迎えのない朝 序章 空が白み、川向こうの家々に一つずつ明かりがついていた。  九月三日。宮下は写真館の前でエンジンを切った。隣の家の雨戸が開く。車を降りて会釈すると、女の人がこちらを見た。 「今日はゴミの日だから、そこは空けといてね」 「すみません。すぐ動かします」  宮下は車へ戻り、少し先の道路脇へ寄せた。工具を下ろす前に入口へ回った。昨日預かった鍵で錠を開けたが、ガラス戸が動かない。一度手前へ引いてから押すと、下の縁が床を擦った。  土足でいいと言われたのを思い出し、宮下は敷居をまたいだ。  明かりはついていなかった。待合室を抜けると、撮影室の窓から薄い朝の光が差していた。  撮影室の壁の時計を見ると、午前六時少し前だった。二脚ある椅子の低い方に男が座り、膝へ顔を伏せている。 「おはようございます。今日から入る内装屋です」  答えはなかった。  泊まったのか。そんな話は聞いていない。宮下は携帯で一枚撮り、会社の現場グループへ、〈人がいて作業に入れません〉と添えて送った。 「すみません。起きてもらえますか」  近づくと、ほどけた靴紐が床に伸びていた。返事を待ってから、宮下は男の肩に触れた。  男の身体が傾いた。支えようとしたが、作業着をつかみ損ね、男は椅子からずり落ちた。  横を向いた顔の唇が、黒い糸で縫われていた。両手の指にも糸が通っている。  宮下は一一九へ電話を掛けた。住所を訊かれ、会社の番地を答えた。違う、現場だ。名刺は車にある。店の名を言おうとして、壁から外された看板の跡しか浮かばなかった。川のそばの写真館だと繰り返すうちに、ようやく通りの名前が出てきた。  救急車が向かっている。そう聞いて電話を切ると、携帯が手を滑った。  拾わなければと思ってしゃがんだ。伸ばした指が震えて、止めようとしても止まらなかった。男の靴紐に触れそうになり、手を引いた。右の掌をズボンへ押しつけた。手袋をしていなかった。  隣でゴミ袋の擦れる音がした。宮下は戸口へ顔を向けた。  呼ぼうとして、喉が鳴った。誰か、と呼んだつもりだったが、声にならなかった。  少したって、男の靴先のそばで携帯が小さく揺れた。会社からの通知音が、薄暗い撮影室に鳴り響いた。 第一章 屋根のない駅 九月二日の昼すぎ、中古工具店の棚の前で、戸崎岳は電話を掛けた。  安田という名の男は、南浦署と聞いただけで、俺じゃない、と言った。 「まだ何も聞いてないですよ」 『野本に言われたんでしょ』  電話の向こうで機械が鳴り、声が消えた。戸崎は耳へ携帯を押しつけた。店主がカウンターからこちらを見ている。今朝から三軒、盗まれた工具の写真を見せて回った。その三軒目で、ようやく持主ではない男へ電話をしていた。 「昨日、どちらにいました?」 『だから俺じゃないんですよ。あんた聞いてます?』 「聞いてます。今、仕事ですか」 『そうだよ』 「何分なら話せます」 『終わってから』 「何時ですか」 『知らねえよ、まだ終わってないんだから。俺の腰袋は捨てたくせに、自分の道具なくなったら警察かよ』  通話は切れた。  店主が眼鏡を外した。 「忙しいって?」 「ええ。俺以外みんな」 「あんたも忙しいじゃない。朝からこんなの追っかけて」 「こんなのって、被害者に言わないでくださいよ」 「言わないよ。買いに来るんだから」  戸崎は棚へ戻した工具の向きを直した。持ち手のゴムが擦れ、消した会社名の上から別の名前が書いてある。盗まれたインパクトドライバーと同じ青色だったが、製造番号が違う。写真の方はまだ傷も少なかった。  南浦駅東口で、元学習塾を診療所と薬局に変える工事が進んでいる。資材置場から工具とバッテリーがなくなった。先週現場を辞めた安田が怪しい、と監督は言った。金のことで揉めた。鍵の番号を知っている。道具への執着がある。  筋の通る話だった。朝は。 「番号の合うのが来たら、夜でも電話ください」 「寝てたら?」 「起きてからで」 「名刺、三枚あるよ」  戸崎は出しかけた四枚目を戻した。  *  現場監督の野本は、資材置場の前で携帯を二台持っていた。片方の通話を終えて、もう片方で届いた写真を開く。 「違うんですよ、これじゃ。バッテリーが使えない。ああ、もう。店の人に代わって」  戸崎は壁に沿って待った。廊下を石膏ボードが通り、野本の背に当たりそうになった。野本は避けながら、もう一本の電話を耳へ当てた。 「安田、つかまりました?」  通話の切れた方を胸ポケットへ入れてから言った。 「話の途中です。今、工具買いに?」 「一本を三人で使ってるんです。借りたの返せって言われてるし。仕事にならない」 「鍵の番号、ここへ入った業者はみんな知ってます?」  野本の目が番号錠へ動いた。 「そりゃ、出し入れするから」 「昨日の最後は」 「俺。七時前です」 「そのあとに残った人は?」 「上に電気屋が二人。でも、あの人らは」 「その二人だけ飛ばす理由あります?」  野本は戸崎を見た。胸の電話が振動していたが、今度は取らなかった。 「今、まともに来てくれてる連中を、疑えっていうんですか」 「来なくなった人だけで済ませると、また朝から三軒回るんで」  戸崎が言うと、野本は少し顔をしかめた。 「俺が行かせたみたいな」 「行ったのは俺です。名簿、全員分ください」  野本が事務室へ向かう間に、戸崎は資材置場をもう一度見た。延長コード、脚立、箱に入った丸ノコ。盗まれた工具の充電器がコンセント脇に残っていた。バッテリーを使い回せる人間なのか、充電器までは要らなかったのか。朝も同じことを考えた。その時にはどちらを考えても安田へ行き着いていた。  野本が名簿を持って戻った。退職者の名も残っている。 「辞めた人の連絡先、今も使えます?」 「先週までは。俺は掛けてない」 「腰袋を置いていった人、いませんか」 「ありますよ。誰のだか分からないのが」 「捨てたんじゃなく?」 「捨てませんよ、道具は。ほら」  野本は棚の下から汚れた袋を出した。戸崎は写真を撮った。安田のものか、まだ分からない。持主を確かめる前に、見つかりましたとは言えなかった。  玄関の上には薬局が付けた小さなカメラがあった。工事中も録画しているという。夕方から今朝までの映像を保存するよう、管理者へ連絡を頼んだ。 「映ってたら、言いましたよねって言っていいですか」  野本が言った。 「映ってから言いましょう」 「言いますよ」 「はい」  野本はようやく電話を取った。戻ってくる車の誘導をしながら、もう戸崎の方は見なかった。  *  安田から折返しが来たのは、午後三時を回ってからだった。 『何分って、何分掛かるんです』 「昨日いた所が分かれば、そっちへ確認します」 『戸田。夜間工事です。十一時まで。会社の名前言いますよ』  戸崎は車のボンネットに手帳を置いた。安田は会社名を言い、元請けの担当者まで教えた。番号錠はまだ覚えている。同じメーカーの道具は使っているが、自分の分を持っている。 『あの番号、みんな知ってますからね』 「聞きました」 『最初に俺の所来たんだ』 「そこ、早かったです。すみません」  謝ると、向こうが静かになった。  戸崎は腰袋の写真を送ってよいか訊いた。届いた音がしてから、長い沈黙があった。 『それ、どこにあったんですか』 「棚の下です」 『ないって言ったんだ、あいつ』  安田の声がひっくり返った。機械を避けて外へ出たのか、背後に風の音がした。 『俺、名前書いてないのが悪いって。名前なんか、こんなの、見りゃ分かるじゃないですか。毎日つけてて』  戸崎はペンを止めた。 『捨てたんだろって俺が言ったんです。そしたら、勝手にしろって』 「中を確かめますか」 『買いましたよ。もう。ないと働けないから』 「それでも、残しておいてもらいます」 『……俺が頼んだって言わないでください』  それは約束できるともできないとも言わず、戸崎は、引取の話はまたこちらから、と答えた。電話を切ってから野本へ連絡した。ああ安田のか、と野本は言った。あんな所へ置くから。  そこから先を、戸崎は聞かなかった。  元請けの担当者が安田の昨夜の勤務を確かめた。作業日報も送れるという。戸崎は礼を言って、ようやく昼を買いに行った。  娘から写真が届いていた。  菓子箱と色紙で作った駅だった。屋根のないホームに、紙の人形が三つ立っている。  日曜、箱もってきて。  何の箱、と返すと、細長いの、と来た。ティッシュの箱を撮って送ると、違う。菓子棚の箱でも、小さい。  戸崎は商品を戻した。工具には番号があった。  *  夜、元妻から電話が来た時、戸崎は空のラップの箱を靴に並べていた。娘から追加で〈お父さんの足くらい〉と届いていたのだ。 「今、大丈夫?」 「箱、縦と横どっちなの」 「知らない。本人に聞いて」  向こうで娘を呼ぶ声がした。歯ブラシを持ってどこかへ行ったらしい。前もそうだった、と戸崎が言いかけると、もう磨いたでしょ、と母親が言った。終わったのに持って歩いているのか。 「見に来れば分かる」  電話へ出た娘はそう言った。 「日曜に持っていく箱を、今知りたいんだよ」 「二個あれば」 「大きいのと小さいの?」 「大きいの二個。切る」 「そっか」  戸崎は流しの下の段ボールを引き出した。日曜は八時半に迎えに行く。そう約束すると、娘はもう別の話をしていた。駅の前に池を作るかもしれない。池があれば車が入れない。それでは困るのだという。  電話が母親へ戻った。 「休み、大丈夫なの?」 「取ってある」 「取ったのは聞いたよ」  戸崎は黙った。 「駄目になったら、まず私に言ってね。あの子にまた今度って言って終わりにしないで」 「分かった」  通話を終え、箱を玄関へ置いた。縦横がまだ分からないので、二つとも畳まずに残した。靴を脱ぎ直すだけの場所が狭くなった。  娘へ駅の写真をもう一枚頼もうとして、やめた。  仕事の画面を開く。工具はまだ出ていなかった。明日はカメラと、電気工事の二人に会う。安田の腰袋も、誰が持っていくのか決まっていない。 第二章 名前を知っている 成瀬千紘が供述の頁を戻すたびに、机の端へ置いたおにぎりが目に入った。  九月二日、午後三時。朝買った鮭のおにぎりだった。昼に食べるつもりで包装の半分まで剥いたところへ、三浦が確認を頼みに来た。その紙を返すと別の電話が鳴り、海苔の端が乾いて反っていた。  向かいの広瀬は、成瀬が止まっている頁を見た。 「何かあるのか」 「変わってないかもしれません」 「供述?」 「はい」  越谷の飲食店の駐車場で、男が殴られた。最初は知らない相手と言い、翌日には店で何度か見た男だと話した。担当者は関係の欄を〈面識あり〉に直している。  成瀬は、被害者が相手の名字を知った経緯を指で追った。店員が呼んでいた。いつもハイボールを頼む。名前を呼んだことはない。 「知り合いかと聞いたら、違うと答えると思います」 「それで、何を戻す」  広瀬は結論を待っていた。成瀬はファイルを手元へ戻した。書き方が気になるだけで所轄を動かしたくはない。だが供述を変えたと扱われるのも違った。 「先に担当へ聞きます」  電話口の刑事は、まず謝った。 『申し訳ありません。面識あり、がいけませんでしたか』 「名字を知っていた理由は、この通りですね。店員が呼ぶのを聞いた」 『はい』 「事件の前、二人で話したことは?」 『たぶん、ないです』  成瀬は次の言葉を待った。相手の息が近く聞こえた。 『もう一度行って、そこ聞いてきます』 「今からですか」 『今日の四回目で。すぐ行けます』 「四回目?」  成瀬は顔を上げた。広瀬がこちらを見ていた。 「待ってください。まだ行かないで。これまでの記録にありませんか」 『記録はあります』 「まず見せていただけますか。こちらでも読みます」 『はい。すみません』  詫びる必要はないと伝えても、もう一度同じ返事が来た。成瀬が通話を切ると、広瀬は自分の画面へ目を戻した。 「三浦の同期。徹夜明けだ」 「聞いていませんでした」 「聞かれなきゃ言わんだろ。今から行けるって言った?」 「ええ」  今も向こうでは、記録を探している。受け取り次第こちらから連絡する、と言っておけばよかった。成瀬は付箋に刑事の名前を書いた。電話番号は資料にある。なぜ名前だけ別に書いたのか、自分でも分からなかった。  隣へ戻ってきた三浦に、その刑事の普段の呼び名を訊いた。 「大ちゃんです」 「それは、使えませんね」 「使ったら、今日寝られないと思います」  三浦が笑った。成瀬も少し笑い、冷めたおにぎりをようやく手に取った。  *  追加の記録には、被害者が最初に言った言葉が残っていた。〈いつもの人だと思ったので、車をどけてくれと言いました〉。成瀬は「いつもの人」の横へ印をつけた。二回目に名字を答えた時も、男は、いつも見るだけです、と続けていた。  成瀬は自分の確認事項を短く書き、担当へ返した。供述の変化とした部分については、広瀬にも改めて見てもらった。  電話が来た。 『行かなくて大丈夫ですか』 「この件は、今ある記録で確認できました。ありがとうございます」 『はい』  少し間があった。 『まだ、何かあります?』 「いえ。お疲れさまでした」  今度は相手が先に切った。  広瀬が席を立ち、冷房の吹出口を見上げた。紙コップの底に残ったコーヒーを飲んで、眉を寄せる。 「飯、食ったか」 「さっき」 「もう夕飯の時間だぞ」  成瀬は時計を見た。六時半を過ぎていた。空いた日の帰りは早い、と思われている。その空いた日を自分で塞いでいるのかもしれなかった。  黒い鞄にファイルを入れると、持ち手の根元に白い繊維が出た。指で寝かせてファスナーを閉める。 「まだ替えないんですか、それ」  三浦が言った。 「底から持てば、まだ」 「鞄って、底から抱える物でしたっけ」 「今日はそうです」 「明日もそうでしょ」  成瀬は返事をせず、鞄を机の縁へ寄せた。三浦が笑っている。  成瀬は底へ手を添え、鞄を持ち上げた。鍵は内ポケット、名刺入れはその隣。新しいものを買うと、何日かは今の場所へ手を入れてしまうだろう。それも嫌だった。  *  電車で妹からの写真を開いた。実家の物置だった。段ボールが三箱、手前へ引き出されている。赤い缶の蓋が少しだけ見えた。  日曜やる。お姉ちゃんの箱、開けていい?  成瀬は当番を確認してから、行ける、と返した。いいよ、と答えれば済むことだったのに、缶の中身を思い出せなかった。  帰りのスーパーで焼き魚と豆腐を買った。鞄へ入れようとして、持ち手を見てやめた。片手ずつに提げて帰り、魚を皿へ移したところで妹から電話が来た。 「まだ開けてないよ」 「開けていい。赤い缶、何が入ってるんだっけ」 「知らないから聞いてるんだけど」 「うん、そうか」  妹の後ろで水が流れていた。夫が皿を洗っているという。成瀬が魚をレンジへ入れる音を聞いて、妹は、今御飯だった、と言った。 「まだ。これから」 「お母さん、何も捨てないって。釣り竿も」  父が亡くなってから、成瀬は物置へ入っていない。葬儀の時には、香典袋の名前を確かめていた。妹が庭へ出て何かを運んでいたのは覚えている。何を運んだのかは見ていなかった。 「竿、私が引き取ろうか」 「釣りするの?」 「しないけど」 「じゃあ、うちの物置が二つになるだけじゃない」  成瀬は食器棚と壁の隙間を見た。細い竿なら立つのではないか、とまだ考えていた。 「来るだけでいいよ。持って帰るもの、探さなくていいから」 「分かった。軍手ある?」 「ある。お昼も買っとく。四人前」 「四人?」  妹の夫も来るらしい。お金は出すと言うと、妹は、お母さんに言って、と返した。 「私が買ったって言うと、足りないんじゃないって別のもの作るから。お姉ちゃんが頼んだってことにする」 「頼んでない」 「今頼んで」  成瀬は笑った。  向こうの水音が止まり、アイスあったっけ、と男の声がした。妹が冷凍庫を開けて、あるよ、と答えた。その声で成瀬にも訊いた。 「お姉ちゃん、食べる?」 「電話で?」  妹が笑い出した。成瀬は魚の皿をレンジから一度出し、また入れた。電話の向こうに、いつもの食器を伏せる音がした。  通話を切ると、温めのボタンを押した。  妹へ〈アイスは食べたい〉と送る。すぐ既読がついたが、返事は来なかった。もう食べ始めているのだろう。成瀬も箸を出した。 第三章 撮影室 五時五十七分の電話で起こされ、戸崎は玄関の箱を蹴った。  大きな方を壁へ寄せ、小さい方をまたぐ。携帯の向こうで当直が写真館の場所を言っていた。川沿いの、もう営業していない店だ。 『宮下って内装屋が見つけた。免許証は宇津木健、五十二。手に糸が通ってるそうだ』 「糸って、縛られてる?」 『そこまでは聞いてない。地域が先着してる』  戸崎は顔を洗って車へ乗った。工具窃盗の資料を助手席から後ろへ移し、エンジンを掛ける。朝の道は、いつもの出勤よりまだ空いていた。  写真館へ近づくと、道が一台のワゴンで塞がれていた。運転手が窓から、どこへ停めればいいのだと警察官に訊いている。もう一人の警察官が敷地内の車を寄せ、救急隊員が空の担架を運び出してきた。  戸崎は近くへ車を置いて歩いた。規制線の外で隣人がゴミ袋を抱え、今日はここへ出してよいのかと待っていた。警察官の一人が収集場所までついていった。  現場に入った人間の名簿へ名前を書く間、奥からシャッター音が聞こえた。  撮影室の床で、男が横を向いていた。  低い椅子から落ちたような姿勢だった。向かいに丸椅子があり、照明の脚の間には、使い終わった背景紙が巻かれている。男の作業着の膝は白く擦れ、ほどけた左の靴紐が床へ伸びていた。  腹の前の両手に、黒い糸が渡っている。  戸崎は近づきかけ、床に引かれた線を見て止まった。縛るというには指の間が空きすぎていた。皮膚から糸が出て、別の指へ潜っている。掌は少し上へ向き、左右の小指の間だけ短くまっすぐつながっていた。  顔を見た途端、戸崎は自分の唇を舌で触った。  上下の唇にも、黒い糸が通っていた。 「新見さん」  しゃがんでいた新見郁子が顔を上げた。ライトを持ったまま、戸崎の足元を見る。 「そこなら大丈夫。何?」 「生きてる時に、これを?」 「まだ言えない。解剖で確認する」 「首も見てもらえますか」 「見てます。痕はある。もう一歩後ろへ下がって」  戸崎が動くと、照明の影が消えた。新見は記録係を呼び、ライトを寝かせた。 「右手から。小指は別に寄って撮って」 「そこ、やっぱり違うんですか」 「うん。ほかの指とは別になってる」  戸崎は手帳へ書こうとした。合掌、と浮かんだ言葉を、そのまま書く気にはなれなかった。両手は合っていない。男の向かいの椅子は空いていた。  部屋の形を描いた。  *  宮下は自分のワゴン車で、コーヒーを両手に包んでいた。六十二歳。今日から始まる内装工事のため、五時半すぎに来たという。  戸崎が身分を示すと、宮下は先に言った。 「仕事、いつになったら」 「今日は入れません」 「そうですよね」  承知していたように頷き、紙コップを足元へ置こうとした。膝から遠すぎたので、戸崎が受け取ってステップへ載せた。 「声掛けて、肩触って、倒れちゃったんです。それは言いました。俺から倒したみたいになってません?」 「動かした所を教えてもらえれば、その前と分けて調べます。何度もですみません。入った時から、もう一度いいですか」  宮下は戸口の向こうを見た。  正面の鍵は閉まっていた。昨日、管理者から預かった鍵で開けた。室内に明かりはついていなかった。窓からの光で、奥に座っている男が見えた。寝ているか、勝手に入った人かと思った。会社へ作業に入れないと連絡して、近づいた。 「丸い椅子は動かしました?」 「触ってないです」 「男の方の肩は、どちらでした?」  宮下は右手を上げ、自分の肩へ触れかけた。 「こっち。右です。俺が、こう」 「右肩ですね」 「ちゃんと寝かせてやればよかったのかな。首、変なふうに」 「一一九番は、そのあと?」  宮下が頷いた。住所を間違えたことまで言い、途中で息をついた。  鍵を渡したのは北原仁。建物の管理をしている北原工業の人で、昨日の夕方、写真館の外で受け取った。宮下が来る前に仁が中へ入ったかどうかは知らない。  名刺を探すため、宮下が身体を捻った。そこで顔色が変わり、戸崎は鞄を後ろの席から取った。 「休みましょう。中を見るのも、今はやめておいて」 「目、閉じる方が駄目なんです」  宮下は窓の外の一点を見た。  そこへ黒い車が入り、女が降りてきた。肩の黒い鞄がドアに挟まり、一度開け直す。紺のパンツスーツで、戸崎より幾つか若い。迷わず手帳を示して近づいた。 「県警本部の成瀬です」 「南浦署、戸崎です。こちらは宮下さん。今は少し休んでもらってます」  成瀬は宮下へ会釈した。 「鍵について、一点だけ伺えますか」  宮下が戸崎を見た。答えなければならないのかと訊く顔だった。 「それは俺から伝えます」 「ご本人の言葉で確認したいんです」 「休んだあとに。今聞いたばかりです」  成瀬の手が、鞄の口で止まった。 「……分かりました」  二人は車を離れた。戸崎は鍵の受け渡しを伝え、仁の名刺を見せた。成瀬が聞きたかったのも、昨日仁が建物へ入ったかどうかだった。 「会社へ連絡した時刻も、こちらで確認します。休憩が終わったら声を掛けていただけますか」 「宮下さんが話せそうなら」 「はい」  成瀬は名刺の住所を書き、現場の方へ向いた。戸崎は名刺をしまい、車内を振り返った。  宮下はまだ同じ所へ顔を向けていた。  *  成瀬は撮影室へ入ると、遺体を見る前に裏へ続く扉を確かめた。先着の署員が、裏口は無施錠だった、と説明する。 「外から壊した跡は?」 「今のところありません」  手元まで来ると、成瀬は戸崎と同じ所で足を止めた。 「小指の糸だけ、ほかと違いません?」  新見はカメラの画面を確かめながら頷いた。 「寄りも撮った」 「お願いします」  成瀬はそれ以上近づかなかった。戸崎が横へずれると、新見から空の小袋を渡された。 「予備の電池。外の箱にあるから。単三を四本」 「四本ですね」 「袋は戻してね。中にあんパン入れなくていいから」  成瀬が戸崎を見た。 「前に借りたの返したんです。お礼も一緒に」 「賞味期限の日だった」  新見はもう手元へ戻っていた。戸崎が外へ出ると、鑑識の車の横では、二人の警察官が次の撮影機材を下ろしていた。一人が電池の箱を出してくれた。  建物脇の軽トラックの運転席に、丸めた軍手が見えた。ドアに小さく〈ひと箱便〉と書いてある。宇津木名義で、荷台は空だった。  成瀬が遅れて外へ出てきた。携帯の相手へ、身元が取れたことと、これから家族への連絡を進めることを答えている。 「広瀬さんから、当面戸崎さんと組むように言われました」  電話を切ってから、成瀬が頭を下げた。  戸崎も会釈をした。 「北原に先に行きます?」 「奥さんは、まだ御存じないんですよね」 「まだです」 「そちらを先に。知らない方から伝わる前に伺いたいです」  戸崎は軽トラックへ目を戻した。この小さい車が、昨日は家の前を出ていった。待っていた人は、工事現場で夜を明かしたのだと思っているのかもしれない。 「行きましょう」  成瀬が鞄を持ち直した。持ち手の根元に、白い繊維が出ている。 「その鞄、切れません?」 「下を持っています」 「そうだけど」  成瀬は鞄を抱えたまま、車まで歩いた。戸崎は電池をまだ渡していなかったことに気づき、写真館へ引き返した。 第四章 今日の配達 宇津木恵は玄関で、相手の方は、と訊いた。  戸崎が答える前に、怪我をされたんですか、と続いた。夫が仕事中に事故を起こしたと思ったらしい。居間のテレビが天気予報を流し、台所から湯の沸く音がした。 「ご主人のことで、お伝えしなければならないことがあります」  成瀬が静かに言った。恵はもう一度、二人の手帳を見た。  戸崎が死亡を伝えると、彼女は後ずさりして上がり框へ踵をぶつけた。危ない、と手を出すより先に、テレビを消してきますと言って奥へ行った。  音が消えた。湯の沸く音だけになった。  恵は戻ってきて、スリッパを出した。片方の踵がちぎれかけていたので、棚の中へ手を伸ばしかける。 「それで大丈夫です」  恵は右のスリッパを置いた。もう片方は手に持ったままだった。戸崎は片足を入れて待った。  食卓には朝食の皿があった。四脚の椅子の一つを、熊のぬいぐるみが占めている。恵はそれを抱き上げ、戸崎の目に気づいて、娘の、と言った。 「置いていったんです。捨てたら怒るの」  どこへ置くか迷うように抱えたままでいたので、成瀬が別の椅子を指した。 「こちらに座ってもよろしいですか」 「ええ、そちらで」  恵は熊を元の椅子へ戻した。  お茶は結構ですと戸崎が言っても、彼女は湯呑を出した。 「何かしてないと、ちょっと」  急須を持って戻り、注ごうとしてから、空であることに気づいた。あら、と声がした。台所へ戻る。二人は黙って待った。  身元の確認に必要な手順を説明すると、恵は病院で会えるのかを二度訊いた。殺人の疑いがあると聞いて、今度は、あの人が、と言った。 「ご主人が被害に遭われた可能性があります」 「そうですよね。今、何かしたのかと思った。警察に連れていかれるんだって」  戸崎は手帳を開くのを遅らせた。恵はそれを見て、昨日は六時すぎに帰ってきたんです、と話し始めた。  汗を流して着替え、六時半か四十分ごろ、もう一度出た。仕事を頼んだ客の名を残してほしいと訊くと、いつもの管理屋さん、と言った。 「名前は言わなかった。私も、もう聞かなかった」 「御飯は」 「帰ってからでいいって。だから、そのまま」  恵は台所へ目を向けた。  零時を過ぎ、一度だけ電話した。出なかった。運転中かもしれないと思った。何度も掛けると危ないと怒る人だった。 「寝ちゃったんです。私」  成瀬は湯呑に触れずにいた。 「毎日、待ってたわけじゃないんです。帰ってくるから。朝になったらいるから」  恵は茶を一口飲んだ。少し顔をしかめ、冷めてますね、と二人へ謝った。  近くに住む姉を呼ぶ電話は、自分で掛けた。途中で声が出なくなり、成瀬が代わってよいか訊くと頷いた。娘へ知らせるのは、姉が着いてからにしたいという。  待つ間、恵は蓋つきの箱を持ってきた。 「仕事、これなんです。まだ今日のもある。私、どこへ掛ければいいのか」  上に料金表があった。〈小さな荷物、三千円から〉。下に〈相談して下さい〉と書き加えてある。 「箱一つでもいいって、そんなの、車出したら赤字でしょう。でも、そういう名前にしちゃったから」  恵が少し笑った。 「相談だけで終わる電話もあるの。私が代わりに取ると、健さんいますかって。お客がみんな友達みたいで」 「よくお話を聞く方だったんですね」 「私のは聞かない。途中でテレビ見ます」  笑った顔のまま、恵は唇を閉じた。  箱を渡す時、持っていかないで、と言った。未収の代金がある。今日と明日の約束もある。戸崎は必要な分を写す許可をもらい、恵と一緒に上から確かめた。  古川さん、毛布。椅子、四階。川瀬、代走分。人の名字と物の名前ばかりだった。 「こちらの川瀬さんには、事情を確認しても?」 「車が動かなくなった時、代わりに運んだんです。向こうも配送の人。女の人です」  恵の姉が着くと、玄関で名前を呼ぶ声がした。恵はその声に返事をしなかった。姉が居間へ入り、肩へ手を置くと、ようやくこちらを向いた。  戸崎たちは、箱を食卓へ戻して家を出た。  *  午後、捜査本部で新見の報告を聞いた。  頸部圧迫による窒息が疑われる。手と口の処置は死後の可能性が高く、詳しくは解剖と組織の所見を待つ。黒い糸は市販の化学繊維だった。  新見が手の写真を出すと、広瀬は室内を見渡した。 「これを外へ出すな。場所と身元以外、今は出さない。手口を聞かれても担当へ回せ」  小指の一本が、写真でははっきり見えた。戸崎は配られた用紙へ目を戻した。  宇津木の私用携帯は軽トラックにあった。仕事用にしていた古い端末が見つかっていない。料金表の番号はそちらのものだという。別班が契約と通信の照会を進めていた。  北原仁への本格的な聴取は翌朝、戸崎たちが入ることになった。ほかの仕事関係も二人で続ける。恵への窓口を変えず、同じことを繰り返し聞かないようにと広瀬が言った。  成瀬が電話を掛けた先で、女の声が大きくなった。 『五時半までなら、ここ。待って、そこ置かないで! あ、ごめんなさい。警察の人にじゃないです』  川瀬真知だった。  *  配送会社の脇へ車を入れると、真知は道路からこちらへ手を振った。反射材のついた上着を腰へ巻き、片手で空の台車を押している。 「そこは戻ってくる車が入るから。こっち、一台分空けたんで」  名乗る暇もなく場所を指示され、戸崎は車を入れ直した。成瀬が降りると、真知は台車を壁へ寄せた。 「健さんの荷物、何か残ってました?」 「まず、お伝えすることがあります」  戸崎の声で、真知の顔が変わった。  宇津木の死を聞くと、彼女は台車の取っ手から手を離した。後ろの車がクラクションを鳴らす。真知は振り向き、車の進路から二人をどけた。 「事故?」 「事件として調べています」 「今朝、ですよね」 「今朝、発見されました」 「今日、まだ会社にいたんじゃないの、昨日……」  真知は言いかけて、いや違う、と首を振った。今週初めに伝票のことで電話をしたのだという。昨日ではなかった。  裏口から男が出てきて、真知へ伝票を差し出した。 「寺田さん、それ私の便じゃない」 「戻ってきてるんだよ」 「誰の? 下に書いてあるでしょう。ほら」  真知は指で示した。男は警察手帳に気づき、何か訊きかけてやめた。  彼が離れると、真知は胸ポケットから自分の伝票を出した。 「すみません。こういう所だから」 「こちらの都合で来たんです。代走分の確認だけ、できますか」  恵から写した紙を見せると、真知はすぐ日付を見つけた。車が止まった時、宇津木が荷物を受けた。その分は精算済みで、振込の控えは事務所にある。 「ちょっと、あの人、奥さんに言ってなかったの?」  真知は携帯を出し、宇津木の名を呼び出した。画面に触れる前に手が止まった。 「……奥さんの番号、教えてもらえますか」 「今はお姉さんが付き添っています。こちらから伝えましょうか」 「じゃ、それだけ。払ってますからって。余計なこと考えなくていいって」  真知は画面を消した。  戸崎は、事件の前夜の予定について何か聞いていなかったか尋ねた。仕事の約束はなかったし、最近会ってもいないという。荷物のことならあとで帳面を見る。そう答える間も、彼女は出入りする車を目で追っていた。 「明日以降、また伺うことがあります」 「朝は無理です。四時から出ます。昼も道だから。夜なら家にいます」  言ってから、真知は少し声を落とした。 「あの人が何か、悪いことしたんじゃないんですよね」  戸崎は、被害に遭われた方です、と答えた。朝にも同じことを言ったばかりだった。  真知が名刺を受け取ると、寺田がまた裏口から顔を出した。真知は今行く、と声を上げたが、すぐには戻らなかった。 「奥さんに、伝えてください。お金のことだけでも」 「はい」  車が出る時には、真知は荷台へ片足を掛けていた。片方の扉が閉まり切らず、誰かへ、そっち持って、と言っている。バックミラーから見えなくなるまで、その扉は開いたままだった。  *  署へ戻る頃には、夕食を売る店が少なくなっていた。戸崎は唐揚げ弁当を二つ買い、成瀬は焼き魚を選んだ。 「二個、食べるんですか」 「今と、あとで」 「もう夜ですけど」 「夜には段階があるんです」  成瀬は二つの弁当を見比べた。 「二回とも、唐揚げでいいんですか」 「違うと迷うでしょう。あとでこっち食べたかったって」 「そこは迷わないんですね」  戸崎は一つを机の奥へ置き、もう一つの蓋を開けた。  恵の箱から写した紙を机へ広げた。字の癖を覚える頃に、去年十一月の控えが出てきた。  箱二つ、ミシン一台。〈きたはら〉。  五千円を消して三千円にしてある。届先は小さなアパートだった。同じ姓でも会社の荷物には〈北原工業〉と書いてある。 「ここだけ、違いますね」  成瀬が言った。戸崎は電話番号を確認へ回した。  その時、恵から電話が来た。 『川瀬さんの分、姉が通帳見てくれました。入ってました。ありがとうございます』 「よかったです」 『よくはないんですけどね』  自分で言ってから、恵は、すみません、と続けた。 『それと、ミシンの女の子。お金を返したいって電話を、一度もらったんです』  戸崎は手元の紙を成瀬へ寄せた。  宇津木が留守の時、若い女が掛けてきた。働いてお金ができたから、足りなかった分を返したい。恵は折返しがあったとは伝えたが、金の話まで言ったか覚えていない。 『急いでたんです。電話、あとにしてって言われたのかもしれない。そんなの、いちいち覚えてませんよね』 「女の方のお名前、分かりますか」 『北原さん。下は……しの、だったかな。そこは確かじゃないです』  電話を切ると、成瀬が調べかけの資料を出した。  北原仁の娘は詩乃。前年十一月、父親から行方不明者届が出ていた。 「同じ人かどうか、運んだ先から確認します」  成瀬の箸がまだ魚の端に置かれていた。戸崎は余分の唐揚げを二人の間へ置いた。  料金の横に箱の寸法まで書いてあった。こんなことは細かく残すのに、家では客の名前を言わない。恵が今、何度でも思い出そうとしている夕方を、戸崎は紙から探した。 第五章 冬を越した箱 北原仁は、玄関で戸崎の靴を見た。 「暑いでしょう。その靴で一日歩くんですか」 「今日は、まだ二階分です」 「三階です。ここ」 「一階からなので」  仁が笑い、廊下の段ボールを持ち上げた。側面に〈詩乃 冬物〉と書いてある。九月四日の朝、外の熱気に背を押されて入ると、冷房の空気が足元を流れた。  部屋には冷茶が二つ出ていた。仁は箱を隣室へ入れ、椅子を勧めた。壁の写真では、制服姿の娘が卒業証書らしい筒を持ち、父親と並んでいる。娘の目だけが半分閉じていた。 「ひと箱便には、長いこと頼んでいました」  仁は料金表を机へ出した。戸崎が手元の写しと同じだと答えると、紙を片づけずに中央へ置いた。  北原工業は縫製を請け負っていた。注文が減って工場を畳み、今は残った建物の管理と小口の取引を続けている。写真館も、その一つだった。 「一人で細かい仕事を受けてくれるでしょう。うちみたいに中途半端に物が残ってる所は、助かったんです」  成瀬が予定表を開いた。 「二日の十九時、写真館で約束をされていましたね」 「棚を見てもらう予定でした。ただ、延期しました。私の都合がつかなくなって」 「延期は、何時ごろに?」  仁は携帯を手に取った。五時二十六分の発信。一分四十八秒。 「来週に、と言いました」  成瀬が時刻を写す間、仁は画面をこちらへ向けて持っていた。 「宇津木さんは、そのあと一度家へ戻り、管理屋さんの仕事に行くと言って出ています」  戸崎が伝えると、仁の腕が下がった。 「じゃあ、下見だけでもしておこうと思ったんでしょうね」 「延期したのにですか」 「そういう人でしたよ。頼んだ以上のことをしてくれる。寸法だけ測っといた、とか」  仁は茶を勧めた。戸崎は口をつけた。成瀬の方は減っていなかった。 「内装業者へ鍵を渡したあと、北原さんも戻っていますか」 「戻りました。裏の戸締まりが気になって」 「何時ごろです?」 「七時前くらいかな。入口を見て、すぐ」 「宇津木さんとは?」 「会ってません」  仁は携帯を操作し直した。 「私、そのあと駅前で弁当を買ってます。七時四十八分。電子決済なので、そちらも調べれば分かります」 「よく覚えていらっしゃいますね」 「昨日、警察から電話があって。何時に何をしたか訊かれるでしょう。レシートを探して、捨ててあったから、こっちを」  画面が机へ置かれた。時刻だけが白く光っていた。  写真館の鍵には青い印がついていた。束の中には工場の鍵もある。仁は一本ずつ机へ並べ、どの建物のものか説明した。捜査への協力を求められると、何でも、と答えた。 「工場は今、何にお使いですか」  成瀬が印のない鍵を見て訊いた。 「布と機械が残ってるだけです。ほとんど行きません。電気も最低限で」  仁は鍵をまとめた。  成瀬が、詩乃さんには、と言った時に、携帯の画面が暗くなった。  仁はそれを見て、指で一度たたいた。 「娘は去年から、行方が分からなくなっています」 「宇津木さんが、昨年十一月に詩乃さんの荷物を運んだ可能性があります」  仁は眼鏡を外した。 「娘は、何を言ってるんですか」 「まだお会いしていません。仕事の控えを確認しています」 「……そうですか」  眼鏡を拭くのかと思ったが、仁はそのまま握っていた。  引出しから一枚の紙を取り出した。娘を捜すための紙だった。届出当時、二十五歳。壁の制服の写真より大人びた顔と、当時着ていた服、仁の連絡先が並んでいる。 「先月も配りました。見たという人がいたので。駅の向こうで」 「どなたですか」 「知らない人です。会社の問い合わせに、写真を添えて」  小暮の店とは別の作業場所へ、詩乃に似た女が出入りしている。そういう連絡だったと仁は言った。 「小暮さんのお名前まで?」 「ええ。元から知ってる男ですけど。娘に縫い物をさせていたので」 「その連絡は残っていますか」 「あります。会社へ来たものは消すなと、瀬尾先生が」  会社のことを相談している弁護士、瀬尾直人。仁は名前を教えたあと、送った人を調べるのかと訊いた。 「元の連絡を確認したいんです」 「誰がくれたかは、私も知りたいですよ。でも、娘がいるかもしれないと思ったら、先に探すでしょう。出どころを調べる前に」  戸崎は頷いた。その順序は分かった。  娘が家を出てからは、ここで一人で暮らしていると仁は話した。娘の部屋はそのままで、今日どけた冬物も、洗ってあるのだという。外で服の仕事をしたいと言い、家を出た。北原工業にもできる仕事はあるが、家でまで父親と顔を合わせたくなかったのかもしれない。仁は先に自分への批判を口にして、眼鏡を掛けた。 「分かりますよ。私も若い頃、家に帰ってまで仕事の話は嫌でしたから」 「最後に話したのは、いつです?」  戸崎が訊いた。 「家を出た夜です。帰ってくるよう言いました。あの子は、自分から連絡すると。そのままです」 「電話は?」 「もうつながらない。変えたんでしょうね」  冷房が止まり、部屋の中が急に静かになった。 「毎日掛けたいわけじゃないんです。大人なんだから放っておけと言われますけど、大人なら、電話くらい出るでしょう。無理なら、あとからでも」  戸崎は自分の携帯を思い出した。何の用、と娘から返ってきた時、声を聞きたいだけだと書けなかった。あの子の暮らしの中にはもう、こちらの知らない食事や風呂の時間がある。 「その電話で、詩乃さんはほかに何と言っていました?」  成瀬が訊いた。 「連絡するって。今、話しましたよ」 「帰るようにと言われて、どう答えたかを」 「そんなに正確には。去年のことですから」  仁は戸崎の方へ向いた。戸崎は運搬記録の写しを出した。 「ミシンも運んだようです。持っていったのは御存じでした?」  成瀬のペンが止まった。戸崎は気づいたが、紙を戻さなかった。 「初めて聞きました」  仁は写しへ目を落とした。 「それは私が買ったものです」 「詩乃さんが使うために?」 「もちろん。でも、家の物でしょう。黙って持っていくのは。泥棒だと言うつもりはありませんよ、娘に」 「宇津木さんに、そのお話をされたことは」 「去年十二月に一度。何も知らないと言われました」 「最近は?」  仁の口が閉じた。 「娘を見たという話があったから、知っているなら教えてほしいとは、思いました」 「二日の電話でも?」 「電話では仕事の話だけです」  成瀬が書き終わるのを、仁は待った。それから小暮の住所と番号を渡した。娘に仕事を回し、父親には居場所を知らせない男。仁の手帳には何度もなぞった名前が残っていた。 「小暮さんを、疑っているんですか」 「宇津木さんの関係を調べています」  戸崎が答えた。 「娘が見つかったら、連絡はしてくれますよね」  はい、と言いかけた時、成瀬が口を開いた。 「御本人の意思と安全を確認します。成人されているので、居場所をそのままお伝えすることはできません」 「無理に連れ帰れと言ってるんじゃないんです」  仁は薄く笑った。 「元気かどうか、それだけです。そこまで警戒されるようなことですか」  戸崎は茶碗を机へ戻した。飲み切っていた。  帰り際、仁が冬物の箱を廊下へ出した。寒くなれば戻ると思っていた、と言った。 「冬が一つ、終わってしまった」 「帰れると、いいですね」  戸崎が言うと、仁は初めて目を細めた。 「お子さんは?」 「娘がいます。まだ小さいですけど」 「今のうちですよ、口を利いてくれるの」  戸崎は笑った。階段へ出たあとで、その笑い方を成瀬に見られたかと気になった。  一階分下りても、彼女は何も言わなかった。 「さっき、娘さんの電話を詳しく聞いても、あれ以上は出なかったと思いますよ」  戸崎の方から言った。 「どうでしょう」 「覚えてないと」 「戸崎さんがミシンの話に移ったので、聞くのをやめました」  成瀬は足を止めずに言った。戸崎は手すりへ置いた手を離した。  あの時、仁がこちらを向かなければ何を訊いただろう。今さら思い出しても、選ばなかった方の質問は出てこなかった。  車へ戻ると、別班から映像の報告が来ていた。  弁当店の十九時四十八分は確認できた。その前、十九時三十一分、写真館側から駅方向へ向かう白いバンも残っていた。ナンバーの末尾二桁は仁の車と一致する。 「七時前に、入口だけ」  成瀬は手帳の文を読み上げた。戸崎は画像を次へ送った。  二十時二分。裏手から大通りへ出る男がいた。顔は暗く、帽子のつばしか分からない。作業着の背と腕に、二本の反射材が光っていた。 「工事の人ですかね」 「服だけでは。照会してもらいます」  成瀬は画像番号を書いた。  戸崎はエンジンを掛けた。仁が時刻を向けたまま置いていた携帯と、どけた冬物の箱が、同じ部屋にあったことを考えていた。 第六章 店を開ける人 小暮智久は、警察手帳を見ると、客の前ではやめてくれと言った。  土曜日の午前十一時。古着店の試着室から、裾を折ったズボンを抱える客が出てきた。小暮はその客へ返事をしながら、戸崎たちを外へ押し戻しかけた。 「何時なら」 「今って言うんでしょ。分かってます」  小暮は客に、少しだけ、と告げた。客は時計を見て、今日は帰ると言った。 「丈はそれで決まり?」 「家でまた履いてみる」 「じゃ、まだ切らないよ」  客が出ると、小暮は入口の札を準備中へ返した。三十五歳。後ろで結んだ髪が、首筋に張りついていた。 「北原さんの用で来たんじゃないんですよね」 「宇津木健さんの事件について、伺っています」  成瀬が答えた。 「それと、北原詩乃さんのお仕事について」 「ほら、結局」  小暮は奥へ歩いた。椅子には服が積んである。戸崎が立ったままでいいと言うと、それなら助かる、と服をどけなかった。  仕事机には裁ちかけの布と、ほどいた裏地が広がっていた。棚の糸は色ごとに並び、黒だけ同じ銘柄が三本ある。下に丸めた上着には反射材がついていた。 「仕入れに着ていくんです。車が出入りする所だから」  戸崎の視線を見て、小暮が言った。 「この黒、よく使うんですね」 「丈夫だから。何に使ったかまで全部覚えてませんよ」 「詩乃さんへ渡す材料も、ここから?」 「仕事の分は。本人が持ってるのもあります」  小暮は黒い糸を持ち上げず、隣の箱を閉めた。戸崎は棚全体を見た。糸のある店へ来るのが当然なのに、あの朝見た黒い線が先に浮かんだ。  詩乃とは前年春から取引があった。古着の繕い、小物の縫製。店員ではなく、品物を納める人だった。 「御本人と、交際をされていた?」  戸崎が訊くと、小暮が顔を上げた。 「してない」 「仕事以外にも会っていたか、確認です」 「飯食わせたか、泊めたか。その順で来る? 父親も同じでしたよ」 「お父さんが何度も?」 「本人も知り合いも。冬じゅう。あの人、俺の店を待合所だと思ってるんです。誰か来たら一緒に顔見て」  小暮は入口を振り返った。ガラスの向こうで、男が準備中の札を覗いて通り過ぎた。 「娘が連絡を寄こさないって、俺に言うんですよ。俺が電話線切ったんですか」  戸崎は昨日の仁の部屋を思い出した。冷たい茶、洗ったコート。そこへ小暮の声を持っていくと、収まりが悪かった。 「詩乃さんの住所を知っていたら、お父さんに渡すと思っていますか」  成瀬が訊いた。 「違うんですか」 「御本人の安全と意思を先に確認します。そのままお渡しはしません」  小暮はすぐには返事をしなかった。机の服を少し脇へ寄せ、引出しを開けた。 「それ、先に言ってくださいよ」  納品書が出てきた。去年と今年で、単価が変わっていた。 「上げたんですね」 「上げろって言われたから」  一月の紙には、〈次回からこの金額でお願いします〉と書いてある。 「本人から?」 「この字、俺じゃないでしょう」 「その前に、誰かが間に入ったりは」  小暮は紙を押さえた。戸崎が引こうとしても動かない。 「誰ならいいんです?」 「そういう意味では」 「父親は、俺が変な知恵つけたって。値段上げてって言われたの俺なんですけど。本人が書いてきたって、今、見せてるでしょう」  戸崎は紙から手を離した。 「写させてもらえますか」  小暮が指をどけた。成瀬は、始めた月と単価の変わった月を別々に書いた。  作業机の隅に、青い鳥を縫った巾着があった。戸崎が訊くと、小暮は手に取って裏返した。内側は縫い代まで細かく処理され、店の屋号の札がついている。 「本人の見本です。裏までほどいて見せるんですよ。そこまで誰も見ないって言ったら、私が見るからって」  小暮は少し笑った。 「頼む方は、ありがたいです。遅いけど」 「今も同じように、仕事を?」  笑いが消えた。 「八月から、休んでます」  十六日の夜、〈家のことで、しばらく休みます〉と来た。二十日ごろに〈体調は大丈夫〉と一度返事があり、それから連絡はない。最後に直接会ったのは春の終わり。以降、品物は送られることが多かったという。  成瀬が休業の文を読んだ。 「どちらの家かは、訊きましたか」 「訊いたけど、そこは返ってこなかった」 「返信を拝見しても?」  小暮は携帯を出した。画面を見せながら、自分が送ったそのあとの文まで指で送った。〈急ぎの分だけどうする〉。〈無理なら別の人に振る〉。〈体だけ返事して〉。 「最後のは、仕事の返事じゃなくて、安否ですよ」 「はい」  成瀬はそのまま記録した。  宇津木の名は詩乃から聞いたが、直接会った記憶はない、と小暮は言った。九月二日の夜は隣県の業者向け倉庫へ仕入れに行った。十八時すぎまでそこにおり、二十時四十分すぎに自宅近くのコンビニで買物をした。 「間、空いてるでしょう。高速なら、戻れますよ」  小暮はレシートを二枚探した。 「そっちが言う前に俺が言うと、怪しいんですか」 「いつ戻ったか、確認します」  成瀬が答えた。小暮は二枚とも渡した。  春までの差出人住所が残る封筒も出てきた。今どこに住み、どこで働いているのかは知らないという。戸崎は、それまで頼めていた仕事が止まった後の机を見た。ほどいた服が少しずつ残っている。 「見つかったら、仕事の話は自分でします」  小暮が言った。 「お父さんにも、警察にも代わりに言ってもらわなくていいです」 「分かりました」  戸崎が返すと、小暮は入口の札を取りに行った。外へ出た二人の後ろで、すぐ営業中になった。さっき通り過ぎた客は、戻らなかった。  *  午後、仕入れ先から小暮が出たのは十八時十一分だったと分かった。コンビニの決済は二十時四十三分。その間の行動を探す班が、使用車両と反射材の上着について追加の確認を進めた。  仁のバンの経路もつながり始めていた。写真館から駅へ、弁当店から工場へ。戸崎が一覧を読みかけた時、広瀬が室内へ入ってきた。 「現場の写真が出た」  端末が机へ置かれた。  男は椅子に座っていた。宮下が肩へ触れる前の姿だった。画像の上と右が切られ、両手の間に黒いものが見える。投稿には〈黒い糸で縫われた遺体〉と添えてあった。 「最初の投稿はもう消えてる。転載をたどれ。宮下の会社へも確認」  戸崎は宮下の番号を開いた。仕事に入れないと会社へ連絡した、と言っていた。画像を送ったとは聞いていない。  成瀬が流出写真を拡大した。 「小指の一本は、これでは見えません」 「そこは引き続き伏せる」  広瀬が言った。誰かが受話器を取り、隣の電話も鳴った。  宮下へ掛ける直前、恵から着信が来た。 『玄関に、人が二人。会社の名前で調べたって』 「開けなくて大丈夫です。今、どちらにいますか」 『台所。水を出したら、いるって分かりますよね』  戸崎は紙へ住所を書き、そばの警察官に渡した。恵の声は小さかった。 『私、顔が出てるのかだけ、聞きたくて』  答えを言う前に、戸崎は写真を閉じた。  *  内装会社の事務所で、宮下と杉本という社員が机を挟んで座っていた。携帯が二台、前へ出ている。 「俺が撮りました」  宮下が言った。 「寝てると思って。会社に、作業できないって。それを救急のあと消して、グループのも取り消しました」 「最初に、写真のことは話していませんでしたね」  成瀬が訊くと、宮下は膝を見た。 「怒られると思った。……いや、違う。死んでる人を撮ったって、言いたくなかった」  杉本が携帯を表へ返した。 「保存したのは俺です。応援会社へ送った。こっちだって人と車止めなきゃならないから。写真なら早いと思って」  その先の転送相手を、一人ずつ確認した。一人が翌日、地域の投稿アカウントへ載せていた。元の写真では小さかった人物を切り出し、説明を付けたのだという。 「取り消したら、ほかからも消えると思ってたんです」  杉本は元の画像を出した。壁の時計まで写っていた。五時五十一分。グループで受信したのは五時三十七分。 「撮ってから送るまで、どのくらい空きました?」 「すぐです。撮って、そのまま」  宮下が答えた。  成瀬は時計を指で隠さず、画像全体を見直した。 「前日の室内写真もありますか。工事前の」  杉本が履歴を遡った。別の社員が施工確認で撮った写真がある。送信は十六時十二分、時計は十六時二十六分だった。 「こっちも十四分」  戸崎が言うと、杉本は顔を上げた。 「そんなのまで見るんですか」 「人のいた時刻を調べています。こちらも、撮った方へ確認させてください」  成瀬は画像と記録の提供を頼んだ。杉本は頷き、連絡先を探した。  宮下が、奥さんに謝りに、と口を開いた。戸崎は、今はここで話してほしい、と言った。 「本人に、俺から」 「今、ご自宅で、蛇口もひねれずにいるんです」  言ってから戸崎は口を閉じた。二人とも携帯を見ていた。あの家のことをここで話す必要はなかった。  成瀬は取り消した時刻の確認へ戻った。宮下は答え、途中で一度、分からないと言い直した。  *  仁の部屋の玄関には、冬物の箱がなかった。 「約束しましたっけ」  チェーンを外しながら仁が言った。戸崎は昨日の冷茶を思い出し、今日は靴の話はないのだなと思った。  テーブルへ映像を置く。宇津木は十九時三分に着いた。仁の車は十九時七分に入り、三十一分に出た。 「二十四分、入口を見ていたんですか」  成瀬が訊いた。 「裏も回ったんです。時計見ながら歩いてませんから」 「宇津木さんと会いましたね」  戸崎が言うと、仁は茶碗へ伸ばした手を戻した。 「あの人が、勝手に来たんですよ」  その言葉を、成瀬が書いた。 「延期したのに。車があるから入ったんです。来たなら先に電話すれば済むでしょう」 「昨日は、会っていないと」 「私が呼んだことになったら、責任を取れと言われる。今もそういう聞き方でしょう」  戸崎は映像をどけなかった。 「詩乃さんのことを、聞きましたか」 「何を知ってるんです?」 「それを教えてください」  仁は眼鏡を押し上げた。 「荷物を運んだだけで、その後は知らないって。去年もそう言われて、今回も。そんなわけないでしょう。親にも黙って連れ出しておいて」 「口論に?」 「声が大きくなることは、ありますよ。答えないんだから」  仁は立った。用事がある、と言って戸口へ向かうが、二人が動かないので戻った。 「怒ったら、殺したことになるんですか」 「当日の服を見せてもらえますか」  成瀬の問いに、仁は自分の袖を見た。 「工場です。仕事着はそこで替えるので」 「今から伺えますか」 「片付いてないんです。日を決めてください」 「明日なら?」 「だから、こっちが連絡する。協力しないとは言ってません」  仁は茶を飲んだ。昨日からどこが変わったのかと思い、戸崎は自分がもう一度も頷いていないことに気づいた。  *  署へ戻ると、広瀬は工場へ入る仁のバンの画像を見ていた。弁当店のあとだった。 「会ったことと口論は認めました。服は工場。中を見るのは日を決める、と」  戸崎が報告すると、広瀬は空いている椅子を指した。 「当日の衣類。首を圧迫したもの。それと、消えた仕事用端末。工場の捜索を請求する。供述の変わった所、映像と並べて出せ」  戸崎は机へ向かった。成瀬があとから来て、弁当店の記録を横へ置いた。 「二つ、買っています」 「弁当?」 「飲物も二本。箸も二膳です」  戸崎は写真の仁を見た。一人で暮らしていると言った。工場へはほとんど行かないと言った。  携帯で元妻への文を打った。明日は行けない。送る前に、先に電話するべきか迷い、結局送った。  返事は短かった。  娘には自分で話して。  戸崎は携帯を伏せた。机の向こうで成瀬が同じ映像をもう一度開いた。仁の車が工場へ入る。二人はその先が暗くなるまで見た。 第七章 鍵を渡すまで 日曜日の朝、娘は電話に出るなり、お仕事、と言った。  戸崎は玄関の二つの箱を見た。六時二十分だった。七時まで待つつもりでいたのに、目が覚めたら掛けていた。 「うん。今日は行けない。ごめん」 「うん」  紙を切る音がした。 「屋根、作ってる?」 「まだ」 「箱はあるんだよ。二個。今度――」  そこで止めた。 「取っておくから」 「分かった」 「ごめんね」 「さっき聞いた」  電話の向こうで母親が何か訊き、娘が、そうだって、と答えた。それから、じゃあね、と言った。  玄関を出る時には、箱へ当たらなかった。  *  署の机には、弁当二個の記録が広がっていた。成瀬の足元に紙袋がある。黒い鞄は椅子の背にあった。 「そっちは?」 「軍手です。妹の所へ持っていく予定で」 「物置、今日でしたか」 「手前だけ進めておく、と返事が来ました」  成瀬は袋を机の下へ押した。電力会社からの回答は七時半の予定だという。  戸崎は弁当店の名前を見た。 「店、行きませんか」 「記録は取れています」 「買い方、覚えてるかもしれない」  成瀬が時計を見た。 「近いですよね」 「七時二十分には戻れますか」 「戻ります」  戸崎が鍵を取ると、彼女も立った。  二十四時間営業の店には、二日の夜のレジ担当がいた。警察手帳を見せると、また、と口が動いた。 「すみません。買ったことより、普段どう買う人かを伺いたくて」  戸崎が仁の写真を示した。女は時計を見た。奥でフライヤーの音がしていた。 「よく来ますよ」 「二つ買うことは?」 「この頃は。前は一個でした」  成瀬のペンが動いた。 「いつからでしょう」 「八月の半ばくらいかな。箸いらないって言う人だったんです。家の使うからって。なのに二膳になったんで」  女は奥へ返事をし、少し待ってと手を上げた。 「片方、梅干しないやつにしてくれって。ない日もあるんですよ。全部に入ってる日。抜きますかって訊くと、それはどうも嫌みたいで」 「誰と食べるとか、話しました?」 「そこは。温めますかって訊いた時、工場へ戻るからいいって。一回だけ」 「工場という言葉でしたか」 「仕事場だったかも。そこ、そんな正確には」  成瀬は言い直した方も書いた。戸崎は礼を言った。女はすぐ調理場へ戻り、店の奥から、揚がりすぎた、と声がした。  外へ出ると、成瀬の携帯に回答が来ていた。工場の電気は八月十五日を境に夜間の使用が増え、水道も同じ頃から動いている。ほとんど使っていないという仁の説明とは合わなかった。  成瀬はその場で広瀬へ報告した。  戸崎は川へ向かう道に足を向け、止まった。車は反対側だった。成瀬が電話を切るまで待って、鍵を出した。 「梅干しの話も?」 「しました」  彼女は携帯をしまった。  *  工場を捜索する令状が出た。別班の調べでは、詩乃の最後の出勤日は八月十四日。翌日は休みで、その次の夜に休業の連絡が入った。直接会った人は、その後見つかっていない。借りていた部屋には歯科の予約票が残り、大きな荷造りの跡もなかった。  広瀬は担当を分け、最後に戸崎と成瀬を見た。 「娘さんがいたら、父親をそばへ置くな。本人と話せるようにする。令状は写真館の事件だ。そっちも止めるな」  車の列が署を出た。  九時を過ぎた工場の門に、仁の白いバンがあった。古い看板の下で、戸崎は呼び鈴を押した。返事はない。もう一度押すと、横の扉で金属の音がした。 「こちらから連絡すると、言ったでしょう」  仁が細く扉を開けた。捜索差押許可状が示されると、紙に目を落とし、昨日とは違う数の人間を見た。 「殺人?」 「宇津木健さんの事件について、捜索します」  仁は紙をもう一度読んだ。手が扉の縁を離れた。 「靴、汚れてませんか」  誰もすぐには答えなかった。 「商品があるんです。そこだけ、気をつけて」  仁は中へ入り、ロッカーを開けた。仕事着が吊ってある。洗濯した分と、まだの分を説明する。一人が記録を始めると、仁は隣の棚まで開けた。 「伝票もあります。宇津木さんの、ここ。探してるの、それじゃないんですか」  戸崎の胸元へ帳面を押し出してきた。戸崎は受け取る前に、裁断台へ置くよう頼んだ。  奥で成瀬が足を止めた。流しに箸が二膳、乾かしてあった。ごみ袋には同じ店の弁当容器が重なっている。 「泊まっている方がいますか」 「私が、たまには。疲れたら寝ますよ」 「ほかには」  仁は成瀬の前へ回った。 「こっち見てください。資料があるんだから」  その背に内階段があった。  別の捜査員が二階を示すと、仁は、休憩室です、と即座に言った。 「仕事の物はないです。ここだけでも、まだこれだけ」 「上も確認します」 「何が要るんです。私が出します」  声が急に大きくなった。成瀬が階段へ近づくと、仁が横へ出た。そばの警察官が肩を止め、仁の手から帳面が落ちた。  上で、重いものを引く音がした。  戸崎は顔を上げた。動いていた全員の手が、少しずつ止まった。 「どなたか、いるんですね」 「寝てるんです。具合が悪くて」 「どなたが」 「娘です」  仁が戸崎を見た。 「やっと寝たんです。大勢で押しかけて、また悪くなったら、どうするんですか」  成瀬が無線で連絡した。先頭の捜査員が階段を上がり、仁はその後ろへ行こうとした。戸崎が間へ入った。 「こちらにいてください」 「私が呼ぶんです。あの子は、私じゃないと」 「成瀬さん、お願いします」  成瀬は一度だけ戸崎を見て上がった。仁の身体が、戸崎へ近づいた。 「お父さんでしょう」  冬物の箱の前で聞いた声だった。 「帰れるといいって、言ってくれたじゃないですか。娘がようやくここへ来たんですよ。知らない人に囲まれたら、また私のせいにする。私が先に話せば、落ち着くんです」  戸崎は階段を見た。一度下りてもらうだけなら、と頭に浮かんだ。 「外から鍵が掛かっています」  成瀬の声がした。 「鍵をお願いします」  仁は目を閉じた。 「夜だけです。勝手に出ていくから」 「今、開けます。どこにありますか」 「だから、少し落ち着けば分かることを」  戸崎は仁の右のポケットを見た。指が布を押さえている。 「出してください」  小さな鍵が出た。仁は握ったまま階段へ向いた。 「私が開ける」 「こちらへ」 「一緒に行けばいいでしょう」 「渡してください」  上で、詩乃さん、と呼ぶ声がした。返事は聞こえない。仁はその声に眉を寄せた。 「開けたら帰ると言います。あなた、止めてくれるんですか」 「止めません」  仁が黙った。鍵を握った手が下がる。戸崎が掌を出すと、仁はまた胸へ引いた。 「そのあと、どこへ行くかも分からないんですよ。この先、夜中に電話してきて、お金もないって言ったら。あの男たちは、その時、誰が来るんです」  階段で足音がした。錠を切る準備をする、と別の警察官が告げた。仁は顔を上げた。 「壊す必要ないでしょう。ここにあるんだから」 「じゃあ、ください」  戸崎は手を出したまま待った。  長い間、仁は鍵を見ていた。指が開き、掌に金属が落ちた。戸崎は受け取るとすぐに、階段の捜査員へ渡した。  仁の顔を、もう見なかった。  *  成瀬は部屋の内側から聞こえる音を待った。  古い扉には新しいねじで金具が取り付けられ、南京錠が下がっていた。踊り場の反対側に流しと便所がある。部屋の中から水を使うには、この扉を通らなければならなかった。 「詩乃さん。警察です。扉から離れていてください。開けます」  鍵が回った。成瀬は扉を少しずつ押した。  カーテンの下に光があり、布団と低い机が見えた。空の容器とペットボトルが部屋の隅へ寄せてある。机の向こうに女が座っていた。  写真より髪が短い。顔の左に薄い痣があった。 「北原詩乃さんですか」  成瀬は敷居の手前にしゃがんだ。女は成瀬の肩越しを見た。 「県警の成瀬です。お父さんは一階にいます。警察官がついています」  戸崎が踊り場へ来たので、救急の手配を頼んだ。彼が下へ向き直る間も、詩乃は戸の外を見ていた。 「ここから、出たいですか」  返事がない。  成瀬は手帳を鞄へ戻した。詩乃の目が錠に戻る。扉を壁まで押し開き、床に物がないことを確かめた。 「開けておきます」  女の唇が動いた。 「名前」 「はい」 「あの人に、呼ばせないで」  成瀬は頷き、戸崎へ父親を声の届かない所へ移すよう頼んだ。振り向いた時、詩乃は机へ手をついていた。立ちかけた膝が崩れ、壁で身体を支えた。 「腕へ触ってもいいですか」  僅かに頷いたので支えた。その瞬間、一階から声がした。 「詩乃、ちゃんと――」 「はい」  顔を上げずに、返事だけが出た。  成瀬の腕に掛かっていた重さが消えた。詩乃は自分で立ち直ろうとし、足を部屋へ戻した。 「呼ばないでください」  戸崎の声が響いた。ほかの声が重なり、下で扉が開いた。  成瀬は詩乃を引かなかった。触れている腕へ少し力を込め、それから緩めた。 「下に、いますか」 「別の出口へ行ってもらっています」 「戻ってきませんか」  成瀬は階段を見た。戸崎が下を確かめて頷く。 「ここへ上がってはきません。私も一緒にいます」  詩乃の手が扉の縁をつかんだ。開いた戸を押さえるようにして、片足を廊下へ出す。もう片方が敷居に引っ掛かった。成瀬が足元を見ようと屈むと、腕を握る指が強くなった。 「動きません。ここにいます」  成瀬は姿勢を戻した。  椅子を廊下へ出してもらった。詩乃が座ると、袖をつかまれたまま隣へしゃがんだ。階段を下りるのは、救急隊が来てからでよかった。  詩乃は開いた扉を見た。布団の横の小さな引出しを指した。 「携帯、最初はそこに」 「今は?」 「下」 「お父さんが持っていますか」  頷いた。それ以上は訊かず、成瀬は来た隊員へ様子を伝えた。自分の袖が少しずつ詩乃の指から離れた。最後の指が離れるまで、立たなかった。  *  救急車が門を出る時、配達先を間違えたトラックが敷地へ入ろうとした。  戸崎は止めて、向かいの看板を示した。運転手は伝票を裏返し、会社の名を読み直した。 「こっちじゃないのか。すみません」  車が下がり、救急車が角を曲がった。詩乃は乗る前に二階の窓を見た。戸崎のいる入口には目を向けなかった。  成瀬が隣へ来た。鞄から手帳が斜めに飛び出している。 「乗れました」 「見てました」  戸崎は言ってから、少し違う返事をすればよかったと思った。成瀬は鞄の中を直した。  捜索は続いた。詩乃の携帯が一階の事務机から見つかり、二階の生活用品や八月中旬以降のレシートも確認された。写真館の事件を調べる班とは別に、監禁の事情を調べる捜査員が加わった。  仁は作業場で立会いを続けていた。戸崎が近づくと、本人も約束した、と話し始めた。 「落ち着くまでここで話そうって。自分で言ったんです」 「出ていこうとしたから、鍵を掛けたんですよね」 「それが、落ち着いてないってことでしょう」  戸崎は階段へ目を向けなかった。 「二日に、宇津木さんにもそう言いましたか」  仁の口が止まった。 「詩乃さんが、ここにいると知っていたんですか」 「工場へ戻るって、言ったんです。娘が待ってるから」 「それで?」 「何で工場なんだ、会わせろって。関係ないでしょう。荷物を運んだだけだって、自分で言ったんですよ。だったら、そのあとのことも、関係ない」  仁は帳面をめくりかけ、やめた。 「他人が迎えに来る必要が、どこにあるんですか」  戸崎には、宇津木がこの階段へ足を掛ける姿が浮かんだ。仁がその前へ出る。鍵は渡さない。 「そこで手は出していませんか」 「出してません」 「宇津木さんを残して帰った?」 「娘が食べてないから。弁当を買わないと」  仁は指を上げた。 「梅干し、入ってないやつにしたんです。あの子、嫌いだから。帰るのが遅くなったら冷めるし、ちゃんと」 「店で聞きました」 「食べたんですよ。その晩も」  戸崎は返事をしなかった。 「食べたんです」  もう一度、仁は言った。  *  仁は署で話を続けることに応じた。詩乃の話と外鍵の状況をもとに監禁容疑の逮捕状が請求され、その日のうちに身柄を拘束された。  戸崎と成瀬は工場に残り、物の置かれていた位置と押収記録を照合した。二階の扉は開いたままだった。刑事たちが一階を歩き、隣の建物では日曜出勤の機械が動き始めた。  戸崎は明日の予定へ宇津木家と書いた。恵に話せることが、ようやくできた気がした。電話するのは、仁の取調べがもう少し進んでからだ。  帰りの車で娘から電話が来た。 「箱、切ったよ」 「誰が?」 「お母さん」 「俺も、二個持ってくはずだったんだけど」 「知ってる」  娘は、まだ屋根をつけていない、と言った。戸崎は助手席の窓へ顔を向けた。 「そっか」  切れたあと、成瀬は前を見たまま、物置が半分終わったそうです、と言った。 「手前だけじゃなかった?」 「妹は、そこまでが手前だと言っています」  戸崎は少し笑った。川を渡る間に、何度も冷房の風を首元へ当てた。あの父親へ、帰れるといいと言った。今日は成瀬から、そのことを一度も言われなかった。  *  私は、これでようやく落ち着くと思っていた。  あとは報告をまとめて、今日を終えるだけだった。  その先のことは、考えていなかった。 第八章 部屋へ戻る服 月曜日、病院へ向かう車の中で、仁が供述を変えたと連絡が来た。  戸崎はハンズフリーにせず、路肩へ停めて電話を取った。弁護士と接見したあと、宇津木の胸を押したと言い始めたのだという。 『よろけて椅子を倒した。自分で立ち上がった。そこからまた言い合いになった、と』 「手は出してないと言ってました」 『殺したことにされると思って隠したそうだ。戻ったら続きをやる』  広瀬からの電話を切ると、成瀬が手帳を閉じた。 「立ったというのも、本人の話なんですね」 「何回聞けば、全部出てくるんでしょうね」 「こちらが確かめます」  戸崎は車を出した。昨日の工場の鍵を握っていた手が、宇津木を押した。別のことを考えようとしても同じ手になる。  病室では、詩乃が膝へ薄い毛布を掛けていた。  医師の許可した短い面談で、支援担当者が同席した。成瀬が椅子へ座る前に、詩乃は服を取りに行けるのかと訊いた。 「借りている部屋に、あるんです」 「必要な物を書いて、担当の方と相談しましょうか」  成瀬が答えた。戸崎は仁の家にあった箱を思い出した。 「父の所のは、いらないです」  詩乃が先に言った。 「ええ。御自分の部屋の物ですね」  成瀬は紙を一枚もらい、枕元へ置いた。詩乃はペンを取ろうとして、やめた。 「あとでも?」 「あとで大丈夫です」  紙だけを二つに折り、詩乃は膝の上へ置いた。  八月十四日、父親から連絡があった。小暮の店とは別に使っている作業場所を知っている、と。翌十五日、その倉庫の前で会った。部屋までは知られたくなかったので、そこならと思ったという。 「お母さんの布を、捨てる前に見てほしいって」  詩乃の指が紙の折り目を押した。 「それで工場へ?」 「布を見たら、帰るって言いました」 「何の布ですか」  戸崎が訊くと、詩乃は少し顔を上げた。 「母が、使わなかったの。服にするって買って、そのまま。型紙も」  父親の車で、住んでいる所や会っている人を訊かれた。答えずにいると、仕事の話になった。小暮のことだった。工場で携帯を出すように言われ、渡した。話せば返してもらえると思った。  最初の日には、扉に鍵はなかった。外へ出ようとすると止められ、次には金具がついていた。 「前からあった金具ですか」 「なかったです。昔、みんな御飯食べてた部屋なので」  成瀬がペンを止めた。 「残って話をすることには、同意していなかった、でいいですね」  詩乃の顔が上がった。 「父が、そう言ったんですか」 「約束した、と話しています」 「してません。布を見たら帰るって。言いました、さっきも」 「はい」 「じゃあ、なんで」  支援担当者が身体を少し寄せた。詩乃はそちらを見ず、紙を膝から持ち上げた。折り目が潰れていた。 「父に聞いてください。私が何て言ったか。どうせ聞かないから、私に何回も」  成瀬はペンを置いた。  戸崎は、布を見たら帰ると伝えたんですね、と訊いた。詩乃は頷いた。 「それを記録します」  成瀬は同じ文を書き直さず、書いてある行の下へ線を引いた。紙を取ろうとしていた詩乃の手が膝へ戻った。  十六日夜の休業連絡は、父親が隣にいて書かせたものだった。家のことなら嘘ではないと、文まで決めた。二十日ごろの体調を伝える返信には触っていない。その日は携帯を持たせてもらえなかったという。 「助けてほしいと、誰かへ送れたことは」 「書いたことなら。一回だけ」  詩乃はそこで止まった。父親の目の前で、書いたものを消した。それからは触る時も横に立たれた。  戸崎は手帳に予定した問いを、一つ飛ばした。  九月二日の夜のことを訊くと、詩乃は夕飯より前に父が出た、と答えた。部屋に時計はなかった。戻った時は暗く、弁当を二つ持っていた。 「お父さんは、何か話しましたか」 「怒ってました。あいつも同じだって」 「誰のことかは?」 「訊くと、私に怒るから」  戸崎はペンを止めた。 「でも、あとで。宇津木なんかに頼っても、最後は何もしないって」  名前を聞き違えていないか確かめると、詩乃は、宇津木さんです、と言った。去年家を出た時、荷物を運んでもらった人だった。以前にも父親がその名を出したことがある。  それ以上を急いで訊きたくなり、戸崎は一度、手帳から目を上げた。詩乃の指が毛布を引いていた。 「休みますか」  成瀬が言った。  詩乃は首を振った。 「まだ、私が聞いてないので」  二人が待つと、彼女は戸崎を見た。 「父に、どこまで言いましたか」 「安全が確認できたことだけです。居場所は伝えていません」 「病院も?」 「はい」  長く黙ってから、迎えはいらないです、と言った。 「分かりました」 「……今は」  成瀬が手帳を閉じた。支援担当者が水を勧めると、詩乃はコップの底を見た。 「冷たいの、ありますか」 「持ってきますね」 「あ、これでも」  詩乃の声が小さくなった。支援担当者は、自分も冷たいものを飲むので、と言って出ていった。戻ってきた水を、詩乃は両手で受け取った。  *  宇津木の死については、面談を終えてから支援担当者が伝えることになっていた。  戸崎は廊下でその確認をし、病室の扉が閉まるのを見た。成瀬は持物の紙を預けるため、もう一度担当者を呼んだ。  署へ戻ると、面会室の前に紺のスーツの男がいた。膝に薄い鞄を載せ、携帯へ、自分が戻ってから聞く、と言っている。 「事務員に決めさせないでください。予約は私抜きで始めて。……はい」  電話を切り、瀬尾直人ですと名刺を出した。北原の弁護人だという。 「供述の訂正は、先生から?」  戸崎が訊いた。 「接見の内容には、お答えしません」  瀬尾の声は硬くなかった。 「ただ、本人が訂正したのは承知しています。監禁の件とは分けて、調べていただきたい」 「監禁については、引き続き捜査します」  成瀬が言うと、瀬尾は頷いた。 「それはもちろん。行為が軽いとは思っていません。身柄を拘束する必要については、こちらからも意見を出します」  戸崎は名刺をしまった。話はそこで終わった。  瀬尾の携帯がまた鳴った。食べました、と答えながら歩いていく。長椅子の上には、開けていないサンドイッチが残っていた。戸崎が呼び止めると、瀬尾は電話を肩へ挟んで取りに戻った。  *  仁は、押した時の話をするより先に、娘は何を言ったのかと訊いた。 「ここでは宇津木さんの話を聞きます」  戸崎が答えた。仁の目が成瀬へ動いた。 「胸を押したのは、何を言われた時ですか」 「娘を出せって、しつこく」 「押したあとにも?」 「言いましたよ。だから、帰ったんです。弁当も買わないといけなかった」  戸崎は机へ手を置いた。 「工場へ来るとは思いませんでしたか」 「来るなら来ればいい。そこで話します」 「昨日、俺たちには鍵を渡さなかったでしょう」 「渡したじゃないですか」 「最後には」  仁は唇を結んだ。戸崎は昨日の時間を取り戻すように、言葉を足した。 「宇津木さんにも、あそこで娘が弱ってる、親がいないと分からないと言うつもりだった?」 「分からないでしょう。あなたも、この間まで」 「今は俺の話をしてません」  声が大きくなった。仁は椅子へ背をつけた。 「来られたら、困ったんじゃありませんか」 「来なかったですよ」 「来られなかったんです」  仁が戸崎を見た。 「それ、俺に言うんですか」  紙コップの脇の手が動かなくなった。戸崎が待っても、仁は続きを話さなかった。  成瀬が略図を机へ出した。 「写真館を出る時のことを伺います。宇津木さんは、どこにいましたか」 「撮影室」 「立っていましたか」 「立ってました」 「こちら側ですか。それとも」  成瀬はペンを渡した。仁が自分で位置を示すと、図を戻し、その時の言葉を訊いた。戸崎は両手を机から離した。昨日鍵をもらった掌が、汗ばんでいた。  *  新見の部屋で写真を見る時には、夕方になっていた。  左右の小指の間の糸は、そこで結ばれ、切られていた。ほかの指へ渡る糸とは別だった。 「一本だけ、わざわざ別に?」  成瀬が訊いた。 「全部を固定するだけなら、これはなくてもいい」  新見が結び目を順に示した。 「手も、唇も、糸を通したのは死後と考えていい。布を縫うのとは違うから、縫製の腕をここへ結びつけないでね」 「工場の糸は」 「比べるよ。小暮の店のも、持ってきて」  成瀬が流出した画像を隣へ出した。拡大しても指の輪郭が崩れる。短い一本は皮膚の影に溶け、結び目まで見えなかった。 「この寄りの写真を見せた相手は、必ず残してください」  成瀬が言った。配付先の確認が済み、写真が伏せられた。  戸崎は自分の小指を曲げた。昔、娘に何を約束させられたのかを思い出しかけたが、やめた。  廊下ではコピー機が紙を噛み、記録係の警察官が腰を落としていた。戸崎もしゃがみ、見えている切れ端を引いた。破れたので、もう一度奥へ手を入れた。  *  仁への匿名連絡は、会社の問い合わせフォームに残っていた。  八月十三日の午前零時を少し回った時刻。名前欄は空白、返信先のアドレスはその後使われていない。本文に、小暮の店とは別の場所に娘らしい人が出入りしている、とあり、写真が一枚添えられていた。  窓と庇。ガラスの向こうの作業台。そこへ向いた女の後ろ姿。  戸崎は昨日救出した詩乃と、写真の女を見比べた。背筋を少し曲げ、手元を見ている。あの部屋で袖を握っていた姿とは違う。 「撮った人は?」 「まだ。フォームを通った画像なので、元の撮影情報はほとんど残っていません。送信元の照会は続けています」  担当者が答えた。 「これを送ったら、父親が行くだろうとは思わなかったのか」  戸崎は言い、成瀬を見た。 「行ってほしくて送ったのかもしれません」  彼女は画面を自分へ向けず、窓の外側を指した。 「撮影した人には、この女の人の仕事が見えています」  戸崎は枠の外へ目を移した。写真を撮れる場所がある。仁より前から、この倉庫を知っていた人がいる。  名前のない欄は、そのままだった。  *  火曜日になっても、工場から出た衣類の鑑定は揃わなかった。  仁は監禁の件で検察へ送られ、瀬尾は身柄拘束を続ける必要がないとの意見を出していた。工場は捜索され、詩乃の安全は確保されているという。戸崎はそれを聞き、写真館の事件はどうなるのかと訊いた。 「別に必要な材料を出す。弁護人が釈放を求めるのは当然だ」  広瀬が答えた。 「出て、詩乃さんへ行ったら」 「それも考えている。気になったことを、気になったまま持ってくるな。今日確認できることをやれ」  成瀬は支援担当の連絡先を開いた。詩乃への窓口と、誰がどこまで父親へ話すのかをもう一度確かめるという。戸崎は恵へ掛け直した。  十月の引越し予約が一枚、箱に残っていた。 『この人には、私から言っていいんですよね。行けないって』 「はい。伺った時に、一緒に確認しましょう」 『何て言えばいいんでしょう。急な事情でって。別の人が電話してきて、そんなの信じます?』  戸崎は壁の宇津木の写真を見た。 『私がやることなのは、分かってるんです。すみません』 「一緒にいる時に掛けましょうか」  返事が来るまで、戸崎は予定表へペンを置いて待った。 『じゃあ、置いておきます。紙』 「こちらからお話しできることも、もう少し増えると思います」  恵は、お願いします、とだけ言った。  電話を切ると、今夜は川瀬真知の家へ伺う予定が入っていた。詩乃と宇津木の運搬先をたどった班から、前年十一月の一晩について真知へ確認が取れていた。戸崎は先日の代走伝票を仕舞い、別の紙を鞄へ入れた。 第九章 使わない鍋 真知は玄関を開けると、先に台所の方へ戻っていった。 「魚、今火止めるとこなんで。上がってください」  戸崎は成瀬と目を合わせ、靴を脱いだ。九月八日、火曜日の午後七時を回っていた。部屋の中まで暑い。先日の配送場で会った時と同じように、真知は二つの用事を同時にしていた。 「そこ、物どけて座って。悟、立ってないでコップ」  食卓の男が、はいはいと返事をした。 「弟です。うるさかったら帰らせます」 「来るなって言えばよかっただろ」 「晩御飯いるって言うから」 「そのあとに警察来るって言ったじゃん」  男が戸崎たちへ会釈し、川瀬悟です、と名乗った。作業着の袖を肘までまくっている。真知より大きいが、目元がよく似ていた。  戸崎がハンカチで首を拭くと、真知は濡らしたタオルを持ってきた。 「そっち、もう汗でしょ。これ使って」 「すみません」  冷たかった。戸崎は首へ当て、そのまま手に持った。  鍋から鯖が皿へ移された。トマトは大きく切ったままで、茶碗は悟のものだけ大きい。冷蔵庫の上には新品らしい鍋の箱があった。 「そっちじゃないんだ、使うの」  悟が姉へ言った。戸崎が鍋の箱を見たので言ったらしかった。 「この魚、あんな底広いのに入れたら汁なくなるよ」 「人来たら使うって言っただろ」 「御飯食べに来たんじゃないんです。警察は」  真知が戸崎へ向き直った。 「弟が誕生日にくれたんです。でかいんです、やたら」 「大勢で食べる時には、よさそうですね」 「大勢来ない。こいつしか来ない」 「俺は人じゃないらしいんで」  悟が麦茶を置いた。戸崎は笑って受け取った。  詩乃の安全は確認されているが、現在の居場所を知らせることはできない。仁の件も、捜査中のため詳しく話せない。成瀬がそう伝えると、真知は頷いた。 「生きてるなら。よかった」  少し下を向いたあと、悟へ、食べて、と皿を寄せた。 「そっちの用事、先に聞いたら」  悟が言った。 「待ってたら冷めるでしょ。今日も遅いから」 「荷崩れだって。人いるかもって言われて、一回全部止めたんだよ」 「いたの?」 「いなかった。言われたら見に行くしかないし」 「じゃ、いいじゃない」  真知は自分も座った。だが携帯が鳴ると、椅子を引いたばかりの身体で立った。 「寺田さん。今、家。……それ、昨日言った。冷蔵のを後にしたら、全部積み直しだって」  成瀬の手帳は開かないままだった。悟が空の小皿を重ね、流しへ運んだ。 「冷蔵の札、今貼っとけば?」  電話をしている姉へ、悟が言った。 「明日の人が剥がすだけ。寺田さん、朝また言われんの嫌でしょ」  真知は一度弟を見て、そのまま電話へ伝えた。声が小さくなった。 「そう。うん。写真送って。分かった、お願い」  携帯を置くと、真知は悟を見た。 「そういう知恵はあるんだよね。前は寺田さんに言うのも、私に頼んでたくせに」 「前の話、今する?」 「今、喋ってるの見たから」 「礼から言えば」 「ありがとう。ついでに台車返して」 「それは別。金曜って言ったろ。今週いっぱい借りてんだから」 「取っ手抜けるの、直してから返せって言ってたよ」 「元から。ピン片方ないんだもん。借りた時から」 「本人に言ってよ。私、台車の伝言までしないからね」  戸崎には先日の寺田の顔が浮かんだ。今度は誰の伝票を持っているのだろう。真知が、すみません、終わり、と成瀬へ向き直り、ようやく手帳が開いた。  前年十一月、宇津木から、一晩泊まれる場所を探している女性がいると連絡があった。 「車が止まった時、助けてもらってたから。健さんに頼まれたら、駄目って言いにくいじゃないですか」  真知は言い、すぐ、嫌だったわけじゃないですよ、と付け足した。 「女同士の方がいいだろうって。本人もそれならって言ってると。夜だけ、ここへ」 「詩乃さんには、その時初めて?」 「初めて」 「悟さんは」  戸崎が目を向けると、悟は箸を止めた。 「その晩はいません。今日は来るなって来たんで」  真知が履歴を探した。携帯を成瀬へ差し出す途中で、茶の輪に気づき、悟が袖で拭こうとした腕を叩いた。 「そこ、台拭きあるのに」 「近かったんだよ」  画面には去年十一月の会話があった。  〈今夜だけ一人、泊めてもいい?〉  〈女?〉  〈女。若い子。今日は来ないで〉  〈分かった〉  翌朝は〈飯二回おかわりした。大丈夫そう〉。悟は〈それ大丈夫の基準なの〉と返していた。 「まだ言ってる。食べないよりいいじゃない」  真知が笑った。悟は麦茶を飲んだ。  翌日、詩乃は自分で不動産屋と話すと言った。真知はネットで部屋をいくつか一緒に見ただけで、保証人などは本人が調べていた。その後も、仕事が決まった、小物ができたと時々連絡が来た。 「泊まったのは、それっきりですか」 「泊まりは一回。でも御飯は、あと二回くらい。年明けと、春。悟も会ったよね」 「春は玄関だけ」 「年明けは食べたでしょう。一緒に」 「ああ、あの時か」  悟が箸で骨をよけた。 「何かお話を?」 「仕事、何してるんですかとか。連絡先も知らないです。名前は姉ちゃんが呼んでたから」 「宇津木さんは、御存じでした?」 「会ったことは。一回。姉ちゃんの車が動かなくなった時、荷物移すの手伝いに来てくれて。二年くらい前かな。俺の名前、覚えてたかは分かんないですけど」  成瀬が、そのほかにも会った記憶はあるか訊くと、悟は、たぶんない、と答えた。 「二日の夜のことも、確認させてください。仕事は何時まででしたか」 「六時四十分くらい。打刻あると思います」 「そのあと、どちらへ」 「駅の南。飯、何にしようかって歩いてて。姉ちゃんに電話しました。七時五十分くらい」  真知が携帯を手に取った。 「来たよ。今日は寄らないって」 「履歴を見てもよろしいですか」  同意して差し出された画面を見て、成瀬が時刻を読んだ。 「十九時三十六分です」 「そんな早かったっけ」  悟が身を寄せた。 「じゃ、その頃。そこまで覚えてないです」 「南口の、どの辺でした?」 「裏の弁当屋。前は自転車屋だったとこ。混んでたから、やめて」  成瀬は道順を訊いた。悟は交差点を二つ挙げ、そこから線路沿いへ出たと言った。 「カメラないんですかね。俺、飯に迷ってるだけなのに」 「いつも迷ってるじゃん」  真知が言った。戸崎は彼女にも、電話で場所まで分かったのかを確かめた。 「南の方って、本人が言ったから。見たわけじゃないです」 「はい」  成瀬が書く間、真知はトマトへ塩を振った。悟の皿は横へどけ、自分の分だけにした。  戸崎が宇津木以外に詩乃を手伝った人を尋ねると、真知は修理屋の遠山隆一を挙げた。 「ミシンの足が歪んでたの。健さんが、誰かいないかって。うちの車の留め具も見てもらってる人だから」 「遠山さんのお店は?」 「駅の反対。向かい、クリーニング屋です。看板だと何の店か分からないんで」  真知は住所を確かめるために立った。冷蔵庫に貼った紙を見て戻る途中、悟の皿へ鯖をもう一切れ足した。 「それ、俺の分?」 「余るから」 「余るって、俺まだ最初の食ってるけど」 「喋ってるからでしょ」 「聞かれるからだよ」  戸崎は手帳を膝へ下ろした。 「食べてください。こちら、ゆっくり待ちます」 「明日早いから、そんなゆっくり待たれるのも」  真知が言って、自分で笑った。戸崎も笑い、もう一度手帳を上げた。  悟は詩乃の箱を小暮の店へ届けたこともあった。春、真知が車を出せない日に、配送の帰りに寄った。中には入らず、小暮が表へ出てきたので渡したという。 「ついでって言うけど、こっちのついでじゃないんですよ」  真知が台拭きで食卓の端を拭いた。 「何でも車がある人に言えばいいと思って」 「金取ればいいんじゃん」  悟が言った。 「してるよ、お金の話は」  声が変わり、悟は口を閉じた。 「渡すって言った日にいるなら、届けますよ。でもいない。別の所へ持ってきて。違うでしょう、それ」  真知は台拭きを置き、もう持っていかない、と言った。戸崎は小暮の店の準備中の札を思い出した。誰も待てない人ばかりだった。 「詩乃さんとは、八月も連絡を?」 「頭の方が最後です。忙しいって。それから、返事なくて」  成瀬が、父親に見つかった可能性は考えなかったかと訊いた。  真知は手を止めた。 「考えました」 「どなたかに相談は」 「しなかった。警察に言ったら、父親へ戻されると思って」  行方不明者届が出ていることは、前に詩乃から聞いていた。父親には居場所を知られたくないとも。 「本人が嫌がってたから、って。そのせいにするのは駄目ですね。今になって」  成瀬は、成人の安全と意思を確認し、家族だからといって当然に居場所を伝えるわけではないと説明した。真知は額を押さえた。 「先に知りたかった」 「御存じない方も多いです」  悟が、家族にも言わないんですか、と訊いた。 「本人が言うなって言ったら?」 「安全確認など、必要な対応はします。ただ、御家族だからという理由だけで伝えるわけではありません」 「へえ」  真知が弟を見た。 「何、急に」 「ニュース見たから。家へ戻すんだと思ってた」  悟は茶碗についた米を箸で取った。成瀬は手帳の頁をめくり、次の確認へ移った。  詩乃に詳しい事情を訊いたことはない、と悟は言った。聞かない方がよさそうだったから。 「何か言われたんです?」 「いや。こっちが聞いたら、向こうは断らなきゃなんなくなるでしょう。姉ちゃんちで飯食ってる時に」  戸崎は頷きかけ、止めた。真知が、聞かなくてもいいことは聞くくせに、と弟へ言った。 「姉ちゃんにはな」 「ほら、相手見てる」  悟は笑った。真知は新しい麦茶を持ってきて、彼のコップから先に注いだ。 「この人、金貸すと来なくなるんです」 「今その話?」 「返せないと気まずいんでしょう。だから御飯だけ。食べる物なくなったら来るから」 「返したのもあるだろ」 「あるね」 「そこで終わる?」 「続きを聞きたいの?」  悟は箸を置いた。 「借りたまま顔出すのが、嫌なんだよ」 「御飯までそう数えないでよ。あんた、誰とも食べられなくなる」 「数えてねえって。俺だって、さっきの寺田さんのやつ。あれで明日の朝、揉めなくて済むだろ」 「うん。助かった」  真知はすぐに言った。 「四時から怒鳴らずに済む」 「だろ」  悟は箸を取り、皿の端の身を集めた。真知が流しへ向くと、それを御飯に載せて食べた。  戸崎は麦茶を飲んだ。手帳の頁を一つ戻す用事はあったが、今は戻さなかった。  真知の携帯に写真が来た。冷蔵の札を貼った箱だった。彼女は画面を悟にも見せ、短く返事を打った。 「できるじゃん」  悟が言った。 「できるよ。寺田さん、やること決まれば早いんだから」  真知は食卓へ携帯を伏せた。  *  確認が一段落する頃、悟は味噌煮の汁を御飯へ掛けていた。 「食べれば、だいたい大丈夫って思ってるよな」 「駄目なの?」 「駄目なこともある」 「じゃあ残す?」 「腹は減る」  真知は鍋の縁を拭き、火の消えていることを確かめた。戸崎は手の中のタオルを畳んだ。返すには濡れすぎていたので、持って帰って洗ってよいか訊くと、いいですよと真知は流しから答えた。  上着のポケットへ入れた。  悟が皿を重ねて水へつける。水が出すぎだと姉が言うと、聞こえない、と返した。真知が蛇口へ手を伸ばす前に、悟は自分で閉めた。 「じゃ、帰る」 「ゴミ持って。あと保存容器、三つ」 「洗ってる」 「洗ってても、うちにはない」 「一個、まだ冷凍庫」 「何入ってるの」 「煮物」 「いつの!」 「先週。そんな怒鳴んなよ」 「食べなさいよ」  悟は玄関の袋を持ち上げ、靴を履いた。戸崎たちへ頭を下げてから、冷蔵庫の上を顎で指した。 「鍋、使えよ。そのうち」 「人来たら」 「俺、来てんだろ」 「それ、さっき聞いた」  悟は鼻で笑って出ていった。  二十時六分。戸崎は手帳へ記した。真知は閉まった扉の鍵を一度確かめ、食卓へ戻った。  残った細かな日付を確認する間、真知は麦茶を注ぎ足した。詩乃から受けた連絡も見せてもらい、必要な範囲を記録した。彼女は途中で大きく欠伸をし、すみませんと目を押さえた。 「四時なんですよね」 「三時に起きます。まだ十二時じゃないから大丈夫」  戸崎は手帳を閉じた。立つと、真知も玄関まで来た。 「詩乃ちゃん、会えるようになったら」  成瀬が振り向いた。 「御飯くらいは、と思うんです。元気になったら」  真知は扉に手を掛けたまま、言い直した。 「本人が来たいなら」 「落ち着かれたら、伝えます」 「お願いします」  戸崎は礼を言った。真知はそれより先に、戸口の靴が当たらないよう足元を見ていた。  部屋を出たのは二十時十八分だった。  階段の電灯が切れかけていて、戸崎は時刻の八を一度書き直した。一階まで下りると、上の部屋から水を流す音がした。  外の蒸し暑さに、また汗が出た。ポケットのタオルを取り出しかけ、今はやめておいた。  集積所の網の下に、悟が持って出た袋が押し込んであった。収集は翌朝と書いてある。 「言います?」  成瀬が訊いた。 「今日は、やめときましょう」  車へ向かって歩くと、上で窓が開いた。振り返った時には、レースのカーテンが下りていた。 第十章 二人目 靴下が片方、見つからなかった。  戸崎はベッドの下へ手を入れ、埃のついた黒い靴下を引っぱり出した。携帯を肩と耳で挟んだまま履こうとすると、裏返しだった。成瀬が何か言っている。 「すみません。もう一回」 『安否確認に入ったのは、四時半すぎです』 「誰が見つけたんです」 『地域の警察官です。勤務先から通報があって』  通話画面の時刻は五時十一分だった。昨日、玄関で見送られた時には、八時十八分。戸崎は靴下を直さず足を突っ込んだ。 「北原は」 『まだ身柄があります』 「外へ出てないんですね」 『出ていません』  立ち上がると、膝へ携帯が当たった。床へ落とす前に掴んだ。 「今行きます」  何かの間違いだとは言えなかった。成瀬は川瀬真知が死んでいると、最初に言っていた。  *  アパートの階段で靴カバーを渡された。戸崎は壁に手をついて片足ずつ履き、部屋の中を見ないようにした。視線を落とした先で、自分の靴下の縫い目が外へ出ていた。  昨日借りたタオルを、上着のポケットに入れたままだった。家で洗って、あとで届けるつもりだった。そのままのタオルを、今は出せなかった。 「そこから壁沿いに」  鑑識員が通れる場所を示した。  水切り籠に二つの茶碗が伏せてある。大きい方は悟が使っていた。昨日は流しに残っていたのに、今は隣の小さい茶碗と同じ角度で立ててある。  真知は食卓に座っていた。  首が右へ落ち、顎を引いた形になっている。両手を腹の前へ揃えられ、指から指へ黒い糸が渡っていた。口を縫った糸が片側へ引かれ、唇の間にわずかな暗がりがあった。  戸崎は顔を上げかけた。いつものように相手の顔を見ると、返事を待ってしまいそうだった。 「死因は、まだだよ」  新見が先に言った。 「俺、まだ訊いてません」 「顔に書いてある」  新見は手袋を直し、記録係へ場所を譲った。立ち上がった分だけ真知の手がよく見えた。左右の小指の間に、ほかへ続かない短い一本がある。  戸崎の喉が鳴った。 「同じですね」 「写真がそろうまで待って」 「でも、見えてる」 「分かってる。今、撮るから」  フラッシュが光った。戸崎は一歩退き、壁に背を当てた。北原仁は署にいた。小指の糸は報道には出ていない。写真が流れても、あそこまでは写らない。ここへ来る途中、自分で確かめた身柄の記録が、頭の中で何度も同じ行へ戻った。  向かいの椅子から成瀬が離れた。 「宇津木さんの端末です」  黒い携帯が座面に置かれていた。背面の白い管理シール。恵が番号を控えていた、仕事用の端末だった。 「本人のは」 「台所です。充電中でした」  成瀬は二台を取り違えないよう、それぞれの位置を指した。椅子の携帯は電源が入らず、SIMも抜かれているという。 「北原じゃなかったんだ」  言ってから、戸崎は成瀬を見た。 「私には、まだ言えません」 「署にいるんですよ」 「昨夜、ここへ来たのは別の人です」  戸崎は返事をせず、真知の前の携帯を見た。自分たちへ見せるために置いたのだとしたら、今、言わされたのではないか。その考えにも腹が立った。  成瀬が玄関で待つ警察官たちに声を掛けた。鍵は掛かっておらず、こじ開けた痕もないという。管理会社が渡した鍵は三本。室内では、キーホルダーの一本と予備の一本しか見つかっていなかった。戸崎は話を聞きながら、食卓のそばに残った。  新見の道具が小さく鳴った。 「昨日、ここへ来てたんだって?」 「八時十八分まで」 「その間に見たこと、別の人に聞いてもらって。自分で書くだけにしないで」  戸崎は頷いた。昨日の座席からここまで、三歩もなかった。  *  配送会社の寺田は、道端の折り畳み椅子に座ろうとしなかった。片手に鍵を持ち、もう一方の手で携帯を握り、警察官が勧めるたびに、大丈夫です、と首を振った。 「車、置いてきちゃって。冷蔵のやつ、そのままなんです」 「会社の方へ、代わりを頼めますか」 「頼みました。いや、頼んだと思う。電話して」  寺田は履歴を開いた。戸崎はそばに立って待った。  朝四時、真知は来なかった。十五分待って電話を掛け、応答がなく、本人の家へ行こうとして別の社員に止められた。事故かもしれないから先に通報しろ、と。 「俺、遅刻かと思ったんですよ。あの人だって一回くらいするだろって」  寺田は鍵をポケットへ入れた。 「昨日の夜、積む順番でもめて。だから意地になって遅く来てるとか。そんなわけ、ないのに」 「昨夜の連絡、見せてもらえますか」  寺田が画面を差し出す。二十時四十二分の短い文が残っていた。  明日、二便目から順番変えます。冷蔵先で 「これ、真知さんの書き方に見えます?」 「見えますけど……違う人なんですか」 「そこも調べます」  戸崎が時刻を記す間に、寺田は一つ前の画像へ戻した。段ボールに冷蔵の札を貼った写真だった。 「こっちは俺が送ったんです。ちゃんとやったから。それには、ありがとうって来た。明日楽、って」  戸崎は昨夜の食卓を思い出した。悟が横から口を出し、真知がそのまま寺田へ伝えた。明日の朝の面倒を、今のうちに済ませる話だった。 「あと、見つかった子のこと、よかったって。小暮って人に、今度こそちゃんと話させるって言ってたんです。本人の服を勝手に作って売ってるとか。俺には、詳しくは」  寺田はそこで言葉を止めた。  規制線の向こうで声がした。悟だった。作業着にジャケットを引っ掛け、立っている警察官の肩越しに戸崎を呼んでいた。 「昨日、いましたよね」  戸崎が近づくと、悟は先にそれを言った。 「はい」 「姉ちゃん、何か言ってました? 帰れとか、来るなとか、誰かに」 「こちらでお話を」  成瀬が示した場所へ、悟は視線だけ向けた。 「あそこへ行くと、分かるんですか」 「ここは通りです」 「知ってますよ。何回も来てるんで」  通行人が一人、歩調を緩めた。悟はその人へ顔を向け、すぐ戸崎へ戻した。 「俺が昨日、いたから聞いてるんです。八時すぎまで。そのあと何があったか、聞いてるだけでしょう」  戸崎は持っていた手帳を閉じた。時刻を並べて説明し始めれば、ここで全部話してしまいそうだった。 「昨日、俺らが帰る時は元気でした」 「だったら」 「そのあとを、調べています。あなたが帰ってからのことも、聞かせてください」  悟は口を開いたまま、戸崎を見ていた。  寺田が鍵を落とした。膝へ当たって、排水溝の手前で止まった。悟が先に拾い、寺田へ渡した。 「座ってください。顔、真っ白ですよ」  誰に何度勧められても座らなかった寺田が、腰を下ろした。悟は隣の縁石にしゃがみ、そのまま戸崎を見上げた。 「ここならいいですか」  成瀬が周りの人を少し遠ざけた。戸崎もしゃがんだ。  悟の昨夜の話は、買物と帰宅だった。最後に姉と連絡した時刻を聞かれると、別に用事がないから、と携帯を出した。合鍵は昔預かっていたが返した、いつかは覚えていない。室内に見つからない一本について訊くと、肩がわずかに上がった。 「また姉ちゃんに聞けって、言うとこだった」  そのあと、しばらく画面を動かさなかった。  *  昼の本部で、戸崎は別の刑事から昨夜のことを聞かれた。  真知が何を食べていたか。悟が立ち上がった順番。玄関の鍵。退出後に聞こえた水音。タオルも袋へ入れて渡した。 「八時十八分は確か?」 「手帳に、その場で書きました」 「時計、どれ見た」 「携帯です」  自分にも同じことを訊くのだ、と戸崎は思った。写真館の時計を調べていた時には、当然の確認だった。  新見から、頸部に圧迫痕があり、糸を通したのは死後とみられると連絡が入った。糸そのものの結果は、まだだった。  広瀬は北原仁の名を消さず、下に空欄を作った。 「一人ではできない。そこから先を、勝手に埋めるな。外部との連絡、物の行き来、全部当たる。匿名フォームの送り主もだ」  戸崎は頷いたが、ペンを持つまでに時間が掛かった。自分の供述に使った一時間のあいだ、誰かが小暮や遠山へ行っていた。どこかの班が、知らない名前を増やしていた。  午後、仁について別の連絡が来た。  監禁容疑の勾留請求が認められなかった。  旧工場は捜索され、外鍵や携帯などは押さえてある。詩乃の居場所は伝えていない。瀬尾は関係者へ接触しないという書面を出し、殺人の疑いで監禁の身柄を引き延ばさないよう意見を述べていた。  広瀬は担当者の説明を最後まで聞いた。 「詩乃さん側への連絡を先に。テレビから知ることにするな」  成瀬が席を立った。戸崎は名乗りかけて、座り直した。今日は自分が何を言い始めるか分からなかった。  *  夕方、仁は瀬尾とともに署の玄関へ現れた。  外には記者が待っていた。誰かが見つけ、呼び掛けると、ほかの記者も集まってくる。戸崎は扉の内側で足を止めた。  仁も一度止まった。 「娘は」 「北原さん。今は車へ」  瀬尾が腕に触れた。仁はその手を見てから、戸崎の方を見た。 「何か必要な物があったら、私へ」 「担当から連絡します」  戸崎の返事を待たず、仁は袖口を下ろした。  扉が開いた途端に、娘さんとは会えていますか、と声が飛んだ。 「心配しています。それだけです」  仁はまっすぐカメラを見て答えた。宇津木の名を出されると、今度は瀬尾と一緒に歩いた。  工場の鍵を渡す前にあの男が何を言ったか、戸崎はまだ覚えていた。カメラが回っているのは、今日のこの数歩だけだった。  携帯に寺田から着信があった。今朝の聞き取りで渡した番号だった。 「明日、四時より前に来てみます。あいつの分、誰がやるか決まったんで」  寺田は名乗ったあと、それを報告した。戸崎が返事をすると、すみません、こんなことまで、と向こうから謝られた。 「いえ。明日、俺も電話します」  いつにするかを二人で決め、戸崎は手帳に書いた。 第十一章 青い丸 遠山修理店へ入ると、靴を履いたまま、と言われた。  戸崎は上がり框に見えた木の段から足を戻した。そこは作業台を置くために床を高くしただけで、土足で構わないらしい。革の匂いの奥で接着剤の匂いがした。 「何の修理?」  眼鏡を額へ上げた男が、戸崎の靴から成瀬の鞄へ視線を動かした。 「その持ち手なら、先に中身出して」  成瀬は鞄を抱え直した。 「警察です。遠山隆一さんですね」 「直しに来たんじゃないの」 「今日は、違います」 「今日はって。明日直すか」  成瀬が答えずにいると、戸崎が横から鞄を見た。 「俺もずっと言ってるんです」 「あんたのじゃねえだろ」  戸崎は口を閉じた。遠山は差し出された名刺を受け取り、そこにある名字を読んだ。 「真知に聞いた?」 「はい。川瀬さんから、お名前を」 「あいつ、何でも直すって言ったろ。車まではやらねえからな。荷台の留め具くらいだよ」  遠山は笑い、持っていた革靴を棚へ置いた。  戸崎は名刺の端を見ている遠山へ、昨日のことを告げた。言葉を長くしないようにした。川瀬真知さんが自宅で亡くなっていた。事件として調べている。 「いや」  遠山はすぐ言った。 「一昨日、電話したよ」 「その電話を、確認させてください」 「電話したんだって」  遠山は名刺を作業台へ置き、携帯を出した。思うところが開かないらしく、何度も下の端を押す。成瀬が手を伸ばしかけ、戻した。 「これ。一昨日の夜。二十時二十七分。三分も喋ってる」  戸崎は時刻を書いた。自分たちが帰った九分後だった。 「どんなお話を?」 「詩乃ちゃん、見つかったって。生きてたって。それを、俺に言っとくって」  遠山は画面を戸崎へ向けたまま、こちらの返事を待った。電話があったという記録は、そこから先を何も変えてくれなかった。 「そうですか」  戸崎が言うと、遠山はようやく携帯を下ろした。 「健さんも真知もじゃ、誰に言えばいいんだよ」  戸崎は手帳から顔を上げた。  遠山は二脚ある椅子の片方から靴箱をどけ、もう片方を足で引き寄せた。 「長くなるなら座って。立ってられると、こっちまで立つ」  *  遠山は座らなかった。戸崎たちへ背を向け、濡れた布で靴底を拭き始めた。 「ペダル、返さなくていいって言ったんだ。詩乃ちゃんに貸してたの。新しいの買えたんなら、もうそれ使えって」 「真知さんに、そう伝えた」 「うん。本人に言っとくって。……俺から言えばよかったのか」  成瀬は通話の時刻の隣へ、ペダルの話、と書いた。真知だと確かめる質問を、ここでは重ねなかった。  靴を一足拭く間に、詩乃の話は仕事の話へ戻っていった。宇津木が歪んだミシンの足を持ち込んだこと。その後、真知を通じて、鞄の内袋などを頼むようになったこと。布を縫う部分は詩乃の方が早く、遠山は革や金具を受け持った。 「最初から、今の値段で頼んでたわけじゃないけどな」  何も訊かれないうちに、遠山は言った。 「安かったんですか」 「安かった。あの子が、これじゃ合わないって言って。じゃあいくらって聞いたら、紙出してきたよ。ほどく手間から全部」 「お父さんは?」 「春に来た。人の娘を安く使うなって。そこだけは合ってた」  遠山が布を裏返した。黒い汚れが内側になった。 「仕事回すなってのは、聞かなかったけど」  戸崎は工場の階段を思い出した。今ならすぐ間違いだと言えるものを、仁の話だけ聞いていた時には、もっとややこしく受け取っていた。 「小暮さんにも、似たような話が?」 「あっちは見本を勝手に増やしてるって。真知が言ってた。その電話で」 「一昨日」 「俺からも話せと。金の話は本人らでしろって返したんだけどさ」  遠山は奥の棚へ首を向けた。小暮の店の名を書いた箱がある。 「こっちも仕事もらってるから、言いづらかったのかもな。俺が」  成瀬は箱を見た。中身を尋ねると、直し待ちの衣類だと言われた。 「真知さんの弟さんも、ここを利用していますか」 「悟? 靴があるよ。もう終わってる」  作業台の下から台帳を引き出し、青い丸の行を爪で叩いた。川瀬、と書いてある。 「終わったのが青。赤は急ぎ。書かないと俺が忘れるから」  棚から紙袋を出すと、磨かれた革靴が入っていた。 「昨日か今日に来るって、真知が。本人からは、まだ」  成瀬は日付を確認した。昨日は水曜、九日。遠山はそのつもりで連絡を待っていた。  紙袋を戻す時、遠山の足元で金属が鳴った。車輪を外した台車の平台だった。 「踏むと滑るから気をつけて。俺が言うのも何だけど」 「これも直すんですか」 「車輪は換えるだけ。取っ手は、ここのピン。寺田んとこも一本抜けてるの使っててさ。貸した奴が持ってこないって」  戸崎は一昨日の食卓を思い出した。直して返せ、という真知の声が、ここでも普通に続いている。 「持って来れば直すんだよ。電話じゃ直せねえのに」  遠山は平台を壁へ立て、ようやく二人の方を向いた。 「それで、俺にほかに何聞く?」  戸崎は手帳を閉じた。 「今日は、店を早く閉められませんか」  *  遠山はすぐ断った。 「渡す物あるから」 「連絡して、別の日にできませんか」 「明日から履くんだって。こっちで金曜でどうだって言ったら、木曜じゃなきゃ困るって」  棚の靴箱を引き寄せる。さっきまで磨いていた一足だった。 「二人とも詩乃さんに関わっています。遠山さんにも、危険が及ぶ可能性を考えています」 「詩乃ちゃんに関わってるって、ミシン直しただけで?」 「それだけでは決められません。でも、何も起きないとも言えない」  遠山は箱の蓋を閉めなかった。 「今、あんたらにできることが、俺を休ませることなの」 「場所を移してもらうことです。御親族でも、知人でも」 「姉がいるけど。足、悪いよ」 「今のうちに連絡を」 「急に行ったら、布団干す。飯作る。あの人は」  戸崎は言葉を探し、先に成瀬が口を開いた。 「こちらから説明してもいいですか」 「警察から電話なんかしたら、それこそひっくり返る」  遠山は椅子へ腰を下ろした。電話を前にして、二人を見た。 「客が来るまで、ここにいてくれるのか」  戸崎は答えるまでに間を作ってしまった。 「俺たちは残れません。巡回を頼みます」 「じゃあ電話するしかねえじゃん」  遠山が受話器を取った。戸崎は台帳から目を逸らした。相手は仕事中らしく、夕方、もう少し早く来られないか、と遠山は二度頼んだ。  十八時には閉めることになった。片付けたら姉へ出発の電話をする。店へ立ち寄る巡回の時刻も決め、姉の連絡先を別の担当が控えた。 「誰か来ても、明日にしてください」  戸崎が頼むと、遠山は壁の鍵へ目をやった。 「うち、明日が要る人ばっかりなんだけどな」  それでも、白い紙を一枚出した。  本日十八時閉店。  ガラスに貼る手を、戸崎は外から見た。紙の端が浮き、遠山はもう一度テープを押さえた。  *  南口の弁当屋で、昼の唐揚げが売り切れたところだった。  店主は九月二日の名を聞くと、忙しい手を止めた。 「その日は休んだよ。床、水浸しだったから」  業者の控えはすぐ出てきた。戸崎が確認する横で、成瀬は悟の言った道を地図で辿った。混んでいて入らなかった店が、営業していない。  成瀬が電話を掛けると、悟は五分なら話せると言った。 「店へ、どちらから行きましたか」 『線路の方。言いましたよね』 「その日は、水漏れで休業しています」  受話口で何かが擦れた。 『隣かな。人がいたんで。弁当屋だと思ったんですよ』 「店の前までは、行きましたか」 『そこまで覚えてないです。行列見たら、別へ行くでしょう』  成瀬は次の質問へ移らず、返事を書き留めた。 『今日は何を調べてるんですか』 「二日の帰り道です」 『俺、今日も弁当買って帰るんです。どっちの店でも、別に』  成瀬が携帯を持つ手を変えた。 『あそこ寄っても、もう飯ないんで』  受話口の向こうで、遠くの人を呼ぶ声がした。悟は返事をせず、もう五分ですか、と訊いた。 「明朝、勤務先で地図を見せてください。何時ならお時間をいただけますか」  時刻を決めて切ると、隣の立ち飲み屋のシャッターが上がった。成瀬はそちらにも名刺を出した。  写真館の時計について、担当班から返事が来た。前日の写真を撮ってすぐ業務連絡へ送ったという社員の話と、送信記録が揃った。時計は十四分進んでいる。現物でも同じずれを確認していた。 「言った道を、もう一度なぞります」  戸崎が地図を折った。 「言わなかった道の方も」  成瀬が頷いた。今度は、二人とも食事の店を探さなかった。  *  夕方、広瀬の机では、仁の会社へ行く班と小暮の店へ行く班が同じ電話を待っていた。  仁は釈放された昨夜、瀬尾の事務所を出たあと、北原工業へ立ち寄っていた。二十一時五十六分ごろから約九分。経理の書類を取りに行ったと答えたが、持ち帰った物はまだ確認できていない。 「会社の端末も頼んでる」  広瀬は戸崎に紙を渡した。 「同じ匿名連絡が、もう一回入ってるかもしれん。瀬尾を通すと時間が掛かるが、順番飛ばすなよ」  隣の班から、小暮宛の宇津木の伝票が出たと声が上がった。八月十一日、別の倉庫へ運搬、三万六千円未収。会っていないという小暮の話と合わない。  戸崎は二つの紙を並べた。机の上では簡単に並ぶのに、今から二人で両方へ行くことはできなかった。 「小暮さん、一人ですか」 「スタッフがいる。一緒に帰ってもらう」  担当者が上着を取った。 「遠山は?」  広瀬が訊いた。 「十八時に閉めて、姉の家へ。地域にも頼んであります」  戸崎の答えに、広瀬は時計を見た。五時四十分だった。 「着いた連絡までな」 「はい」  戸崎は手帳へ、到着確認、と書き足した。その前に、遠山が教えてくれた店の電話番号がある。十八時の欄に線を引き、姉の家の番号と間違えないようにした。 第十二章 三つの現場 遠山修理店の前は車一台が停まると、向こうから来る車が待たなければならなかった。  十八時十二分。巡回車の窓を下ろすと、接着剤の匂いがした。シャッターの下半分には、まだ夕方の光が当たっている。 「遠山さん」  声を掛けられ、店の奥から手が上がった。 「もう閉める。これ、しまったら」  靴箱を胸に抱えていた。エンジンの音があるので、最後は少し大きな声になった。  向かいで車が待っている。先へ抜けると、無線で商店街の端へ回るよう呼ばれた。駐車車両のため、搬入のトラックが入れないという。  遠山の店のガラスに、小さな白い紙が残った。  十八時四十七分、遠山の姉から連絡があった。十八時七分に弟から電話があり、片付けたら出ると言っていた。出る時にも掛けると言ったのに来ない。携帯は鳴り続ける。  戻ったのは十九時四分だった。  今度はガラス戸の前まで行き、名前を呼んだ。シャッターは床から三十センチほど開いている。中の照明が道路を細く照らしていた。  隣の警察官がもう一度呼んだ。返事がない。  膝を曲げると、無線機が鉄板へぶつかった。思ったより大きな音がして、一瞬、店の中から返事がしたように聞こえた。  作業台の脚。投げ出された靴の底。袖口。 「人、倒れてます」  シャッターへ両手が掛かった。持ち上げた向こうで、店の時計の秒針が動いていた。  *  救急隊が店から出てきた。入口の狭いところで道を譲り、身体を横にしても、肩が戸枠へ当たった。  遠山の傍らへは、もう入れなかった。頭の近くに靴型が落ち、血がその下へ回っている。指の間の黒い糸は、作業着の袖より濃かった。口にも糸が見え、そこから先へは目を動かせなくなった。  夕方、この口が返事をした。  戸崎と成瀬が到着すると、先着した警察官たちが入口の前へ集まった。向かいのクリーニング店主は、畳んだズボンを抱えて立っていた。店から客に呼ばれ、一度だけ振り返った。 「十八時十二分には、話せたんですね」  戸崎が手帳を開いた。 「片付けたら閉めると、言っていました」 「だったら、店を出るまで――」 「戸崎さん」  成瀬が彼の横へ立った。戸崎はペンを握ったまま、顔を下げた。 「扉は」 「正面は開きました。裏は内側から鍵が。開けたのは、救急隊が入ったあとです」  別の警察官がその順番を補った。戸崎は頷き、靴カバーを着けた。落とした包装を拾おうとして、成瀬に先を越された。  二人とも、さっきの言葉には戻らなかった。  *  店へ入る人数を絞るため、入口には一人ずつ立つことになった。出入りのたび、何をしに来たか尋ねる。遠山の店だから、と言う客がいて、今日はもう受け取れないと答えた。 「明日、履くんですけど」  五十代ほどの男だった。手には受取票がある。 「御連絡先を教えていただけますか」 「いや、靴だけ。そこにあると思うから」  それを渡すために、遠山が何時まで店に残っていたのか分からなかった。受取票の番号を控えると、客は急に声を落とした。 「さっき電話あったんです。早く来れないかって。こっちも、仕事なんで」  後ろで戸崎が足を止めていた。男へ頭を下げ、改めて担当から電話すると言った。  男は票を畳まず、そのままポケットへ押し込んで帰った。  店内の棚には、青い丸のついた別の袋が残っていた。川瀬と書かれ、中から革靴の踵が覗いている。成瀬が袋の位置を鑑識員に示した。 「悟さんの今日の仕事と、帰るところまで、確認をお願いします。靴は、こちらから先に言わずに」  戸崎が携帯を取り出した。繋がると会社の名を尋ね、まだそこにいるんですね、と繰り返した。  換気扇が天井で震えていた。戸崎は耳を塞ぎ、外へ半歩出て聞き直した。 「車を戻したところだそうです。同僚もいると」  通話を終え、彼は成瀬へ言った。成瀬は別班へ住所を送っていた。 「小暮さんが、夕方に店を出ています」  続けて入った連絡を読み、成瀬が顔を上げた。 「スタッフを残して。一緒に帰るという話だったんですが」 「いつ」 「四時半。戻ったのは七時二十分。銀行と、それから倉庫に寄ったと」  戸崎が入口の外を見た。通りの向こうでカメラを抱えた人が足を止め、近所の人へ話しかけていた。  *  新見が来ると、店の中から工具を動かす音がしなくなった。床に置く物を減らすため、鑑識員が折り畳み台を広げた。 「頭が先。手は、そのあとと見てる」  新見はそう言って、記録係が姿勢を決めるのを待った。 「床の靴型ですか」  戸崎が尋ねた。 「取るよ。ただ、これと決めないで。ほかの工具も傷と合わせる」  ライトが指先を照らした。小指の間を渡る一本と、そばの結び目が、写真へ収められていく。  コードが通路へ出ていた。跨ぐ場所を探して足を止めると、奥にいた戸崎が脇へ寄って通してくれた。すみません、と声を掛けたが、彼は遠山を見ていて返事をしなかった。  棚の黒い糸も一つずつ分けて袋に入れる。北原の工場の物、小暮の店の物とは別にするよう、確認する声がした。  血を吸ったガーゼが動いた時、胃の上が硬くなった。唾を飲み込んでも、喉の奥に何か残った。出入口へ向き直ると、客用の椅子が一脚、作業台へ向けられていた。  戸崎の携帯が鳴った。電話を切ると、手帳を成瀬へ向けた。 「仁は十七時三十八分から十九時九分まで、瀬尾法律事務所です。受付の映像と入館記録、事務員の話もあります」 「瀬尾さんも、一緒に?」 「二人で相談していたと」  戸崎は書いた時刻を囲った。  成瀬には小暮から電話が来ていた。 「今は、店の中で待ってください。スタッフの方と一緒に。車には乗らないでください」  何か長い返事があった。成瀬は話が終わるまで聞き、こちらから行きますと伝えた。 「明日から誰が買うんだ、だそうです」  電話を下ろして言うと、戸崎は大きく息を吐いた。 「その前に、殺されるかもしれないでしょう」  向かいの店主がこちらを見た。ズボンの折り目へ掌を当て、また目を下げた。  *  規制線を一度広げ直すことになった。見物人を遠ざけると、歩いてきた人が止まり、隣の人へ何があったか訊いた。答える人の声の方が、警察官より大きかった。  戸崎と成瀬が外へ出た時、記者が前へ出た。 「警察が店を閉めるように指導した、その直後ですか」  戸崎は広報の連絡先を告げた。 「確認してるんです。その事実だけでも」  クリーニング店主が、記者の横へ進んだ。 「俺が言いました。刑事さん、店でそう言ってたって聞いたから」  戸崎は立ち止まった。 「あの人、従ったんでしょう」  マイクが戸崎へ向いた。成瀬が横に並び、確認して説明すると答えた。記者がさらに尋ねたが、店主の方は戸崎だけを見ていた。  やがて、店主は抱えていたズボンを持ち替えた。 「うちの客も帰しちゃったよ。あとで来てくれって。今日はもう、来ないよな」  クリーニング店の戸が閉まった。内側から鍵を掛ける音が、通りまで聞こえた。  *  夜十時すぎ、捜査本部へ戻ると、戸崎の椅子にも資料が置かれていた。膝へ載せて座ったが、一枚目を読む前に会議が始まった。  広瀬が人の配置を替えた。小暮の警戒、倉庫を確認する班、悟の職場。明け方の交代が足りず、広瀬は自分の名を書き加えた。  悟は十九時すぎに職場へ戻っていた。十八時台は、まだ埋まらない。靴は遅くなったので寄らなかったと答えた。  小暮には現金を引き出した記録があった。誰と倉庫にいたのかは、言わない。  会議が終わっても、戸崎は椅子を引けなかった。 「明日の面談、支援担当が時刻を待っています」  成瀬が言った。 「俺が言います」 「時刻を、です」 「遠山さんのことも。俺が閉めてくれって言ったんだから」  成瀬は資料を机へ戻した。 「それは、二人で話しました」 「閉めさせるんじゃなかった」  戸崎は地図を引き寄せた。店から姉の家まで、車なら十五分もかからない。 「明るいうちに、俺らの車で連れていけばよかったんです。靴は、別の人に渡してもらって」 「片付けてから行くと、おっしゃいました」 「その話、明日、詩乃さんにします?」  成瀬の手が止まった。 「しません」 「本人が残るって言ったんだから、って」 「それ、私が言いましたか」  隣の机でプリンターが止まった。戸崎は顔を上げなかった。 「俺が言ったんです。十八時に閉めてくれって。あの人、紙まで貼って」 「聞いています」 「聞いてるだけじゃ――」  成瀬が椅子を引いた。脚が床を擦り、戸崎の声がそこで途切れた。 「残ってくれるかって、訊かれました。私たちに。戸崎さんだけじゃありません」 「だったら、どっちか残ればよかった」 「はい」  戸崎は彼女を見た。成瀬は座らず、椅子の背を持っていた。 「はいって、何ですか」 「残れませんでした」  廊下で広瀬が、自分の名前をもう一度名乗った。明け方の交代について話している。 「俺、あと少しって言ったんです。巡回の人に」 「現場で聞きました」  成瀬は携帯を取った。 「面談は午後で返します。よければ、支援担当へ連絡してください。私は小暮さんの方に掛けます」  戸崎は地図の端を押さえたままだった。 「これから、小暮さんをどこへ行かせるんです」 「それも、まだ決めていません」  成瀬は引いた椅子を戻した。戸崎が何か言う前に、机の資料を持ち上げた。 「私も、十八時なら間に合うと思いました」  戸口でそれだけ言い、出ていった。  戸崎は自分の携帯を起こした。遠山の姉からの報告が、未読のまま残っている。先に支援担当の番号を出し、午後の面談を頼んだ。  向こうから、何時に来られますか、と訊かれた。午後と言ったのは自分なのに、手帳を開くまで答えられなかった。 第十三章 紺の半袖 詩乃は、持ってきてほしい物を紙に書いていた。  借りていた部屋の住所。下段の引出しにある紺の半袖。黒いズボン。机の上の、紙に包んだ袖。  最後の行だけ、あとから小さく足されている。 「袖?」  成瀬が訊くと、詩乃は自分の腕の上で長さを示した。 「外したんです。ほどく途中だったので。丸めたのもあるけど、そっちは要らないです」 「分かるように、書き加えてもいいですか」 「私が書きます」  成瀬は渡されかけた紙を返した。詩乃はペン先をなめらかに動かし、紙包み、と括弧で囲んだ。面談室で見た中では、いちばん迷いのない字だった。  金曜日の午後だった。医療機関の職員と支援担当者が、同じ机に座っていた。 「あと、仕事先に電話したいです」 「今、連絡したいところがありますか」  支援担当者が訊いた。 「待っててもらってるか、もう別の人に頼んだか。私、休んでるって、自分では言ってないので」  成瀬は持ってきた書類を開かなかった。今日伝えることを知れば、詩乃の用事は変わる。先に話してもらうべきだと分かっていても、そのまま聞いていることが、何かを隠す時間に思えた。 「詩乃さん」  自分の声が少し硬い。 「今日は、お伝えしなければならないことがあります」  詩乃のペンが止まった。 「父のことですか」 「川瀬真知さんのことです」  戸崎が隣で手帳を置いた。成瀬は詩乃の顔を見たまま、亡くなったことを伝えた。 「火曜日の夜から、水曜日の早朝までの間と考えています」 「火曜日なら」  詩乃は戸崎へ顔を向けた。 「父、警察にいたんですよね」 「いました」  戸崎が答えた。 「出てないんですよね」 「外には出ていません」  詩乃が紙を二つ折りにしかけた。途中で止め、広げた。 「もう一人、います」  成瀬の言葉に、詩乃は顔を上げなかった。 「遠山隆一さんも、昨夜、店で亡くなりました」  ペンが机から落ちた。戸崎が拾おうと腰を浮かせ、支援担当者に、こちらで、と止められた。  詩乃は何も言わない。さっき書いた紙の端を指で押さえていた。 「店、どうするんですか」 「御家族と確認しています」 「物、いっぱいあるんです。名前、袋にしか書いてないのもあるから。袋と別にしちゃうと、誰のか」  成瀬は頷いた。遠山の棚を思い出した。青い丸の紙袋は、そのまま残してある。 「伝えます」 「あと、ペダル。私が借りてるの」 「返さなくていいと、おっしゃっていました」  成瀬が伝えると、詩乃は顔を上げた。 「新しいのを買えたと真知さんから聞いて、それなら、もうそれを使えばいいと」 「でも、私のじゃないから」  詩乃は机の向こうを見ていた。 「うちに、あります。二つ。古い方も、まだ使えるんです」 「御家族にも、伝えましょうか」 「はい。捨ててないって、言ってください」  成瀬は預かっている物の欄へ書き足した。詩乃はその字を見てから、頷いた。  詩乃は返してもらったペンを握った。その手のまま、鍋、と言った。 「真知さん、鍋、使いましたか」  戸崎が動いた。 「大きいやつです。弟にもらったの。あんなので何作れっていうんだって、ずっと」 「悟さんですね」  成瀬が確かめると、詩乃は頷いた。 「一緒に御飯食べた時も、その話して。真知さんがおかわり入れようとしたら、悟さんが自分の茶碗出したんです。俺のなくなるって」  詩乃が少し笑った。 「じゃあもう一回炊くって。本当に立つから。二人で、もういいって」  笑いながら、息が足りなくなったように口を開いた。支援担当者がそばへ寄り、休みましょうか、と言った。  成瀬は開いていない資料を鞄へ戻した。  *  廊下で、戸崎が壁へ背をつけた。 「鍋、使ってなかった」  声は成瀬へ届くぎりぎりの大きさだった。 「箱に入ってましたね」 「言ったらよかったですか」  成瀬は面談室の扉を見た。 「分かりません」  戸崎が壁から背を離した。 「昨日、俺」  顔を向けると、彼は面談室を見ていた。中で椅子を動かす音がする。 「いや。先に、今日の話を」  成瀬は持っていた資料の角を揃えた。昨夜、戸崎が地図を押さえていた手を思い出した。自分も、残れませんでした、と言った。その先は何も出てこなかった。  扉が開くまで、二人ともその場を離れなかった。  戻ると、着替えの紙が裏返されていた。 「小暮さんは、いますか」  詩乃が先に訊いた。 「連絡は取れています。警戒もしています」 「じゃあ、小暮さんへは電話しない方がいいですか。私から来たら、嫌かもしれない」 「それは、まだ聞いていません」  成瀬は椅子へ座った。 「仕事をどうするかの話なら、間に入ることもできます」 「父も、そう言います」  成瀬は返事を止めた。詩乃は紙を表へ戻し、続けた。 「すみません。でも、誰に何を言ってもらったか、私、分からなくなるので。今日じゃなくていいです。自分で話したいです」  成瀬は、今日訊かなければならないと思っていた項目を、一つ後ろへ回した。 「分かりました。場所だけ、先に確かめてもいいですか。小暮さんの店とは別に、仕事をしていた場所」  詩乃が戸崎を見た。 「小暮さん、言いました?」 「伝票から、倉庫が出ました」 「黙っててって、私が頼んだんです」  語尾が急に強くなった。 「店を見られたら追われるから。父の知り合いが来るようになって。それで、小暮さんが、前に使ってたところを」 「今、こちらで場所を確認してもいいですか」  詩乃はすぐには答えず、支援担当者を見た。その人が待っているのを見てから、いいですと言った。  最後に小暮と会ったのは八月十一日。春の終わりではなかった。倉庫へ仕事の物を取りに行き、小暮もいた。警察へ場所を知らせないよう頼んだのは、その日以前からだった。  成瀬が確認した文を読み返すと、詩乃は一か所だけ直した。 「警察も、父に伝えると思ってたんです。警察に見つけてほしくない、じゃなくて」 「直します」  小暮に渡した青い鳥の見本について訊くと、今度は詩乃の方から質問が返った。 「売れてるんですか。別の人が作ったの」 「調べているところです」 「見せてもらっただけ、なんですか」 「いいえ。製作された品があると聞いています」  成瀬は言い直した。 「私にも現物、見せてください。写真じゃ、袋の内側が見えないので」 「用意します」  詩乃はその返事だけ確かめるように頷いた。  *  支援担当者と残りの時間を確かめ、成瀬は相談相手のことを訊いた。家を出てから、仕事や住所の相談をしていた人。真知以外に、生活のことをまとめて知る人がいたか。 「顔を知らない人なら」  詩乃は着替えの紙の端を折った。 「匿名の掲示板です。家を出た時、何からやればいいか分からなくて。書いたら返事をくれて」 「どんな返事でした」 「寝てくださいって。パスワードだけ変えたら、今日は寝てくださいって」  詩乃は折り目を指でなぞった。 「十個も言われたら、何もできなかったです。だから、変えたって次の日に書きました。よかった、って来て。それだけだったんです」 「そのあとも?」 「返事、来ました。仕事の値段も。その人が、ほどくのと縫うのは別の作業だから、別に数えていいって」  成瀬は遠山の言った紙を思い出した。詩乃は自分で単価を上げた。その前に、見知らぬ相手と相談していた。 「嫌になったことは、なかったですか」  尋ねると、詩乃が折っていた紙を戻した。 「嫌だったって、思わないと駄目ですか」 「いいえ。聞き方が悪かったです」 「助かったんです。本当に」  成瀬はペンを置いた。詩乃が自分で話すのを待った。 「真知さんに、また泊まりにおいでって言われた話をしたら、二回目からは断りにくくなるって。それも、そうかなと思ったんです。泊まりませんって書きました」 「ええ」 「でも御飯は行ったんです。それ書いたら、断ったんじゃなかったですかって。泊まるのを断ったって返したら、今度は、何時に帰りましたかって。次も行くって約束してませんかって」  戸崎は膝に載せた手帳を開いていなかった。 「御飯の時の話、全部思い出そうとして。私、何か約束したかなって。悟さんがいたのは年明けで、その時には……」  詩乃は首を振った。 「すみません。何の話でしたっけ」 「その相手への返事です」 「行くって決めたのは私ですって。それを書いたら、来なくなりました。返事が」 「それきり?」 「次の日に来ました。普通に、仕事の返事。私の方では、変な言い方してごめんなさいって、下書きしてたんです。でも送らなかった。来たので」  成瀬は机の空いたところへ、確認したい記録の範囲を書いた紙を置いた。詩乃は読み、スマートフォンには消さずに残していると答えた。  作業場で撮った写真も送っていた。宣伝に使って大丈夫か、父に場所が分からないか。夏には、仕事も父も用事の返事も多くて疲れたと書いた。相手は、必要なら迎えに行く、と返した。 「会ったことは?」 「ありません。名前も、声も知りません」 「悟さんとも、その後は連絡を?」 「番号、知らないです。年明けに食べて、春に玄関で会っただけなので」  成瀬は二つを別々に記した。 「工場で、送ろうとした文も、その相談相手ですか」  詩乃が頷いた。 「父と工場にいる。出られないかもしれない。書いて消しました」 「真知さんには、書かなかった」 「来ちゃうから」  すぐに返った。 「あの人なら、私のいる場所を知らないと思ったから」  成瀬の携帯が鞄の中で震えた。誰も手を伸ばさなかった。  *  面談を終え、成瀬が鞄を持ち上げると、根元の毛羽立ちへ詩乃が目を向けた。 「まだ直してないんですね」 「ええ」 「遠山さんなら」  詩乃はその先を言わなかった。 「昨日、私にも言われました。直すなら、先に中身を出してって。警察だと名乗る前に」  成瀬が言うと、詩乃は短く息を吐いた。 「見ますよね、そこ」 「ええ」  成瀬は鞄を少し持ち上げた。詩乃も根元のほつれを見て、手を膝へ戻した。 「着替えの紙、お願いします」  詩乃が支援担当者へ渡した。成瀬はその手が離れるのを見届けて、鞄を底から抱えた。 第十四章 片方の補助輪 土曜の朝、電話番を替わる者が来ず、戸崎は椅子に座ったままパンの袋を開けた。  父親を出すからだ、という電話が続いた。テレビの中でも、仁が車に乗る同じ映像が流れる。少し前まで世間が欲しがっていた顔を、自分も欲しがっていた。  次の電話は、不審な車だった。 「何色ですか」  戸崎が訊くと、相手は、さっきも言ったと怒った。別の番号へ掛け、ここを教えられたらしい。  もう一度住所から聞くと、車は隣家へ来た工事業者だと分かった。確認した担当者から返事が来た時には、パンの断面が乾いていた。 「替わります」  成瀬が戸崎の机へ紙を置いた。 「先に食べてください。読んでると食べなくなるので」 「そんな顔してます?」 「昨日、半分残ってました」  戸崎は袋を持ち直した。成瀬は次の着信を取り、名乗り始めた。  詩乃の通信記録だった。  最初は、寝ることと食べることが書いてある。自分が今日できたことを、詩乃は一つずつ報告していた。パスワードを変えました。泊まれるところができました。御飯を二杯食べました。  よかった、と相手は返していた。  頁をめくると、仕事の値段と住所のことが増えた。宇津木に運んでもらった荷物。真知の台所。遠山のミシン。小暮の作業場所。  戸崎はパンを食べ終えてから、もう一度最初の頁へ戻った。 「これなら、毎日来ますね」  電話を置いた成瀬へ言った。 「一個できたって言ったら、ちゃんと返ってくる」  六月には、納期のやり取りがあった。  金曜日までならできますと送りました。  返事をする前に見せてください。  もう送ったんです。  取り消せますか。条件を見てからにしましょう。  翌朝、詩乃は待ってもらったと報告していた。 「量を見ないと、分からないです」  成瀬が小暮への確認欄に日付を書き込んだ。  七月十九日には、真知が迎えに行くと言ってくれた、と詩乃が書いていた。相手は、迎えに来る人が増えるほど自分で帰れなくなることもある、と返していた。  その二日前、仕事の宣伝写真を送っている。元の画像は抜けていたが、返事は残っていた。  窓は切った方がいいです。あなたの仕事だけ見てもらえばいい。  公開された写真には巾着と指先しかない。戸崎は、仁の会社へ送られた粗い画像を隣へ置いた。窓越しの人影が、紙の上でも潰れている。 「元を持ってた人なら、場所を隠す前を見てる」 「支援担当が追加で聞いたところ、小暮さんにも仕事の相談文を渡したことがあるそうです。全部を、この一人だけが知っていたとは限りません」  成瀬が別の紙を重ねず、離して置いた。戸崎はそれぞれの日付を見た。  悟の描いた帰り道も届いていた。職場を出た映像はある。駅前から先の路地に映像がなく、南口へ着いた姿はまだ見つからない。通話は通信会社の記録でも十九時三十六分。接続した基地局の範囲には、南口も写真館も入る。  戸崎は地図へ指を置いた。何も書かれていない部分を線で繋げば、歩いた気になりそうだった。 「午後、北原さんです」  成瀬が言った。 「まだ書類が出ない?」 「見せるとは言っていません。話はする、と」  戸崎は空いたパンの袋を丸めた。  *  北原工業の事務所には、引取り業者の男が来ていた。  仁は戸崎たちを入口で待たせ、男へ何度も、布の方は別だ、と説明していた。機械は日曜に予定どおり出してよい。段ボールは触らないでほしい。 「全部だと聞いたから、二人で来る手配したんですけど」 「布は、まだ見る人がいるんです」  仁は伝票の一か所へ線を引き、控えを受け取った。男が出ていくと、ようやく二人へ椅子を勧めた。 「娘にも、確認したい物があるでしょう」  座る前に言った。 「担当から訊いています。花柄の布は、捨てないでほしいと」 「あれだけじゃないんです。だから、見てもらわないと」  戸崎はまだ椅子に座らなかった。仁が、どうぞ、と重ねてから腰を下ろした。 「水曜の夜に取りに来た書類、今日はありますか」 「経理の物です。家に持っていった分と、ここに戻した分がある」 「どれでもいいです。一つ見せてください」 「私しか分からない物なんです」  仁は書類立てへ目をやったが、何も出さなかった。 「取引先へ片っ端から電話されると、困る。先生に範囲を確かめてからにしてください」 「では、瀬尾さんに。二十一時五十六分ごろから九分ほど、会社にいた。その時は一人ですね」 「何度も答えています」  仁の指が伝票の上を擦った。線を引いた箇所で止まり、また反対へ戻った。  成瀬は匿名フォームの話をした。八月十三日よりあとに、同じような連絡はなかったか。 「ありません」 「別の窓口へは?」 「ないです」 「受信する端末を確認させてもらえますか」  仁は背を起こした。 「今ですか」 「同意をいただける範囲で」 「だったら、先生に聞きます」  成瀬は引き下がった。戸崎には、また同じ扉が閉まった気がした。仁は伝票の控えを持ち上げ、取って代わるようにこちらへ向けた。 「娘には、業者も待っていると伝えてもらえますか。明日なんです」 「担当へ引取りの範囲を伝えます」 「だから、あの子がいつ来るか」 「来る話は、していません」  仁は伝票を下ろした。成瀬は口を挟まなかった。 「皆さん、必要なところだけ訊くんですね」  仁が言った。 「こっちの仕事も止まってるんです」  戸崎は明日の業者の番号だけ控えた。  真知と遠山については、知らないという答えだった。悟は真知の弟と名前を聞いただけ。会った覚えもない。  外へ出ると、成瀬が車を開けた。 「俺、南口を見てきます」 「乗ってください。通れます」 「まだ気になるんです。混んでるって、どこから見たんだろうって」  戸崎は助手席へ乗った。成瀬はすぐに車を出さず、業者の番号を担当者へ送っていた。仁から預かった用事も、それで動き始めた。  *  夜、成瀬の妹から電話が来た。  明日は無理だと伝える前に、もう分かっていると言われた。署の裏口へ出ると雨が降り始め、濡れるのを避けて軒下へ戻った。 「赤い缶は開けていい。写真だけ、残しておいてくれれば」 「中、写真なの?」 「たぶん」 「たぶん、なんだ」  成瀬は黙った。妹は電話の向こうで何かを引きずり、ああ重い、と誰かに言った。 「お母さん、もう上の箱を下ろせないから。一緒に見ようって言ってるんだよ。捨てていいか聞いてるんじゃなくて」 「分かってる」 「分かってたら、全部こっちに決めさせないで」  成瀬は雨の落ちる舗道を見た。母にも謝っておいて、と頼みかけて口を閉じた。 「次、空いている日が決まったら、こっちから言う」 「うん。缶も置いとく。お姉ちゃんのアイスは食べる」 「まだあったの」 「ある。お父さんの眼鏡だって、まだあるよ」  そこは笑うところなのか、分からなかった。父が死んだ翌日、成瀬は眼鏡と読みかけの雑誌を袋へ入れた。母は眼鏡だけ取り出して、棚へ戻した。  妹の方で電子音が鳴った。 「ごめん、洗濯。じゃあね」  電話は切れた。成瀬が戻ると、戸崎が小会議室で段ボールを畳んでいた。 「それ、片付けます」  手を出すと、捨てない、と止められた。 「娘のです。駅を作ってて。屋根が要るって」  畳み損ねた蓋が浮いていた。成瀬が内側へ押すと、反対が起きた。二人で一度開き直した。 「先にこっち」  戸崎が端を押さえ、成瀬が折り込んだ。ようやく薄くなった箱を、戸崎は椅子の横へ立てた。 「明日ですか」 「今週は行けないって言いました。約束する前に」  成瀬は、そうですか、と答えた。訊いていない言葉を足すのが戸崎らしかった。自分も妹へ、来週なら、と言いかけた。 「遠山さんのところ、巡回した人に電話しました」  戸崎は手のテープくずを丸めた。 「何て?」 「俺が言いかけたこと、謝りました」  成瀬は顔を上げた。 「向こう、戻った時の話をしてくれました。何回も呼んだって。相勤の人と。俺、何も知らずに、あと少しって」  テープが指へ貼り付き、戸崎は二度振ってゴミ箱へ落とした。 「掛けるまで長かったです。番号出して、二回閉じました」  戸崎は箱を見た。 「三回目に、向こうが出なくて。もう今日はやめようかなって。そしたら、折り返してくれたんです」 「何て言うか、決めてました?」 「一応。でも、出たら、この間はすみませんでしたって。それだけになりました」  成瀬は軍手を片方ずつ重ね、机の端へ置いた。 「あなたにも」  戸崎が言った。 「本人が残るって言ったから、なんて。言ってないのに」 「言っていません」 「はい」  戸崎は箱の浮いた角を爪で押した。そこはもう折れていて、押しても形は変わらなかった。 「俺が残ればって、今でも思います」 「私もです」  成瀬が言うと、戸崎は手を止めた。 「先に聞いた方が、帰れたのかもしれません。どなたかに靴を渡してもらえないかって。姉のところへ行けませんか、より前に」 「言い出したら、きりがないですね」  戸崎は顔を上げた。 「あなたが言ってるの聞くと、きりがないって思うんです。自分だと、そこだけなんだけど」  成瀬は椅子の背へ手を置いた。すぐに次の話をする気になれなかった。廊下の向こうで電話が鳴り、誰かが慌ただしく取った。  成瀬は箱を避けて椅子を戻した。明日の担当表を二人の間へ置くと、戸崎が自分の行を指した。 「これ、俺、午前にしてもらえますか。午後の方、あなたと行きます」 「担当へ聞いてみます」  帰りは戸崎の車で駅まで送ってもらった。後ろの箱にシートベルトが掛かっていた。成瀬が見ていると、急ブレーキで潰すと怒られるんで、と運転席から言われた。  改札を入ったところで、妹から写真が届いた。赤い自転車に補助輪が片方だけ残っている。  これ、お姉ちゃんの? 私の?  成瀬はホームの端を避けて立ち、画面を広げた。裂けた星のシールを覚えていた。  私の。あなたにあげた。  返事はすぐだった。  もらってない。勝手に置いていった。  妹が泣いて、父と二人で後ろを押した。大丈夫、足が届くんだから、と成瀬は何度も言った。そのことを書くと、違う、と返ってきた。  足はついた。ブレーキに指が届かなかった。  成瀬は写真のハンドルを見た。  それはごめん。  今?  電車が入り、成瀬は笑ったまま乗った。写真を保存してから携帯をしまった。鞄を底から抱えると、切れかけた持ち手が指に当たった。 第十五章 店の中 小暮の店へ着くと、従業員の女が入口を塞いでいた。 「入らないでください」  戸崎が名乗るより先に言った。携帯を握っている。画面にはまだ通話の表示があり、相手へ警察が来たと告げた。 「小暮さんは?」 「奥にいます。でも、先にあれを」  窓際の作業台に、薄いグレーの上着が載っていた。両袖を前へ折り、袖口同士を黒い糸で綴じてある。間に挟まれた白い紙に、太い字が見えた。  つぎはおまえ  戸崎は近寄る足を止めた。外で警戒していた捜査員が、すぐあとから入ってきた。 「どこで見つけました」 「試着室です。私、鏡の前にあったんで」  従業員は言い、奥へ顔を向けた。 「小暮さん」  返事がなく、ミシンの向こうから本人が出てきた。 「朝、開けたら、入口にあった。持って入れたんです」 「何時に」 「八時半。だいたい」 「そのまま、この台へ?」 「いや、試着室へ。一回、そこへ置いて」  戸崎は袖口を見た。黒い糸で無造作に寄せられ、布が細かく引きつっている。手を伸ばしかけた従業員へ、成瀬が声を掛けた。 「誰も触らずに、少し離れてください」  成瀬が二人をレジの側へ寄せた。小暮は棚にぶつかり、古着の肩が幾つも揺れた。 「やっぱり、俺なんでしょう」  戸崎は答えず、先に現場確認を頼んだ。入口の外で、客が営業札を覗き込んでいる。捜査員が事情を説明し、入店を断った。 「閉めるんですか」  小暮が成瀬へ言った。 「店内を確認します」 「だから、表にいてくれればいいんです。警察がいるって、分かれば」 「今、これを見つけたんです。誰がどう入ったかも調べます」  成瀬は試着室までの通り道を空けてもらった。  従業員は台から目を離さなかった。戸崎が名前を聞き、連絡先を控えるあいだも、同じところを見ていた。 「知っている服ですか」 「お客さんのです。私が、預かりました」  小暮が顔を背けた。 「袖を短くして、返すだけだったんです。火曜に。今週から着るって」  女は携帯をポケットへ入れようとして、入らず、鞄へ押し込んだ。 「これ、取れば元に戻りますよね」  戸崎は糸を見た。 「今は、切らないでください」 「すみません。分かってます。でも、あの人に何て言えばいいか」  声の最後が低くなった。女が袖口へ伸ばしかけた手を、もう片方の手で押さえた。  *  店の外では、警察官が配達車を別の位置へ誘導していた。日曜の商店街に、規制のための空白ができた。通り過ぎた人が向こう側で止まり、携帯を構えた。 「顔、撮るなよ」  小暮がガラス越しに言った。  戸崎は彼を奥へ戻した。 「店の中にあった服が、外から来た。そういう話ですね」 「そうです」 「昨日、最後に見たのは」 「裏のラック。直し待ちの方です」 「昨夜は、鍵を掛けましたか」 「掛けましたよ。戸締まりしろって、何度も言うじゃないですか」  小暮は声を大きくし、すぐ隣の従業員を見た。 「昨日、私、四時までです」  女が先に言った。 「そのあと、お店は一人?」 「八時まで。表の人もいたでしょう」  小暮は入口を顎で示した。 「ずっと中を見ていたわけではありません」  成瀬が答えた。 「鍵を掛けてから、今朝までに誰かが入った形跡も確認します。あなたが出入りした時刻を教えてください」 「俺ですか」 「はい」  小暮は腕を組んだ。 「脅されてるって、見て分かったでしょう。何でまた俺が説明するんです」 「店へ入った人を調べるには、小暮さんのことも必要です」  女が一歩離れた。その動きへ小暮が顔を向け、何か言おうとしてやめた。  戸崎は二人を別々の場所で聞くことにした。成瀬に小暮を頼み、従業員を店の前へ連れ出した。通りのカメラから見えない、停めた車の陰だった。 「今日、出勤の予定だったんですか」 「休みです。昨日、来なくていいって。そしたら今朝になって、納品だけ相談したいって電話があって」 「何時ごろ」  女は履歴を見せた。十時十八分。 「九時すぎにも、服の写真が来たんです。寸法の確認。それには返して。なのに来たら、これで」  戸崎は二つの時刻を記した。 「最初に、小暮さんは何と?」 「先に預かり物まとめてって。奥にいたから、私、いつものを見ようとしたんです。試着室のカーテン開けたら、あれが吊ってあって」 「吊ってあった」 「はい。最初、また変な展示してるのかと思って。紙見て、びっくりして、店長って呼んだら」  女が口をつぐんだ。戸崎が待つと、首を振って続けた。 「『大声出さないで』って。外の人へ言いに行こうとしたら、まず落ち着けって。だから電話しました」 「小暮さんが、見つけた時の説明は?」 「その時に、朝からあったって」  戸崎は店へ目をやった。小暮が成瀬の向こうからこちらを見ていた。すぐ奥へ引っ込んだ。  *  店内の確認が始まると、ミシンは使えなくなった。作業台の物を勝手に移さないよう頼まれ、小暮は握っていた受取票を何度もポケットへ出し入れした。 「残れば警察が見てくれるって、話だったでしょう」  戸崎へ言った。 「警戒はしています。これからの場所も、相談します」 「店にいる。ここにいるから、見ててくださいって。それが何で、俺が出ていく話になるんだ」 「ここへ置かれたと言うなら、少なくとも今は、いつもどおり仕事をする状況ではありません」  成瀬が答えた。小暮は受取票を台へ叩きつけた。乾いた音がして、従業員が肩を動かした。 「金曜、間に合うって言ってるんですよ。今日やれば間に合うから、俺が言ったんです。誰かが代わりにやってくれるんですか」 「出来上がった物から、引継ぎましょう」 「そうじゃなくて」  戸崎は小暮の手元を見た。受取票には何枚も線が引いてあり、一枚だけ、火曜の文字が赤い。  従業員がそれを取った。 「これは私が連絡します。でも、説明が要ります。警察に預けるって言えばいいんですか」 「まだ、決まってないだろ」 「返せないのは、決まってます」  女は小暮を見た。彼は票を取り返さなかった。  奥の確認をしていた捜査員が、小暮を呼んだ。普段、糸をどこへ置いているかと尋ねた。棚へ向かいかけると、その場で示すだけにしてほしいと止められた。  小暮は指を出したまま立ち、やがて下ろした。 「俺の店なんだけどな」  戸崎は入口へ戻り、責任者と今夜の対応を詰めた。小暮はその日のうちに店を離れることになった。行き先は希望を聞いて決め、知る者を限った。店の確認と身辺の警戒は、それぞれ別に続ける。  荷物を取りに上がった小暮が、古い旅行鞄を抱えて戻った。従業員はまだ客へ電話をしていた。 「汚れたわけではないんです。はい。ただ、お渡しできるのが」  小暮は声を掛けず、その前を通った。  *  本部へ戻ると、朝の鑑定途中報告が机に残っていた。  遠山の傷は、床の靴型では説明しにくかった。ほかの道具にも、合う物はまだない。小暮の店の糸は銘柄が同じ。しかし、それだけでは今日の上着も三つの殺人も、一つにできなかった。 「本当に狙われてるなら、小暮じゃないのか」  別の刑事が写真を見ながら言った。 「今日の話を、先に確かめます」  成瀬が答えた。戸崎は従業員の証言を書いた紙を渡した。 「朝、入口で見つけたのに、二時間近く誰にも言ってない。カーテンを開けなければ見えない試着室へ、吊ってる」 「怖かったら、隠す人もいる」 「そうですね」  戸崎はそれも書いた。  広瀬は上着の写真を三人の被害者の写真から離した。 「今日の脅しだけで、三件まとめて結論を出すな」  成瀬が明日の面談の準備を始めた。三人が以前、詩乃へ何と言ったか。迎えに行く、手伝う、その約束を誰が知ったか。 「来るって言って来なかった。その罰だとしたら、仁の言い分に合います」  戸崎が言った。 「仁が外へ頼んだなら、連絡が要る」  広瀬は会社へ寄った九分を指した。  戸崎が瀬尾へ電話すると、提出できるものがあるかもしれないと返事があった。本人と話したい。金曜までには連絡する。  受話器を置くと、小暮の店の担当から電話が来た。上着を預かることになり、従業員が、客にはもう説明したと答えたという。  戸崎は明日の面談の準備へ戻った。机の右には、今日中に返す電話番号がまだ三つ残っていた。 第十六章 返す服 月曜の朝、小暮の店の従業員から、客が怒っていると電話が来た。 『警察へ預けたなら、警察へ電話するって。番号、お伝えしていいですか』  戸崎は担当の窓口を教えた。女は番号を読み返してから、黙った。 「何か、ほかにも?」 『怒ってるの、お客さんだけじゃないです』  戸崎は受話器を持ち直した。 『昨日、小暮さんから電話来て。別の上着を貸せばって。あれ、お母さんのだったそうなんです。今まで大きすぎて着てなかったけど、仕事へ着ていけるようにって、袖だけ直すことになって』 「そうでしたか」 『貸せばって、そういう話を、私がするんですか』  向こうで息を吸う音がした。戸崎は店長とのことには答えられず、確認が済んだら返却について担当から連絡すると伝えた。 『昨日の写真、送ります。返す時、形、見たいでしょうから』 「昨日?」 『小暮さんから来たやつです。袖を上げたので、これでいいかって。電話でも言いました』  戸崎は手帳を開いた。九時すぎにも寸法の写真、と自分で書いていた。あの上着と同じだとは、そこで確かめていなかった。  届いた画像の前には、小暮からの短い文があった。  このくらいで合ってる? 左右そろえた。  九時七分。グレーの上着がハンガーに掛かり、左右の袖は離れている。  戸崎は電話を切らず、写真を撮った時刻か、送った時刻かも確認させてほしいと頼んだ。女は自分には送られた時しか分からないと答えた。 「そうですね。まず、やり取りをそのまま残してください」  小暮は八時半に、糸で繋がれた上着を入口で見つけたと言った。  戸崎が画像を見ていると、成瀬が面談の時刻を告げた。彼は写真を担当へ転送し、上着をほどいてから縫い直した可能性も確認してほしいと添えた。 「本人へ、今訊きますか」 「帰ってから。詩乃さんを待たせたくないです」  戸崎は鞄を取った。携帯にはまだ上着の写真が出ていた。画像を閉じ、従業員の電話番号を手帳に控えた。  *  詩乃は紺の半袖を着ていた。  机には紙包みがあり、袖の形をした布が載っていた。片方を表へ返し、また裏返している。二人が入ると、それをまとめようとした。 「そのままで」  戸崎が言った。 「先週頼まれた物ですね」 「はい。でも、どっちからほどいたか、分からなくなって」  白い点々が布の端へ並んでいる。戸崎には両方とも縫い跡に見えた。 「前の写真は」 「撮ってないです。自分のなので」  詩乃は布を広げたまま、椅子を引いた。支援担当者も座った。今日は医療機関の職員は同席していない。  成瀬が時間を確かめ、工場から助けを求めたか、短く確認した。  八月十六日の休業連絡は本人が送っていた。父が横にいた。その後の無事を伝える文は、自分で書いたとは言えない。宇津木、真知、遠山へ、来てほしいという送信はなかった。父の電話や、ほかの人を通じて頼んだこともない。 「真知さんへ言ったら、来ると思っていたんですね」 「父が、調べるから。来た人の家も、会社も」  詩乃が指で布の端を折った。  成瀬が次の紙へ手を掛けた。戸崎は先に口を開いた。 「前に迎えに行く、手伝うと言ってくれた時、誰が聞いていたかを教えてください。一人ずつでいいです」 「何を、調べるんですか」  詩乃は布から手を離した。 「約束したのに、工場へ来なかった。そのことを、犯人が――」 「真知さんは、来ましたよ」  戸崎は言葉を止めた。 「駅まで。道、分からなくて。車で来てくれました。電話したら」 「ええ。それは」 「宇津木さんも。あの人が運ばなかったら、ミシン、持って出られなかったです。遠山さんは、私、頼む言い方も分からなかったけど」  詩乃の声が途切れた。支援担当者は水を寄せたが、彼女は取らなかった。 「その話、もうしたと思うんですけど」  成瀬が記録の前の頁を開いた。引越しの日、泊めてもらった夜、ミシンを直した時。それぞれの欄を、詩乃の方へ向けた。 「残っています」  詩乃は読んだ。 「あったら、何で、来なかったって」  成瀬の指が紙の上で止まった。 「そのつもりで言ったんじゃ――」  詩乃は戸崎を見た。 「じゃあ、何を知りたいんですか」 「すみません。助けてもらった話を、ほかに誰が聞いていたかです。電話でも、文章でも」 「相談の人には、書きました。誰に何をしてもらったか。あの人たちには、送らなかった。工場のことは」  戸崎は記録した。詩乃はその手元を見ていた。  いくつか、同席していた人の名も出た。三人が一度に約束した日はなかった。ばらばらの用事の途中で、困ったら言いな、と言われた。詩乃は思い出せない箇所を、思い出せないと言った。  戸崎はそこを空けた。 「あの袋は」  詩乃が自分から言った。 「持ってきてもらえましたか」  *  青い鳥の巾着は、支援担当者の前にあった。  小暮の別の取引先から提供された品だった。詩乃は受け取ると、表の刺繍を一度見ただけで裏返した。口へ指を差し入れ、縫い代を引き出す。さっき自分の袖を見ていた時とは、手が違った。 「これ、私が縫ったのじゃないです」 「どこで分かりますか」 「ここ。端、こうするとほどけるので、私はもう一回折ります。説明、したんですけど」  詩乃は紐を引き、また緩めた。 「誰に?」 「小暮さん。見本を渡す時。これだと面倒だから、数はそんなに作れないって」 「ほかの方に作ってもらう話は」 「聞いてません。置いてくれる店を探すって。だったら見せてもいいって言いました」  詩乃は袋を机へ置いた。青い鳥の羽の先が丸い。戸崎が手を出すと、その前に彼女が引き寄せた。 「返すんですよね」 「確認が済んだら、担当へ」 「じゃあ、もう少し」  誰も取らなかった。  詩乃は紙を一枚欲しいと言い、支援担当者から受け取った。ペンを持つと、何て書けば、と口にし、その先をやめた。 「今、売るのを止めてほしいです」 「そう伝えるんですね」  支援担当者が答えた。 「はい。お金のこと、まだ分からないので。まず、これを」  詩乃は小暮の名を書き、二行で止まり、読むために少し紙を離した。自分で一語を書き直した。 「直接渡すのは、今日は無理です」 「お預かりできます」  成瀬が答えると、詩乃は紙を自分の側へ寄せた。 「写し、もらえますか」 「もちろんです」  その返事で、ようやく手が離れた。  机を片付ける時、戸崎は自分の手帳に一行書いた。約束じゃない、頼んだら来た。書いてから、前に書いた〈来なかった〉へ線を引いた。  詩乃は袖の包みを抱え、部屋を出た。帰ってから続きをほどくのかどうかは、聞かなかった。  *  小暮は避難先から電話で、上着の写真は昨日撮ったと答えた。 「九時七分に、送ってますね」  戸崎は車を停めてもらい、時刻を読み上げた。 『そうです。写真は、それです』 「脅しを見つけたのは、八時半と聞いています」 『何時かまでは、はっきりしないです。昨日あんなことになって』 「昨日は、店を開けた時、と」  小暮が黙った。 「糸を一度切りましたか。それから、写真を撮った?」 『明日、戻れるんですよね』  戸崎は助手席の膝へ資料を置いた。 「店の中を、一緒に確かめます。糸は」 『俺が縫ったんです』  戸崎は携帯を耳へ押し当てた。運転席の成瀬がこちらを見た。 『あれは、俺が。だから、誰も店へ入ってないんです。鍵も盗られてない。だったら、あそこで仕事しても』 「紙も、小暮さんが?」 『はい』  その先を待つと、小暮は、警察にいてほしかったんです、と言った。 『表に人が見えない時があるでしょう。交代なのか、もう帰っちゃったのか、俺には分からない。遠山さんのところだって……ずっと店にいてもらえたら、閉めなくてよかったから』  戸崎はペンを取った。写真を送ってから糸を通したのかと尋ねると、そうです、と返った。従業員を呼んだのも、自分では通報しにくかったからだという。 『テレビで見たのを。それだけです。人に何かしたとか、そういうんじゃ』 「今伺ったことは、担当にも伝えます」 『待ってください。ここにも来なくなりますか』  今度の声は小さかった。 「今の警戒を、この電話でやめる話はしていません」 『でも、店は』 「明日、決めた時刻に伺います。今日、このあとどうするかは、そちらの担当と話してください」  成瀬が携帯を受け取った。小暮が一人で帰らないよう、そばにいる担当者へ代わってもらい、今の話と明日の予定を伝えた。  再び小暮に代わると、彼女は倉庫にも行きたいと言った。 『誰に聞いたんです』 「詩乃さんから。見本の件で、ご本人から預かった文もあります」  長く返事がなかった。 『あの人には、俺から言います。上着のこと。従業員に』 「いつですか」 『明日、店で。電話だと、切られるかもしれないから』  成瀬は従業員にも来てもらえるか確かめると答えた。電話を切ったあと、戸崎へ携帯を返した。  画面にはまだ、袖の離れた上着が出ていた。戸崎は画像を閉じ、朝に教えた返却窓口へ電話を掛けた。先に伝えなければ、客はまた、何も知らない者に同じ話をさせられる。 第十七章 店じまい 火曜日の昼、小暮はレジに受取票を並べた。  戸崎たちが周辺と店内を確かめる間、入口で待っていた。中へ入ってもシャッターの方を何度も見たが、従業員が来ると、忙しそうに票を繰り始めた。 「これ、金曜の。仕上がったやつから、返す時間を」 「上着の話だって聞いて来たんですけど」  女は鞄を下ろさなかった。  小暮は、一番上の票を作業台へ持っていった。グレーの上着はもうなかった。日曜、彼女が警察へ電話を掛けていた場所へ立ち、紙の端を指で伸ばしている。 「先に話したいことがあります」  いつもの客への声だった。女の眉が寄った。  戸崎たちは少し離れたが、店の外へは出なかった。 「俺がやった。悪かった」  小暮が言った。  女は、何を、と訊いた。小暮が上着だと答えると、鞄を肩に掛けたまま動かなくなった。 「あれ、返す服です」 「分かってる」 「分かってないですよ。私、日曜も昨日も、あの人に電話して」  声が途切れた。小暮が手を出すと、彼女は一歩下がった。 「うちの売物ならよかった、って話じゃないけど。でも、何であれなの」 「たまたま、そこにあったから」  小暮は言い、しまったというように口を結んだ。女は長く彼を見た。 「その電話、今からしてください。お客さんに」 「それは俺がする」 「今からです」  戸崎が、確認した内容を担当へつなぎ、返却については別途説明が要ると伝えた。女は頷いたが、小暮から目を離さなかった。  小暮は受取票を探した。番号を押す前に、一度、別の票を取り直した。 「小暮です。上着の件で、私からお話しなければならないことが」  従業員はその声を聞いてから、奥の納品袋を集めた。戸崎が手を貸そうとすると、自分で分かります、と断った。  電話は長かった。小暮は途中から座り直し、返事を一語ずつ繰り返した。女は金曜の納品に必要な品だけを鞄へ入れた。 「約束した分は、行きます。次の分は、頼まないでください」  通話を終えた小暮へ言った。 「もう、来ないってこと?」 「今、決めろって言わないでください。別の店にも、仕事あるか聞いてるので」  小暮は頷きかけ、そのまま止まった。  成瀬が紙を一枚差し出した。詩乃からの販売停止の申入れだった。小暮は二度読み、従業員にも見せた。 「無断で作らせた分は、売場から下げる。他所に出したのも、俺が連絡する」 「詩乃さんが縫った方は?」 「本人に聞く。それまでは、どっちも」  女は青い鳥の袋をレジの下へ移した。小暮は止めなかった。  *  倉庫は店から歩いて一分もなかった。  小暮は鍵を開けると、先に入って箱の送り状を見始めた。詩乃の紙を胸ポケットから出し、箱と見比べ、また畳んだ。 「飯島さんには、先に俺から電話させてください」  成瀬が、品を下げる連絡ですかと確かめた。 「向こうへは、了解を取ったって言いました。詩乃さんの。警察から先に言われたら、もう」  彼は番号を出したまま二人を見た。戸崎が頷くと、棚へ携帯を置き、スピーカーを入れた。 「あとで同じ話するより、聞いててください」  飯島は出先だった。小暮が販売を止めたいと話すと、在庫はそっちへ渡しただろう、と返った。 「出してもらった店もあるでしょう。あっちも」 『本人と話がついた、って言ったのはあなただよ』 「すみません。金、渡せてなくて」 『金だけなの?』  小暮は青い鳥の袋を箱から出した。 「作ることも、まだ」  電話の向こうで、車のクラクションが鳴った。飯島は何も言わなかった。小暮がすみませんと繰り返すと、あとで掛け直す、と答えた。  成瀬が名乗った。先週木曜、小暮と一緒にいた時間についても伺いたいと告げると、飯島は声を落とした。代金を受け取ったことは認めた。小暮が脇から「十八時には来てたでしょう」と言い、成瀬に手で制された。 『帳簿を見ないと。ほかのお客さんまで見せるのは困りますけど』 「必要な日付をお伝えします。九月十日です」 『明日は外です。木曜、九時までなら』 「八時に伺います」  通話が終わっても、小暮は携帯を棚へ置いたままだった。 「ATMで下ろして、払ったんです。七時すぎまで一緒にいました。そこは、ほんとに」 「飯島さんにも確かめます」  成瀬は木曜の予定を書いた。  家庭用ミシンと折り畳みの作業台が、窓に向けて置いてあった。脚の下に厚紙が畳んで挟まれ、床を拭いたあとも、その周りだけ埃が残っている。 「三月くらいから、詩乃さんに使ってもらってたんです。週一、二回。父親の知り合いが店へ来るから、こっちならって」  小暮は作業台へ袋を並べた。同じ鳥の柄がいくつも出てきた。 「一人で作れる数じゃ、置いてもらえない。本人にも分かってもらえると思ってた」 「見せるだけ、と話したんですね」 「そうです。でも、店を探して歩いたのは、俺です」  戸崎が宇津木の未収伝票を開くと、小暮は声を止めた。 「八月十一日に運んだ分ですね」 「三万六千。払います。奥さんへ」 「この日、詩乃さんとも会っていますね」 「はい。ここで」  小暮は伝票を見たまま、真知にも払えと言われた、と話し始めた。  火曜の夜、戸崎たちが真知の家を出たあと、詩乃へ渡す金を持って訪ねていた。預かってもらおうとしたが、受け取ってもらえなかった。 「自分で渡せって。いつまで人を通すんだって、弟にも同じこと言ってると。俺に言うなって、思ったけど」 「帰ったのは?」 「九時すぎです。長くはいません」 「その間、真知さんは携帯を使っていましたか」 「寺田って人に返してました。冷蔵が先だとか。俺が話してるのに、ちょっと待てって」  真知の携帯にも、二十時四十二分の送信が残っていた。戸崎は寺田の画面を見せてもらった頁へ、小暮の話を書き足した。  成瀬が二つの夕方の時刻を担当へ送った。小暮は紙を畳もうとし、未収の伝票は戸崎の物だと気づいて手を引いた。  鑑識員が棚の下段を確かめると、黒い業務糸が二本出た。同じ銘柄だからといって、どの現場へ渡ったかは分からない。購入記録と使い方を確かめると、小暮は箱単位で買い、必要な者が取っていたと答えた。  戸崎が相談記録にあった写真のことを訊くと、小暮は窓を指した。外から作業姿を撮ったのは、店の従業員だった。七月、詩乃が宣伝用に使いたいと頼んだ。元画像は店のパソコンにも残るという。 「本人へ渡したのと同じ物ですか」 「そのままです。窓、切る前の」  戸崎は裏へ回った。庇の下に鳥の巣の跡があり、窓から作業台が見えた。詩乃がここに座っていたら、顔を上げても撮る相手はすぐ分からなかっただろう。  店へ電話すると、従業員は写真の件を覚えていた。自分の仕事を見てもらいたいと言われて撮った、と答えた。 「それも、調べるんですか」 「元の画像を確認したいんです」 「詩乃さんには、そう言ってください。勝手に撮ったんじゃないです」  戸崎は分かりましたと答え、担当に原画像の確認を頼んだ。小暮は電話が終わるまで箱のそばに立ち、女が自分のことを何か言ったかと訊いた。言いませんでした、と答えると、俯いた。  小暮は詩乃の作業台の引出しを開けていた。本人へ返す物と店の伝票を分けていると、六月の注文票が出てきた。戸崎が、金曜までと約束してから返事の変わった仕事かと確かめると、小暮はズボン三本だと答えた。 「無理な量ですか」 「あの子には、そうでもないです。だから最初はできるって言ったんでしょう。単価も前と同じでした」 「待ってほしい理由は」 「誰かに聞いてるって。何が駄目かも、まだ分からないって。結局ほかへ頼みました。金曜の客は、待ってくれないので」  単価を変えた時は、匿名の相手からの文を見せられたという。ほどく作業と縫う作業を別に数える。小暮はその助言には従っていた。 「面倒な人、挟むなって言いました。仕事の話くらい、自分で返事してくれと」  小暮は作業台を見た。 「あれも、言い方、悪かったんでしょうね」 「その時のやり取りも、残っていますか」  成瀬が尋ねると、小暮は携帯を取りに戻った。料金を変えた方の文も、と言われ、そっちも出します、と答えた。  *  店へ戻ると、従業員はもう帰っていた。引継ぎの紙と、金曜の納品の控えがレジの上にあった。  小暮はそれを読んでから、白い紙へ臨時休業と書いた。下に電話番号を足し、しばらく見た。 「留守電、聞きます。毎晩」  誰にともなく言い、ガラスに貼った。  小暮は旅行鞄の口を閉じ、ミシンの電源を抜いた。窓を一つずつ確認してから、入口へ戻った。 「今日のこと、担当が改めて聞きます」  戸崎が言った。虚偽の通報に至った経緯の確認は、これで終わらない。 「はい」  小暮はシャッターの紐を握った。 「でも、今度、本当に何かあったら」 「連絡してください」 「また俺だと思うでしょう」  戸崎は、そんなことはない、とすぐには答えられなかった。 「何が起きたかを、調べます」  小暮はそれを聞いてから紐を引いた。最後の隙間が閉じるまで、中を見ていた。  本人を送り届けた班から、安全確認の連絡が来た。今後の警戒についても、そこで説明することになった。納品は従業員が引き受けた分だけ。今後の外出は、先に相談する。  同じ日の夕方、映像を見た担当から返事が来た。真知の家の向かいの医院で、小暮の車が退出したのは二十一時九分。真知の姿は写っていない。倉庫の管理人が持つ映像では、木曜の飯島の車は十八時二分から十九時八分まで駐車していた。車を置いていた間のことは、飯島の話を待つことになった。  戸崎は署へ戻る車で目を閉じた。明日、その店を開けてよいとは、言ってこられなかった。  *  二十一時十三分、旧物流センターへ警察官が向かっていると本部へ連絡が入った。  匿名通報。警備員が襲われ、意識はある。事務室のそばに、黒い糸で繋いだ作業手袋が置かれている。 「また糸か」  誰かが言った。戸崎も一瞬、小暮の作業台を思い浮かべた。  無線担当が続報を復唱した。 「左右の小指だけ、と入っています」  成瀬が顔を上げた。  戸崎は椅子から立っていた。 「小暮さんは」 「確認できてる」  広瀬が別の電話を取ったまま言った。 「行け。けが人がいる」  戸崎は上着を掴んだ。小暮の店のことを考えていた数秒が、妙に長く感じられた。  車に乗ると、彼女は旧棟の図面を出した。海側に三つの積込口がある。戸崎は四番の位置を確かめ、無線の音を大きくした。 第十八章 積込口 救急車の扉が、まだ開いていた。  戸崎は車を下り、先着した警察官に案内されて旧棟へ回った。新しい棟では荷下ろしが続いている。後退するトラックの音が、壁に当たって何度も返った。  事務室の前に警備員が座っていた。額のガーゼを自分で押さえ、固定された左腕を見ている。 「少しだけ、伺えますか」  戸崎が救急隊員へ声を掛けると、短く、と返された。  しゃがんで名乗った時、警備員が先に言った。 「あの人、呼んだんですか」 「誰が、誰を?」 「警察。呼ぶって言ったから」  戸崎は隣の警察官を見た。通報は匿名だったと聞いている。目の前の男が電話したのではなかった。 「最初から聞かせてください。何時ごろ、人が来ました」 「九時前だと。巡回、九時までに戻るつもりだったので」 「時計を見た時刻では、ないんですね」  男が頷いた。戸崎は時刻の欄を空けた。  作業着の男だった。反射材が光り、帽子を被っていた。旧棟の四番の奥で荷物が崩れ、下に人がいるかもしれないと言った。 「手、貸してくれって。そういう言い方でした」 「一緒に行った」 「行きますよ」  警備員が戸崎を見た。 「人かもしれないって言われたら。見ないでいいかどうか、俺、ここから分からないんで」  戸崎は、何をしに行った、と書きかけて、その下へ続けた。人かもしれない、矢印、行く。警備員の靴は踵が潰れていた。休憩中に履き直す間もなく出たのだろうと考え、決めずに訊くと、そうだと返ってきた。  奥には何も崩れていなかった。振り返ったところから記憶が曖昧で、次に分かった時には床にいた。落ちた無線へ手を出すと、踏まれた。  男は固定された腕を身体へ寄せようとした。救急隊員が支え、動かさないよう声を掛けた。 「救急車って、言ったんです」  警備員はガーゼを持つ手で目元も隠した。 「そしたら、人を呼ぶから待っててって。動くなって」 「殴った相手が」 「はい」  戸崎はペン先を紙から離した。 「その人、慌ててました?」 「急いでる感じは。でも、普通でした。最初から、普通に言うんです。だから、俺」  その先は聞かなかった。救急隊員が搬送すると告げ、二人で警備員を支えた。  戸崎は立ち上がりながら、最後に通報したのが本人でないことを確かめた。 「目が開いたら、警察の人がいたので。呼んだんだなって」  警備員はそう答えた。  戸崎は何も返せなかった。待てと言った相手を、この人は床でも待っていた。  *  事務室の床には、灰色の作業手袋が二枚置かれていた。  人の手がない分だけ、糸の渡り方がよく見えた。左右の小指を、一本が繋いでいる。  小暮の上着では、布の袖口全体が寄っていた。戸崎はその写真を出すことはせず、現場の記録係へ、手袋の位置から残してほしいと頼んだ。  成瀬は道路側の入口へ回っていた。新棟の作業員と旧棟へ来た者を分け、出入りの確認を始めている。電話を掛けると、重機の音に混じって返事が来た。 「警備員さん、人が下敷きかもしれないって呼ばれてます」 『言葉も、本人が覚えていましたか』 「手を貸してくれ、だったと。もう搬送します。あとで取り直せるところは、病院で」 『分かりました』  戸崎は手袋へ目を戻した。 「小暮さんを、ここへ呼ぶためじゃないですね」 『行き先も漏れていません。ここへ来る理由は、今のところありません』 「俺らを呼んだ」  言ってから、自分の言い切り方に気づいた。 「それも、まだですか」 『私は、通報の記録を聞けていません』  成瀬の返事は低かった。 『海側を確認してもらえますか。現場指揮からも、四番側を頼まれています。誰かと一緒に』 「二人います。行きます」  戸崎はそばの警察官たちへ声を掛けた。一人は警備会社の責任者を待ち、もう一人と積込口へ向かった。  旧棟の照明はところどころ消えていた。白線を辿ると、海風の通る外へ出る。雨の残る窪みが、靴の下で浅く鳴った。  海側の積込口には、二番、三番、四番と番号が残っていた。四番の横を回ると、道路側から入った車も通れる構内路に繋がる。戸崎はその先へライトを向けた。  遠くで短くクラクションが鳴った。  *  二十一時四十三分、白いワンボックスが道路側の案内灯を通り過ぎた。  出ていくトラックとすれ違い、旧棟へ向きを変える。警察官が誘導灯を振り、車を止めた。 「そちらは閉鎖しています。ここで待ってください」  運転席の窓が下りた。 「四番は、こっちですか」  その声に戸崎は振り向いた。北原工業の名が車体にあり、窓の中には仁がいた。 「北原さん」  声を掛けると、仁の顔が変わった。 「何で、警察が」 「どうしてここへ来たんですか」  戸崎は車の横へ近づいた。仁は前を見ていた。四番の照明、その奥の赤色灯。 「詩乃は」 「ここには、いません」 「まだ来てないだけです」  戸崎の足が止まった。 「会う約束をしたんですか」 「本人が、話すって」 「本人から連絡が?」 「そう言ってるって、来たんです」  仁の右手はハンドルを握ったままだった。戸崎は窓枠へ手を置き、声を落とした。 「エンジンを切ってください。連絡を見せてください」 「先に詩乃と会います」 「詩乃さんは、ここにいません」 「あなたに、何で分かるんですか。俺にも言わないのに」  誘導灯を持つ警察官が運転席側へ来た。戸崎は仁の手を見ていた。エンジンを切らない。 「北原さん、一度降りましょう」 「また連れていくんですか」 「話を確かめたいんです」 「詩乃は、自分で決めたって。今度は自分でって」  仁はギアへ手を動かした。 「触らないでください」  警察官の声が強くなった。 「誰から来たんです」  戸崎も声を張った。 「警察がいたら帰るって、書いてあったんですよ!」  車が動いた。  戸崎は窓から手を引き、声を上げた。前方の警察官が退き、誘導灯が大きく横へ振れた。仁は四番へ向けてハンドルを切った。 「止まれ!」  一度、速度が落ちた。止まる、と戸崎は思った。  次の瞬間、エンジン音が高くなった。  濡れた白線を踏んで車の鼻先が外へ向く。積込口から出てきた警察官が、前へ回るように誘導灯を上げた。退く足と進む車の向きが重なった。 「下がれ!」  戸崎は腕を伸ばした。声だけでは届かないと思ったのか、思わなかったのか。肩を掴み、横へ押した。  硬いものが左の腰の下へ当たった。  足をつこうとして、つけなかった。目の前にコンクリートの縁が来た。腕より早かった。  息が出たまま、吸えなくなった。  赤い棒が地面に落ちている。誰かの靴がそれを跨いだ。仁の声が、遠い。 「詩乃はどこだ」  まだ、それを言っている。  戸崎は身体を起こそうとした。痛みが遅れて来て、目の奥が白くなった。 「動かないでください」  肩を押さえる手があった。別の手が、無線を持っている。 「怪我、は」 「俺は大丈夫です。戸崎さん、動かないで」  誰の手か確かめるために首を回すこともできなかった。大丈夫なら、よかった。それだけを口にしようとして、空気が喉で止まった。  *  成瀬が四番へ着いた時、誘導灯が一本、積込口の脇へ置かれていた。  救急車は出たあとだった。二台目だったのだと、説明されてから分かった。警備員を乗せた救急車のことばかり考えていた。 「意識は、ありました」  警察官が言った。 「左脚と、骨盤の周辺。腹部も確認すると」 「搬送先を」  成瀬は番号を控えた。ペンの先が一度滑り、最後の数字を書き直した。  北原仁は、その場で逮捕されていた。停止を求める警察官の前で車を進め、戸崎を負傷させた。車両は動かさず、運転席周辺も保全していた。  別の車の後席に仁が見えた。成瀬が近づくと、彼は内側から顔を向けた。 「知らなかったんです」 「何を」 「警察がいると。詩乃と、会うだけで」  成瀬は窓の手前で止まった。 「誰から連絡が来ました」 「知らない人です。でも、前にも当たったから」  成瀬は手帳を開いた。土曜日には、その後の連絡はない、と答えていた。 「今日の文は、残っていますね」 「携帯に。もう持っていったでしょう」  そばの捜査員が、端末を確保していると答えた。成瀬はその人へ確認の項目を伝えた。 「先生、呼んでください」  仁が言った。 「瀬尾先生には、来ることを話しましたか」 「話してません」 「警察にも」 「言ったら会えなくなるんですよ。書いてあったんです」  仁は前のシートへ目を向けた。 「本人が決めたって。自分で話すって」  成瀬はその二つを書いた。字が細くなり、もう一度なぞりかけてやめた。  戸崎へ電話で何と言ったかは、一語ずつ覚えていた。海側へ。誰かと一緒に。二人いる、と返ってきた。足りない確認があったのなら、どこだったのだろう。  広瀬から電話が来た。今いる場所を答えると、本部へ戻れと命じられた。成瀬は現場の引継ぎをしてから車へ乗った。  助手席には図面が開いたまま残っていた。四番を戸崎が指したところに、爪でついた浅い線があった。  *  零時を過ぎて、車内の物の一覧が届いた。  手袋。会社の書類。懐中電灯。小封筒。  封筒は運転席脇の収納に入っていた。口は閉じられ、表に宛名はない。成瀬は手続の確認を担当へ頼み、画面を拡大したまま待った。 「戸崎は」  広瀬が隣へ来た。 「手術に入りました」 「何時に」 「連絡は、十分前です」  広瀬が時計を見た。二人とも、封筒の写真へ目を戻した。  現場班が、戸崎の携帯を持ち帰った。倒れた場所に落ちていたという。成瀬が預かろうと手を出すと着信が鳴り、応答すると、昼に頼まれた映像の用意ができたという連絡だった。 「明朝、伺います」  時間を決めて書いた。相手が、戸崎さんによろしくと言った。 「はい」  成瀬は電話を置いた。空いた椅子へ上着を掛けかけ、手に持ったまま立っていた。 第十九章 一人分 電話を掛ける用事を、成瀬は手帳から探していた。 「明日の八時です。飯島さん。帳簿を見る約束が」  午前三時だった。署で電話を取った捜査員が、明日というのは今日か、と訊いた。 「木曜日です。すみません、十七日です」 『分かりました。戸崎さんの手帳にもありますか』 「私が取りました」 『じゃあ、そっちを回してください』  通話を終えると、手術中の表示がまだ赤かった。時刻を書き送った。送信済みになったあとも、文章の頭にある木曜日を見ていた。さっきから、日にちがうまく数えられない。  廊下の向こうに戸崎の家族がいた。成瀬は挨拶した時の姿勢のまま、そこから離れた椅子に座っている。娘には何と伝えたのだろう。訊いてよいことなのか分からず、訊かないまま何時間も経った。  海側へ行ってください。自分の声だけは、何度思い出しても同じだった。そのあとに付けた、誰かと一緒に、も。  二人います、と戸崎は言った。  成瀬は膝の鞄から携帯を出した。今しがた送った文が開いていた。ほかにしておくことはないだろうか。何か一つ思いつけば、その間だけ表示を見ずに済む。  広瀬が自販機から戻り、隣の椅子へ缶を置いた。 「飲め」 「ありがとうございます」 「帰ったら三時間寝ろ。午前の確認は俺が振る」 「仁には私が」 「今、決めるな」  成瀬は缶を取った。熱くて、膝へ戻した。  三時十二分、赤い表示が消えた。  医師の説明を、成瀬は家族の後ろで聞いた。出血は止まった。命に関わる状態は、ひとまず越えた。左脚と骨盤周辺には損傷があり、今の段階で回復の程度は言えない。  ひとまず、というところをもう一度訊きたかった。前に立っている家族が質問をし、医師が答えた。成瀬はそのやり取りを聞く側へ戻った。  椅子の鞄を取る時、持ち手が切れた。  片方だけ手に残り、本体が床へ落ちた。音が大きかった。ファイルが半分飛び出している。成瀬はすぐしゃがみ、紙を押し戻した。表紙の角がファスナーへ引っ掛かった。 「持つから」  広瀬の手が伸びた。 「待ってください」  切れたところを合わせた。毛羽立った布が重なる。指を離すと、持ち手はファイルの上へ垂れた。 「成瀬」 「分かっています」  自分でも驚く声だった。広瀬の手が止まった。  分かっている。直らない。この場で押さえていても。口を閉めようとするとまた布が挟まり、成瀬はそれを引っぱった。余計に裂けそうで手が止まる。 「……少しだけ」  広瀬は何も言わず、鞄の口を持ち上げた。成瀬が布を中へ入れる間、支えていた。  車へ乗る時は、底を抱えた。助手席の足元へ置く場所があるのに、膝から下ろせなかった。  *  休憩室のソファで目を閉じたはずだった。呼ばれて起きると、成瀬の携帯には六時十九分と出ていた。  仁の車内から押収した封筒が開けられていた。  写真の中に、黒い糸と鍵がある。 「真知さんの部屋ですか」 「確認が取れた」  広瀬は封筒自体の写真も出した。押収時には封が閉じている。開封の痕跡については引き続き確認するという。  仁が持っていた。車の中に。昨夜、娘に会うと言って突っ込んできた車に。  成瀬は写真を机へ置いた。 「この鍵で入った人が、仁とは限りません」 「分かってる」 「真知さんの時は署にいます。遠山さんの時は瀬尾先生の――」 「成瀬」  広瀬が彼女の椅子を引いた。 「誰に言ってる」  成瀬は立ったまま、ホワイトボードを見た。仁の名前があり、その下へ昨夜の日付が追加されている。 「本人に聞きます」 「途中で代わる。そう言ったら代われ」  成瀬は頷き、用意されていたパンを取った。袋を開けると、思ったより口が乾いていた。  *  仁は鍵の写真を見て、先に封筒の方へ手を伸ばした。 「これ、開けたんですか」 「あなたの車から押収した物です。中は、これでした」 「そうですか」  仁が写真を押し返した。 「瀬尾先生は」 「接見の申入れが来ています」 「先に会わせてください」  成瀬は記録係へ目を向け、確認を頼んだ。戸口が閉まるまで仁は黙っていた。そのあとで、封筒へ視線を戻した。 「手紙かと思ってたんです」 「誰の」 「娘です。俺には言えないことを、書いたのかって」 「どこで受け取りました」 「会社。先週です」  問いを重ねると、仁は携帯を見れば分かる、と何度も言った。送り主のアドレスはその都度違った。以前、娘の写真を送ってきた者と同じだと思った。封筒はそのまま持っておけと言われ、昨日は持参するよう求められた。 「開けなかったんですか」 「開けるなって書いてあった」 「その人に言われたから」 「詩乃が説明するって。本人が」  仁はそこだけ顔を上げた。 「鍵だったんですね」 「川瀬真知さんの部屋の鍵です」 「俺、あの人の部屋、知りませんよ」  仁の手が机を離れた。膝の上で何かを握り、そのまま黙った。  成瀬は次の紙へ移ろうとした。 「昨日の人」  仁が言った。 「どうなりました」 「手術を終えました」 「生きてるんですね」 「はい」  仁が長く息を吐いた。肩が下がる。それを見た途端、成瀬は紙をめくる手を止めた。 「止まってくださいと言われていましたね」 「止まったら詩乃が帰るって――」 「止まれと言われた声は、聞こえていましたね」 「聞こえてました」 「それで進めた」 「前に出てくるから。あの人たちが。下がればよかったんです」  写真を重ねようとした手が止まった。成瀬は仁を見た。下がれば。戸崎は今も、寝返り一つ自分で打てないかもしれないのに。  机の隅に置いたコップへ、手を伸ばした。水を飲んでも言葉が変わる気はしなかった。  今のところを、もう一度。その問いを出す前に、広瀬が戸を開けた。  成瀬は廊下へ出た。 「代わる」 「続けられます」 「そういう話をしたか」  成瀬は手元を見た。写真の角を折っていた。伸ばすと、爪の形の白い線が残った。 「止めろと聞こえていたか、二度聞きました。記録は前から全部残してください」 「分かった」  戸が閉まり、成瀬は椅子に座った。写真を持ったままだったので、戻して渡した。仁の顔を見なかった。  *  午前の確認を終えた捜査員が、仁の答えを持ってきた。  写真館では、宇津木は立ち上がり、娘を出せと怒鳴った。仁は出入口を閉め、車に乗った。以前の話と変わっていない。 「最後に、自分が娘を出していたら、あの人たちは死ななかったかもしれない、と」  成瀬はその前後を読んだ。  仁は殺したとは言っていなかった。どこまで自分のせいなのか分からない、と言い、弁護士はまだかと訊いている。 「そこだけ、まとめないでください」 「このままですね」 「はい」  返した紙の下に、戸崎の手帳があった。病院から届いた所持品の一つだった。  成瀬は必要な頁を開いた。物流センターのところは時刻欄が空いている。矢印の先に、行く、と走り書きがあった。  人かもしれない、の次に。  手帳を閉じると、もう読むところがない気がしてしまった。成瀬は開き直した。手前に、恵から仕事の控えを借りる予定があった。自分の手帳にはない。  恵へ掛けると、金額のことですか、と疲れた声が返った。 「ご主人が、仕事の途中でどこへ行こうとしたかを。控えも、もう一度見せていただきたいんです」 『明日なら。午前は、こちらから電話するところがあって』 「午後に伺います」  戸崎の机へ入れておくつもりだった紙を、自分の手帳へ挟んだ。明日の飯島の分もある。成瀬は両方の住所を確かめ、移動に要る時間を書き込んだ。 第二十章 手を貸す 飯島は成瀬を見ると、腕時計を示した。 「八時からです。九時には出ます」 「はい。お願いします」 「二人で来るって聞いてたから、椅子、借りてきたんですけど」  事務机の前に、小さな椅子が二脚並んでいた。成瀬は自分の分だけ引いた。借り物の手提げを開けると、いつもの場所に内ポケットがなく、名刺入れが底へ落ちていた。 「戸崎は入院しています」 「ニュースの。そうか」  飯島は椅子を一つ片づけた。机へ戻ると、帳簿に挟んだ紙を何枚か抜き、関係のない客名を隠した。 「小暮さんが何を言ったか、先に聞いていいですか」 「九月十日の夕方、倉庫で飯島さんへ現金を渡したと。今日は飯島さんが覚えていることと、記録を確認したいんです」 「何を覚えてたら、あの人は助かるんです」  成瀬はペンを持ち直した。 「助かる方へ合わせなくて大丈夫です」 「合わせませんよ」  帳簿を開く音が強かった。 「こっちは縫った分も払ってもらってなかったんです。売れ残りを買い戻すって、随分いい話にしてますね」  飯島は日付を指した。成瀬が数字を写し終えるまで動かさなかった。 「無断で作らせた件は、別に伺います。この日、二人で数えたんですね」 「二枚合わなくて。あの人は箱が違うって言うし、こっちは数えて持ってきてるし。全部出しましたよ。床に」 「小暮さんが途中で外へ出たことは」 「出さなかった。何かあると、すぐ店へ戻るから。トイレもあとにしてくれって言いました」  成瀬は駐車場の映像で確認した十八時二分と十九時八分を示した。飯島は鞄から受領書の控えを出した。金を受け取るまで帰らなかった、と言い、支払の欄を爪で押さえた。  遠山が殺された時、小暮は飯島と倉庫にいた。  確認した順に読み返すと、飯島は頷いた。奥から呼ばれ、今行く、と大声で返した。 「これ、写しをいただけますか」 「そこの機械で。ここ以外は伏せますよ」  飯島が紙を重ねて立つと、机の下から糸くずが一つ転がった。 「守ってもらいたくて嘘をついたって、本当なんですか」  成瀬は顔を上げた。 「どこから聞きました」 「店の子。うちにも納品に来ますから」 「その件は担当が確認しています」  飯島は複写機の蓋を開けた。 「これで殺してないことになっても、払ってない金まで消えませんよね」 「消えません」  紙が出てくるまで、飯島は機械に両手をついていた。成瀬は出来上がった写しを受け取り、九時になる前に作業場を出た。  *  真知の勤務先では、寺田が貸出表を探していた。  成瀬が台車について連絡したのは前日の夕方だった。寺田は、書類を探す前に一つ頼みたいと言い、真知のロッカーから出した会社の上着を紙袋で持ってきた。 「そちらも、返す先を確認します。それから、悟さんに貸していた台車を」 「すみません。どこへ頼めばいいか分からなくて」  寺田は紙袋を置き、倉庫へ案内した。  青い平台の台車が壁に立て掛けてある。取っ手の白いテープは新しかった。 「十一日に返ってきました。姉ちゃんのことがあったんだから、急がなくていいって言ったのに」 「貸したのは?」 「一日です。ここに名前があります」  表には悟の字が残っていた。成瀬は台車と貸出表を撮影させてもらった。 「直して返してくれたんですね」 「ピン。抜けそうだったんですよ。あと、握るとこがねばついてたのを、巻き直してくれた」  成瀬は取っ手を起こした。左右が揃って止まる。手を離すと寺田が平台を押さえた。 「前の写真は、ありませんか」 「台車だけの?」 「荷物と一緒でも」 「それなら、何かあるかも。真知、積んだら写真送れって、うるさかったから」  寺田は携帯を出したが、画像を二、三枚送ったところで止まった。 「横しかないな。これ、見えます?」 「いただいて、見ます。正面もあれば」 「納品先にも聞いてみる。怒られるから撮ったやつが、役に立つんだ」  倉庫を出ると、先ほどの上着がまだ机にあった。寺田は袋の口を広げ、畳み直した。成瀬は返却についての連絡先を、その場で担当に確かめた。  *  恵の家へ着いた時、電話は終わっていなかった。  食卓の上に取引先の名前が並び、終えたものには赤い線が引いてあった。恵は受話口を覆って成瀬を招き入れ、また電話へ戻った。 「はい。今後も、お受けできません。ええ、亡くなったので」  成瀬は椅子の前で待った。恵が手で座るよう示し、聞いているうちに、その手が宙で止まった。 「そうでしたか。……いえ、私、聞いてなくて」  電話が切れた。  恵は座らず、開いた帳面を見下ろした。 「引越しを三回頼んだ人でした。最後、離婚で。急に出なきゃいけなくなって助かったって」  赤鉛筆を取る。 「お礼、私に言われても」  線を引かずに置いた。 「お待たせしました。仕事の控え、これです」  厚い箱を成瀬の前へ寄せた。見せるための場所は空いたが、成瀬はすぐには開けられなかった。 「今の電話は、あとで印を」 「分かってます」  恵の返事に、成瀬は手を引いた。 「ごめんなさい。昨日、同じ人に二回掛けたんです。夫が死んだのでって。二回」  恵は箱の蓋を開けた。写真館の仕事は棚の下見で、追加の荷物は現場で決めることになっている。成瀬は前に確認した頁を脇へ置き、別の日の欄を見せてもらった。  断った仕事の横に、ほかの業者の番号がある。長い走り書きは、運ぶ物ではなく電話した相手の話だった。 「宇津木さんは、頼まれると断りにくい方でしたか」 「断ってましたよ。腰が痛かったら。お酒飲んでても。いい人だったんでしょうって、聞かれるんですけど」 「会社で人に使われるのが嫌で、一人で始めたんですよ。そしたら、今度はお客さんが。夜でも来てって。で、帰ってくると、こんな時間まで使いやがってって、私に。知らないですよ、行ったの自分でしょう」  箱の上へ落ちていた輪ゴムを、恵は帳面へ挟んだ。 「断ればいいじゃないって言うと、じゃあ誰が運ぶんだって。別の業者もいるでしょう。私、運んじゃ駄目なんて言ってないんです。ああ、違う。仕事の話ですね」 「聞いています」 「そうじゃなくて、どこへ行ったか、でしょう。ちゃんとあるんです。ここに」  恵は帳面をめくった。  成瀬は、一つの依頼の下に三度書かれた時刻を見た。話を聞いただけの日と、実際に運んだ日が違う。 「詩乃さんの時も、最初はお客さんだった」 「そうです。若いのに頑張ってるって。お金まで安くして。こっちも頑張ってるよって、私、言いました」  成瀬の手元を見て、恵は付け足した。 「今の、書かなくていいです」  成瀬はペンを置いた。  恵が立ち、お茶を入れてきた。湯呑みを渡す手の先に、さっきの名前が残っていた。 「この人、終わってますね」  赤鉛筆を持ち、成瀬を見た。 「はい。さっきの電話です」  恵は名前を消した。その隣の番号を指で追い、受話器を取った。成瀬は控えを片づけ、冷める前にお茶を飲んだ。帰りの挨拶をする間も、恵は電話を耳から離さなかった。  *  署へ戻ると、物流センターへ仁を呼び出した連絡が机にあった。  二十時四十六分送信。会社の問い合わせフォームを使っている。  詩乃が自分で話す。二十一時四十分ごろ、四番積込口。警察がいる所では会わない。来るかどうかは仁が決める。来るなら、前の封筒をそのまま持ってくる。  成瀬はそれを、警察への通報の記録と並べた。そちらは二十一時六分だった。通報者は、手袋の小指が黒い糸で結ばれていることまで告げていた。 「警備員の方、自分が見に行ったのが悪かったのかって、何度も」  再聴取した刑事が、椅子に手を掛けて話した。 「同じ病室の人に、棚の袋を取ってと言われて、ナースコールを押したそうです」 「腕が使えなくて?」 「右で取れた、と。会社には言わないでほしいと言われました」  成瀬は頷いた。受け取った記録の最初へ戻った。呼ばれて行き、殴られ、助けを呼ぶと言われて待った。声は普通だったという。  この話を戸崎に伝えるべきだろうか。病棟へ電話しようとして、携帯に表示された次の予定を見た。  過去の公開投稿を調べ、サービス側を通して聴取への協力を求めていた。その一人と、電話の約束をしていた。  * 『辞めてませんよ。今も、そこで働いてます』  相手は退勤したところだった。途中で同僚に挨拶する声が入り、成瀬はペンを止めて待った。  詩乃の相談相手は、初めには自分も困り事を投稿していた。返済できない金について質問し、返せる日と連絡する日を一緒にしなくていい、と教えられた。その後の礼も残っている。電話を掛けた。怒られなかった。  回答する側へ回ってからも、最初のうちは似た助言が多い。  今、話している女性にも、給与の内訳を確かめた方がいいと教えていた。女性はそれを役立て、就職先を決めた。礼のあとには、条件を見せて、まだ辞退できる、と繰り返し投稿されている。 「条件は、ご自身で確かめたんですね」 『会社でもらって、家で見ました。でも、給料がいつ入るか分からなくて。今さら聞いたら、採用やめるって言われないかなって』  成瀬は、回答の写しへ日付を書いた。短い文が三つ続いていた。最初は問いだった。今の部屋の支払いには、間に合いそうか。 『聞かなきゃ、そこ分かんないですよね。何日って教えてもらって、家賃に間に合うって、その人にも返したんです。おかげで電話できましたって』 「そのあとも、条件を送るように言われた」 『そうです。だから、全部見て自分で決めましたって。採用の人にも、行きますって言ったあとで』  向こうで風の音がした。 『一回だけ、まだ考えてますって書きました。決めたって言うと、また来るから。そしたら、じゃあ明日続きをって。私、次の日はもう仕事だったんです』 「そのあと、返事をやめたのは」 『何を返せばいいんですか』  成瀬は答えられなかった。 『教えてくれたことは助かったんです。でも、辞めた方がいいって、もうその話になってて。昼休みに開いて、閉じて、また開いて。午後はロッカーに入れました』  向こうで駅の放送が鳴った。 『これ、あの人に話すんですか。まだ仕事辞めてないって』  成瀬は記録の扱いを説明し、今後の連絡方法も確かめた。通話を切ってから、日付の並ぶ資料へ目を戻した。  返事の来なくなった人は、ほかにもいる。  詩乃は翌日も書いた。その次の日も。長い文の最後に、これでよかったでしょうか、とあった。  成瀬は病院へ掛けた。今日は面会を見合わせてほしい、と告げられた。事情を聞くと、容体が悪化したわけではないという。それを確かめてから切った。  戸崎へ送る文を開いた。三軒、行ってきました、と打ち、数え直した。三軒とも、仕事をしていた。自分が帰ったあとも、まだ。  明日、資料を届けます。  そう足して送った。 第二十一章 言い分 九月十八日の金曜日、悟は部屋へ来てもらう方が早い、と言った。  以前の派遣会社の資料も作業着もそこにある。午後の仕事へ戻る前なら見せられる。成瀬は訪問の範囲を確かめ、別の捜査員と二人で向かった。  玄関を開けた悟は、弁当の蓋を持っていた。 「まだ食ってて。すみません、食べながらでいいですか」 「どうぞ」  ワンルームの床には、二人が座れる場所が空けてあった。折り畳みの机に弁当と給与明細の束が載っている。カレンダーの黒い丸を、悟が指した。 「今日、夕方からもう一回。だから四時半には出ます」 「残った分は、また相談します」 「残すつもりなんですね」  成瀬が答えを探す間に、悟は笑って明細を退けた。 「冗談ですよ」  旧物流センターの作業指示書が出てきた。前年、二度入った記録と合う。反射材付きの作業着も二着あった。成瀬が写真を撮る間、悟は弁当箱の米を箸で集めた。 「番号なんて、覚えてないです。四番って言われても」 「旧棟へ入ったことは?」 「紙には、そう書いてあるんでしょう」 「あなたが覚えていることを聞いています」  悟は箸を置いた。 「その聞き方、姉ちゃんもされました?」  成瀬は顔を上げた。 「あの晩、二人で来たんでしょう。何を思い出せ、何を見たって。それで帰って、姉ちゃん殺されて」 「その時のことも、確認し直しています」 「確認はするんですね」  隣の捜査員が座り直した。成瀬は指示書を元の向きへ戻した。 「今日聞くことを、先にお伝えします」 「分かってます。俺が何したか。姉ちゃんがどうだったかじゃなくて」  携帯が鳴った。悟は表示を見て成瀬へ向け、職場です、と言った。 「出て構いません」 「ラベル? 貼り替えた? まだ。じゃあ、そのままにしといて。貼ってある上から貼ると、また読めなくなるから」  悟は蓋を持ったまま笑った。 「怒られたの。それ、昨日も俺がやったやつ。自分が全部間違えましたって言わなくていいよ。聞いてやったんだろ。俺の名前、言えばいいから」  隣の捜査員が腕時計を見た。悟はそれに頷き、弁当箱の上へ蓋を置いた。 「新しいのは右の棚。一番下。そっちじゃなく――あ、もうできたの。誰に聞いた。班長か。じゃあ、出来たやつ写真送って」  成瀬は作業着の袖を揃えた。携帯から声が漏れたが、言葉までは聞き取れなかった。 「いや、違う。怒ってないって。いいよ、もう積んだんなら」  悟は携帯を伏せ、弁当の蓋をした。 「新人です。俺に聞くって言ってたんで」 「台車の修理も、職場でしたんですか」 「寺田さんの? はい。合うピンがあったから。それと、テープがべたべただったんで替えました」 「ほかには」 「それだけです。直して返したら、何か悪かったですか」 「確認しています」 「便利だな、それ」  悟は机の下から封筒を引き出し、資料の上へ置きかけた。表に真知と書いてあるのを見て、脇へよけた。 「借りた金。八千円です」  訊く前に言った。 「夏前、携帯の払いが足りなくて。返す前に死んだんで」 「扱いは、担当に確認しましょうか」 「金の話にすれば、そうでしょうね」  成瀬は封筒を見た。真知の名前の下に、鉛筆で何か書いて消した跡があった。  悟が空の弁当を持って立った。流しの横には保存容器が伏せてあり、蓋の日付が油性ペンで黒かった。 「これも返すんですか。担当に」 「真知さんの物ですか」 「はい。ちゃんと洗ってますよ」  悟は容器の蓋を取ったが、重ねる順が合わず、元へ戻した。 「返す先なくなったら、これどうすりゃいい」  成瀬は返事をしなかった。悟は流しの前にしばらく立ち、それから机へ戻った。  *  南口の弁当屋の話になると、悟は床に投げ出していた足を畳んだ。 「店を間違えた。それは、もう言いましたよね」 「通った道について、付け足すことはありますか」 「ないです」  十九時三十六分の通話自体は記録にある。基地局の範囲では店の内外まで区別できない。話した十四分のずれを、悟は思い込みだと言っていた。  成瀬は帰路の図を戻した。次の紙には匿名相談サービスの名を書いてある。 「これは、使ったことがありますか」  悟は字を見て首を振った。 「ないです」 「読んだことも?」 「知らないです。何です、それ」 「詩乃さんが、ここで相談をしていました」 「そうなんですか」  悟が紙を押し戻した。 「仕事のこととか、父親のことですか」 「その話はどこから」 「姉ちゃん。家にいたんですから、詩乃さん。父親と揉めて、今は縫う仕事してるって」 「店以外の作業場所についても?」 「店以外にもあったんですか」  成瀬は待った。 「俺は二回しか会ってないですよ。年明けの飯と、春に箱届けた時。その子の仕事場まで、何で知ってるんです」 「直接の連絡はない、と」 「番号、知らないです」 「匿名でのやり取りもありませんか」  悟は紙へ目を戻し、今度は成瀬を見た。 「匿名なら、分からないでしょう」 「詩乃さんだと分かって、連絡したことがあるかを訊いています」 「ないです」  成瀬はその答えを書いた。隣の捜査員が腕時計を指した。成瀬も時刻を確かめた。あと二十分だった。 「宇津木さんや遠山さんのことは、真知さんから聞いたんですね」 「荷物運んだとか、ミシン直したとか。健さんは一回会いました。姉ちゃんの家で」 「真知さんも、詩乃さんに手を貸していた」 「飯出したんですよ。姉ちゃんは」  悟は自分の弁当があった跡へ手を置いた。 「あの人、食わないと怒るんです。具合悪いのかって。違うって言うと、じゃあ食えって。おかしいでしょう」 「怒る、というのは?」 「怒鳴るとかじゃないです。そんなとこ、分けなくても」  成瀬はペンを止めた。 「行ったら、もうあるんですよ。俺の皿が。こっちが何食いたいかも聞かないで」 「あの晩は、食べていましたね」 「出されたから。俺が食わないと、いつまでも片づけないんです。だから先に食って。それで、また来いってなる。今、食いましたよねって」 「真知さんが、そう言ったんですか」 「そんな言い方はしません。次は何食べるって、もうそういう話になるんです」  成瀬は書きかけの言葉を見た。食べた、と書いたところで止まっている。続きを訊こうとすると、悟が時刻を告げた。二人は資料を戻した。悟は靴を履きながら、姉の鍵は前に返した、と重ねて言った。前に聞いた時と答えは同じだった。  外階段へ出ると、成瀬は手提げの重さを左右で持ち替えた。悟が鍵を回して追いつき、まだ何か、と訊いた。 「今日は以上です」 「じゃあ、仕事行きます」  彼は歩いていった。こちらが車に乗るまで、振り返らなかった。  *  署へ戻ると、瀬尾が会議室で待っていた。  本人の同意を得た範囲のメール原本を、ノートパソコンで示す。広瀬が複製の準備を進める間に、成瀬は九月九日の転送を読んだ。  二十一時十四分。件名は、また来ました。  これも無視でいいですか。  添付された匿名の連絡は、その三分前だった。会社の郵便受けに詩乃に関係する物を入れた。受け取るかは仁が決める。本人が説明するまで開けずに取っておく。今、警察へ渡せば持っていかれると思う。必要な時には連絡する。  瀬尾の返信は二十一時十六分。  返信しない。会社へ行かない。画面を保存する。翌日、扱いを相談する。  さらに二分後、仁は分かりましたと返していた。 「その晩に行ってます。会社へ」  広瀬が防犯カメラの時刻を置いた。二十一時五十六分着、二十二時五分すぎ発。 「昨日、初めて知りました」 「翌朝、聞かなかったんですか」 「聞きました。何もしていない、と」  瀬尾は画面をこちらへ向け直した。成瀬はスクロールを止めるよう頼んだ。必要になったら、こちらから連絡します。その一行を、十五日の呼出しと並べる。 「この時、こちらへ知らせなかった理由は」  広瀬が訊いた。 「以前の匿名情報は把握されている。今度の封筒が本当にあるかも分からない。本人には取りに行かないよう言い、本人も行っていないと答えた。そこで止まっていました」 「あなたは」 「私も、確認していません」  会議室の外を誰かが急いで通った。瀬尾は音の方を見ず、手を膝へ戻した。 「私がもっと早く、と言えば、皆さんが納得する話ではないでしょう。原本をお渡しします。私がしたことは、この通りです」  広瀬は返事をせず、複製を担当する捜査員を呼んだ。  成瀬は瀬尾を送り出してから、仁へ確認する箇所をまとめた。会社へ行った理由は経理書類だと言っていた。九分で出てきた。封筒を持ち帰り、開けなかった。  翌日の確認で、仁はそこを訂正した。 「開けたら、また会わないって言うかと思って」  娘本人から聞いたわけではない。そう確かめると、仁は頷いた。 「先生には、怒られると思って」  成瀬はその答えも書いた。仁は何か言いかけたが、口を閉じた。謝罪を待たず、成瀬は次の時刻を確認した。 第二十二章 返す日 九月二十二日、戸崎は紙コップに手を伸ばしていた。  成瀬は戸口で足を止めた。枕の位置を変えれば届きそうだったが、彼は右肘をついたところでやめ、背中を戻した。二度目に手が上がった時、成瀬は入っていった。 「取ります」 「どうも。そこ、あと五センチが遠いんです」  飲み終えたコップを戻し、テーブルを寄せた。戸崎は空いた手を布団の上に置いた。 「仕事してます?」 「しています」 「だったらよかった。飯島さん、怒ってました?」 「小暮さんに。帳簿は見せてくれました」 「あの人の怒り方、電話でも分かりましたもんね」  成瀬が笑う前に、戸崎は顔をしかめた。腹を押さえる手を見て、椅子から腰が浮く。 「大丈夫。笑う方も、こっちの勝手なんで」  成瀬は座り直した。  知らせようと用意した話は幾つもあった。封筒の時刻、台車の写真、警備員の退院見込み。いずれも口を開けば、あの晩へ戻ってしまう。 「海側へ行くように言ったのは、私です」  戸崎がこちらを向いた。 「私が行っていれば」 「何が違いました?」  成瀬は口を閉じた。 「すみません。責めてるんじゃないです。ほんとに、何が違ったんだろうって」  戸崎は左脚を見た。 「俺が走ったんですよ。顔が見えたんで、引っぱれば間に合うと思った」 「でも、あそこへ――」 「あそこへ行かなかったらって、今、言わないでくれませんか」  声は小さかった。成瀬は膝へ両手を置いた。 「俺、戻るつもりでやってるんです。今日も歩く。昨日より先までって。あそこへ行かなきゃって言われると、何て返せばいいか」  戸崎はそこで息を吸い、片手を上げた。成瀬が立とうとするのを止める手だった。 「待って。今、脚が」  廊下から食器を重ねる音がした。成瀬は膝の上の手を見ていた。戸崎が息をつくまで、顔を上げられなかった。 「……すみません」  戸崎が言った。 「謝らないでください」 「それも、ちょっと」  成瀬は顔を上げた。 「言い方、悪かった。俺、あなたが来る前から、これ、取れなくて」  戸崎がコップへ目を向けた。テーブルを寄せたので、今は手の届くところにある。 「仕事の話は、できますか」 「二枚だけ。今日は」  手元に広げた資料を重ね直した。  選んで渡すうち、残りを全部置いていきたくなった。あとで見るでしょう、と言えば彼は受け取るだろう。成瀬は二枚だけをテーブルに残した。  帰り際、戸崎は右足の靴下を直そうとしていた。成瀬が声を掛けると、今度は頼まれた。踵へ布を戻し、引きすぎたところを緩めた。 「助かりました」  成瀬は礼に返事をした。  *  午後、施設で詩乃が差し出したのは、小暮への手紙だった。 「返してほしい物、これで分かりますか」  青い鳥の刺繍の見本を返してほしい。次に何を作るか考えられないので、今月中に。そのあとには、小暮の店へ初めて持っていった日のことが書かれていた。売物になると言われて嬉しかった。ほかの人が縫うと分かっていたら、渡さなかったかもしれない。  成瀬は読み終え、隣の紙を取った。 「型紙も、一緒にですか」 「型紙は持ってます。最初の巾着だけです」 「では、青い鳥の刺繍をした巾着一点。いつ渡したかも、分かれば」 「去年の春です。日にちは、今は」 「確かめてからで構いません。期限は九月三十日まで、と書くと、あとで読んでも分かります」  詩乃はメモを覗いた。 「今月中、じゃ駄目ですか」 「意味は同じです。返却先は、ここは書かない方がいいので、担当の方を窓口に」  支援担当者が頷き、自分の連絡先を伝えた。成瀬はそれを加えた。頼まれた物は分かった。相手に誤解されないように、もう少し。 「この、嬉しかったというところは、今も認めていると取られない方が」 「今は嬉しくないです」 「ええ。そこを、先に返却の件を書いたあとで――」  便箋が遠ざかった。  成瀬が顔を上げると、詩乃は二枚を重ね、角を揃えていた。 「何を直すんでしたっけ」  成瀬はペンを持ったまま止まった。 「分かるかって、聞いたんです」 「分かります。返してほしい物は」  詩乃は頷いたが、紙を戻さなかった。 「すみません。書き方まで、変えてしまいました」  成瀬の前には、自分で整えたメモだけが残った。詩乃は便箋を鞄へ入れた。 「今日は出さないです」  担当者が、宛先だけ別の紙にして渡した。詩乃はそれを受け取り、成瀬のメモも持ち帰ると言った。ただ、今は見ない、と付け足した。  次の約束は二十四日だった。成瀬は時刻を読み上げてから、書いた手帳を閉じた。  *  二十四日の面談で、手紙は支援担当者へ渡された。  封筒にはもう小暮の名前があった。宛先を確かめる間、詩乃はそこを指で押さえていた。 「戸崎さんに、会えますか」  連絡事項を終えると、詩乃が訊いた。 「具合を本人に聞きたいです。行ったら迷惑かもしれないですけど」 「聞いてみます」 「ありがとうございます」  成瀬は予定を書いた。出し終えた手紙が気になったが、何を書いたかは尋ねなかった。  病院と戸崎へ確認して、土曜日の午後が決まった。  *  二十六日、戸崎はベッドを起こして待っていた。 「さっきまで壁の染み見てたんで、助かります」  詩乃が入口から頭を下げると、戸崎は窓の横を指した。 「日本地図に見えません?」  詩乃は椅子へ座る前に、そちらを見た。 「見えないです」 「俺も最初は。五日目くらいから」  成瀬は付き添いの担当者に会釈し、戸を少し開けておいた。廊下で待つというので、出る時に声を掛けると伝えた。 「歩く練習してるって聞きました」 「ええ。今日、トイレの前まで行けたんです」 「よかったです」 「そこから戻ってくるのがね。行く分しか考えてなくて」  戸崎が成瀬を見る。彼女は椅子を寄せすぎていたので、少し離した。  詩乃は膝に置いた手を重ねた。 「真知さんに泊めてもらわなかったら、って、まだ考えます」  戸崎の顔から笑みが消えた。 「前、そういうことじゃないって言ってくれましたよね。覚えてます。でも、また」 「俺が言ったら、それで考えなくなるわけじゃないですよね」 「はい」  成瀬は窓の方を見た。染みの輪郭は、どこにも似ていなかった。詩乃はしばらく黙ったあと、戸崎へ寝られているかと尋ねた。彼は、朝が早すぎる、と答えた。眠れなかった夜に限って朝が早い。  戸崎が布団を動かし、枕の位置を頼んだ。成瀬は立って直した。椅子を退けた詩乃が、床に置かれた紺の手提げへ目を留めた。 「いつもの、黒いのは」 「持ち手が切れてしまって。家にあります」 「ああ、ついに」  戸崎が言った。成瀬は頷いた。 「いつ切れたんです」 「手術が終わった時に」  戸崎は彼女を見た。成瀬は、使いすぎました、と言おうとしてやめた。 「まだ使いたいんですけど、あそこまで切れると」 「付け根は残ってますか」  詩乃が訊いた。  成瀬は、垂れた持ち手しか覚えていないと答えた。詩乃は少し考え、見せてもらえれば分かるかもしれない、と言った。 「私が縫えるところなら、やってみたいです」  成瀬はすぐ返事ができなかった。詩乃は続きを言わずに待っている。成瀬は顔を上げ、お願いします、と答えた。 「直せそうなら、代金も教えてください」 「材料を見てからでもいいですか」 「はい」  戸崎はベッド脇のコップを取った。今日は届いた。成瀬が受け取ろうとした手を戻すと、彼は自分でテーブルへ置いた。  *  翌日、鞄の底を払うと十円玉が一枚出てきた。  成瀬は内ポケットを全部確かめ、袋へ入れて施設に届けた。詩乃は中を開き、両方の付け根を順に曲げた。 「片方だけ替えると、もう片方もすぐ切れそうです」 「両方、お願いします」 「中を少し開けてから、連絡します。教室のミシンも、借りられるか聞いてみます」  成瀬が、いつでもいいです、と言うと、詩乃は袋から顔を上げた。 「来月の初めに、一回見てもらえますか。色も、違うかもしれないので」  成瀬は手帳を出した。十月一日。時刻を二人で決めた。  支援担当者が小暮への手紙は届いたと伝えると、詩乃は礼を言い、返事はまだかと訊いた。  まだだった。 「三十日を過ぎたら、もう一回書きます」  詩乃は鞄を抱えて奥へ戻った。成瀬は玄関で、来る時と同じ紺の手提げを持った。中には仕事の資料が残っていた。次は小暮へ行く。 第二十三章 丸を消す 九月二十八日、成瀬が電話を取って名乗るより先に、小暮が言った。 『今日も、延期ですか』 「伺います。午後三時です」 『戻れる日の話をしてるんです』  成瀬は机に予定表を広げた。警戒を見直す打合せは二日ごとに続いていた。戻りたいという希望も、そのたびに聞いていた。 「今日は、店で続けられる仕事についても話します」 『その上着、もう返せるんですか』 「担当へ確認中です」 『客に言われたんですよ。警察に何で俺の上着が要るんだって。何て言ったと思います』  成瀬が黙っていると、小暮は息を吐いた。 『私がやりましたって。俺が説明したんです。店の子じゃなくて』 「そのあとの話も、今日、伺います」 『聞くだけなら、もう何回も』  切れた携帯を置いた時、寺田から画像が届いた。  納品先の事務員が、夏の荷受けの記録から探したという。冷蔵庫の手前に青い台車がある。成瀬は椅子へ戻り、画面を広げた。  平台の白い塗料、車輪の上の欠け。前に見た物と同じだった。  取っ手の右肩だけが違う。  昔の写真では内側へ潰れ、テープの先に金属が斜めに光っている。返ってきた方は丸い。  寺田へ掛けると、車の扉に挟んだ、とすぐ答えた。 『そこまで直ってました? 俺、握るとこしか見てないな』 「今から伺います。使わずに置いておいてください」 『隣へ貸しちゃった。今朝。戻すよう言います』  成瀬は借りた相手と、持っていった時刻も訊いた。寺田は名前を調べるために電話を机へ置き、その間、画面の写真だけが目の前に残った。  *  隣の棟では、台車に水の箱が積んであった。  受取担当の男が、昼までには空けると言った。鑑識の係員は取っ手の写真を撮り、取扱いを説明した。男は箱を見て、自分一人では今ここで全部下ろせない、と答えた。  成瀬は寺田へ頼んだ。別の台車を持ってきてもらい、移し替えは会社の作業員が行った。通路が塞がり、人が通るたびに成瀬たちは壁へ寄った。 「ここを見せたかったんですか」  寺田がテープへ爪を掛けた。 「そのままで。こちらで外します」  寺田は手を下ろした。係員が巻き方を記録し、テープを剥がす。下に現れた金属は滑らかだった。 「取っ手ごと替えたのか」 「会社で買った記録はありますか」 「ないですよ。俺が買うんだもん、そういうのは」  取っ手の根元を見せてもらった。ピンで留まり、外せば抜ける型だった。遠山が店で触っていた台車も、この型だった。  成瀬は、悟が答えた箇所を開いた。  ピンを入れた。テープを巻き直した。それだけ。 「悟さんに、こちらから聞かないでください。確認は私たちがします」  寺田が顔を上げた。 「あいつに?」 「はい」 「血とか、付いてたんですか」 「まだ、そこまで分かっていません」  寺田は台車から離れた。横で水の箱を積み終えた男が、もう行っていいかと尋ねた。係員が頷き、車輪の音が通路を遠ざかった。  *  悟の勤務先へ電話を入れた時、成瀬は十一台という数を聞き返した。  同じ型が十一台。うち三台は別の営業所へ出ている。 『止めてくれって、全部ですか』  班長の声が大きくなった。 「こちらにある物から、確認させてください」 『荷物、どうするんです。二時に出すんですよ』  腕時計は一時二十分だった。 「二人で行きます。空いた順に、次を積む前に見せてください。場所はそちらで決めていただけますか」 『もう空いてるのなんてないです』  受話口の向こうで別の声がした。班長が、違う、警察、と短く答えた。 『東。東のシャッターへ来てください。仕分けの線には入らないで』  成瀬は礼を言って切り、小暮の担当へ連絡した。三時には間に合わないかもしれない。三時半を目指すと伝えた。  倉庫に着くと、空の台車が一台だけ待っていた。係員が照合する間、成瀬は貸出先の表を見た。営業所の名前は三つではなく二つで、その先へ又貸しされたものもある。 「誰がいつ持っていったか、記録は」 「今月のか、先月のか」 「まず、今ある場所です」  班長は伝票の束を机に置いた。二台目が来て、作業員が確認済みの一台目を引いて戻る。班長はその後ろへ、二時便に間に合わせろ、と声を飛ばした。  五台目も違った。  八台目を見終えると、班長が汗を拭いながら来た。 「これで出していいですか」 「ここにある分は」 「じゃ、使え」  作業員たちが台車を引き取った。成瀬が残る三台の番号へ電話を掛けると、一つは呼び続けても出なかった。 「そこは、机の電話。誰もいませんよ」  班長が自分の携帯を出す。 「俺のから掛けます。いきなり警察って言われても、向こうは分からないから」  話がつながるまで、成瀬は待った。さっきの男が一人、確認済みの台車へ荷物を載せ始めた。こちらで調べた物を仕事へ戻す手が速い。  その日のうちに二台は確認できる。残る一台は、取引先から翌朝戻るという。  成瀬は時刻と担当者の名前を書いた。広瀬へ連絡する前に、小暮へ直接掛けた。 「到着が三時半を過ぎます。すみません」 『来るんですか』 「行きます」 『じゃ、待ちます』  小暮はそれだけ言った。  *  彼は受取票を、机一杯に並べて待っていた。 「仕上がってるのだけ、返しに行きたいんです」  成瀬が腰を下ろす前から話し始めた。月曜の分、火曜の分。別の店へ回してほしいという客もいるが、持っていく者がいない。 「従業員の方は」 「こっちの分まで、もう頼めない。言った分だけはやるって。それでいいでしょう」  小暮は一枚を抜いた。 「辞めるって言ったあとまで、こっちの電話を取らせてたんだから」  成瀬が警戒担当と外出の段取りを話すと、小暮は時間を書き込んだ。受取票の裏には、返す物を忘れないための一覧があった。  青い鳥の巾着も、その中にある。 「本人に、返します。三十日までって来てるから」 「手紙にある担当者へ渡してください」 「分かってます。場所、聞きませんよ」  小暮は書きかけた字を止めた。 「これも、疑われるんですか。返すって言ったら、何で今って」 「三十日が期限なんですね」 「そうです」 「受け渡す時刻を、決めましょう」  彼はペンを持ったまま成瀬を見た。少しして、午前がいい、と答えた。  *  夜、本部に戻ると、別営業所の二台も探している物ではなかったと報告が入った。成瀬は届いた現物の写真を見て、一覧へ印を付けた。その下に、相談サービスから得た画像の照合結果があった。  七月十七日、従業員が窓越しに撮った詩乃の写真。店に残る元画像と、詩乃が相談へ送った縮小後の画像。仁へ届いた切抜きには、後者と同じ、窓枠の斜線の段があった。  成瀬は担当者の説明を聞き、元画像を持っていた者全員が同じ条件ではないことを確かめた。  広瀬は台車の一覧を見た。 「明日は」 「一台、現物を見ます。戻ってから、交換した時期を勤務先で」 「見つからなかったら?」 「戻る前に、貸した先をもう一度」  成瀬は予定を言い、手帳を閉じた。帰る前に戸崎へ電話した。面会へ寄れなかったことを詫びると、仕事だったんでしょう、と返ってきた。 「一つ、ここで聞いてもいいですか」  物流センターの通報時刻と、仁へ指定した時刻を伝えた。戸崎は少し黙った。 『仁より先に、俺らを呼んだんだ』 「手袋のことまで告げていました」 『それで行った。あの速度で』  電話の向こうで布が擦れた。 『仁が来て、封筒持ってれば、車が止まってても聞きますよね。何で持ってるって』 「はい」 『あの人が車を進めるところまでは、書いてなかった』 「ありません」 『そこは、あの人がやったんだな』  成瀬は相槌を打たなかった。戸崎の息が近づき、受話口がまた動いた。 『今日はここまでで。変な格好で掛けちゃって、脚が』 「切ります。明日は、こちらから先に時刻を聞きます」 『はい。明日、台車の方、頼みます』  成瀬は携帯を置いた。丸を消した台車が十台。残る一台の横に、朝八時、と書き足した。 第二十四章 迎えに来る人 戻ってきたトラックを、成瀬は荷受け場の端で待っていた。  九月二十九日、八時を十二分過ぎていた。荷台の奥から黄色い平台が見える。担当者は、写真とは違いますよ、と下りてきた。 「取っ手を見せてください」 「今、下ろしますから」 「載せたままで大丈夫です。取っ手の上の服を、少し上げてもらえますか」  取っ手には上着が掛かっていた。担当者が袖をつまみ上げると、右肩の潰れた金属が現れた。  成瀬は係員を呼んだ。 「その状態で、撮ります」  担当者の手に上着が残った。どこへ置くか迷い、腕へ掛け直した。 「これですか」 「確認します」 「昨日、俺、使いましたよ」  係員が荷台へ上がる間、成瀬は使用した経路を聞いた。担当者は答えるたび、自分の両手を見ていた。全部話してから、服は着ていいか、と尋ねた。  成瀬は検査に必要な物を係員へ確認した。上着自体は返し、手洗い場の場所を聞いていた男を見送った。  取っ手は平台から外された。青い台車にあった物が、黄色い台車から運ばれていく。成瀬は平台の違いを気にしていた担当者へ、もう一度説明した。彼は聞き終えてから、向こうにも同じことを言ってくれ、と事務室を指した。  仕事を止めた理由を説明し、残った台車の扱いを決めるまで、捜査員たちは帰れなかった。  *  勤務先に保存を頼んでいた映像では、悟が九月十日の夜、青い台車を車から降ろしていた。  棚の陰に入る。手元は見えない。翌朝、右肩の潰れた取っ手が付いた別の台車を、作業員が荷物と一緒に押していく。  班長は一度止めるよう求めた。 「この子、何も知らないと思います」 「この台車を選んだ理由を伺います」 「そこにあったからです。たぶん。俺だって、あるのを使う」  成瀬は、悟の返却した青い台車が映る別の記録を開いた。こちらの取っ手は丸かった。 「悟さんに、確認はまだしないでください」 「普通に来ますよ。明日も。何て言えばいいんですか」  班長は椅子から立ち、窓の向こうを見た。今日は悟のいない時間に来ていた。 「ほかの皆さんには、何と伝えていますか」 「確認だって。俺も、そう聞いてたから」  班長は立ったまま、画面を伏せようとした。ノートパソコンの蓋が半分まで閉じ、また開いた。 「これ持って帰って、明日、また来るんでしょう。あいつも来ます。昨日は俺が、残れるかって頼んだんです。若いのと二人で。今日だって、休みなのに電話すれば出るんですよ」  成瀬は返事をしかけ、やめた。 「そういうやつだから、頼むんです。頼んじゃ駄目なら、今言ってください。明日ここに来て、昨日何してましたって言われても」  隣の捜査員が成瀬を見た。班長は二人を見比べた。 「その子とまた組ませていいのか、聞いてるんです」 「配置も含めて、ここで相談させてください。警戒の担当を呼びます」  成瀬は広瀬へ掛けた。班長は窓の向こうへ手を上げ、事務室に入ろうとしていた作業員を止めた。電話を終えても、彼を呼び入れる手は上がらなかった。  *  九月三十日の午後、受付から悟が来ていると連絡が入った。  成瀬が下りると、彼は膝へ紙袋を置いて待っていた。出入口の方を向いた椅子だった。こちらに気づいても、すぐには立たなかった。 「予約、要りました?」 「今日は、何の御用ですか」 「姉ちゃんの物。誰に聞いても、確認しますなんで」  隣の席へ人が来た。成瀬は相談室を借り、別の捜査員に同席を頼んだ。悟は二人を見比べてから、紙袋を机へ載せた。  保存容器が三つ入っていた。蓋には日付がある。洗っても消えなかったのか、黒い字の端だけ薄くなっていた。 「これ、部屋に戻したいんですけど」 「部屋の物をどうするか、担当から連絡はありましたか」 「来週、日にち決めるって。それまで、置いといてもらえませんか」  成瀬は片付けの連絡を受け持つ担当へ確かめるため、机の電話を取った。悟は容器を一つ出した。蓋の角を押すと、ぱちん、と音がした。 「これ、嵌める向きがあるんですよ。どっちでも同じに見えるのに」  成瀬が電話を置くと、悟は閉じた容器を袋へ戻した。 「部屋へ戻せる日に、一緒に持っていってください。今日は、こちらでは預かれません」 「そうですか」  袋は机の上にあった。成瀬は担当の名前と連絡先を書き、悟へ渡した。 「詩乃さん、元気ですか」  携帯に番号を入れていたので、顔は下を向いたままだった。 「こちらからは、生活の様子はお話しできません」 「そこまで聞いてないです。元気かって」  悟は携帯を伏せた。 「俺の方は、職場で聞いてるでしょう。今日は何時に来た、どこへ行ったって。皆、俺に聞いてくるんですよ。お前、何したんだって」 「勤務について、協力をお願いしています」 「知ってますよ。俺も、答えてるから」  悟は空いた両手を机へ置いた。 「一回、話せませんか。姉ちゃんの話ができる人、もういないんで」  成瀬は手元の記録へ日付を足した。紙袋の底が濡れて、丸い跡が机についていた。三つとも洗ってきたのだろう。 「今ここで、お約束はできません」 「会いたくないって言ってるんですか」 「御本人には、まだ聞いていません」 「だったら、俺から連絡あったって。それくらい、伝えてもらえます?」  成瀬は隣の捜査員を見た。彼は記録を続けていた。 「用件として受け取ります。伝えるかどうかも、支援の担当と相談します」  悟は笑いかけた。 「俺が来たことまで、選ぶんですね」  机の電話が鳴った。成瀬は出ず、悟を見ていた。呼出しが切れると、部屋が急に静かになった。 「待ってるって、書いてください」 「何を、ですか」 「あの人が話せるようになるのを」  悟は成瀬のペンを見た。成瀬が書くまで、椅子を引かなかった。  紙袋を持たせると、悟は黙って受け取った。玄関で携帯が鳴り、表示を見るなり、悪い、今出る、と答えた。 「昼、食ってないの? じゃあ買ってく。何がいい」  自動ドアが開いた。彼は歩きながら聞き、何でもいいってのが一番困るんだよ、と笑った。  成瀬は携帯を取り、担当班へ出た時刻を伝えた。 『確認しています』  悟の背中は道路の向こうへ渡っていった。成瀬は見えなくなるまで立ち、戻って相談室の机を拭いた。  面会の依頼は支援担当にも伝えた。本人へ急いで届けることはせず、連絡経路と安全の確認を先に進める。その日のうちに悟へ折り返す用事はなくなったが、成瀬は終業前にも受付へ、また来ていないかと確かめた。  *  十月一日、詩乃が机へ広げたのは、黒いテープと見本帳だった。  古い鞄は内側を少し開かれている。机の反対側には青い鳥の巾着があった。 「戻りましたね」 「昨日。ちゃんと、これでした」  詩乃は巾着を鞄へしまい、修理する方を成瀬へ寄せた。 「こっちは店にあります。こっちは取り寄せです。送料が掛かります」  成瀬が手に取ると、店にあった方は青みが強かった。 「どちらが縫いやすいですか」 「同じです」  詩乃は材料費を書いた紙を置いた。成瀬は鞄を窓のそばへ持っていった。どちらを当てても、使い込んだ本体とは色が違う。 「店の方で、お願いします」 「長さも決めてください。今のままでいいですか」  成瀬はテープを自分の肩へ当てた。古い持ち手は荷物を入れると少し伸びた。指一本ぶん長くして、もう一度肩へ当てた。 「この長さで、お願いします」 「内側に補強を入れます。縫った線も残ります」 「見えないところなら」 「開けると見えますよ」  成瀬は覗き込み、頷いた。 「それで大丈夫です」  詩乃が合計を出した。材料を取り寄せずに済めば七日に渡せる。教室で作業できなければ先に連絡する。  成瀬は決まった日を手帳へ書き、立つ時に鞄を取ってしまった。 「置いていってください」 「ああ、すみません」  詩乃は受け取り、袋へ入れた。笑わずに、また七日に、と言った。  *  二日の夕方、小暮が店を開けると言い出した。  預かり品を返すための立入りだった。五時までの予定だったが、客は六時半しか来られないという。成瀬が警戒担当と電話している間、小暮は臨時休業の紙を剥がした。 「月曜から、いつもの時間に開けます」  成瀬は電話を耳から離した。 「営業時間を変更するなら、こちらも配置を――」 「いつもの時間です。変更した方を戻すんです」  紙の角が破れ、ガラスへ残った。小暮は爪で擦った。 「怖いんでしょうって言われたら、そうです。あんなこともやった。店守れって。全部、そうです。でも、閉めてる間にも家賃が」 「警戒をやめると言っていません」 「言われる前に言うようになっちゃったんですよ、俺が」  小暮は振り返った。 「電話する時も考える。信じてもらえるやつかどうかって。これ、六時半って、客が言ってます。俺が作った話じゃなくて」  受取票を成瀬へ突き出した。成瀬は受け取り、電話の担当へ時刻を伝えた。  今いる人員をそのまま延ばすことはできなかった。交代を組めるか確認するという。  小暮は受取票を戻し、仕上がった品を袋から出した。アイロンを温めながら、入口へ顔を向ける。 「あの子、今日で終わりです」  従業員は引継ぎの紙を置いて帰ったあとだった。 「金曜の分は、全部やってくれました。月曜から別の店です。ちゃんと金、払いなよって言ってました。俺に」  アイロンのランプが消えた。 「あの上着の客に、言ったんですよ。袖と袖、俺が縫ったって。じゃあ、もうお宅で直さないでくれって」  小暮は霧を吹き、別の客のズボンを伸ばした。 「それは、しょうがないです。でも、ほかの客には月曜に渡すって言ってるんです。まだ、預かってるのがあるんで」  成瀬の携帯へ返事が来た。五時からの交代を組める。月曜の営業については、担当者も含め今夜話す。  伝えると、小暮はアイロンを立てた。 「ありがとうございます」  店の電話が鳴った。彼は受話器を取り、はい、とだけ言ってから、店の名を言い直した。 「あります。六時半で大丈夫です」  成瀬は窓へ残った紙片を見た。小暮はそれを剥がす続きには戻らなかった。  *  七日、出来上がった鞄には両方とも新しい持ち手が付いていた。  成瀬はファイルを入れて持ってみた。受渡しの机の前を二、三歩歩き、肩に掛けた。詩乃はその間、釣銭の入った小さな袋を開けて待っていた。 「大丈夫です。ありがとうございます」  成瀬が代金を渡すと、詩乃は数えて受け取り、古い持ち手はどうするかと訊いた。  成瀬は古い方を指で挟んだ。使っていた時には丸まっていた布が、机の上では平たかった。切れた端に糸が一本残っている。 「処分をお願いします」  詩乃が別の袋へ入れた。成瀬は領収書を受け取り、新しい持ち手で鞄を提げた。  その夜、勤務先へ確認していた班から、悟が退職を申し出たと連絡が入った。 「いつまでですか」 「今月末。次の勤め先は、まだ言っていません」  成瀬は黒い鞄を椅子の下へ置いた。広瀬に伝えると、既に別の電話を取っていた。 「今いる場所は?」 「帰宅しています」  同じ型の台車は確保できた。血液の反応もあった。誰の血かは、まだ返ってこない。成瀬は鑑定の担当へ連絡し、現在の状況と、次に確認できる時刻を聞いた。  部屋を出ようとしたところで、携帯が震えた。悟だった。 『詩乃さんの件、どうなりました』  成瀬は椅子へ戻った。 『時間、掛かってもいいんですけど。聞いてくれたかだけ、知りたくて』 「担当と確認を続けています。こちらから連絡します」 『何の確認ですか。俺が会いたいって、まだ言ってないんですか』 「今日は、お答えできません」  小さな息が聞こえた。 『分かりました。仕事、変わるかもしれないんで。それだけ先に、言っときます』  電話が切れた。成瀬は時刻を書いた。広瀬が戻り、その紙を読んだ。 「明日の交代から、組み直す。今夜は変えるな」  成瀬は担当へ連絡した。声を聞いたばかりの男の部屋は、ここから見えない。今夜も、誰かへ文を書ける。詩乃が保存していた長い返事を、画面へ開いたままにはしておけなかった。  閉じて、取っ手の写真を広げた。  *  十四日、古いテープの端の下に残っていた血液のDNA型が、遠山と一致した。  同じ日に届いた認証記録では、三月三日二十三時十四分、相談相手のアカウントへログインした接続が、悟の部屋の固定回線と結び付いた。  成瀬は記録を机へ置き、椅子の向きを変えた。戸崎が本部へ来ていた。三日前に退院し、今日は家族の車で送ってもらったという。椅子へ腰を下ろすと、左脚を伸ばして息をついた。入口で止められたことを文句にしていたが、写真を見ると黙った。 「これ、返された方じゃないんですね」 「勤務先から別の営業所へ出た方です」 「寺田さんは、きれいになったと思ってた」  戸崎は写真を脇へ寄せ、認証記録を読んだ。成瀬は彼が顔を上げるまで待った。 「明日、詩乃さんに説明します」 「俺も行けます」 「二人で行くか、先に聞きます」  戸崎は頷いた。杖を机へ立て掛けようとして滑らせ、成瀬が受けた。彼は礼を言って椅子の横へ置いた。 「一人の時、どうでした」 「足りませんでした。人が」 「俺じゃなくてもよかったって?」 「そういう意味でもあります」  戸崎が笑い、途中で腹を押さえた。成瀬は、笑わないで、と言いかけた口を閉じた。 「次の紙、ください」  戸崎が手を出した。  *  翌日、詩乃は二人で来て構わないと答えた。戸崎は支援担当者に椅子を借り、成瀬が悟の名を告げた。 「真知さんの弟さん、ですか」 「はい」 「一緒に御飯、食べました」  詩乃は戸崎を見た。 「何を話したか、思い出せないです」  戸崎は手帳を開かず、聞いていた。  詩乃は自分の頬へ手を当てた。 「何も知らない人だと思って、話してたんです。全部、向こうだけ知ってて」  成瀬は、直接会った時と匿名でのやり取りを分けて、分かった範囲を伝えた。父に届いた写真が、相談へ送った画像から使われていることも。  詩乃は紙を出した。折り目の破れかけた、相談の写しだった。 「捨てようと思ったんです。でも仕事のことも、家を出る時も、これに書いてあって」  裏には細い字があった。昨日の日付と、したことの箇条書き。 「夜になると、書いてるんです。返事しにくいかなって、直して。送らないのに」  戸崎は手帳を膝へ置いたまま聞いた。 「私、何か、自分でしたんですかね」  成瀬は自分の鞄へ目を落とした。持ち手に触れてから、手を戻した。  詩乃は頁を戻し、真知の家へ泊まらない方がいい、とある箇所で止めた。 「泊まるのはやめました。晩御飯は行きましたけど」  少し息を漏らした。 「鍋ごと持って帰るんじゃ重いから、ここで食べなって」  詩乃はそこで下を向いた。支援担当者がティッシュを寄せた。戸崎は手帳を鞄に戻した。  しばらくして詩乃が、記録の残りも欲しいと言った。成瀬は担当へ確かめると答えた。 「小暮さんへの手紙は、混ぜないでください」  詩乃は別のファイルを持っていた。 「あれは、こっちなので」  *  遠山の事件について、逮捕状の請求資料がまとまった。  翌十六日、勤務先で六時から悟と話す予定だった。令状が間に合えば切り替える。その間の所在は別の班が追う。  広瀬の部屋を出ると、戸崎が廊下で待っていた。 「座って聞く仕事なら、明日から出ていいんです」 「荷捌き場へ出る仕事は」 「会議室の中にいます。動く人は、別に」  成瀬は彼の顔を見た。 「昨日、足りないと言ったんで」 「人が、と言いました」 「俺も一人です」  成瀬は返事を待つ彼を見て、配置を広瀬と確かめると言った。戸崎は頷いた。立つ時には、先に杖を取った。 第二十五章 あと一歩 戸崎は杖を後部座席へ入れ、運転席へ回りかけた。 「こっちです」  成瀬が助手席の戸を開けていた。 「そうでした。いつもの癖で」 「今日は、癖で動かないでください」  十月十六日の夕方だった。駐車場の白線を越えるだけで、左脚がついてこない時がある。戸崎は自分の足元を見た。 「走らない。前へ出ない。座って聞く」 「お願いします」 「人が倒れたら?」  成瀬の手がドアから離れた。 「そのための人も、います」  戸崎は彼女を見た。帰ってくださいと言われる前に、頷いた。 「分かりました」  車に乗ると、成瀬は黒い鞄を後ろへ置いた。持ち手が少し青い。触って確かめることなく、ファイルを一つ出し、閉じた。  遠山の事件の令状は、まだ届いていなかった。  *  悟は会議室へ来る途中で、若い作業員に呼び止められた。  伝票を二枚持った男だった。悟が一枚を指し、向こうから先に、と言うと、男は頷いて駆け戻った。悟が、走るな、落とすぞ、と声を掛ける。男は笑い、歩き直した。  戸崎はそのやり取りを戸口から見ていた。 「また人数、多いですね」  悟が入ってきた。 「今日は、俺も戻りました」 「歩けるんですか」 「ええ。ゆっくりなら」 「そうですか。よかった」  悟は椅子を引き、七時便があると言った。成瀬は時間を約束できないことと、任意の聴取であることを先に伝えた。 「じゃあ、長引くって送ります」  携帯で打ち、机に伏せる。それから二人を順に見た。 「今日は、こっちの返事も聞けます?」 「詩乃さんとの面会ですか」 「連絡するって、言いましたよね」 「面会は、お約束できません」  悟は成瀬の鞄を見た。彼女が台車の写真を出す間、指で机を一度叩いた。 「俺の方は、そのままか」  成瀬は写真を置いた。  悟が目を落とした。しばらく、そのままだった。 「寺田さんに返した物と、会社から別の営業所へ出た物です。取っ手が入れ替わっていました」 「誰が入れ替えたんですか」 「あなたに伺っています」 「台車ですよ。皆、使いますけど」  成瀬は潰れた肩を指した。 「ここに残っていた血液が、遠山さんと一致しました」  隣の作業場で梱包テープの音がした。悟はそちらを見てから、写真を持ち上げた。 「この台、うちのですか」 「平台は。取っ手は、借りていた台車の物です」 「班長、何て言ってました」 「映像も確認してもらいました。十日の夜、あなたが青い台車を持ち帰っているところです」 「直したって、言いましたよね」 「ピンとテープ、と」  悟は写真を机へ戻した。 「壊れたまま返せばよかったんですか」 「どこで使いましたか、直す前に」  返事はなかった。悟が携帯を取ったので、成瀬は待った。 「弁護士に聞いていいですか」 「どうぞ。相談先の案内もできます」  画面を点けたまま、悟は動かなかった。やがて携帯を戻した。 「今は、やめます。台車の話はしない」 「分かりました」  成瀬は写真をしまった。戸崎は机の下で左足の位置を変えた。悟が、それも見ていた。 「俺を見てると、脚、痛くなるんですか」 「座ってると、固まるんです」  悟は戸崎の顔を見た。戸崎は足を置き直してから、次を訊いた。 「二日の電話のことを聞きます」  *  通話は十九時三十六分だった。悟は十九時五十分ごろと答え、店は隣と見間違えたと訂正している。 「そこに付け足すことは、ないです」  悟が先に言った。 「写真館の時計が十四分進んでいたことは、御存じでしたか」 「同じだけ間違えたから、あそこにいたって?」 「その理由を聞いています」 「たまたま。それじゃ駄目なんですか」  成瀬の前で、記録係のペンが動いた。悟はそれを見て、笑いかけた口を戻した。  戸崎が訊いた。 「宇津木さんの携帯を、見たことはありますか」 「ないです」 「お姉さんの向かいの椅子に、置いてありました」  悟の視線が戸崎へ戻った。 「宇津木さんのところから持ち出されていた物です。真知さんの手には、宇津木さんと同じ結び方があった。左右の小指を一本でつなぐ形です」 「写真、出すんですか」 「必要なら」 「やめてください」  成瀬は鞄へ掛けていた手を戻した。  悟は机の上を見ていた。携帯が震えた。伏せたままだったので、誰からかは分からない。 「この形は、外へ公表していません。遠山さんにもありました」  戸崎が続けると、悟は顔を上げた。 「じゃあ、同じ人でしょうね」  誰も答えなかった。悟は成瀬の方を見た。 「次は何です」 「匿名相談のことです」  *  悟の部屋の回線から接続した記録を伝えると、彼は、誰が触ったかまで分かるのか、と訊いた。 「ほかに使った方がいれば、その人にも確認します」 「覚えてないです」  成瀬は二枚の画像を並べた。詩乃が倉庫で作業する写真と、仁に送られた切抜き。 「元の写真を持っているだけでは、この切抜きと同じになりません。相談へ送った時の画像が使われています」  悟は写真の角を揃えた。詩乃の背中を、指が少し隠した。 「お父さんが閉じ込めるって、送った人は知ってたんですかね」 「詩乃さんは、お父さんが怖いと書いています」 「怖い、だけでしょう。娘の場所を教えたら、必ずああなるって? 誰にも分からないでしょう」  戸崎は鞄から手帳を出した。 「仁さんがしたことは、仁さんに聞いています」 「本人がやったのに、その前にいた人へ持ってくるんですね。そしたら何でも、前へ前へ行けますよ」 「今、あなたがしたことを聞きたいんです」  悟は写真を離した。 「使ったことがないと話しましたね」  成瀬が言う。 「その答えを訂正しますか」  悟はしばらく黙り、それから、もっと前のも持ってるんですか、と訊いた。 「詩乃さんのじゃなくて。俺の、最初の」  戸崎はペンを止めた。 「あれ、金がなくて。電話すればいいってことは分かってたんですよ。払えない、待ってくれって。そりゃ言うことはそれしかない。でも、何から言えばいいか分からない。電話したら、向こうがすぐ出るでしょう」  悟は携帯を手元へ引いた。 「文、考えてくれたんです。読み上げればいいように。俺、そのまま読んだら、待ってもらえました。怒鳴られもしなかった」  悟は携帯を裏返した。画面は点かなかった。 「文なら、消せるんですよ。まだ送ってないから。電話だと、向こうがはいって出たら、もう。俺、喋れなくなって。姉ちゃんに掛け直してもらったこともあります。馬鹿みたいでしょう」  戸崎は答えず、聞いていた。 「でも文なら、先に直せる。読んで、その人が聞きたいの、そっちじゃなかったなって。それで書き直して」  隣の作業場で呼出しの声がした。悟は聞き取ろうとするように首を動かしたが、立たなかった。 「それで、同じように困ってる人がいて。俺にも書けると思って。最初の返事、すごかったですよ。助かったって。もう一個聞いていいですかって」 「そこから、続けたんですね」 「向こうから来るんです。俺が探して、困ってませんかってやったわけじゃない」  声が速くなった。 「仕事中に来れば休憩まで待つし、帰ってから読むのもある。飯食いながら。こっちは給料の出る仕事もしてるんですよ。そのあと、誰にもやれって言われてないのに」 「やめたいと思いませんでしたか」 「思いますよ。でも、もう途中まで聞いてるんです。今から別の人に、初めから説明させるんですか」  悟は水を飲んだ。一口では足りず、コップを傾けたまま飲み切った。 「いいことだけ返せば、早いんでしょうね。よかったですねって。そこは危ないから条件を見せてって言ってるのに、もう決めましたって。それで、おめでとうって書けば終わる」  空のコップを置いた。 「書かない方が、親切なんですか」  成瀬は返事をしなかった。悟の手が机へ開かれる。説明を受け取る相手を待つ手だった。  戸崎は相談の写しを置いた。  周りが静かになれば、自分で決められるようになる。  必要なら、その時は迎えに行く。 「詩乃さんは、ずっと返事を書いています」 「ちゃんと返す人でしたから」  悟はすぐに口を閉じた。紙の上へ指を載せる。 「そこにも、書いてあるでしょう」 「真知さんに会ったことも、食べた物も」 「姉ちゃんは、行けば食わせますよ」  悟は椅子を寄せた。 「一回断ったくらいで、やめません。持って帰れって。鍋が重いからここで食えって。あれを断ったら、具合悪いのかって」  成瀬は目を上げた。戸崎は机の紙を動かさなかった。 「昨日も、その鍋の話をしていました」  悟が成瀬を見た。 「詩乃さんが?」 「はい」  悟は口を開き、閉じた。目の前の写真だけを裏返した。詩乃が写っている方だった。 「何時に起きて、誰に頭下げて、何て返されたか。俺には、そこまで来てたんです。朝も夜も。長い時は、今送って迷惑じゃないですかって聞いてから、何回にも分けて」  戸崎は足を動かすのをやめた。 「姉ちゃんが知ってたの、何杯食ったかだけでしょう」  廊下で誰かが立ち止まった。会議室の戸へ手が掛かり、すみません、と外から声がした。 「大丈夫」  悟はそちらへ答えた。同じ声で成瀬に向き直る。 「あの人、俺のこと何て言ってました」 「その答えは、ここではしません」 「聞いてるだけですよ」  悟の掌が上を向いた。 「あの人が持ってきたの、俺の書いたとこだけですか。自分で、どうしたらいいですかって言ってきた方も、ちゃんと持ってきた?」  成瀬は答えなかった。 「全部読んでからにしてくださいよ。途中から、俺が何かさせたみたいに。何か言ってください」  戸崎は紙へ指を置いた。 「迎えに行くのは、あなたですか」 「行ける人が行けばいいでしょう」 「詩乃さんが、別の人に頼んでも?」  悟は戸崎を見た。 「俺に聞いたんですよ。先に」  *  戸が開き、広瀬が入った。成瀬へ視線を送ると、彼女が立った。 「川瀬悟さん」  悟の手が携帯へ動いた。 「ここからは任意ではありません」  成瀬が逮捕状を示した。遠山隆一に対する殺人容疑。  悟は読み上げる間、座っていた。顔だけが少しずつ下がり、最後には机を見ていた。 「立ってください」  入ってきた警察官たちに促され、悟は椅子を引いた。戸崎は座ったまま、その足元を見た。  椅子が机へ当たった。  悟は右腕を取った手を身体へ挟み、横の警察官を肩で押した。押された背中が戸枠へぶつかり、空いたところへ悟が踏み出した。 「川瀬!」  戸崎は立った。  悟が廊下を抜けた。梱包台の上に赤い柄が見え、彼の手がそこへ伸びる。切りかけの箱が床へ落ちた。  若い作業員が奥で立ち尽くしていた。成瀬がその前へ入り、下がって、と声を掛けた。  悟がカッターの刃を出した。 「来ないでください」  頼むような声だった。 「置いてください」  成瀬は手を出さず、作業員が退く場所を空けた。男は箱につまずき、尻をついた。  悟の顔が成瀬へ向いた。戸崎は一歩出た。床を蹴るはずの左脚が、まだ後ろにある。  壁へ手が当たった。  警察官たちが廊下から走ってくる。刃が胸の高さへ上がる。成瀬が横へ動いた。その幅だけでは足りないと、戸崎には分かった。  あと一歩。  その一歩が遠かった。  私は咄嗟に、悟に横からとびかかった。  脇腹へ肩が入り、台の角が背中を打った。箱が崩れ、硬い物が床を跳ねた。すぐ横から腕が伸び、悟の肘を押さえた。 「右、持ってる!」  声が重なった。左腕も床へ伏せられ、カッターが遠ざけられた。  戸崎は壁に手をついたまま、左脚へ力を入れた。震えるばかりだった。  成瀬は片膝をついている。彼女が作業員に立てるかと訊き、男が頷いた。服が切れていない。戸崎はそこまで見て、やっと声を出した。 「成瀬、大丈夫?」 「はい。戸崎さん、座ってください」 「分かってる。今、脚が」  誰かが椅子を持ってきた。戸崎は腰を下ろした。自分の腕を支えてくれた手へ、礼を言ったつもりだったが、声になったか分からなかった。  悟は床で押さえられたまま黙っていた。手錠が掛かり、起こされる。  梱包台に残った伝票が、送風機の風でめくれた。若い作業員が拾おうとして身を屈め、警察官に止められた。作業は全部止まっていた。 第二十六章 向かいの席 十月二十三日、悟は席に着くと、姉の部屋の写真はあるかと訊いた。 「何を確かめたいんです」  成瀬が尋ねた。 「台所。流しの横」 「先に、宇津木さんのことから聞きます」 「そっちはもう、話してますよね」  戸崎は開いた手帳を置いた。身柄を取ってから、幾つかの供述は始まっていた。端末から匿名の連絡の下書きも出た。語られたことの裏付けを取る班は、今日も外へ出ている。 「今日は、途中を飛ばさずに聞きたいんです」  悟は椅子へ背を預けた。 「途中って、どこから」 「仁さんの会社へ行ったところから」  写真館の見取図を出すと、悟はそれを自分の方へ引いた。  *  八月に写真を送ったあと、悟は仁の会社を見に行くようになった。娘の所在を知ったのか、確かめたかったという。 「詩乃さんに、送ることは伝えましたか」 「言えば、送るなって言われますよ」 「送らない選択は」 「もう、してなかった。何もしないでいたの、その前、ずっと」  悟は見取図を押さえた。戸崎は言い直させず、その答えを残した。  九月二日、仕事のあとに会社へ寄り、出てきた仁の車を追った。写真館の前には、屋号の入った軽トラックがあった。 「健さんのです。あれ見れば分かる」  仁が去ってから、悟は裏へ回った。宇津木は中にいた。 「怒ってました。俺が入るなり、何だって。真知の弟ですって言ったら、ああって、声が変わった」  仁も、宇津木に娘の居場所を話したと認めている。なぜ工場に置いているのかと問い詰められ、揉み合いになった。押し倒したあと、宇津木はまた立ち上がっていた。 「俺に、姉ちゃんへ電話しろって言ったんです。詩乃さん迎えに行くから、泊められるか聞いてくれって」 「十九時三十六分の通話ですね」  成瀬が記録を示した。悟は頷いた。 「何を伝えました」 「今日は行かないって」 「宇津木さんに頼まれたことは」 「言ってないです」  戸崎は、真知が弟の食器を出していた台所を思い出した。来ないと言った日にも、食べ物は残ったのだろう。 「切ってから、健さんには、あとで掛け直すって言いました。でも、もう行く気なんですよ。泊まる場所はあとでいいって」 「あなたは、待ってほしかった」 「待ってって、言いました」  悟が見取図の入口へ指を置く。 「一人で置いとけないって。俺は知ってるんです、そんなこと。俺の方が、前から。でも、あの人は今聞いたばかりで、もう行くって」  成瀬のペンが止まった。悟は指を入口から離した。 「俺が聞いたことは、何だったんですかね。何日も。何か月も」  戸崎は返事をしなかった。悟が自分の言葉を待つ人を見るように二人を見たので、手帳から顔を上げたまま待った。 「で、荷物を見てくれって頼みました。裏の倉庫に、一つあるからって」 「実際に、荷物はあったんですか」 「ないです」 「宇津木さんは」 「ああ、そっち先に見るかって。止まったんです」  悟は笑わなかった。ただ、そこだけはっきりと発音した。  宇津木は靴紐を結ぶため、椅子へ座った。悟が指したのは低い方だった。 「見終われば、また行く。見せる物がなくても、じゃあもう行くぞって言うでしょう」 「その時、あなたはどこにいました」  悟は見取図へ位置を書き込んだ。使ったのは、車に積んでいた荷締めの帯だった。  成瀬は、持ってきた時点まで戻って聞いた。悟は返事をし、一度は図の印を消して書き直した。靴紐を結んでいた宇津木が顔を上げたところも、話した。 「何か、言われましたか」  悟の手が止まった。 「悟、やめろって」  戸崎はペンを下ろした。 「名前、覚えてたんだなと思って」  真知の家で、悟は宇津木のことを、向こうが自分の名を覚えていたかは知らない、と言っていた。  戸崎は目の前の男を見た。 「それで」 「それで、って」 「手を離しましたか」  悟は首を振った。  成瀬が続きを確認した。悟は一度聞き返したが、同じ問いを受けると、動かなくなるまで、と答えた。  部屋の時計が鳴った。戸崎はその音に、呼吸を戻すきっかけをもらったような気がした。  *  悟は一度、立ち上がったという。 「帰ろうとしたんですか」 「そこまで、考えてないです。下にいたから」 「宇津木さんが」 「はい。起こさないと」  写真を出すと、悟は倒れた状態のものを脇へ退けた。宮下が業務連絡で送った画像を見て、こちらだと言った。 「何をしようとしたんです」 「もう声を掛けないでくれって。詩乃さんに。困ってたら来いとか、また運んでやるとか。それをやめてくれって」 「返事は、ありませんね」 「分かってますよ」  悟が初めて成瀬を強く見た。 「死んでいたことは、分かっています。そこ、変に書かないでください」  成瀬は自分の記録を読み上げた。悟は聞き、頷いた。 「ただ、座ってもらわないと、話せないから」  写真へ目を戻す。 「途中でずれるんです。こっちに。戻しても、手を離すと。まだそこじゃないのに、聞いてないみたいになる」  悟は左肩へ触れ、手を戻した。 「だから、最初から言い直した」 「何度ですか」 「覚えてないです。数えることじゃないでしょう」  戸崎は手帳の頁をめくらなかった。悟の指先が、画像の宇津木の手へ重なっている。  針と糸は、八月の終わりに買っていたという。成瀬が購入先を聞くと、店の名を答えた。 「使うつもりだったんですか。その時から」 「その時は、買いました。それだけです」 「なぜ」  悟はしばらく水を見ていた。 「姉ちゃんに、詩乃さんから電話が来たら、先に言ってくれって頼んだんです。俺へ」 「返事は」 「私に掛かった電話なら私が出るって。俺が話すまで待ってって言っても、あの子はその間どうするのって」  悟がコップを持った。飲まずに置く。 「何で、もう一回話すんですかね。こっちが、あれだけ書いて、話して」  戸崎は宮下の写真を見た。唇を渡る糸は、指の糸と同じ黒だった。  悟もそこへ目を落とした。 「ここから、また言うでしょう。困ったら来いって。こっちが何度言っても、そういうことばっかり」 「宇津木さんには、言わないと約束させたんですか」 「してません。健さんは、言わないって答えたわけじゃありません。俺が言って、それで結びました」  成瀬はその順も残した。 「小指の一本は」 「自分と、約束してもらったんです。人にばっかり、何とかしてやるって言うから」  悟は図へ手を伸ばし、自分の座っていた場所を指した。 「ここなんです。見えるでしょう、そこから。白かったら、分からない」  戸崎は二つの画像を見比べた。悟が引き寄せた方では、手はまだ膝にあり、黒い糸が浮いて見える。 「指を下げると見えないから、ここに戻しました」  悟は写真の膝を示した。 「話し終わったあとも、そこを見ていたんですか」 「はい」 「何を確かめていたんです」 「もう、行かない」  戸崎は男の顔を見た。 「生きてたら、行きますよ。あの人は。俺が何て言ったって」  成瀬は少し時間を置き、持ち出した物の確認へ移った。宇津木の仕事用の携帯。荷締めの帯。針と糸。二十時二分の裏口の映像を見せると、悟は自分だと答えた。  着ていた物と車を置いた場所も聞いた。ここで聞いたことを確かめるには、また現場へ戻る必要があった。  *  休憩のあと、真知の写真を出した。  悟は最初に頼んだ流しの写真を見て、何も言わなかった。成瀬が何を確かめたかったのかと訊くと、いいです、と答えた。 「九月八日、戻った時刻を」 「九時半くらいです」 「どうやって入りましたか」 「開けてくれました。姉ちゃんが。何、忘れ物って」  悟は唇を舐めた。 「先に、ご飯はもうないって言うんですよ。小暮さんが来て帰ったところで、片づけたって」 「食事に戻ったんですか」 「違います。詩乃さんを、また呼ぶのかって」  返事を待つ間、戸崎は悟が水を取るのを見た。今度は飲んだ。 「本人に聞くって。しばらく放っとけばって言ったら、何であんたに言われなきゃいけないのって。いつものです」 「それで、話をやめなかった」 「健さんがいなくても、姉ちゃんがいたら、呼ぶんですよね。こっちが何してても」 「持って入った帯は、その時に使うためですか」  悟は頷いた。 「返事を聞く前に、用意していた」 「また駄目だと思ったから」  戸崎は膝の上で手を握った。  真知をどう押さえ、どこへ移したか。成瀬が聞くと、悟は場所を示した。戸崎は記録する紙だけを見て、聞き落とさないようにした。  宇津木の携帯は、真知の向かいの椅子へ置いた。 「最初に姉ちゃんへ泊めてくれって言ったの、健さんだったんです。二人で、すぐ決めて」  その携帯には真知の番号が入っていた。悟は椅子の位置を少し直し、これくらいだと言った。  手と口へは、宇津木と同じように糸を通した。成瀬が確認のため図を示すと、悟は写真なら分かる、と言った。写真を出してもらうと、自分がしたところを順に指した。  鍵は帰る時、靴箱の上から取った。 「昔返した合鍵とは、別にですね」 「はい」 「この日は、鍵を使って入ったのではない」 「だから、開けたって。姉ちゃんが」  悟の声が強くなった。 「俺が来たら、開けるでしょう」  戸崎は顔を上げた。悟は、何度も同じことを言わせられた時の顔をしていた。  *  遠山の店へは、靴を受け取りに行った。台車も持っていった。 「シャッターを、上げてもらったんですね」 「あんたも大変だったなって。俺の靴、出してきて」 「遠山さんには、何を頼みました」 「台車を、見てくれって」 「詩乃さんに会うな、とは?」 「言ってません」  成瀬はすぐ次へ進まず、顔を見た。 「頼んでも、意味ないです。頼まれたらやる人だから。姉ちゃんが頼めば、ミシン直す。俺が言えば、台車の場所を空ける」  悟は作業台の写真を見ていた。  取っ手を外し、それで殴った。勤務先へ戻ると、同じ型の台車から取っ手を外し、交換した。借りた台車は新しいテープを巻いて返し、元の取っ手は職場に残した。 「靴は、持って帰らなかった」  戸崎が言った。 「忘れたんです」  悟は少し考え、そう答えた。  遠山が青い丸を付けた紙袋は、棚に残っていた。戸崎は持主が誰か確かめた日のことを覚えていた。受け取る人が来ると思って、遠山は置いた。  成瀬が、休憩を入れるかと訊いた。悟は、このままで、と答えた。  九日の封筒は午後、北原工業の郵便受けへ入れた。送り先と文面は押収した端末の下書きと照合する。未開封のまま仁の車から出たことを伝えると、悟は、書いた通りにしたんですね、と言った。 「開けると思わなかったんですか」 「開けたら、詩乃さんに会えないかもしれない。そう思えば、取っておくでしょう」  十五日は、先に仁へ連絡した。警備員を襲い、事務室にあった手袋の小指を結び、警察へ通報した。 「あの警備員の方は、何をしたんです」  戸崎が訊いた。 「何も。知りません、あの人は」 「何もしていない」 「警察に来てもらわないと、北原さん帰っちゃうんで。娘がいるって言うだけじゃ、いなかったら終わりでしょう」  戸崎は手帳を閉じた。悟は成瀬の方へ向いた。 「俺が車で行けって言ったわけじゃないです。あそこに来てくれって。それだけです」 「そのあと車を進めたのは、仁さんです。それは本人に聞いています」  成瀬は手袋の写真を出した。 「襲われた方は、救急車を頼んだと言っています」 「はい」 「あなたは、人を呼ぶから動かずに待て、と」 「呼びましたよ」  悟は少し身体を起こした。 「ちゃんと来たでしょう」  成瀬はペンを置いた。  戸崎は、踵を踏んだ警備員の靴を覚えていた。休憩中だったと言っていた。人がいるかもしれないと聞いて、奥へ行った。 終章 迎えのない朝 十一月の終わり、別の市の古物商から写真が届いた。  写っているインパクトドライバーの製造番号が、届出と合っている。九月二日に、駅東口の改装現場からなくなった物の一つだった。  男の名は最初に受け取った入場者名簿にあった。翌週には別の現場へ移った設備業者の作業員。買い取り票の記録を示すと、初めは自分の物だと言い、あとで、現場へ戻すつもりだったと言い直した。 「売ってから、どう戻すつもりでした」  戸崎が訊くと、男は黙った。  ほかの工具の行き先も、一つずつ聞いた。バッテリーは仕事で使っていた。レシプロソーは別の店に売った。もう一台のドライバーは知人に渡した。  全部が同じ所にはなかった。聞いた先を担当へ回し、戸崎は安田へ電話した。 『今、仕事中です』 「短く済みます。九月の盗難の件、あなたではないと確認できました」 『俺は、知ってましたけど』 「そうですよね」  向こうで機械の音が止まった。 『最初、俺だと思ってました?』 「思いました」 『ふうん』 「すみませんでした」  安田はすぐには返さなかった。戸崎も言葉を足さず、窓の外の駐車場を見た。 『もういいんですか、俺の方は』 「この件で、聞きたいことは終わりました」 『じゃあ、戻ります』  切れた。戸崎は通話した時刻を書き、まだ聞かなければならない番号へ掛け直した。  *  その日の午後、恵へ返す書類を届けた。  家の前にひと箱便の車はなかった。食卓には仕事の箱がある。恵は、まだここへ置いてるんです、と戸崎の視線を見て言った。  署で預かる物と、戻した物を確かめる。終わると、恵が箱から小さな封筒を出した。詩乃が返した二千円だった。 「使わずに、入れてました。返してきたから、返したことにしとくって」  戸崎が封筒を見ると、恵は元へ戻した。 「これは、私が持ってます」 「はい」 「あの子、会いたいって言ってるんですね」  支援担当から連絡があったという。戸崎は頷いた。 「今は、会えないです」  恵は箱の蓋を持った。 「悪いのはあの子じゃないって、分かってます。でも、顔を見たら、健の手を思い出すと思う」  蓋が斜めになっていた。戸崎は手を出さずに待った。 「今の、本人には言わないでください。責めたいわけじゃ――」  恵は止まり、蓋を置いた。 「責めたくない、のかな」 「今は会えない、ということだけ、窓口へ伝えます」 「お願いします」  恵は箱を自分の方へ寄せた。 「健なら、まあいいじゃんって言うんです。何でも。よくないんですよ、こっちは。勝手に安くするし、貸した物を忘れるし」  戸崎は、返ったドライバーの写真を思い出した。番号を控えた人がいて、見つかる物もある。 「いい人でした」  恵は言った。 「腹も立ちました。毎日」  今度は蓋が閉まった。  *  十二月四日、戸崎は集合住宅の階段で足を止めた。  手摺りの冷たさが、掌へ移る。寒くなってから、左脚の動きが悪い朝があった。ここへ来る前、娘との電話でも、まだ治らないのかと訊かれた。  今度の土曜、来られる?  行ける、と答えたあと、何時かを確かめた。駅をまた作ったらしい。屋根を何で作ったのか訊くと、来たら見て、と言われた。  階段の上から警察官たちが下りてきた。 「留守です」 「午後は戻るんでしたね」 「管理人は、そう聞いてると」  なくなった自転車は三台だった。同じ夜、同じ棟。見慣れない若者がいたという話は、訊く人が変わるたび、見たという人が隣へ移っていく。  戸崎は戸の番号を手帳へ書いた。 「カメラの時計を見てから、一度戻ります。午後は別の者に頼みます」  管理人室まで下り、記録を確かめた。時計は合っていた。戸崎は確認した時刻を書き、外へ出た。  駐車場では成瀬が待っていた。 「遅れました?」 「五分です」 「すみません。行きましょう」  戸崎は助手席へ乗った。十時に施設で詩乃と会う約束だった。返す物と、今後の連絡を確認する。成瀬の黒い鞄は後部座席にあり、補強した持ち手が上を向いている。  車が動き出すと、戸崎は窓の外へ目を向けた。集合住宅の階段を上る人影が見えた。さっき留守だった部屋の人かもしれないが、ここからでは分からない。 「午後の引継ぎ、済んでます?」  成瀬が訊いた。 「ええ。今、戻ろうとは思ってません」 「思っていたかとは、聞いていません」  戸崎は笑い、シートへ背を預けた。 「物置、行ったんですか」 「行きました。母に、いつまで待たせるのかと言われたので」 「赤い缶は?」 「釣りの仕掛けでした。針も、錘も。使いかけの糸も」 「捨てました?」 「母が、全部は捨てないと。妹は要らないと言いました」 「成瀬さんは」 「錘を一つ」  信号が赤になった。戸崎は、どう使うのか訊いた。 「使いません」  成瀬は前を向いて答えた。  戸崎は頷いた。信号が変わり、車は進んだ。  *  詩乃は返還品より先に、自分の携帯を出した。 「番号、変えました」  新しい連絡先を確かめると、彼女は同じ紙へ工房の番号を足した。来週、一度見に行くのだという。 「小暮さんのところへ?」  戸崎が尋ねると、首を振った。 「別のところです。遠山さんが、前に名前を教えてくれて」 「話は、もうしたんですか」 「一回切りましたけど。かけ直して」  詩乃は番号を見直した。 「行って、無理なら帰ります。まだ働くとは言ってないです」 「分かりました」  成瀬が返す物を載せると、詩乃は包みを開き、型紙を一枚ずつ数えた。古い携帯は袋のまま、脇へ置いた。  母親の布を出したところで、手が止まった。黄色い花柄だった。 「これ、嫌いだったんです。子どもっぽくて」  詩乃は端を返し、裏を撫でた。成瀬は一覧の印を付けずに待った。 「裏地にしようかな」  布が畳まれた。それから、全部ある、と詩乃は答えた。  持参したファイルには、小暮から戻った見本と、複写した型の一覧が入っていた。自分だけで確認済みと返すのは不安なので、相談先を知りたいという。  成瀬は支援担当者と窓口を確かめた。詩乃がメモする間、戸崎は自分の足を机の下で伸ばした。長く同じ形にしていると、まだ重くなる。 「小暮さんは、仕事は置いておくって」  詩乃が言った。 「ありがたいですけど、戻りますとは言ってません」  戸崎は頷いた。  窓の外で雨が止んでいた。詩乃は教えられた窓口へ、自分で掛ける時刻を手帳に書いた。支援担当者が、今日でも構わない、と言うと、今日は工房までの道を見たい、と答えた。 「来週、初めてだと迷いそうなので」  確認を終え、三人で玄関へ出た。  十時半を少し過ぎていた。庇から落ちた雫が、戸崎の靴の先へ当たった。詩乃は布の袋を持ち直した。荷物は多いが、片手は空いている。  支援担当者が、駅へ車で送れる、と声を掛けた。 「今日は歩きます」  詩乃は答えた。成瀬が、途中まで一緒に行こうかと尋ねる。  詩乃は一度、道路を見た。 「大丈夫です」  それから二人へ向き直った。 「迎えに来てもらう日も、あると思います」  戸崎は立ったまま待った。 「今日は、いらないです」 「分かりました」  成瀬が答えた。  詩乃は歩き出した。道の端の水を避けて少し膨らみ、袋を反対の手へ替えた。角の手前で止まって携帯を見たが、こちらへは戻らなかった。  戸崎は庇の下で見送った。つい一歩出た左脚が重く、元へ戻した。 「車、こちらへ寄せますか」  成瀬が訊いた。 「そこまでなら、歩きます」 「はい」  詩乃が角を曲がった。戸崎は鞄を持ち直した。成瀬が先に車へ向かい、彼は自分の歩幅であとを追った。