯、行くか」 「ちょっと待って」  顔を洗って戻ると、亮は歯ブラシを袋へ入れていた。右肘を曲げると袖が引っかかった。僕が袋を持つと、手を止めた。 「まだ、入れる」 「うん」  僕は袋を戻した。亮は左手へ替え、ブラシを押し込んだ。  八時を少し過ぎていた。帳場で宏和が店へ説明していた。女将さんは道の下まで迎えが来ると、僕へ地図を見せた。歩く道を聞き、戻った宏和へ目印を伝えた。  彼が父親の番号を開いた。 「どこまで来てもらう」  僕が言い、宏和はそれを父親に言ってから、女将さんにも確かめた。  亮は食堂で待っていた。椀が三つあった。僕らが座ると、笠原さんが鍋の蓋を取った。 「もう一杯あります。欲しくなったら」  亮は頷いた。  宏和は車の紙を裏返した。 「車、置いてく。鍵はここへ預けていいって。店にも名前を伝えた」  亮が鍵を見た。 「持って下りないんだ」 「うん。荷物を取ったら、俺から渡す」  女将さんが頷いた。 「道が通ったら、連絡します。来られる日を教えてください」  宏和は紙へ宿の番号を書いた。 「父親に、もう一回ここまで送ってもらう。車は俺が店まで戻す」 「俺も来ようか」  僕が言うと、宏和は紙から顔を上げた。 「いつになるか、まだ。今日、下で迎えてもらうのも、ちゃんと場所を言わないと」  彼は父親の宛先へ地図を送り、名前をつけて保存した。椀はまだ机にあった。携帯を伏せ、ようやく手を伸ばした。  食後、拓海の荷物を見てもらうために二〇一へ戻った。警察官が鞄の中を確認した。持って帰れる物を寄せると、椎茸の大袋が二つ、小袋が一つ残った。  宏和が小袋へ手を掛けた。 「これも、買ってたんだな」  鞄へ入れようとして、やめた。持ち手の縫い目が抜けたままだった。  女将さんが、千佳さんへ送るなら宿からでも、と言った。 「俺、電話してから、頼んでいいですか」  僕が訊くと、彼女は頷いた。送り先も、土産をどうするかも、まだ僕には訊けていなかった。  宏和は袋を卓へ戻した。警察官に残りの荷物を確かめ、僕らの物を先に持った。  廊下で香坂さんと会った。拓海は治療を受けたと聞いた。会えるか訊くと、いまは待ってほしい、と答えた。  亮は何も訊かなかった。具合が悪くなったら案内の人に言うように、と話され、はい、と返した。  玄関には雨具が並んでいた。小鈴さんは澄さんのコートを畳み、自分の鞄へ入れようとしていた。 「入らない」 「入るって」 「あなたの、靴、入ってる」  小鈴さんは鞄を閉じた。コートを抱え、澄さんに持ってもらうのをやめた。 「帰ったら、寝る?」  僕へ訊いた。 「たぶん」 「私、月曜の受付、代わってもらえるか、まだ、聞けてない」  澄さんが自分の鞄を掛けた。 「駅までなら、ついてく」 「そのあとも、いい?」  澄さんは小鈴さんを見た。それから持ち手を肩へ上げ直した。 「一回、家、寄る」 「うん。待つ」  宏和が鍵を渡し、女将さんから預かりの紙を受け取った。亮の鞄の持ち手で、青いイルカが揺れた。  僕が靴紐を結ぶと、亮が待っていた。 「行くか」  僕は頷いた。宏和は車の方を一度見た。後部座席には、誰もいなかった。  案内の人が先へ出た。木から落ちる水が、雨具の肩を叩いた。亮は振り返らなかった。宏和も途中から、車を見なくなった。  道が狭くなると、三人は縦に並んだ。僕は、前を歩く亮の鞄だけを見て下りた。 第十七章 九時の番号 帰った日の夕方、千佳さんへ電話した。病院へ行く電車を待っていると言った。 「拓海の仕事先へ、月曜、連絡すること、頼まれました」 『そう。さっき警察の方からも電話あった。祐助君たちは帰れた?』 「はい。拓海から、お母さんに頼まれたんじゃなくて、自分で会ったって伝えてくれって。でもそれだけ、先に言うのは嫌で」  財布から出した名刺に、事務所の番号があった。 「首を締めたのは、自分だって。俺にも話しました」  電車の案内が聞こえた。 『聞いたよ。何をしたかも。……自分で電話してくればいいのに』 「はい」 『ごめん。祐助君に言っても。どうして来たのかは、私が訊くから』  椎茸を女将さんが送ってくれると話した。千佳さんは、職場の人の分も二袋と言ったでしょう、と返した。 「自分の分も買ってました」 『そういうのは勝手に買うのね。送り先は梢さんが知ってるから、私から掛ける。あなたたち、ちゃんと食べた?』 「朝、食べました」 『なら、よかった』  電車が来たというので切った。電話の前に開いていた大会の案内が、そのまま残っていた。  来月、市民会館でクイズの大会がある。出場者の名前を入れる欄まで来て、家に帰ったら千佳さんへ掛けようと思っていたことを思い出したのだった。  青凪祐助、と入れて申し込んだ。名前を書いたことだけは、誰かに言いたくなった。      *  月曜は八時四十分に起きた。一限にはもう間に合わなかった。二限へ行くシャツを着て、九時に事務所へ掛けた。  受付から水野さんへ替わった。 『青凪さんですね。池上から聞いています』 「本人からですか」 『昨夜、連絡がありました。先生にも話しています』 「十時の方の、続きの話なんですけど」 『お母様が亡くなった方ですね。記録を見ています』 「机の紙だけじゃなくて、事務所にもあるって。拓海が、今度は先にいるって言ったから、その人に」  向こうで誰かを呼ぶ声がした。十時の方が来たら自分へ、と水野さんが伝えた。 『今日は私が待ちます。池上がどこまで聞いたか、いま確認しているので。続きから伺えます』  十時に来る人の顔を僕は知らなかった。拓海がその人を待つところも見たことがなかった。 「お願いします」 『伝えてくださって、ありがとうございます』  九時八分だった。事務所の番号は連絡先に残った。  靴を履いていると、亮から三限から来ると届いた。宏和は祖母の家へ行くので休む。物置の壁を見てから、自分が業者へ掛けることになったという。  僕は二人へ大会の案内を送った。出る、と一語を付けた。 〈今度は賞金?〉  亮から来た。 〈ない。賞品〉 〈肉か〉  僕は案内をもう一度読んだ。決勝へ残った人に何が出るかは書いてなかった。 〈知らない〉 〈分かってから教えて〉  宏和からは、終わる時間は? と来た。  午後の予選で負ければ帰れる。勝てば夜までかかる。そう送ると、勝てばいいだろ、と返ってきた。  大学へ着くと、隣の友人が土曜のお礼を言った。課題の画像が読めたので提出に間に合った。 「旅行の方も、もう一回送って。四人の」  僕は土曜のやり取りを開いた。白い壁の写真で、拓海が亮の腕を引いていた。 「建物のやつ、ある?」 「宏和が。俺はまだもらってない」 「じゃ、その四人のでいいよ」  二枚とも残っていた。開けば大きくなる。 「途中で帰った」 「天気?」  教室の前でマイクの音がした。友人は、後でいい、と前を向いた。  配られた紙の上に日付を書いた。一限の欄は空いていた。 第十八章 送られてきた紙 十日ほどして、三人の逮捕が報道された。拓海の名前と職業が並んでいた。名刺と同じ字だった。  食堂の出口で亮に会った。 「食った?」 「食った。腕、どう」 「病院、行った。使ったんだって。痛い間は休めってさ」 「バイトも?」 「皿、まとめて持てないから。今、レジ」  彼はメニューを見て、今日はもう魚がない、と言った。 「唐揚げはあった」 「店でも揚げてんだよな。俺、まだ横で見てるだけだけど」 「やらせてもらえないの」 「頼んだ。腕、戻ってから」  亮が列へ入ったので、僕は出た。自分の汁が冷めていたことを、外へ出てから思い出した。  その晩、課題の友人から電話が来た。 「大学の新聞の人が、旅行のこと聞けるかって。俺、四人の写真持ってるって、言っちゃった。出す前に、訊いてくれって言ったけど」 「もう渡した?」 「まだ。お前から来たやつだから」 「これが出るの。名前の横に?」 「出していいなら。別に、記事になるかもまだだけど」 「いや、出さないで」 「分かった。お前の話だけなら聞ける?」  写真を開いた。拓海は笑っていた。僕の口も開いていた。 「今は無理」 「じゃあ、そう言っとく。俺も何て言えばいいか」 「訊いてくれて、ありがとう」 「うん。勝手に出すのは、まずいと思ったから」  宏和へ、写真を記事へ出してよいか訊かれて断った、と送った。すぐ電話が来た。 「誰が持ってるって」  土曜に課題の友人へ送ったと話した。 「俺、あの写真、お前らに送ったんだよ」 「分かってる。俺が送った」 「大学のやつにも?」 「課題の話してて。そのあと、景色も送れって」  返事がなかった。 「楽しかったのは、本当だったから」 「それ、何。今、俺に言うこと?」 「いや」 「楽しかったよ。俺も。あいつが来られる日、待ってたんだから。でも、名前出た横に俺らの顔まで並べられてさ。俺が撮った写真、そこへ出すためじゃねえよ」 「だから断った」 「うん。そこは読んだ」 「送ったの、駄目だったか」 「今、そういう返事するの無理。俺も知らない所へ、自分の顔、出てくと思って」 「まだ出てない」 「分かってる」  声が大きくなった。僕は、分かってないように訊いた、と言った。 「授業、行く。あとで写真、残ってるやつ見せて。大きいの。お前が送った方」  亮へも連絡した。出さなくていい、と返ってきて、その下に、俺のは消してない、とあった。  机の横に大会の参加票があった。僕の名前だけが大きく印刷されていた。      *  翌週、水原さんから封書が来た。訂正の原稿と、自分がしたことを書いた紙があった。一枚目を先に読んで頂けましたか、と追伸にあった。拓海へ原稿を届けてほしいとも。  編集部で訂正するので水原芙美の名は付けられないという。六月に写真を選んだ人へ連絡を控えるよう言われたが、その人からどうなったかと尋ねられている、と書いていた。  両方読んだ。どちらも彼女の字だった。  警察へ持っていく日に、宏和から模型の材料を受け取ってほしいと頼まれた。実習室に届く。本人は同じ時間、警察で車に乗っていた時のことを話す。 「俺、その後、実習室、使う。途中で受け取って」 「何時までいる?」 「六時。でもお前は置いて帰っていいよ」 「練習してていい? クイズの」 「俺に出すんじゃなければ」 「一人でやる方」 「じゃ、いて」  白い箱に宏和の名前があった。受取の紙に僕の名前を書き、作業台へ運んだ。透明な板が入っていた。  宏和が戻るまでに二十問解いた。十八問正しかったので、間違えた二問を別の紙へ書いた。 「何、その板」 「屋根。外せるようにする」  宏和は模型の一部を持ってきた。階段が二つあった。 「ここ、つながるの?」 「まだ。入口、逆にしてみたい。先生にこっちの方が早いって言われたけど、全部短くすりゃいいってもんでもないだろ」 「何の建物?」 「展示室。俺、入ってすぐ全部見えるのが嫌なんだよ」  入口の小さい壁を外し、別の所へ立てた。僕は問題へ戻った。紙の端に、握手、と書いてあった。十人なら四十五回。その下へ、庄司さんが言った九十を、また書いてしまった。 「課題、出した?」  宏和が訊いた。 「まだ。今日中か」 「うん。俺もあとで」  同じ授業の紙を一枚渡された。大学へ戻る時刻まで、僕はここにいた。  警察では封書を見てもらい、確認が済むまでそのまま持っていることになった。五時二分の送信記録を出し、その前に庄司さんが立って封筒を受け取り、机へ戻ったことを話した。 「笑ってました。俺が、孫が正しく答えた後で笑えるといいって言ったら」  香坂さんが書いた。僕は、袖の釦が外れていたことも話した。  家で水原さんへ返信を書いた。両方読みました。拓海に届けることは引き受けられません。その後が続かなかった。  翌朝、同じ紙を封筒に入れた。宏和へは旅行の写真を二枚とも送った。受取の写真とは別の文に付けた。  大会の日、名札を胸へ下げた。予選の後半で二問続けて押せた。一問は答えが違い、もう一問は言い切る前に時間になった。  最後の問題で手を伸ばした時、隣の人のランプが先についた。その人が正解すると、決勝へ残る三人の名前が呼ばれた。僕の名前はなかった。  駅へ向かいながら、宏和と亮へ負けたと送った。 〈賞品、何〉 〈見てない〉 〈残って見ろよ〉  亮から来た。僕は歩き続けた。 〈俺は次、勝つから〉  送った後で、まだ一問、答えが出そうになった。 第十九章 後ろの席 五月、裁判所の前で三人が会った。  僕の証人としての出廷は前の週に済んでいた。宏和は同じ日、亮はその前だった。今日は三人で後ろへ座った。 「今日、最後までいられる?」  僕が訊くと、亮は五時から店だと答えた。 「俺は実習へ戻る」  宏和は箱を持っていなかった。 「入口、まだ逆?」 「逆。友達に見せたら、広い方が入口だと思ったって。俺、逆にしたつもりなのに。階段が邪魔になってる」 「元に戻す?」 「いや。階段の方を動かす」  亮は、模型の人、俺よりいい家住んでるよな、と言った。宏和は家じゃねえよ、と返した。  拓海は前にいた。包帯はなかった。水原さんと福地さんもこちらを向かなかった。  医師が病院の記録と解剖の所見を説明した。五時に笑ったこと、その後に声が出たことも質問に入った。首の痕だけから、いつの圧迫がどれほどを生じさせたか、一回ずつに分けられるわけではないという。  僕は自分に答えてくれた声を覚えていた。その時、首の中がどうなっていたかは見ていなかった。 「倒れた後も、手を離さなかったのですね」 「はい」  拓海は答えた。床へ置いたファイルを開いたのは、自分の二行と名前があったからだと話した。 「呼びませんでした。電話も取って、持って出ました」  福地さんへ、首へ使ったと話した。ただ、緩めてから引き直したことも、倒れてからなお続けたことも話さなかったと答えた。  僕が見た所を訊かれるわけではなかった。拓海が答え終わるまで、聞いた。  水原さんには、いったん帯を下げてから引き直した理由が訊かれた。 「取材を終えたくて。返事をしてからって、私が言いました」 「首から放すよう言われていたのですね」 「はい。私が引きました」  福地さんは、女将を呼ぶと庄司さんが言った後にも引いたことを問われた。 「私から説明すると。帳場へも、俺が掛けました」  電話機を戻す依頼で、救急ではなかったと確かめられた。弟と弁当を食べるつもりだった話を始めると、その日の行為についての問いへ戻された。 「先生が女将へ言うと言ったので。私が先に説明すると」  拓海は二人が答える間も、こちらを向かなかった。  記録は、亮が胸を押し、水原さんが切れた掌へ布を当てる所まで続いた。亮は僕の肘へ軽く触れた。 「俺、あれ、あんな長く押してたんだ」  声は小さかった。僕は頷いた。  休廷で出ると、窓の前に庄司さんの娘だという女性がいた。職員と明日の予定を話し、仕事の方にも連絡すると言った。  僕の紙の裏に、十人、四十五、と書いてあった。今なら数字だけではなく、庄司さんが笑った時のことを話せた。女性は携帯で明日の時刻を言い直していた。  声を掛けず、紙を鞄へ戻した。  その日の審理が終わり、駅へ向かう途中で、判決の日は亮が授業だと分かった。午前中に作った物を先生へ見せ、直してから提出するという。宏和もその日提出だった。 「俺、先に出してから来る。予約した」 「じゃ、二人か。結果、送る」  僕が言うと、亮は頼む、と答えた。 「夜、飯は?」 「行ける。店も休みにした。今日の分は働く」  亮は改札へ行き、宏和は実習室へ戻った。僕は来月の大会の問題集を鞄から出した。電車で三問解いた。拓海がはいと答えた声が、問題を読み終えるたびに戻った。      *  判決の日、千佳さんから、帰りに駅で紙を渡してよいかと連絡があった。  宏和は待ち合わせへ遅れて来た。 「提出、間に合った?」 「出した。けど、まだ直す」 「もう出したんだろ」 「返してもらう。入口、あのままにしない」  話し足りない顔のまま、後ろの席へ座った。  三人へ有罪と告げられた。刑は同じではなかった。病院の記録、三人の供述、録画の前後がここまでに確かめられていた。首からいったん外れた後の声だけで、先の行為を死亡から切り離す判断ではなかった。救助へ戻ったことと、傷へ布を当てたことにも触れられた。  拓海は前に残った。  外で亮へ結果を送った。宏和が横から読んだ。 「俺、これ、そのまま残しとく」 「うん」 「夜、何時?」 「七時にしたい」  僕は亮の返事を待った。授業の後は帰って寝る、七時なら行ける、と来た。  宏和は図書館へ寄ると言った。展示室の写真がある本を借りる。裁判所の近くで別れて、僕は千佳さんの待つ駅へ行った。 第二十章 おかわり 千佳さんは改札の外にいた。 「宏和君は?」 「図書館です。亮は授業の後、寝るって。夜、三人で食べます」 「そう。これ、あなたの分。もう渡してたと思って、探したの」  小さい袋に訂正の記事が入っていた。十二年前の記事の見出しと日付、最後に編集部の名前があった。 「ちょっと座っていい? さっき、ずっと背中が椅子に当たらなくて」  改札脇のベンチへ座った。 「今の仕事は削ってもらった。載る前に見たら、まだ書いてあるんだもの。要らないって返したら、向こうも要らないって。じゃあ何で入れたのって、書いちゃった」 「いいと思います」 「少しきつかったかな。電話だったら言わなかったかも」  彼女は来た文を読んだ。山口さんが先に買っているという。 「今から行くところ。何も買わなくていいって。私、今日は買って帰るつもりだったのに」 「御飯ですか」 「うん」  僕は記事を最後まで読んだ。 「山口さんにも、これを?」 「椎茸から訊かれて。あの頃どうだったのって、一から話してたら休憩終わるから、読んでもらった。今のところ山口さんだけ。コピーはまだ家にあるよ」 「水原さんの名前は」 「付けないって来た。私も原稿は読んだ。あの人の名前でいいですかって訊かれたけど、どっちでも直すって書いてあるから、まずそっち出してって返した」 「名前はどっちでも?」 「そこまで返事してない。休憩あと二分だったの。編集部で決めたら教えてくださいって」  千佳さんは鞄の水を飲んだ。 「拓海にも見せた。自分で書いた方も。今の私が戻りたいって言ったと思ったのって、訊いた。黙ってた」 「今の仕事は、続けるんですよね」 「うん。来週の休みも代わってもらってる。遊びには行けるといいねって言ったよ、あの頃。友達の所へ行きたかったんだもの。私も会いたい人がいたし。でも、前の所へ住むなんて、私が言ったことにして」 「私は飯も食べるし、仕事も行くよって。今の所で。拓海は分かったって言った。そこは早いの」  僕は千佳さんがその後を話すのを待ったが、彼女は水をしまった。 「合格した時も鍋だったでしょう。何が入ってたの」 「肉は、いいのを買ったんです。宏和が払って、亮が買って。拓海は合格の紙を立ててました」 「帰って来て、何も食べられないって言ったの。家の御飯もよけてあったのに」 「俺も食べられなくて。番号、三回読んで」 「三回も?」 「拓海が見たかって言うから。汁が紙へ飛ぶって、肉、取れなくて。後ろへ菓子の缶を置いたら、ようやく食べ始めました」 「鍋の前に菓子も?」 「はい」 「みんな?」 「はい」  千佳さんが笑った。僕も笑った。 「俺、来月、大会へ出てきます。クイズの」 「そうなんだ。忙しいね」 「今度は勝ちたいんです」  携帯へもう一度文が来た。火を止めて待っているという。 「行かなきゃ。御飯、食べてきて」  彼女は鞄を持ち、改札へ行った。      *  店に着くと、宏和は借りた本を読んでいた。白い箱はなかった。 「中に入れない模型、作ってるのって、先生に言われた。そりゃ小さいんだから入れねえよな」 「何が駄目だったの」 「図の上でも。俺の入口だと、奥へ行くのに遠回り。分かってたけど、その方が見える所があるって言ってたんだよ」 「直すの?」 「どっちにしろ作る。今のやつは写真撮った」  亮が来ると、宏和は本を閉じた。 「寝た?」 「寝た。でも腹減って起きた。昼、パン一つしか食ってなかった」 「もう揚げてるの?」  僕が訊くと、亮は、昨日初めて、と言った。 「最初の、店長が食った。俺にも食わせてよって言ったんだけど」 「何て?」 「悪くない。次は二つ揚げろって。自分も食っていいから」  彼はメニューを見て唐揚げを頼んだ。宏和は別の皿を頼み、僕も同じにした。  カレー代を宏和へ送った。忘れてた、と二人で言った。 「腹立つ」  亮が言った。注文した物はまだ来ていなかった。 「あいつ、ちゃんと飯食ってんのかとか、今でも考えるんだよ。出るに決まってるのに」 「俺も」  宏和が答えた。 「腕はもう治った。なのにあいつの手は平気かって、俺から訊きそうで。言いたいことがあって下へ行ったんだぞ、俺」 「今日、いればよかったって思う?」  僕が訊いた。 「思う。でも出す物出して、寝て、腹減って。今日、ずっと裁判所にいたら、何か言えたかな。まだ腹立ってる」 「俺、会いたい」  僕は言った。 「会って何て言うの」 「決めてない。でも声、聞きたい。今日は、こっち向かなかった」 「俺、声は聞いた。はいって、何回も」  亮が言った。宏和も、うん、と答えた。  僕は拓海が、四人で一部屋なのかと二度訊いたことを思い出した。 「また四人で行けたらって、考えちゃう」 「どこへ」 「決めてない。あそこじゃない」 「俺、あそこ、また見たいけど」  宏和が言った。 「建物?」 「うん。でも俺一人でいい。今、誰かの風呂、待たせなくていいし」 「風呂は俺も入りたいよ」  亮が言った。誰も笑わなかった。  料理が来た。亮が唐揚げを一つ割った。 「ほら、でかいだろ」 「これで普通?」 「多かったら俺が食う」  僕は熱い方へ箸を入れた。  宏和が椅子へ上着を掛けた。 「今日、持って出てきた。着てないけど」 「返ってきたんだ」 「洗って送ってくれた。届いた日は袋から出せなかった」  車を取りに行った時にはもう家にあった。父に送ってもらって、帰りは二台に分かれるつもりだったのに、笠原さんが飯を食っていくかと訊いた。父も車から降りていたので、食堂で食べたという。 「部屋も見せてもらった。忘れ物ないかって」 「何かあった?」 「ないと思う。湯飲みが、洗って四つ、盆に載ってた」 「四つ」  亮が言った。 「父親は戸の所で待ってた。何も訊かないから、俺も言えなかった。鍵だけ持って帰るつもりだったんだよ」  宏和は袖を椅子の内側へ入れた。 「返してくれたって言えば、ありがとうになると思って。まだ言えてない」  僕は拓海が上着を掛けてもらった時の膝を思い出した。掌の痛みを言うたびに、亮が布を押す所を見ていた。 「楽しかったじゃん。あいつも」  宏和が言った。 「来年、肉買うって」 「携帯も、持ってきてくれた。俺が忘れたの」  亮が言った。 「あいつ、何だったの」  宏和は上着へ目を落とした。 「俺は、来年も肉、買うつもりだった」  亮が言った。 「俺も金、出すつもりで。あいつのじゃ、足りないから」  宏和は僕を見た。僕も、それ以上は出てこなかった。  亮が茶碗を空け、おかわりを頼んだ。 「少なめで」 「少なめ、あるんだな」  宏和が言うと、亮は、俺にもある、と答えた。  戻って来た茶碗を受け取り、最後の唐揚げを取った。 終章 四人分 店を出ると、雨は降っていなかった。  踏切の前で宏和が写真を出した。陶子さんから最初の方を大きいまま送ってもらったという。  白い壁の前で、拓海が亮の腕を引いていた。僕は笑いかけ、宏和だけ正面を向いていた。 「俺の顔、いいから消してない」  亮が言った。 「ほとんど俺の後ろだけど」 「見えるとこはいい」  宏和は揃った方も出した。拓海の両手は身体の横へ下がっていた。 「大きいの、送って」  僕が頼むと、二枚とも来た。  電車が通り過ぎた。画面の四人は、これから並び直すところだった。 「来週、もうちょい早く食わねえ?」  駅へ向かう途中、亮が言った。 「五時くらい。昼から七時まで、今日、長かった」 「店は?」 「土曜、四時まで。今度は昼の飯も、店で食う」 「じゃ、俺も五時。午前、材料買いに行くけど」  宏和が言った。 「また箱?」 「たぶん」 「席、広い所にしろよ」  僕は予定を開いた。五時は空いていた。 「俺、問題、持ってっていい?」 「難しくないやつなら」 「難しいのも出す」 「飯、先に食わせろよ」  亮が言った。宏和は、俺は聞くだけ、と答えた。 「賞品は、見てきた?」 「見てない。次、もらう」 「じゃ、肉だったら呼べよ」  僕は土曜の五時に飯と入れた。店はまだ決めなかった。  改札で財布を開くと、名刺の角に触れた。紙の袋も鞄にあった。  先に通った亮が階段の下で待っていた。宏和と僕もホームへ上がった。  ベンチに三人分空いていた。宏和は本を膝へ置き、亮は傘を足の間へ立てた。  次の電車まで六分と出ていた。