箱の外で待ち合わせ 第一章 運んだ箱 僕が運んだ箱は、その日、焼けた。  中に入っていたのは、衣裳と古い台本と布だった。そう書いた紙をもらっていたし、箱を詰めた人の名前も、受取りの署名も残っている。  なのに、箱を運んだ朝のことを聞かれると、僕は中身の話からできなかった。自分の指に当たった板の角を、いちばん先に思い出した。      *  金曜の午後、料理の本が詰まった箱を運んだ。  客は、最後の一箱を台所の入口で待っていた。僕が床へ下ろすと、底をのぞき、汁が出ていないかを見た。 「汁ですか」 「醤油、捨てるの忘れたの。使いかけでごめんね」 「本って、聞いてました」 「本も入ってる」  開けた箱の隅に、新聞紙で巻いた瓶が立っていた。原田さんがそちらを押さえたので、僕は反対側の本を出した。客が台所の棚へ自分で運び、一冊だけ、コンロの横へ置いた。 「今夜、作るんですか」 「買う。これ見て作るのは、引っ越して一週間たってから」  原田さんが笑った。客は瓶を持って、玄関へ戻った。 「これは捨てる。もう二本、開けたのがあるのよ」  車へ戻ると、原田さんが日曜の伝票を見せた。僕の知っている劇場の住所があった。 「日曜の便、ここからだろ。今日、下見できるか」 「行くつもりでした」 「じゃ、箱を見とけ。大きいの一つじゃ、車、決められない。寸法も送れよ」 「中身は、廃棄する衣裳で」 「それも、現地で。頼んだ人に聞け」  日曜の仕事を頼んだのは畑野さんだった。日付を確認する電話の途中で、月も運べないかと聞かれた。会社の車なので無理だと答えると、じゃあ月の人には自分で車を出してもらおう、と言ってくれた。人を断るより、荷物を断るほうが僕は少し楽だった。      *  木曜日という名の劇場は、品川区北品川にある。旧東海道から細い道へ入った先だった。  僕は倉庫で着替え、自転車で行った。正面の扉に『今月末閉館』の紙が貼ってある。剥がれかけた右下を押すと、指へテープがついた。 「そこ、貼り直すなら、新しいのあります」  凪が中から言った。携帯を横に構えていた。 「撮ってる?」 「閉めるとこ。一回、閉めていいですか」 「僕は外?」 「外。入る時、扉、見ないでください」  扉を閉めたあと、僕は一度だけ見てしまった。もう一回、と凪が言った。 「閉館の人って、どこ見て入るんだろ」 「目、閉じます?」 「転ぶ」  凪は画面を下げて笑った。二十歳で、僕より三つ下だ。劇場に来たころは、何も喋らずに舞台を撮っていた。今は、僕にも注文をつける。  廊下では、都が紙袋をほどいていた。型紙の先が上へ出ていて、持ち手へ重さが掛かっている。 「これ、底、危ない?」 「何入れるの」 「紙。厚い紙。月曜に持って帰る」 「今の量なら。でも、上から引っ張らないほうが」  僕は折り目を広げ、底へ段ボールを一枚入れた。都が端を切ってほしいと言う。裁縫の鋏を取ると、違う、と手を出した。 「そっちは布。紙の、赤い柄」 「これか」 「うん。箱、畳む時にも貸したでしょう。今週、納品三つあるから、切れなくなると本当に困る」  ルカが机の向こうから紙切り鋏を渡した。右の手首に黒いサポーターを巻いていた。ルカは右を机の上へ残し、左で鋏を渡した。僕は赤い柄を受け取った。 「棚、月曜に持って帰るんだよね」  ルカが都へ聞いた。 「棚は、値段聞いてから。袋だけ」 「俺の車、明日まで。知ってる人に聞いてみる」 「その人、いつ運べる?」  ルカは携帯を見た。 「聞くところ」  都は袋の底を押した。まだ返事のない車へ合わせて、型紙を動かす気はないようだった。  作業室では、源さんが月の縁を削っていた。月は大きな円の上から三日月の形を切り抜いた、舞台の道具だった。表は黄色、裏は茶色。僕がしゃがむと、源さんは削っていないほうを持てと言った。 「日曜、子供の劇団の人が来ます」 「何時」 「十一時半。二人、車も」 「毛布、あるか」 「会社へ聞いたら――」 「ここにある。貸すだけだ。持って帰られるなよ」  僕が月を傾けると、裏の字が見えた。電話番号と、渡す相手の名前。源さんはその下へ、自分の番号も書き足した。 「割れたら、俺に電話しろ」 「割らないつもりです」 「向こうがだ」  凪が携帯を取った。 「歩さん、最後の上演も撮っていいですか。俺も一本作るんで」 「小鈴の?」 「今やってるのを使って、別のにします。仕事の映像じゃなくて、俺が出すやつ」  凪は僕へ携帯を見せた。閉館の短い映像を頼んできた人から、扉の画をもう一度送ってほしいと来ていた。 「入る方じゃなくて、閉まる方でした」 「もう一回、閉める?」 「俺がやります。歩さん、これ、ちょっと持ってて」  僕へ渡しかけ、やめた。源さんの月を削る手に光が当たっていた。 「扉、閉まるとこでした。そっち送ったら、また撮れる」  扉の画を選び直してから、凪は鳴った電話へ出た。 「出演者はいます。いま本人もこっちにいるんで。尺は、送った分で」  僕へ背を向け、小鈴の名前を言った。源さんは削り残した所を探していた。  畑野さんが、肉まんの袋を抱えて来た。 「手、いったん洗って。こっち、もう開けるよ」  源さんは月を置いた。都は型紙を袋へ戻し、ルカが流しへ行った。僕が一つ取ると、畑野さんは薄い紙を僕の掌の下へ入れてくれた。 「熱いところ、出てる」 「ありがとう」  十九歳の時、僕は家を出た。父へ言い返して、仕事もなく、自転車で来た。ここへ来れば眠る場所くらいあると思っていた。自転車の鍵をなくし、裏口で車輪を持ち上げていた。  畑野さんは理由を聞く前に、前輪を抱えてくれた。鍵を探す間、冷めた焼きそばを出してくれた。食べ終わったあとも帰れなくて、客席の椅子を一緒に並べた。  今も、最初に何を食べたかだけはよく覚えている。僕は役者にはならなかった。舞台へ出ると台詞が速くなる。それでも月を包むのなら、手伝える。 「歩。箱、こっち」  畑野さんに呼ばれ、廊下へ出た。  事務所の入口には、枕を押し込んだ段ボールがあった。花の茶碗が新聞紙の端から見えていた。 「来週、部屋の鍵を受け取る。今度は布団も広げられるよ」  畑野さんが言った。 「決まったんですか」 「うん。月曜には仕事の説明も。荷物を受け取るほうになる」  彼は部屋の申込みの控えを枕の横へ入れた。僕が蓋を持つと、まだ使う物も入っている、と閉めなかった。  黒い長箱が二つ、並んでいた。蓋に『旅箱』『食器』とある。僕は肉まんを袋へ戻し、箱の前へしゃがんだ。 「日曜、どっちですか」 「旅箱」  留め金を外すと、内側は板で四つに仕切られていた。衣裳を入れるには、少し狭く思えた。 「これ、前は、何を入れてたんですか」 「食器」  畑野さんが答えた。僕は蓋の字を見た。 「ああ。蓋、逆かな。今週、塗り直したから」 「俺、塗りました」と凪が言った。  彼は二つの箱の前へ座り、乾いた塗料の出っぱりを爪で押した。どちらの蓋も同じ大きさだった。  作業室の椅子には源さんの替えの白いシャツが掛かっていた。灰色の服を試す時は、畑野さんがそこを空ける。  戸には上の方に細長いガラスがあった。源さんが中へ戻ると、台の端だけがそこから見えた。戸へ近づくと見えなくなり、畑野さんの段ボールを避けるため離れると、奥の白いところが入った。 「そこ、ぶつけるな。まだ枕、潰したくないから」  畑野さんが僕の箱を支えた。僕は横へ向きを変えた。中の台まで、ガラスの端へ逃げた。  僕が箱を引くと、一つの車輪が床の継ぎ目で止まった。しゃがむと、その車輪の縁が欠けていた。内側の手掛けに指を入れ、持ち上げる。爪が板の端へ当たった。 「こっち、狭い。持つ時は、手袋いります」  写真を撮って立つと、入口へ知らない女の人が来ていた。 「榊です。門脇さんと、六時に」  畑野さんの笑顔が、少し遅れて出た。僕はその人を作業室へ通すため、通路の毛布をどけた。 第二章 三分の役 土曜の朝、母が卵焼きを残してくれた。  母は、僕が寝た時には帰っていなかった。何時に作ったのかわからない。端だけ少し固くなっていた。父は新聞を二つに折り、今日も劇場かと聞いた。 「片づけ。月、渡す前に」 「月は、夜だろ」 「舞台の」  父が笑ったので、僕も笑った。母が台所から、パンもあるよ、と言った。卵だけ食べて出ようとして、もう一口戻った。  劇場では、都が紺のジャケットを裏返していた。左の袖だけ、端を内側へ折ってある。 「小鈴が、九時に来るって」 「いま、九時十五分」 「そう。それ、言って」  僕が携帯を出すと、都は自分の携帯も出した。送る文を読んでいる間に、小鈴が扉を開けた。 「間に合った」 「何に?」 「着て帰るのに」 「腕、出して。両方」  小鈴はジャケットを着た。左だけ手首が出ている。都が右の袖口をつまんで折ると、同じくらい出た。 「今日は、マイク持つから。手、隠れないほうがいい」 「それ、今言う?」 「昨日も、言った気がした」  都は鋏を持ちかけ、置いた。 「いったん、見せて。マイク持つところ」  小鈴は受付のペンを握り、肘を上げた。僕へ、そちらのお客様、と呼びかけた。 「抽選、三回ありますので。最後まで、残ってくださいね」 「僕、何も買ってない」 「今のうちに。まだ開店してません」  都が笑い、袖の端へもう一度針を通した。  小鈴は二十四歳で、僕より一つ上だった。月に何度か、住宅展示場や店の催しで喋る。渡された文はたいてい覚えているのに、人が笑うと自分も笑い、次の説明へ行くのが遅れる。 「全部で、何回やるの」 「三回。最後が七時半だから、帰るのはそのあと」  都は袖口へ針を留めた。小鈴が財布を見た。 「出演料、もらってから払うのでいい?」 「千五百。今、なくてもいい。でも今夜、忘れないで」  小鈴は財布から千円札を出し、鞄の底を探って五百円玉を見つけた。 「払う。気になって、司会で言いそうだから」 「言わないでしょう」 「本日は袖の長さもそろえまして――」  僕が先に笑うと、小鈴は、ほら、とペンを向けた。      *  作業室へ行くと、源さんは月の縁を撫でていた。  僕も触るよう言われた。昨日より引っかかるところがない。そう答えると、そっちは昨日削ったとこだ、と裏へ回された。 「あ、こっちも」 「裏も撫でろ。そこ、手ぇ切るぞ」  源さんは毛布を広げた。僕が月を持ち上げると、端へ布を当て、紐を回してくれた。 「舞台、また出るんですか」 「出ろって言うのか」 「僕が言っても、出ないでしょう」 「何だ。決めてから来たのか」  紐を引くと、毛布の端が少し寄った。月を置いていいか聞くと、まだ、と源さんが答えた。僕は腕を替えた。 「僕、出ると、台詞が速くなります」 「走りたくなるか」 「はい」 「走る役、やれ」 「三回とも、座る役でした」 「誰だ、選んだの」 「畑野さん」  源さんは顔を上げた。笑うかと思ったが、結び目を押し、今度は俺が読む、と言った。  小鈴が来た。受付のタイマーを持っていた。 「ねえ、三分だけ、聞いて。片づける前に」  源さんは月を立て、壁へ寄せた。僕が手を放す前に、下が滑らないか確かめた。 「三分、何だ」 「自分で書いたの。冷蔵庫が喋る」 「新品か」 「明日、捨てられるほう」  小鈴は原稿を二枚出した。源さんが黙ったので、僕は聞くよ、と言った。凪が作業室の戸口へ来て、三分なら僕も、と座った。  受付へ椅子を三脚並べた。小鈴がタイマーを三分に合わせ、僕の隣へ置いた。 「鳴ったら、止めて」 「読むのを?」 「音。途中だったら、少し読ませて」 「今、三分に負けましたね」と凪が言った。  小鈴が冷蔵庫を読み、凪が持主を読むことになった。小鈴は笑ったままスタートを押した。古い冷蔵庫が、取り替えられる前の晩に喋りだす。主人が明日来る冷蔵庫も喋るのか聞くと、まだ会っていないので知りません、と返した。  僕が笑うと、凪も笑った。小鈴が先を読んだあと、凪は一つ戻してほしいと頼んだ。聞こえなかったのだった。  源さんが戸口に立っている。小鈴は同じ台詞を、二度目には少し遅く読んだ。  最後に主人が、冷凍室から古い誕生日のケーキを見つけた。小鈴は最後の二行を読み、原稿を膝へ伏せた。 「どう?」 「ケーキ、食べないよね」  僕が聞くと、小鈴は、書いてない、と答えた。 「そこ、言わなくてもわかるかな」  凪が持主の紙を借り、最初から読んだ。小鈴が冷蔵庫を返すと、同じ話なのに早く終わりそうに聞こえた。 「いま、そこ、待って。まだケーキ、見つけてない」  小鈴が言うと、凪は一行戻った。 「俺、もう食べました」 「捨てられる前に言わないで」  凪は笑い、食べる前の所を探した。 「源さんは?」  小鈴が顔を上げた。戸口にはいなかった。作業室から金属の音がした。  凪は原稿を握ったまま、もう一度、主人の最初の台詞を言った。途中で首を振った。 「俺、さっきのほうがよかった」  タイマーが鳴った。僕は音を止めた。小鈴は原稿を取らず、凪が読み直すのを待った。      *  十一時半、ルカが戻ってきた。  展示会で床を張る仕事を終え、靴へついた粉を裏口で払っていた。都は焼き菓子の袋を出した。ルカが半分もらうと、残りを僕へ渡そうとした。 「都のだよ」 「あ、そっか」  彼は袋を戻した。都は自分の分を取り、残りを受付へ置いた。 「来月、三か月、名古屋なんだ」  ルカが言った。都は包みを開けるところで止まった。 「二週間って言ってたよね」 「延びた。月曜から行けば、部屋も使えるって」 「月曜って、明後日?」 「違う、来月。今夜、条件をちゃんと」  ルカが携帯で台の図を出した。工藤さんから回って来た組立だという。木の足へ服を掛けて、試着する相手に見せる。 「最初の組立、俺がやる。こっちの服を着せる方も、向こうで一緒に」 「まだ注文じゃないよ。こっちで着せる人も、決まってないんだから」 「台だけ先に取っておけば。都の服、出せる時に使う」  都は画面へ手を出さず、自分の仕事机へ戻った。紙袋の底を片手で持ち上げ、僕へ見せた。 「これ、もう一枚、入れられる?」  ルカが続ける前に、僕は赤い柄の鋏を取った。 第三章 窓の裏 昼御飯は凪のおにぎりだった。  鮭が一つ潰れていた。凪はそれを自分の前へ置き、多く買った一個を持ち上げた。 「食べる人」  ルカが手を上げた。 「さっきも食べてた」と小鈴が言った。 「まだ昼、食べてない」 「あれは?」 「都に半分返した」  都は携帯の文を送り、ルカの前のおにぎりを見た。 「返された半分、まだ袋にあるよ」 「じゃ、あとで」  凪がおにぎりを渡した。都も包みを開け、携帯を紙の裏へ伏せた。  食べ終わると、僕とルカは舞台の壁を畳んだ。青い板が三枚、蝶番でつながっている。真ん中には窓があった。 「右、持てる?」  僕は下の枠へ両手を入れた。ルカは壁に身体を寄せ、右手首を曲げずに脚のねじを外した。 「代わる?」 「これだけ。もう回った」  ねじが抜けた。僕が右の板を畳むと、裏の桟が引っ掛かり、ルカの袖へ角が来た。 「逆。いったん戻して」  戻す間に左の板もずれた。凪が携帯を机へ置き、端を押さえた。 「三人いる壁だな」 「俺が左持つ。歩、右、戻せる?」  ルカが凪の手の外を持った。僕は左を内へ畳み、右を外へ重ねた。さっきよりずっと薄くなった。  窓は見えなくなった。向こうから顔を出す役だった僕が、ルカの方を向いていた。 「今、撮れた?」 「止めた。逆にした方だけ」  凪が画面を見せた。開こうとしている僕の手に、板がまたついてきた。  小鈴が身を寄せた。 「これ見て、明日、畳める?」 「俺が先に挟まる」  凪は携帯を下げ、ルカの手へ画を合わせた。 「一回、開いて。左から、そこ、止めないで」  僕らは戻した。今度は脚を抜くところから、畳み終えるまで撮れた。凪が再生すると、ルカが、ここは毛布を敷いてから、と床を指した。凪は映像へその文を付けた。  窓の左下に三日月形の傷がある。先週、凪が椅子を当てた所だった。 「源さん、直さなかったんだ」 「貧乏な部屋だからって」 「俺のせいで部屋が貧乏になった」 「最初から」とルカが言った。  畑野さんが裏口から見ていた。 「それ、ひばりへ入れる。大家さんが四時半に開けてくれるから」  ルカは先方の床を出した。白と茶色の小さい四角、理容椅子を外した丸い跡。僕は桟へ段ボールを二重に当て、車へ壁を積んだ。脚二本は別に束ねた。 「立てるなら、こっちも」  畑野さんが脚を取った。 「寝かせた方が場所、空きますよ」 「うん。でも日曜に使いたい。そこまで借りる」 「月を入れる方?」 「月は、向こうの人」  彼は脚へロープを掛けた。  都が紙を持って来た。 「出る前、三分あります?」 「資材屋も寄るから、帰ってからでいい? 五時半。六時には」  都は携帯へ時間を入れ、紙を折り直した。車が出ると、舞台へ戻った。      *  蓋を外し、灰色の上着を箱へ入れた。肩が区画から出た。 「これ、衣裳は入れづらいですよ」 「畳め」  源さんが作業室から言った。都が上着を取って裏返した。僕の見ていた肩が下へ入った。 「捨てるの?」  彼女は襟の札を出した。源さんが首を振った。 「俺のじゃない。畑野に訊け」 「ああ。これ、月曜に着る方」  都は服を自分の机へ掛けた。舞台の札を袖の裏へ入れ、腕をひっくり返す。 「衣裳で面談へ?」 「向こうは知らないからって。少し短くする。返事もらってないから、まだ箱に入れないで」  僕は蓋を閉めかけて手を止めた。  都は左袖を携帯へ寄せた。三つ残る仕事を誰かへ頼むため、裏を見せて額を聞くという。畑野さんが帰ったら着てもらって、もう一度撮る。凪は袖を支え、布が戻るところも要るか訊いた。 「要る。どっちの袖か、分からなくなるから」  彼は携帯を取った。都が、着てから、と袖を戻す。凪は机の前を空け、塗料の缶へ戻った。  隣の箱も開け、蓋を二つ並べた。『旅箱』の中は四つに仕切られ、『食器』の方は空いている。僕は会社へ送る写真を撮った。源さんが缶をどけ、小鈴の持った蓋を裏返す。 「指、そこ。下へ入ってる」  小鈴が持ち替えると、源さんは彼女の指が抜けるまで端を持った。二つの金具が合った。 「同じの四つ、工藤から来る。返事が来たらな」 「来月、台に要るんだよ」  凪は、もう写真と違った、と言った。都は二枚撮り直し、連絡グループへ送った。僕は蓋の字と仕切りを一枚へ入れた。四区画の方が『食器』になった。 「明日のは食器って言えばいいか」  僕が手掛けへ指を入れると、爪へ板の角が当たった。 「そっち、狭い」と凪が言った。  隣の箱は掌が入った。僕は持ち上げかけて、止まった。 「あ、こっち、違う。持てる方、取っちゃった」 「俺、狭い方って送っとく」  凪が携帯へ打った。源さんは仕切りを揺らした。板は両側の角材から動かなかった。 「皿、割れるから入れたんだ。持てないほどは出してねえよ」  僕は指の場所をずらした。今度は持てた。  凪が空洞の箱へ腰を下ろしかけ、源さんに立てと言われた。僕が蓋を戻すと、源さんは縁を押した。 「そこまでなら座れる。足は載せんな」  凪が座った。中へ響いた。 「船の役、覚えてる?」と小鈴が訊いた。 「船は役じゃない」 「船長」  凪は立って、足を乗せかけた。 「塗ったばっかりだぞ。横、開けろ。乗る方だ」  僕は長い側の留め金を二つ外した。側板が床へ着き、箱の底へ低い斜めの面が出来た。凪はそこから入り、膝を伸ばした。  会社の欄へ内側の数字を入れた。長さは二メートル近く、幅六十五、深さ五十五。靴の先にも余った。仕切った方には、この戸がなかった。 「今度これ、冷凍庫にしたい。源さん、入ってくれる?」 「俺を冷やすのか」 「出て来る台詞もあるよ」 「そっちを言えよ」  凪は外へ出た。靴を板に引っ掛け、源さんへ足元を指される。留め金を掛けてから、客席の方を向いた。 「この先、何にもないぞ」  小鈴が腹を抱えた。 「それ、あなたのじゃない。向こうの人」 「こっちでしたっけ」 「こっちはまだ見えてねえんだよ」と源さんが言った。  凪は顔を反対へ向け、同じ台詞を小さく言った。僕はさっきよりも、前の芝居を思い出した。      *  小鈴のチラシに、僕の名前があった。 「三人で読むの。物を取りに来る客、そこだけ」 「僕、出るって言ってない」 「短い所」 「短くても速くなる」 「じゃ、急いでる人」 「まだいないです」と凪が言った。  小鈴は僕の名へ鉛筆を引いた。冷蔵庫を自分が読み、持主は凪が読んでいた三分。僕の客の用事は空いていた。 「聞きには来る?」 「行きたい」 「じゃ、そこにいて。人数減ったら割り直し」  会場費を八人で割ると端数が出た。凪が五円多く出すと言い、小鈴はまだ全員来るか分からないと消した。  源さんが三分の二枚を取った。 「俺がいない」 「来るんですか」 「読む方」  小鈴は凪を見た。凪は持主の紙を源さんへ向け、裏の方から自分の白い紙を抜いた。 「じゃ、そこ、お願いします」  源さんが僕の頭より上へ手を上げた。 「こいつの高さで待たせんなよ」 「身長の役じゃないです」  青い壁を外した所に、椅子が二脚あった。僕が一つ寄せると、源さんは空いた幅へ出た。玄関で荷物を待つ二人がこちらを向いた。 「この先、何にもないぞ」  源さんが、さっき窓だった所を見る。玄関の人も見る。奥は畳んだ板だった。 「じゃ、荷物どこへ置くの」  僕が言うと、源さんは笑った。 「空いてる所へ置け。客の方、先にどけんなよ」  二人も笑った。小鈴が紙を戻してもらおうとすると、源さんは胸へ寄せた。 「最初からやる。冷蔵庫、そっちに立て」  小鈴が椅子の脇へ行った。源さんは持主の行を読み、途中で椅子から立った。 「戻る客、ここへ入って来る?」 「一回帰す所から、客席に訊くつもり」 「帰って来なかったら、俺、片づけるぞ」 「書く。その方も」 「そっち長くしてくれ。帰らない奴に俺のやること全部持たせるな」  小鈴は欄外へ丸を付けた。凪が、声だけ録れば、と携帯を出した。  源さんは紙を少し高くした。椅子の脚が箱へ当たったので、片足で寄せた。 「声、立たねえぞ」  源さんは紙を凪へ渡した。凪は携帯へ置きかけ、自分の白い紙の上へ戻した。 「俺の続きも、あとで見てもらっていいですか」 「持って来い。俺の台詞、待てるか」 「練習してからです」  源さんは、月を出したら明日一時に行く、と小鈴へ言った。 「箱は今夜。午前の司会があるから」 「今夜の司会、俺も手伝うんで、終わってから取りに来ます」と凪が言った。  小鈴は箱へ紙を敷き、本を載せようとした。 「本は先に返せ。箱ごと階段へ上げんな」  僕は三束へ分け、二冊ずらして紐の下へ指を入れた。小鈴の控えから三枚の札へ名を書き、挟む。凪が重い二束を持った。 「箱を運ぶ前に返すんだね」 「車を返す所も寄る。今夜しか借りてないから」  小鈴が場所を携帯へ出した。凪は束を下ろし、その隣で道を見た。  源さんが三束を撮った。携帯を台へ置き、工藤と呼ぶ。 「本は先に返す。ねじ袋は今夜、台は明日。箱を下ろしたら俺もそっちへ行く。先に紙、聞いてくれって言われてる」  小鈴が原稿を上げた。 「そっちは私の会場。工藤さん、来ちゃうよ」 「来たら椅子を出せ」 「八人分しかない」 「じゃ、持って来させろ」  凪が笑った。源さんは自分で止め、昼の分、と名を入れた。まだ送らず、画面を暗くした。  畑野さんへ渡す台の寸法も測った。源さんが引出しを抜くと、長い柄が中へ当たった。抜いた所で止め、角度を変えて入れ直す。 「これも持ってくの?」と僕は訊いた。 「工藤のだ。今夜返す」  源さんは引出しを閉めた。小鈴は会場の階段を見せ、凪が椅子を運ぶと言った。僕は片づけが何時に終わるかを訊いた。  源さんの紙は凪の手に戻り、白い紙と別々に折られた。 第四章 帰ってから 畑野さんは五時半に戻った。ひばりへ壁を入れ、日曜には二つ椅子を使いたいと頼んだが、もう処分してしまったと言われたそうだ。  都は灰色の服を持って待っていた。 「先に一回だけ。源さん、電話のところをやりませんか」 「今着たら、もう脱いでもらうよ」 「一回だけ。ね」  源さんは月の紐を台へ置いた。 「都、まだ測るか」 「今から。着てもらったらね」  畑野さんは灰色の服へ腕を通した。 「都。一回で終わるから」 「終わったらすぐ脱いで。椅子に引っ掛けないでね」  僕は客席から椅子を持ってきた。源さんが座り、後ろへ体重をかける。脚が一つ浮いた。 「歩、これ俺を落とすやつか」 「そこまで考えてなかったです」  ルカが畳んだ紙を脚の下へ押し込んだ。源さんがもう一度揺れてから、いいぞと言った。  凪が携帯を立てた。 「撮ってもいいですか。都さんの説明も頼まれてるんで、同じのに入っちゃうけど、あとで分けます」 「終わってからでいいよ」と畑野さんが言った。  凪は源さんも見た。源さんが掌で腹を撫でた。 「痩せて見えるほうから頼む」 「どっちですか」 「俺が聞きてえ」  都が吹き出した。畑野さんは紙を膝に伏せ、右の手を耳へ当てた。 「もしもし」 「そっち、雨か」 「まだ。窓が閉まらなくて」 「雨じゃねえなら今直せ」 「あなたが帰るまで」 「帰るって言ったか」  畑野さんの手が耳から落ちかけた。源さんは黙って待った。  僕は棚の荷物を数えながら聞くつもりだった。二つ目の箱に手を置いたまま、動かせなくなった。  畑野さんが紙へ目を落としかけ、源さんを見た。 「言わなかった。まだ待ってる」 「じゃ、閉めんな。俺は戸の鍵を持ってねえから」  凪は画面を見ず、二人を見ていた。都が彼の袖を引いて、携帯を指す。 「あ、まだ回ってる」  畑野さんが息を吐いた。 「終わり。もうない」 「尻が痛え」  源さんが言った。畑野さんは椅子を持ち上げようとして、止まった。 「源さん、立って」 「運ぶんじゃねえのか。俺ごと」 「重いでしょう」 「言うなよ」  僕も椅子へ手を出していた。源さんが立つと、急に軽くなった。足元の工具へ屈もうとしたので、僕は肩を貸した。まだ持ってろ、と言われ、彼が道具を取り終えるまで待った。  源さんは畑野さんの紙を取った。折り目を膝で伸ばし、自分が黙って待った行へ指を置いた。 「明日、ここから、もう一回」 「ひばりで? 三浦さんも来るって」  畑野さんはまだ椅子の背を持っていた。 「月を出してから行く。向こうに椅子あったか」 「借りられなかった。ここから二つ持ってく」 「じゃ、俺のはガタつかねえやつだ」  ルカが紙を抜いた。源さんはそれを靴で踏みかけ、避けた。      *  都が灰色の袖を裏返した。肘の内側に濃い所があった。 「これ、前から?」 「染めた時に片方だけ足りなくて。洗っても、もう落ちなかった」 「じゃあ写真に残す。月曜の面談へ、これ着て行くの」 「短くすれば。服は何でもいいって」 「何でもいいのに、これなの?」  畑野さんは袖を見て笑った。都はまだ笑わず、寸法を測った。  白い札には公演と役の番号があった。その下の細い布を、彼女は袖の裏から出した。 「借りた所の札。ここ、切らないからね」 「短くする所じゃないでしょう」 「札切ったら、返す時、困る。袖、上げて」  都が凪を呼び、袖の裏を撮ってと頼んだ。彼女は畑野さんの腕を横へ開かせ、布を一度戻した。 「ごめん、こっちから。いまの所も、あとで見せる」  凪は止めずに、二人の手の方へ携帯を寄せた。札を出した所でも待っていた。 「そこまで。知り合いへ送る。来週、片方だけ手伝ってもらえるか聞くから」  凪が都へ送ると、長すぎて分からないかも、と畑野さんが言った。 「私が戻してる所も要る。どの袖か、向こうで混ざるから」 「左袖って入れときます」と凪が言った。  都に宛先を読んでもらい、袖の方だけを送った。しばらくして、向こうから金額を出せると返事が来た。 「使えるって。ありがと」  都は針を戻した。凪は画面を閉じ、焼き菓子の包みへ指を出した。中身はもうなかった。 「俺、まだ一個あると思ってた」 「さっき食べたよ」と僕が言った。 「じゃ、あとで買う。まだ食べたい」  畑野さんが笑いかけた時、携帯が鳴った。片腕だけを下ろした。 「はい、届いてます。日曜にお渡しする。台も、引出しも一式で」  都が測る方の腕を上げ直させた。 「岸さん、源さんの番号はありますね。でも先に僕へ。積むのを手伝う人も呼ぶので」  電話を切ると、畑野さんは画面を都へ向けた。 「入った。こっちを先に払える」  彼は別の番号へ掛けた。来週、鍵を受け取る日に布団を入れてよいか聞いていた。 「最初の分、今日送ります。源さんの方は明日渡してから」  都が測る手を止めた。 「台の代金、いま入ったって言った?」 「そう。引出しも一緒に。明日、受取りをもらってから」 「源さんの台でしょう」 「先にこっちを済ませれば、次の仕事から払えるから」  畑野さんは電話へ戻り、都は袖の寸法を書いた。金額の欄へは書かなかった。  源さんが作業室から顔を出した。 「今の、何を渡すって?」 「台です。ひばりへ置く話と一緒に。あとで紙、持って来ます」 「引出しは開けるぞ。工藤の部品も入ってる」  畑野さんは携帯をしまった。都が袖をほどくと、鋏の先の布が一度跳ねた。      *  流しの脇で僕は葱を洗った。畑野さんが顔を洗い、袖で顎を拭きかけた。食器の布巾を渡すと、違う、と笑って、事務所から白いタオルを持ってきた。 「来月は何するんですか」 「夜の受付。荷物の車が来たら鍵を開けて、誰が受け取ったか残す。歩の仕事と反対側だね」 「決まった?」 「月曜にもう一回会う。三浦さんが紹介してくれたんだ。明日、閉まる前に見たいって、ここにも来る」  彼が棚からどんぶりを下ろした。僕も重なった端を持った。 「源さんと、明日もやるんですか」 「やれたら。今、やるとこを忘れるんだよね。でも待ってくれたでしょう」  僕は頷いた。畑野さんはどんぶりを置き、自分のタオルを段ボールへ戻した。茶碗の包みが引っ掛かって落ちた。  彼がしゃがみ、薄い花の絵を確かめた。 「母親が持ってけって。服を下に入れれば割れないから」  コップには使いかけの歯磨きが立っていた。僕が最初に泊まった晩にもあった気がした。  鍋が煮立ち、僕らは流しへ戻った。      *  サエさんが金の布を袋へ入れた。半分だけでも椅子には大きいというので、全部なら、と源さんが言った。 「ソファが二つある」 「持ってけ」 「こんな色、誰が選んだ」 「俺だ」 「そう。ちゃんと嫌な色」 「欲しかったんだろ」 「欲しかった」  僕は箱へ紐を掛け直した。源さんが折畳みナイフで端を切り、刃を畳んで作業台へ戻した。  サエさんは源さんの靴を直してくれる。彼が片足を入れると、今日は脱いで、と紙袋を出した。 「来月使う」 「来月までに直す。だから脱いで」  タクシーへ金の布を積む間、靴はサエさんの膝にあった。日曜の朝、受け取りに来られるか訊かれ、源さんは十一時にはいると答えた。  車が出ると、畑野さんが毛布の袋を自分の車へ入れた。  厚い廃棄袋を買うと言って、また出た。都が時刻を見た。六時を過ぎていた。 第五章 下ろした分 六時二十分、小鈴は三束の札を確かめた。凪が二つ、彼女が一つ。僕は裏口へ運び、車へ載せた。 「借りるの、九時まで。昨日八時って見たけど」  小鈴は借用の紙を鞄へ戻した。凪は、箱も今なら、と長箱へ向いた。 「二階、仕事が終わるまで使ってる。あとで鍵もらう」 「箱、今積めますよ」 「入れないよ。その時間、まだ人が使うから」  凪は車の戸を閉め、劇場へ戻った。源さんが凪の紙を見ていた。小鈴へ渡す三分の二枚、その後ろに凪の一枚があった。 「これ、冷蔵庫、もうないのか」 「捨てた後から。俺が戻って来て、源さんが持主で迎える方です」  源さんは扉を開ける行へ爪を当てた。閉める所へ、手を外す、と書いた。 「小鈴、捨てた後も読むか」 「私の、捨てる所まで。後ろはまだもらってない」 「二人で出すって返したんです。先に俺が書いて、見せてから」  小鈴は凪を見た。凪の指が原稿の端を丸めた。 「返したの?」 「九時までに、出来る方を」  彼女は前の二枚を取った。源さんが押さえていたので、引かなかった。 「それ、もう一組ある? 今日読むの、こっち」  凪は鞄から写しを出し、小鈴へ渡した。源さんは後ろの一枚を広げた。 「前の客、まだ帰ってねえのに二回目を言うんだな」 「いま読んでもらえば直せます。もう一回、録ってから」  源さんは帰る客の最初を凪へ向けた。 「俺、誰へ開けるんだ」  凪が紙を持った。 「冷蔵庫、まだ」  源さんの顔が上がった。凪は続きを見直し、紙を半枚戻した。 「紙、見せてみろ」  源さんが手を出した。小鈴は時計を見た。 「本、持った? 私、一束しか運ばないよ」  凪は原稿を台へ置き、携帯を近づけた。 「写真、送っときます。読むの、箱下ろしてから」  源さんは端を持っていた。僕が丸まった所へ指を置く。凪は白い所まで入れて撮った。 「後ろも、今夜持って来いよ」  源さんが言った。凪は頷き、写した紙をそのまま残した。畳んだナイフが上にあった。 「箱、下ろしたら電話」と小鈴が言った。 「月のあとじゃねえのか」 「明日は読む方。今夜は箱と、凪の紙の話」  小鈴の携帯が鳴った。車の戸を持ち、部屋の人の話を聞いた。 「はい。九時半には、箱だけ置いて。明日の十一時から使います」  凪が時計を見た。 「俺、先に椅子並べたいんです」 「鍵の人が来てから。私、午前は司会だから、歩、先に来られる?」 「月の人、十一時半に劇場」 「その前。部屋だけ見てくれれば」  僕は本の荷札を渡した。凪が、本を返す所も先、と助手席へ置いた。  源さんは車へ手を上げた。凪が座り、鞄を膝へ載せた。      *  うどんをよそったあと、都は源さんの薄茶色の上着を膝へ載せた。右の背の縫い目がまたほどけていた。 「戻すだけなら千円。次、引っ張ったら千五百」 「千円で頼んだ」  都は裏地へ指を入れた。ルカは食べ終わり、彼女の隣へ座り直した。 「名古屋、部屋もある。こっちの家賃は払うから」 「何か月?」 「三か月。長くなったら、その時また」 「三か月?」  都が上着の上へ針を寝かせた。 「来月の納品どうするの。あんた、車出すって言ったよね」 「最初のは行ける。週末なら帰れる」 「三つあるんだよ。最初の一つだけじゃなくて」  僕は鍋を火から下ろした。ルカは箸を揃え、食べ終えたことをもう一度見せるように椀へ渡した。 「日を教えて。今決めれば」 「何を決めるの。仕事、受けてきたんでしょう」 「受けた。受けるだろ。次があるか分かんないんだから」 「行くなって言ってないよ」 「じゃあ」 「今日聞いて、今日分かったって言わなきゃ駄目なの?」  都が裁縫箱を閉じると、上着が膝から落ちた。二人で拾い、どちらも袖を離さなかった。 「離して」  ルカが手を引いた。 「家賃のことも。払えばいいって話じゃ」 「払わなくていいの?」 「要るよ!」  都が上着を握った。源さんが、縫ったばっかりだぞ、と言った。彼女は手を緩めた。  僕は鍋の底の一本を取った。都の椀へ入れるか、自分で食べるか決められなかった。 「これ持っといて」  都が小さい缶をルカへ渡した。 「飴。膝から落ちる」  彼はポケットへ入れた。 「道具、先に積む。帰ってから話そう」 「棚は積まないで。まだここで仕事する」 「分かった」 「材料も」 「分かったって」  彼は白い工具袋を右から左へ持ち替えた。源さんが手首を見た。 「工藤に別の奴を頼むか。台、重いぞ」 「ひねっただけです。名古屋には言わないで」 「台を落とされちゃ困る」 「落とさないです」 「組む方は、手が治ってからでいい。俺の台の足、先に貸せば、出来てる方を使える」 「それ、源さんが組んだ方ですよね」 「客はどっちが組んだか、知らねえよ」 「都は見る」とルカが言った。  都は針へ糸を通そうとしていた。名前を呼ばれ、まだ払う方、と上着を示した。  源さんは椀を置いた。返事を待たず、都へ上着が済んだかと訊いた。  ルカは少し待ち、工具袋を持って外へ出た。      *  七時十分、畑野さんが灰色の服で戻った。源さんに夜の受付の紙を出し、次に台を売る控えを出した。  源さんは先の紙だけ返した。 「水曜、昼は寝ろ。こっちに来るなよ」 「台を運ぶ方も、別の人に」 「それは先に決まってんだろ」  都は見積りと、渡した服の控えを持ってきた。畑野さんが台の売却の控えへ重ね、源さんへ渡そうとした。 「こっちは私の。まだ払ってもらってないよ」  都は自分の二枚を抜いた。 「ここから引けば、源さんに返すのは残りでしょう。都の分も、先に払ったって」 「受け取ってない。払ったって書くなら、今日払って」  畑野さんは財布を出しかけ、紙へ戻った。源さんは台の控えだけを取った。 「俺へ返す話に、人の仕事を足すな」  畑野さんは、先にこっちを、と都を事務所へ呼んだ。都は二枚を別の封筒へ入れた。  僕は流しで椀を洗った。都が袖の札の封筒を頼んだので取りに行き、源さんへ渡した。 「捨てるなよ。サエに見せる」  源さんは机へ置いた。都が返した上着の裏地が引っ掛かっていたので、僕は襟だけを持ち、彼が両腕を通すのを待った。  右の背へ入れた糸は二本、玉を結んだ端が短く並んでいた。都が余った方を切った。源さんは上着を脱がず、肩を上げて待った。 「右、引っ張るなよ。また取れる」 「着るの手伝っただけで千五百ですか」 「それは俺に訊くな」  都が笑いかけ、畑野さんの呼ぶ声へ向いた。      *  ルカが戻り、源さんと台を動かした。僕は反対へ膝を入れた。台が上がると、ルカの左の指が白くなった。 「下ろせ」  源さんが言った。下の角材が転がり、ルカが足を引いた。源さんは台の端の携帯を横へ向けた。 「工藤。右、二段目から」  引出しを少し出して止め、前の所で持ち直した。長い柄の工具を抜き、ルカの一本へ並べる。自分の方へ紙を巻いて名を書いた。 「こっちは貸す。名古屋でまた足りなくなるだろ」 「ありがとうございます」  ルカが二本を袋へ入れた。携帯へ工藤の名を出し、閉じた。 「明日の台は替わってもらいます。名古屋の組立は行く」 「工藤へ言え。人数、俺は知らねえよ」 「源さんから言うと、全部休むってことになるから」  名古屋から電話が来た。ルカは大丈夫、最初の週から、と答える。都の服を向こうへ着せる台を自分で組むという。都はまだ注文ではないと言っていた。ルカが、試着の分から、と言い足した。  源さんの携帯の点はついていた。僕が見ると、源さんは引出しへ戻り、抜いた方をもう一度入れた。  電話を切ったルカが源さんを見た。 「今の、向こうへ言わないでください」  源さんは片手を引出しへ置いた。 「ここ、映ってねえか」  僕が携帯を持ち直すと、角が入った。源さんは続きを出した。  ルカが、九時に車でつなぐ、と画面の返事を読んだ。工藤と工具を出し、名古屋の人が入ってから図を見る。最初の組立の人へ渡すので、初めから残すという。 「今日、顔出すんですか」と僕は訊いた。 「仕事だから。工具も。右の方は、見せない」 「映像なら手も入るだろ」 「どっちで持つかまで、今決めてほしくないです」  ルカは自分へカメラを向け、右手首を下へ置いた。源さんは四区画からねじ袋を出し、一本ずつ数えた。 「これ、工藤へ。袋ごと」  ルカは工具とは別に持った。源さんは空洞の箱の毛布へ、長さを揃えた二本の縄を載せた。 「これ、先に取れよ。開ける方、下だ」  側板を指したので、僕は結び目の短い端を引いた。締まった。 「船、沈むぞ」  輪の方を引くと解けた。源さんは紙の端へナイフを置き、毛布を一枚僕へ渡した。 「本、なくなると軽いですね」 「そっち先に返せって言っただろ」  僕は籠へ押し込んだ。畑野さんと都の車は角を曲がっていた。  作業室へ戻ると、ルカが源さんへ携帯を貸してと頼んでいた。 「自分ので掛けろ」 「俺のだと出ないかもしれない。明日の台は替わってもらう、名古屋は外さないでって」 「台は下ろしただろ」 「下ろせって言われたからです」  源さんが携帯を向けた。画面の中にも空いた引出しがあった。僕が赤い四角を指すと、源さんはそこを押した。点が消えた。 「右二段目でいいか。名」 「いま出した所?」 「工藤、そこから出すから」  源さんは名前を入れた。昼の本の話の画面は出さなかった。ルカが袋を持ち、僕が戸を開けた。  彼が車から戻るのを待って、源さんから借りる毛布の数を月の人へ送った。二枚になったと答えた。八時九分だった。 「割るなよ、明日」 「ほかにも運ぶんで、どれですか」 「月だよ」  ルカが笑った。左の指に、工具袋の赤い印が移っていた。  籠へ押した毛布の白い糸が源さんの背へ残っていた。彼が払おうとして届かないので、僕が取った。二本の糸玉へ絡みかけていた。切った先は短く、そこをつまむとまた都へ返すことになる。玉の間は、都が縫った細い線で閉じていた。毛布の方だけを引いた。 「割る前に、俺の服、ほどくなよ」 「まだ月、来てないです」  僕は自転車へ乗った。角を曲がると、源さんの声は聞こえなくなった。  家では卵焼きが残っていた。明日の分か聞くと、あんたの分、と母が答えた。朝より固くなっていた。 第六章 受取人の署名 日曜の七時半、箱は劇場の裏口へ出ていた。  蓋の字は『食器』だった。畑野さんが紙を渡した。廃棄する衣裳、台本、布。詰めた人の名前は畑野さんだった。 「もう一つは?」 「昨日、小鈴たちが。今日の会場へ。大きくて、二人とも階段、一段ずつだったって」  僕は狭い手掛けへ軍手を入れた。板の端が爪に当たる。畑野さんが反対側を持ち、本が下へあるから重いと言った。  車輪が段差へ引っ掛かった。二人で持ち替え、荷台へ上げた。蓋と箱へまたがる三本のテープを撮った。欠けた車輪も。 「源さんは」 「小鈴の方へ行くんじゃないかな。昨日、箱を持って行く話をしてたから」 「月が十一時半です」 「そっちが先だったね。戻ったら電話してみて」  東倉庫では畑野さんが先に着き、シャッターを開けて待っていた。下ろした位置を撮り、署名をもらった。奥の棚には、前の台本がまだ積まれていた。  会社へ車を返すと、原田さんから電話が来た。 「東で火が出た。さっきの所だ」  僕は下ろしたばかりだと答えた。誰か中にいたかと訊かれ、畑野さんの名前を言った。二度目の電話で、本人が外にいると聞けた。 「箱、消防の人が見るから。そっちは先に月を頼む」  写真を消すなと言われ、いったん家へ戻った。父の洗った顔から水が落ちていた。 「飯は」 「あとで」  母が残したパンを一つ取った。      *  十時四十分、ルカから電話が来た。 「都、来てる?」 「僕、まだ劇場に着いてない」 「俺、小鈴の会場の前。まだ開いてない。都、来てないんだよ。昨日も帰ってない」  都の名で九時十八分に届いた文を、彼が転送した。少し考えたい、連絡しないで、とあった。 「源さんはそっち?」 「凪も聞いてる。劇場、いないの?」  劇場の裏口へ着いて、僕は自分の鍵を出した。作業室の戸は開いていた。長椅子は空で、替えの白いシャツが背へ掛かっている。棚と型紙は都の言ったままに残っていた。  小鈴が読む紙はなかった。台の上の短い紐だけが、鉛筆の下へ入っていた。  僕は源さんへ電話した。鳴る音はここでは聞こえなかった。  月を受け取る人へ、少し待ってほしいと連絡した。そのあと、借りた会場へ向かった。      *  小鈴が借りた部屋は、北品川の小さな建物の二階だった。ルカと凪は下で待っていた。ルカの電話は、そこで掛かって来たのだった。  入口の女の人は箒を片手に持ち、二階の鍵を壁の箱へ掛けていた。小鈴が鍵の人と呼んでいた人だった。 「部屋、十一時からね。荷物は先に見てもらっていいから」  凪が、小鈴の午前の司会はまだ終わらない、と言った。 「源さん、返事ないですか」 「劇場にはいない」 「昨日、ここへ来たんです。箱も一緒に。源さんは助手席で」 「靴、ないよね」 「ルカさんの作業用、借りて。車の所で履きました。箱は空だったんで、二人で階段、上げて」 「八時三十八分。源さんはこっちで待つって。俺、新しい後半を取りに戻って、小鈴さんは車を返しに」 「じゃ、ここにいたんだね」 「でも、四十二分、劇場にもいた」  凪は八時三十四分に来た文を開いた。小鈴の三分と彼の後半を、続けて二人の名で出すか。九時までに返事するよう求められていた。 「作業室の中。白い背、机に向いてた。俺、段ボール避けて行ったら、肩が机の方へ寄って。先に戻ったんだって」 「話せた?」 「声、掛けなかった。もうちょっと待ってって言われると思って」  僕が最後に見た背は薄茶色だった。 「俺、その時、工藤さんとこ」とルカが言った。  ねじの返却の控えを出した。八時半から四十八分まで店にいて、そのあと会場へ来たという。 「五十分過ぎ、源さんと台のこと、話した。靴も返してもらって。俺は車へ戻って、電話してた」 「俺が戻ったの、五十三分です」と凪が言った。「源さん、いなくて」  僕は階段の上を見た。二階の戸はまだ閉まっていた。 「ルカは、帰るところ、見た?」 「見てない。九時から工藤さんと映像で。八分に向こうが入って、二十分まで。待ってる間も工具、出せって。右の手まで出せって言われて、車の中で」  ルカは工藤さんから来た接続先を見せた。工藤さんが初めから残して、名古屋へ渡す。僕が停めた場所を訊くと、会場と反対へ二つ角を曲がる駐車場だと言った。 「終わってから戻った。階段、急いだら、こっちで凪が読んでて」 「借りた靴も返してあったんで」と凪が言った。「帰ったんだと思って」  凪は紙を二枚揃えた。昨夜ここで読んだ、彼の後半だった。 「俺が戻る客をやったんです。最初、ルカさんに聞いてもらって。息を切るとこ、もう一回」  ルカが頷いた。源さんへ掛け直すために戻ったが、凪の一行を聞いたという。九時半に、凪が会場の鍵を返した。 「箱、開けた?」 「開けてない。明日、小鈴さんが冷蔵庫にするので。源さんの紙も、ここへ入れるって言ってたから」  畑野さんが入口へ来た。紺の上着だった。土曜の灰色の服は着ていなかった。火事の話をするため警察からまた呼ばれるが、その前に源さんへ連絡したいと言う。 「ここに来たんですか。昨日」と僕は訊いた。 「来てない。ひばりへ都を送って、岸さんと電話して、そのあと劇場へ」  僕は時計を見た。 「十分早く、いいですか。月の人が来るんで」 「じゃ、いま開ける。昨日の荷物、先に見てね」  彼女は箒を立て、鍵を取った。凪が携帯を横にした。 「置く所、ここから撮ります。階段も。小鈴さんが来たら、また直すんで」  僕は先に二階の戸を押した。開かなかった。鍵の人が回して、手を外した。  黒い長箱が壁へ寄っていた。『旅箱』の蓋が上に載り、毛布の上から二本の縄が蓋を横切り、長い側板を押さえて底へ回っている。片方に「冷蔵庫・小鈴」と書いた紙札があった。机の前には一脚、別の椅子が残してあった。 「昨日もこれだけ出してた。これ、借りる数に入れる?」 「それも八脚のうちです」  凪は低い棚へ携帯を置いた。箱の上と、倒す側板の端まで同じ画へ入れ、手を離した。僕は窓から椅子を退けた。ガラスの脇を押したが開かなかった。  鍵の人が上の小さい換気口の紐を引いた。冷たい空気が頬より上へ通った。 「源さんも、窓、開けようとしてました」と凪が言った。「昨日、ここまで見てなくて」 「これ、上だけ。下は開かないのよ」  鍵の人は下へ戻った。  ルカが畳んだ椅子を二脚運び、凪は頁の順を直した。僕は月の人へ、もう少し待ってほしいと送った。  凪が箱へ掌を置いた。 「これ、開けたいんです。源さんが紙も一緒に入れるって言ってたんで」  今日は冷凍庫の役になる。上ではなく、長い側の板を手前へ倒す。凪が輪を引くと縄がほどけた。紙テープを巻いた四つの端が、床へ落ちた。畑野さんが蓋を持った。  僕は蝶番のある下へ手を出した。金具が一つ、内側へ戻っていなかった。 「押さえて。板、倒れるから」  凪が上の縁を持つ。僕が留め金を外した。  ルカが凪の前を通り、窓側の短い板へ回った。 「歩、一歩引いて。板、倒れる」  僕は入口側に出した靴を退けた。板の倒れる所だと思った。  布が板へ当たった。薄茶色だった。  白い靴下が二つ見えた。靴は履いていなかった。  源さんの顔は、窓側の短い板のそばにあった。閉じた目の上へ、眉の毛が一筋下がっていた。 「源さん」  畑野さんが箱の端へ膝をついた。僕も続き、肩へ手を伸ばしかけた。どこを持てばいいのかわからなかった。昨日は、触る前に自分でできると言った。  ルカが一一九番へ電話した。 「長い箱の中に人がいます。服に血。呼んでも」  向こうの返事を聞き、僕へ胸を見るよう言った。僕は見たが、動いているのかわからなかった。そのまま答えた。  ルカは携帯の音を大きくした。床へ出すよう言われ、畑野さんが肩の下の布を持った。上着は右肩から脱げかけ、背の布が毛布の端と一緒に側板へ折れ出ていた。僕は腰の下へ両手を入れた。源さんを箱の開いた側から、すぐ下の床へ移した。背の下の毛布が赤黒く濡れていた。仰向けにしようとして、曲がっている腕が床へ当たった。 「腕、伸びない」  僕は源さんの袖を持った。肘のところが動かなかった。首の横へ手の甲が触れ、冷たかった。  ルカがそのまま電話へ伝えた。僕は相手の言う胸の位置を探した。畑野さんが上着の前を開き、手を置いた。 「ここ。歩、ここ」  畑野さんは僕の手を引いた。押すと、思っていたようには沈まなかった。少しでも動かそうとして、僕のほうの肩が痛くなった。  ルカが数えていた。胸が動かない、腕も、と電話へ話す間は、僕が数えた。途中で、次の数が出てこなくなった。  昨日は椅子から立つ源さんへ肩を貸した。立った直後にまた工具を拾おうとしたので、僕は肩を離せなかった。 「源さん、返事して」  畑野さんが声を張った。僕の耳元でもう一度、同じことを言った。  凪は壁へ下がった。窓の下に置いた携帯の画面が、明るいままだった。  榊さんの声が会場の入口でした。 「劇場にいらっしゃらなかったので、こちらへと」  ルカがこの建物の名前を言い、救急車を案内してほしいと答えた。僕は胸を押した。月を受け取る人へ、まだ電話をしていなかった。      *  救急隊の人が僕の手を止めた。 「こちらで確認します。いったん離れてください」  僕は膝を動かせなかった。ルカに腕を持たれ、廊下へ出た。掌のつけ根が痛かった。畑野さんは戸のところへ残った。  そのうち、隊員の一人が出て来た。 「救急車では、お連れしません。警察へ引き継ぎます」 「車、来てますよね」  ルカが言った。隊員は、源さんに死後の変化があると説明した。腕や胸の硬さも、そのためだという。僕は戸の中を見た。源さんの胸へ手を置いている人はいなかった。 「僕、まだ押せます」  僕は両手を見せた。返事を聞く前に、ルカが僕の手首へ触れた。  月を受け取る人から電話が来た。もう近くまで来ていると言われ、今日は渡せなくなったと伝えた。相手は、二人とも聞いているので大丈夫、と答えた。戻れるところで、と、車の人へ話していた。  サエさんは三度目の電話で出た。 「いま、バス。靴、できた」 「源さんが、倒れて。救急の人が、来て。まだ、ここに」  返事はなかった。停留所の案内が聞こえた。 「待ってて」  彼女が電話を切った。  入口の外へ椅子を出してもらい、座った。ルカは都の姉へ電話している。凪は段差に座り、携帯を自分の靴の上へ伏せていた。 「消してない」  僕が見ると、凪が言った。 「置く所を撮ってた。入る前から、止めてなかった」 「消さないほうがいいと思う」  彼はうなずいた。警察官が近づくと、先に画面を差し出した。  畑野さんが建物から出て来た。源さんの家族へ連絡するため、番号を探していた。僕は自分の携帯を開いた。朝の箱の写真があった。蓋の字、テープ、車輪、灰色の床。  電話が鳴った。原田さんだった。 「いま、どこだ」 「小鈴の会場です。源さんが、救急の人に」 「人、いるな。警察は」 「来てます」  僕は朝の火事を警察へ伝えていないことに気づいた。原田さんは、先にそれも話せと言った。 「東は、火、消えた。おまえの下ろした場所も、これから聞かれる。伝票と写真、こっちは残してるから」  僕は画面から目を離した。畑野さんは源さんの家族の番号を探していた。箱の受取人の名前は、朝、目の前で書いてもらった。 「いまから行く。そこに、いろ」  原田さんが電話を切った。僕は携帯を持ったまま、警察官のほうを見た。 第七章 靴の袋 警察官が来てくれた。手にまだ携帯があったので、会社からです、と言った。朝、荷物を運んだ東倉庫で火が出た。会社へ車を返したあとに連絡が来た。伝票は会社にあり、自分の写真も残っている。 「その倉庫へ行ったのは、何時ですか」 「八時過ぎ。荷下ろしした写真に、時間が」  僕は画面を見せた。畑野さんが署名する前、箱を四辺から撮ったものだった。  警察官は会社の名前も聞き、原田さんと直接話せる番号を控えた。僕が送ろうとする文まで覗かず、いったん待っていて、と言った。  ルカは別の警察官へ都のことで話していた。 「今朝の九時十八分に、これ。その前、道具を返してから僕が帰って、家にいなくて。ちゃんと電話したんです。帰るって」  携帯を耳へ当てた形の手が、途中で下がった。 「最後に会った時は」 「劇場です。昨日、道具を車へ入れる前。都が事務所へ行く前に」 「会場では、源さんがどっちを向いていたか覚えていますか」 「窓の方。箱から出るって。手、貸しました。靴はもう、返してもらって」  ルカが右の手首を出した。警察官はその話を別の行へ書いた。 「そのあと、都さん本人に会った人は」  ルカが僕を見た。僕は都が事務所から出て来たところから話した。型紙と棚を残してほしいと言われた。電話しながら自転車の前の石をどけていた。最後には畑野さんの車の横へいた。 「乗ったところは?」 「見ました。助手席です。車が出たあとも僕は残って、源さんから毛布を借りました」  畑野さんが近づいて来た。 「僕が、品川駅の高輪口の方まで。駅の前へ寄せた。帰る前に一人で考えたいって言うから、それ以上は」 「どこに停めたか、見たい」とルカが言った。 「うん。地図、出すよ」  畑野さんが画面へ指を当てた。警察官は、その前に順に聞きます、と二人の間へ手を入れた。  僕は一歩下がった。凪が入口の段差から立ち、警察官へ自分の携帯を渡した。今朝撮ったところを、最初から説明していた。言葉が同じ場所へ戻るたび、先ほどより速くなった。 「返してもらえますよね。土曜のも、仕事で使うので」  警察官は、確認して連絡します、と答えた。凪は、土曜の分も渡します、と言い直した。  下で鍵の人が、帳面を開いて話していた。 「受付、終わらなくて。小鈴さんたちの釣銭、まだここ。車に行っちゃって」  小さい封筒を机へ置いた。警察官が昨夜のことを訊いた。 「八時半からは、ほかの部屋は終わり。私、階段の下でこれ、つけてた。戻る人には声掛けるの。こっちの人は、先に上にいるって。あとで、そちらの人が上がった」  彼女は凪を、次にルカを見た。二人が九時半に下りてから、一緒に外へ出て建物を閉めたと言った。警察官はほかに上がった人がいるか訊いた。いないと答え、彼女は封筒を自分の鞄へ戻した。 「今朝も、私が開けたとこから、この人、撮ってた。釣銭渡すつもりだったんだけど」      *  サエさんは、靴の袋を胸へ抱えて来た。  僕を見るより先に、源さんの名前を言った。戸の中にまだいると伝えると、携帯を出そうとして袋を下げ、そのまま止まった。 「靴、渡しておいて」  僕は両手を出した。彼女は持ち手を離さなかった。 「やっぱり、持ってる。あの人、直したところ、見ないと履くから」  僕は手を戻した。  サエさんは畑野さんへ、家族のいるところを聞いた。姪が劇場へ向かいかけていたと知ると、電話を替わらせてもらうよう頼んだ。袋を両手で持っていたので、畑野さんが携帯を耳の近くへ渡した。 「衣裳をやっていた者です。靴が、ここに」  そこから声が出なくなった。畑野さんは携帯を受け取り、借りた会場の名前と北品川の住所を伝えて切った。  僕は水を買いに行った。凪の分は、いつも買う細い方にした。口の広い瓶は、鞄で蓋が緩むと言っていた。サエさんは冷たいのは嫌だと言ったので、自分で開けた。凪にもう一本渡すと、彼は、いま飲めない、と膝へ置いた。 「買ってくれて、ありがとう。あとで、飲む」  僕は頷き、自分の水を一口飲んだ。      *  原田さんが来た時には、僕らは向かいの喫茶店へ移っていた。  日曜は休みだったが、店主が扉を開けてくれた。畑野さんが奥の椅子を借り、小鈴へ連絡する人を探した。サエさんは、自分がかける、と袋を膝へ置いた。  原田さんは僕の背後に立った。 「東の話、警察にしたか」 「はい。番号も渡しました」 「向こう、火は消えた。今、入れるか聞いてる。会社の車は、もう戻ってるからな」  僕は、車を返したことだけはちゃんと言えた。  原田さんが隣へ座った。写真を見せようとすると、机に伏せてある僕の携帯へ目を落とした。父へ打ちかけた文があった。 「家へ、遅くなるって入れとけ」 「あとで」 「写真はあとで一緒に見る」  僕は源さんが倒れ、警察へ話すので帰りが遅くなると送った。母にも送った。すぐに返事が来るのが怖くて、仕事の写真へ戻った。  畑野さんは入口で男の人と話していた。僕は見たことがない。薄い鞄を持ち、舞台のほうへ行こうとして止められていた。 「前の職場の三浦さん」と畑野さんが言った。「日曜、劇場とひばりを見たいって、話してたから。劇場で榊さんから、こっちを聞いたんだって」  三浦さんは僕らへ頭を下げた。畑野さんへ、月曜はどうする、と小さい声で聞いた。 「朝の、説明だけは聞きに行く。そのあと、こっちへ」 「無理なら、僕から言うよ」 「行く。先に電話、入れとくから」  畑野さんの声は、電話で搬出を頼む時に似ていた。三浦さんは一度頷き、鞄へ入れた紙を出さなかった。  そのあと畑野さんの携帯が鳴った。源さんの姪だと言って、店の外へ出た。僕らが移ったあと、身体を調べる医師も、源さんのいる会場へ来たと警察から聞いた。姪はそこへ着いたという。  サエさんの電話から、小鈴の声が漏れていた。 「いま、駅。午前の分、終わったから。源さん、靴、履ける?」  サエさんは、来て、とだけ言った。畑野さんが戻り、携帯を持った手を下ろした。 「医師が、確認したって。源さん、亡くなってる」 「いま?」  僕が聞くと、畑野さんは首を振った。 「来た時には、もう」  原田さんが携帯を机へ伏せた。写真はまだ途中だった。  サエさんは靴の袋を隣の椅子へ置いた。凪は自分の靴の先を見ていた。僕も見た。床に、水の瓶の丸い跡がついていた。  小鈴が警察官へ、土曜の九時四分には源さんと話したと伝えていた。返した車の場所を聞かれ、まだ読んでると返されたという。僕は同じ時刻の中へ、源さんの声と、もう動かない腕を置けなかった。  僕は、何もしていない手を膝へ下ろした。 第八章 焦げた角 署へ行く前に、原田さんが会社へ電話した。  日曜の伝票と送られた写真を、そのまま保管するよう頼んでいた。最後に、明日の僕の便を別の人へ替えてくれ、と言った。 「出るつもりでした」 「明日の荷は俺が組む。おまえ、今日は乗れ」  彼は携帯をしまった。僕は何を言えばよいのかわからず、車へ乗った。  小宮さんは署の机で、朝、誰から会社の鍵を受け取ったかを聞いた。箱を持ったところからではなかった。  僕は会社へ着き、車を借り、劇場へ行った。畑野さんと箱を積んだ。東倉庫へは畑野さんが先に着いた。入口の少し奥へ下ろした。署名をもらい、帰った。 「シャッターを閉めたところは、見ましたか」 「半分まで。車へ戻っていたので、最後は」 「中へ入った場所を、写真で示してください」  僕は灰色の床を指した。失敗した写真のほうが、床を広く撮っていた。  小宮さんは奥へ行ったか聞いた。行っていないと答えると、僕が立った所を写真へ指すよう頼んだ。入口の脇を指した。  土曜の話へ移った。  凪は原稿を源さんに残し、小鈴の司会へ出た。そのあと源さんは都に札を取ってもらい、上着を着直した。ルカは道具を車へ入れてから、劇場へ戻っていた。  畑野さんと都の車が出たあと、僕は源さんから毛布を借りた。月の人へ数を送った。八時九分だった。源さんとルカは台を下ろしてからも、誰へ何と返事するかを話していた。  小宮さんは、携帯を最後に見たところも聞いた。源さんは台の端へ置いていた。工藤さんのために、引出しを出す順番を録っていた。 「引出しを録った方は、帰る前に源さんが止めました。右二段目って、名前を入れた」  小宮さんの紙には、僕が帰った時の線が引かれた。線のあとで源さんが靴を借りたことは、今朝、凪から聞いた。      *  小宮さんが、凪から受け取った写真を出した。二十時二十六分。車の前で、源さんの白い靴下が灰色の大きな履物へ入るところだった。顔はない。小鈴の右腕に赤茶色の汚れがあった。  凪の説明には、工具袋の塗料とあった。次の一枚で、源さんが毛布の角を丸め、袖を下から押さえていた。赤茶色が布へ広がっている。空の箱を撮った一枚には、その毛布が四角く畳んで底へ置かれていた。 「靴、借りたって聞きました。来た所は、見てないです」  僕は朝の箱から出た白い靴下を思い出した。写真では、その足が履物へ入りかけている。  小宮さんが、そのあとの動画を開いた。箱の側板は倒してあり、白い靴下が中へ入る。携帯は机のすぐ脇の低い棚へ置いたまま、源さんの顔より下を撮っていた。箱の上蓋と長い側板の端が、同じ画に入っていた。顔へ向けると箱の片端が外れるので、凪は低い方へ戻した。 「これ、ここの床だけですよ」  小鈴が横蓋を膝で押さえた。源さんはもう左足を中へ入れていた。 「分かってる。階段、俺が自分で上がったろ」 「凪くん、車輪で押して。持ち上げないで」 「客、運んでくれ」と源さんが言った。 「客に持ち手ないです」 「あるよ。ここ」  顔の映らない所へ両手が上がった。小鈴が笑い、すぐに毛布の端を引いた。 「源さん、私、三分しかないんですよ。荷物からあなたが出てきて、みんな喜んで、それで半分終わります」 「喜ぶかどうかやってみなきゃ」 「喜ぶんです。それ、私が分からないと思わないでください」  源さんは毛布に腰を下ろし、頭を入口側の短い板へ寄せた。小鈴が箱の後ろを押す。凪は開いた側板が床へ擦れないよう持った。床一枚の継ぎ目で、車輪が止まった。 「はい。止めて」  凪の声のあとで源さんの膝が伸び、手が箱の縁へ掛かった。 「もう一回だけ、今の止まり方を――」 「しません」  源さんは箱の縁へ掌を載せたまま、窓側へ尻をずらした。膝を入口側へ寄せ、今度は足から側板の上へ出した。顔は窓側の短い板のそばに残った。 「帰って来た客、先に見てから立つ。こっちなら、あいつに後頭部、見せねえだろ」 「じゃ、出て来る所を先にやってください。運ぶの、なしで」 「凪が、いい止まり方した」 「私は、客を待つ人をやるんです。客を運ぶ人にはしてません」  源さんが箱の外へ両足を下ろした。上着から折畳みナイフを取り、絡んだ紐へ近づける。小鈴が先に輪を解いたので、刃を開く前に手を戻した。解いた縄は箱の底から抜かず、端だけ床へ置いた。ナイフは椅子へ置いた。 「これ、畳んだままでいい。箱はしまって」  小鈴が毛布を天板へ移した。四角いまま、天板のほぼ半分を隠した。 「その前に、後半、読んでほしいです」と凪が言った。帰って来た客を持主が迎える、彼の続きだった。 「持ってきたら読めるよ」 「あの、途中で直すんじゃなくて」  源さんが折り畳み椅子をもう一脚出し、箱のそばの窓際へ置く。 「戻って来たら、おまえ、客の所で読め。俺はここで持主。立って聞くと口出すから」  小鈴の手が、携帯の前を通った。彼女は車の鍵を取った。 「私は帰ります。車、九時までなんで」 「気をつけて。段差のとこ、先に足下ろして」 「それは、知ってます」  源さんの手が、携帯へ近づいた。画面が黒くなった。  二十時三十八分で、この画は終わっていた。  小宮さんは、僕が知らなかった所があるか聞いた。源さんが後半を読むと約束した所まで、初めて見たと答えた。  原田さんは東へ行ける時間を訊いていた。下ろした箱が残っているか見たいと言った。小宮さんは会社の伝票を持って立った。  僕も立った。画の中では源さんは自分で箱から出て、椅子を出していた。朝、僕が床へ下ろした身体には、同じ人の重さがあった。      *  東倉庫へ着くと、シャッターは開いていた。  道路の向こうまで水が流れていた。火の色はなかった。濡れた黒いものが入口に集まり、奥の棚は立ったままだった。  原田さんは僕を道路から先へ出さなかった。小宮さんが、そこから置いた位置を教えてほしいと言った。 「箱の長いほうが、シャッターと平行。棚より手前で、もう少し、右」  僕は自分の写真を見た。同じ角から見ても、今は箱がない。  作業着を着た人が、消防の人と話していた。 「僕、隣の区画。パン、買って戻ったら、ここから煙が。八時二十分になる前。電話、残ってる」  携帯を出した。消防の人は、その時にシャッターがどこまで開いていたか聞いていた。僕は声の届くところで待っていた。 「半分より下。下のほうから。でも、火は、中を覗いてないから」  消防の人が頷いた。通報が八時十九分だったことを、記録を見て確認していた。 「消火器、隣から持って来たんです。電話、先にして。あの人、入口にいたから、中の人、出てるか、聞いた」 「中へは入りましたか」 「入ってない。ここから届くとこだけ。煙で、見えなくなったら、もう外で」  その人が入口の端を指した。消防の人は、使った消火器の場所も聞いた。上の棚へ火が届く前に、箱のところで消火したと説明していた。  僕が会社へ車を返していた間だった。朝、電話で聞いた火が、いま目の前に残っていた。 「何時に火をつけたんでしょう」  原田さんへ、小さい声で聞いた。 「ここで訊こう。俺、火が消えたって電話もらっただけだ」  僕はうなずいた。向こうでは、最初に煙を見た位置を同じ人が指していた。  小宮さんが携帯で写真を見せてくれた。焼けた箱は、奥へ移してあった。触る前の状態も撮ってあるという。  外れた蓋の字は読めなかった。箱の右の角が崩れ、縁の黒い板が薄くめくれていた。僕は一度、指を広げてから、元へ戻した。 「これ、同じか聞かれても」 「名前以外に、見分けられるところは?」  次の写真には、内側があった。  板が三枚残り、四つの区画が見えた。いちばん右の区画へ、濡れた衣裳が寄っていた。短い側の手掛けの内側に、板の端が出ている。持つと爪に当たったところだった。 「仕切ってるほうです。この手掛け、内側が狭い」  小宮さんが、車輪を写した一枚へ送った。縁の一部が欠けていた。僕は朝の写真を隣へ出した。取付金具の端から少し離れた穴に、ねじが一本足してある。そこも同じだった。 「僕が運んだのは、これです」  声に出すと、ようやく腹の中が冷えた。  箱の中身を出した写真もあった。衣裳は全部が燃えたわけではなかった。端が黒くなった袖も、濡れて重そうな上着もある。台本の束は下のほうが残り、文字が何行か読めた。  小宮さんは、衣裳の持主がわかるかを聞いた。  灰色の上着があった。襟の内側へ、小さい札が縫ってある。土曜、都が自分の机へ掛けたものに見えた。捨ててよいか聞こうとした上着だった。 「名前、見れば」 「札も、別に撮っています。いま、あなたが見た物から」  僕は頭を上げた。台本の束の隣に、茶碗があった。  花の絵が二つ。口の縁は黒く、新聞紙の切れ端が底へ貼りついていた。 「これ、畑野さんのです」  言ってから、僕は手を引いた。触っていないのに、引いた。 「どこで、見ましたか」 「事務所。昨日、包んでた。持って帰るって。捨てる物じゃ」  小宮さんが朝の一覧を開いた。衣裳、台本、布。  僕が受け取った紙に、食器とは書いていなかった。蓋の字を、土曜に直した。そのことと、中身のことは、別だった。      *  外へ戻ると、畑野さんが来ていた。  自分の車から降り、小宮さんへ、会社の人もいます、と原田さんを指した。原田さんは返事をせず、担当者へ連絡する番号を渡した。 「歩、同じ箱だった?」 「はい。板と、車輪が」 「ああ。中は、朝のままだよ。詰めたものは、一覧に」  僕は茶碗のことを言いたかった。小宮さんが畑野さんへ近づき、別に話を聞くため、僕らを車へ戻した。  原田さんは運転席へ座り、先に水を飲んだ。 「おまえ、中身、最初に見たのは?」 「いま。入れる前なら、土曜に」 「それ、さっき、話した?」 「はい」  彼はエンジンをかけた。僕は自分の茶碗のある家を思い出した。今日、帰れたら何を食べるか、まだわからなかった。 第九章 聞いていた人 喫茶店へ戻ると、小鈴がいた。  ジャケットではなく、黒い上着を着ていた。源さんに貸した原稿の写しを、机へ二つに折っていた。 「今朝、作業台には無かったよ」  僕が言うと、彼女は紙を開いた。 「うん。聞いた」 「取って来られなくて」 「いい。写し、持ってるから」  原田さんが机の端へ手をついた。会社へ戻ると、僕にもう一度、明日出るつもりで寝なくてよいと言った。僕は礼を言った。小鈴も頭を下げたので、原田さんは、あんたも食べな、と皿の焼き菓子を見た。  小鈴は一つ取った。噛んだあと、なかなか飲み込まなかった。  都の姉がルカと来た。二人で、昨日の服に近い写真を探していた。僕に靴も見せてほしいと言われ、僕は思い出そうとした。自転車の石をどけたところを見たのに、靴の色が出てこなかった。  姉は、違う日も全部出しておこうと言った。ルカが横へ椅子を足し、座るより先に携帯で水の自動販売機を探した。 「タオルは洗ってる。家、泊まれます」 「ありがとう。着る物、こっちで買ったから」 「俺が洗ったんじゃないんですけど」  姉が、わかるよ、と答えた。ルカは椅子へ座り、小さい缶のあるポケットへ手を当てた。      *  榊さんは、源さんから預かっていた紙のことを警察へ話したという。  備品を貸した相手と、返す予定の日が揃っていなかった。椅子、照明、いくつかの衣裳。源さんはその場で作った物も売った物もあり、閉館までに引取先を決めたいと頼んでいた。 「全部、源さんの物ですか」  僕が聞くと、榊さんは、全部ではない、と答えた。 「修理して引き受けた物もあります。そこは元の持主へ聞いています」 「金具、四つ頼んでるって」 「その相手の番号、わかりますか」  僕は首を振った。源さんは、来月、同じの四つ、と言っていた。台をひばりへ運びたい理由だった。  サエさんが袋を寄せた。 「工藤さんでしょう。自転車のほうの。電話、家で探せるよ」  榊さんは名前を書いた。サエさんは、いま全部持ち出させないで、と続けた。 「私のも、まだある。人のも。誰が縫ったかわからなくなると、後からあの人の針って言われる」  榊さんは、どこまで片づけたかから聞きたいと答えた。サエさんは袋の中の靴を見た。いまは、靴からでいいよ、と言った。  凪が携帯を持って戻った。警察へ土曜の写真を送るために外へ出ていた。 「昨夜、源さんがここへ来たか、聞かれました」  小鈴の向かいへ座らず、机の横に立った。 「八時四十二分、劇場にいて。そのあとこっちへ戻ったんなら、俺より早い。靴、返したって言ってたから」 「私はここで会ったよ」と小鈴が言った。 「そのあと。俺が戻った、そのあとに来たのかって。俺は、見てないって」  彼は顔をそむけた。小鈴は自分の原稿を取った。 「後半、やるって返事したの?」 「二人の名前で。源さんにも出てもらうって」 「私、まだ出来るって言ってないよ」 「源さんが出来ないって言ったら、後半は俺だけで。待つ時間、映像で作ったら、俺の方、見せられると思って」 「じゃ、私の冷蔵庫は?」 「最初に付けて。小鈴さんが冷蔵庫で、源さんが持主の、三分はそのままで」  小鈴が紙を畳んだ。 「司会の一枠みたいに言わないで」  彼女は相手へ電話した。出た人に小鈴と名乗り、凪の提出した後半へ出るとは返事していないと話した。向こうの返事が長かった。 「前半は出したいです。でも、続けてでは。私がまだ出来ると言ってない分の印刷、止められますか」  彼女が日付と金額をチラシへ書いた。もう明日の印刷には入る。火曜まで待つのは会場の支払だけになった。凪は携帯へ文を打ちかけたが、小鈴の電話が終わるまで送らなかった。  僕は原稿の端を思い出した。源さんが離さなかった所へ、凪も手を掛けた。凪は夜の会場で源さんを待った。小鈴が車を返してから、鍵を返すまで、彼が一人で残った時間がある。 「源さんの顔は」  僕が訊くと凪は顔を上げた。 「ここで顔を撮ればよかったです。入ってくれたのに、手ばっかり。四十二分も、背の方だけで」  水の瓶はまだ開いていなかった。      *  畑野さんは、源さんの姪へ掛け直すと言って店の外へ出ていた。  ルカの携帯が鳴った。  都からだった。椅子が床へ音を立てた。姉が先に画面を見た。緑のコートと鞄が写っていた。 『しばらく帰らない。荷物は送らなくていい』  僕は机へ手をついた。  青い窓があった。左下に三日月形の傷が残っている。 「窓の壁。ひばりへ、積んだほう」  ルカは電話をかけた。電源が入っていないという案内になった。姉も自分の携帯を耳へ当てた。  畑野さんが戻り、画面を見た。 「あれ、東へ変えた。ひばりは引き払うから。都は鍵、持ってるんだよね」 「東、火が出たんです」と僕は言った。 「うん。その前に行ったなら。写真、いつ撮ったかは」  榊さんが、届いたままのものを残して、とルカへ言った。ルカは小宮さんへ電話した。写真の時刻と、畑野さんの話を短く伝えた。  僕は東の写真を開いた。灰色の床だった。  都の鞄の下には、白と茶色の四角があった。僕が壁を積む時に見せてもらった床。理容椅子を外した丸い跡も、コートの裾の下へ少し出ていた。 「ルカ、大家さんの写真。床の、出せる?」  ルカが電話を耳へ当てたまま僕を見る。僕は自分の携帯を机へ置いた。 「電話、そのままで。ひばりの床だって、言って」  彼は小宮さんへ、スピーカーにします、と言った。姉が椅子を寄せた。僕は写真の端へ指を置いた。 第十章 店の前 ルカはひばりの住所を読み上げた。  小宮さんが、大家の番号も、と言った。ルカは携帯で探し、写真と一緒に送った。僕の東の写真も送った。榊さんは最初に届いた画像を、保存し直す前にどう渡せばいいか確かめた。 「俺、行きたいです」とルカが言った。「いなかったら、そこに、ほかの物があるか。それも聞きたい」  小宮さんは現地へ連絡すると答えた。中へ勝手に入らず、着いたら待っている警察官へ名前を言うよう頼まれた。  畑野さんが机に手をついた。 「僕、案内するよ。鍵も」 「住所、わかった」とルカが言った。  都の姉は、自分の上着を取った。ルカも同じ上着へ手を伸ばしたので、姉が、私が着る、と袖を抜いた。彼は手を引いた。  店の扉が開き、警察官が畑野さんの名前を呼んだ。東から戻ったあと、もう一度話を聞く約束だったという。  畑野さんは僕を見た。 「歩、慌てて行かなくていい。向こう、もう動いてるから」  僕は鞄を取った。何を持って行けばよいか決められず、とりあえず仕事の手袋を入れたままにした。 「一緒に来る?」  榊さんに聞かれ、はいと答えた。 「窓、畳んだので」  それだけ言った。サエさんは膝の靴を寄せ、僕らが椅子の間を通れるようにした。小鈴が凪の携帯を見ていた。凪は、こっちは俺が残って話す、と言った。      *  タクシーは二台になった。  ルカと姉が先に出た。僕は榊さんの隣へ座った。小鈴から、いま何がわかった、と文が来た。まだ場所しか、と答えた。  凪からも来た。水の瓶は喫茶店で預かってもらった、と先にあった。僕は蓋を開けたか訊きかけて、窓の方を読んだ。 『窓、畳んだやつ、送る。脚の、見えてた』  僕は、必要なら現地で聞く、と返した。再生する前に榊さんの電話が鳴った。  大家からだった。警察と合鍵で中を見に行くという。榊さんは手帳を開き、停車した時に、土曜の壁の受取りを聞いた。 「脚も二本、受け取られたんですね。鍵は、まだ。はい」  彼女は紙へ日付を書いた。声を聞く間、鉛筆は動かなかった。  電話を切り、僕へ、土曜の五時前に壁を受け取って帰ったと教えてくれた。東へ移す話は聞いていなかった。月末の退去の約束は残っている。  僕は携帯を握った。僕が運んだ箱と、僕らが積んだ壁。東は火事で、都の写真はひばりだった。  榊さんが僕の手を見た。 「タクシー代、先に私が出します。あとで分けましょう」 「はい。財布、あります」  そう答えて、財布を出さなかった。彼女も今は支払わない。僕は携帯を鞄へ入れ、車の揺れが止まるまで窓の外を見た。      *  ひばりの赤と青の柱は、回っていなかった。  看板の下半分へ白い紙が貼ってあり、ガラス戸の内側にも紙がある。細い隙間から灯りが見えた。警察官が戸の前で僕らの名前を聞いた。  ルカは道路の向こうにいた。姉は上着の襟を寄せ、ガラス戸を見ていた。 「大家さん、入った」と姉が言った。  戸が開いた。中へ入る人の背中の向こうに、青い窓が見えた。  窓の先は白かった。僕は、部屋がそこで終わっているように見えた。舞台では、その後ろを歩けた。  戸が閉まると、青い枠も見えなくなった。 「外向きじゃないね」とルカが言った。 「うん」 「奥の戸、右から、通れるはずなんだけど」  彼は大家からもらった写真を出した。白い戸が端へ写っている。都の鞄の写真には、その部分が入っていなかった。  警察官が中から出て来た。 「壁板を組んだ人は」  僕らは二人で手を上げた。ルカが右手首を押さえ、写真を見せてくれないかと頼んだ。警察官は携帯を出した。  壁の右の一枚が折れ、白い戸を半分隠していた。棚の箱が、裏の桟の端へ載っている。 「その箱、先に取らないで」とルカが言った。  警察官はすぐに、店の中へ声をかけた。 第十一章 持ったまま 「脚、ついてないです」  ルカは写真へ顔を近づけた。 「正面で、一人、支えて。その人が持ってから、箱を下ろして。先に箱だけ取ると、こっちへ倒れる」 「壁へ穴を開けるほうが早いですか」 「窓、ガラスないです。そこから後ろ、見られる。壁を動かすなら、二人。下の枠、板だけ掴むと、割れます」  僕は写真の下を指した。手袋を鞄から出したところで、警察官が、こちらでやります、と言った。手袋はまた戻した。  ルカが都の名前を呼んだ。車の音に重なった。店の中へ届いたか、わからなかった。  姉は花屋の軒へ下がり、冷たいねと言った。僕が足元を見ると、薄い靴下だった。花屋の人が、中へ寄っていい、と声をかけてくれた。  ルカは道路の縁から動かなかった。      *  木の擦れる音がした。  ガラス戸が開いている間に、中から椎名さん、と呼ぶ声が聞こえた。車が二台通った。三台目が来る前に、硬い短い音がした。  ルカが道路へ足を出した。向かいの警察官が手を上げ、彼は止まった。僕も同じところで止まった。  白髪の男の人が、店の横で電話していた。大家だった。鍵束を片手で握り、小部屋は元の洗濯機置場、裏から入る戸はない、と答えていた。  電話を切ると、僕らへ近づいた。 「持ち物、あった。奥の戸の中から、音、したって。いま、棚を」 「都は」とルカが聞いた。 「まだ。中の人が」  救急車が角を曲がった。僕は音より先に、理容室へ当たる赤い灯りを見た。  姉が上着を脱いだ。ルカが手を出すと、今度は渡した。彼は胸へ抱え、救急隊が中へ入るのを見ていた。 「持つよ」と僕が言った。 「持ってる」  声が強かった。僕は自分の手を下ろした。  大家がポケットへ鍵を入れようとしていた。口へ金具が引っかかり、上着を何度も引いた。僕はその手を見ていた。ガラス戸がまた開くと、すぐ顔を上げた。  警察官がこちらへ来た。 「椎名さんが見つかりました。意識はあります。いま、救急隊が確認しています」  姉は両手を口へ上げた。ルカは上着を見た。袖を握り直し、都、と、小さい声で言った。      *  担架に横になった都は、頬に擦り傷があった。  結った髪が片方ほどけ、肩の下へ入っていた。ルカが近づくと、閉じていた目が少し動いた。 「都」  彼はそれ以上、言わなかった。上着を救急隊の人へ渡した。姉が自分の名を言い、病院へ一緒に行くと伝えた。  都は顔を向けかけ、途中で止めた。唇が動いた。  缶、と聞こえた。  ルカはポケットから出した。薄い花の模様があった。蓋へ親指を掛けると、都が顔をしかめた。彼は開けずに見せた。 「これ。ある」  都がわずかに頷いた。  救急隊の人が担架を動かした。姉が付き添い、ルカへ病院で会おうと言った。彼は缶をしまい、扉が閉まるところをすぐそばで見た。  車が出ると、僕は花屋の軒へ戻った。壁へ手をつかなければ立っていられなかった。榊さんが低い丸椅子を借りてくれた。  座ると、膝が高く上がった。作業着の尻の布が引っ張られた。  笑いそうになった。ルカがこちらを見た。 「歩」 「椅子、低くて」  言うと笑ってしまった。そのまま息が詰まって、両手で顔を覆った。ルカは隣へしゃがんだ。僕は、これが椅子のせいじゃないことを説明できなかった。      *  警察官が壁板をどけた写真を見せてくれた。  白い戸の前に金属の棚があり、床をずらした黒い跡が残っていた。壁板で隠れていた場所だった。 「戸の前の棚を動かしました。中から、足で戸を叩いて応じてくれました」  僕は写真を見た。床は小部屋の中にも続いている。  大家は、土曜の五時前に帰ったあと、都が来るとは聞いていなかったと言った。引き払うのは今月末で、鍵もまだ返してもらっていない。  ルカが病院の名前を榊さんへ聞いた。姉から電話が来た。都は電話が終わったあとに棚を引く音を聞いたと言っていると、榊さんから小宮さんへ伝えた。脚の束は棚の脇で、紐が掛かったままだった。昨日、畑野さんが荷台へ束のまま置き、縄を掛けた脚だった。  僕は凪へ、見つかった、と送った。すぐ電話が来た。 「生きてる?」 「うん。ルカへ、缶って」  向こうで何かが倒れた。凪が、大丈夫です、と誰かへ言った。 「こっちも、伝える。小鈴さん、隣にいる」  僕は手を膝へ下ろした。鞄へ戻した手袋を、今日、まだ使っていなかった。 第十二章 二つの水 日曜の夜、凪が僕の水を飲んだ。 「それ、僕の」 「ごめんなさい。俺の、まだ向こうだ」  喫茶店の人が二つ持って来たばかりだった。凪の方は、小鈴が電話に使う紙の下へあった。僕は自分のグラスを彼の前へ戻した。  都の姉から、病院に着いたと連絡が来た。僕は源さんの姪へ会ったあと、またここへ戻っていた。凪も警察から戻った。土曜の映像を渡すのに時間が掛かったと言った。  都の姉の携帯から、袖の映像をこちらへ送ってほしいと来ていた。都が横で頼んでいる、と続いていた。畑野さんから回収された携帯は、まだ返らない。凪は姉へ掛け、都に送る相手を確かめてから、土曜に撮った長い方を開いた。都が布を戻す前から、札を出し終える所まであった。 「これ、残ってたんだ」 「袖の名前つけたんで。向こうが額を出せるって来た方です」 「助かったって、都が」  凪はまだ送らず、返事を待っていた。姉から宛先の確認が来ると、都に見せるよう文を添えて送った。姉から、受け取ったと返事が来た。 「次、また頼まれた?」 「写真、こっちは自分で見たいって。今日はこの分だけ」  小鈴は明日の読み合わせに借りられる部屋を探していた。午前の司会を終えてから源さんを迎えるはずだった。その紙も、鞄にあった。 「明日、誰とやるの」と僕は訊いた。 「月曜の午後、取れる所へ行く。電話してくる」  彼女が席を離れた。凪は黒い携帯を机へ置いた。 「俺の方、金曜の夜に見せるって返事してるんです。小鈴さんにも出てもらうって」 「本人に言った?」 「後ろは、まだ。先に俺が出来たら、言えると思って」  彼は自分の文を開いた。九時までの返事へ、二人で出します、と送っていた。源さんへは九時三分に続きの紙を送った。 「源さん、読んだの?」 「二回。最後、俺が書いたのより遅くなって。そこは使いたいんです」 「九時三分に送ってから?」 「紙は先です。戻ってから渡して、そこで二回。送ったのは、そのあと」  凪が文の前へ写真を出した。昼の原稿の端には僕の指があり、その下はまだ白かった。 「劇場で書き足した方を、会場へ持って戻ったんだね」 「五十三分に。源さん、その紙で読んだんです」  小鈴の九時四分の電話より前に、二回読んでいた。届いた時刻が、読むのを始めた時刻ではなかった。 「源さんがいなかったって言ったのは、いつ?」  凪は新しい後半へ指を戻した。 「ルカさんが来た時には。俺が帰った所、見たわけじゃなくて」  朝は、五十三分に戻るといなかったと聞いた。僕は凪の指の下を見た。源さんの声を撮ったのは、この紙を渡したあとだった。 「その前に読んだ方と、ルカが来た方、続けて見たい」 「前後、警察には渡してます」  凪は音を出さなかった。僕は小宮さんへ、新しい後半を紙で渡した時と、帰ったと答えた時を一緒に確かめたいと送った。誰を疑うかは書かなかった。  店の人が皿を下げに来た。僕の焼き菓子は半分残っていた。持ち帰る袋を頼むと、凪が自分のパンも入れてよいか訊いた。 「別々?」 「はい。こっち、食べかけなんで」  僕は袋を待つ間に、残りを食べてしまった。店の人が僕を見た。 「じゃ、袋、一枚」  凪が笑った。僕も笑いかけ、顔を下げた。小鈴の水は机に残っていた。  彼女から文が来た。月曜の二時半、月曜の四時、木曜の七時。さっき電話で空いていた部屋を、まだ押さえる前の候補だった。 「一番目、僕、行ける」 「俺も」  凪が返事を送ると、小鈴から、四時にするの、と来た。 「あれ。俺、二時半って見たんですよ」  彼は二時半を指していた。送った文は四時だった。 「指、そのまま。打った方、見よう」 「仕事でも、これやったんです」 「その時、直せた?」 「直しました。来る人、一人減ったけど」  凪は日と時間を一つずつ打ち直した。僕が読むと、今度は二時半だった。小鈴が席へ戻り、どっちも空いているから、まず二時半と返した。 「私が冷蔵庫。凪が持主。歩は、物を取りに戻って来る客の方、一行やってみる?」 「聞きに行くって返事した」 「今日は一行も駄目?」  小鈴は三分の二枚を出した。凪の書いた後半は、その横へ離した。 「今日、こっちは読まない。三分だけ。客が何を忘れて戻るか、そこ、まだ空いてる」  僕は紙を開いた。一行目なら短い。凪は持主の紙を机へ置き、扉を開けるふりをした。僕はまだ帰っていなかった。 「もう、戻る人、入ってる」と小鈴が言った。 「あ、最初でした」  凪が一枚戻し、僕も戻した。 「忘れ物です」  一度に言った。小鈴が何を忘れました、と訊いた。次の行を見つけられなかった。 「まだ、探してます」  彼女は僕の鞄を見た。凪も見た。僕は鞄を開けた。二人が待っていたので、閉めるまで少し長く掛かった。 「その鞄、持って帰っちゃう人ですね」と凪が言った。 「今、僕の鞄しかなくて」  小鈴は紙へ小さく書いた。僕の名は書かなかった。 「明日、この客、いける?」 「一回、やってみる」  凪が持主の最初を言った。僕が次へ行きかけると、彼は手を上げた。 「まだ。俺、開けるんで」  扉を引く手だった。僕は待って、続けた。凪は笑い、携帯を見た。画面は黒いままだった。 「今の、また録ってない」 「ここ、喫茶店だよ」 「そうですね」  原田さんから文が来た。明日の僕の便は替わった、連絡の必要な荷はあるか、と訊かれた。 「一回、待って。仕事の返事」  凪は紙を揃えた。僕が月はまだ渡せていないと送る間、パンの袋を内側へ寄せた。 「続き、ここです。忘れたら」  僕が紙へ戻ると、指を置いてくれた。次は僕の顔を見て、最初を言った。僕はその行から読めた。  彼はパンを食べ、水を探した。僕は新しくもらったグラスを遠ざけた。 「そっち」 「また、やった」  凪は空のグラスを持って笑った。僕は店の人を呼び、二つへ水を入れてもらった。  小鈴が二時半の部屋を取った。明日出るかは、出る方で返事して、と凪へ言った。彼は送る前に時間を読んだ。      *  凪はコピーの店へ寄ると言った。僕は駅へ二歩行って戻った。 「途中まで」 「そっち、帰る方じゃないです」 「知ってる」  信号の手前で、彼はパンの袋から原稿を引き抜こうとしていた。僕が袋を持つと、紙を出した。 「書いた字、言ってくれない時があるんです。源さん。直した方が面白いから、戻してって言いにくい」 「二回読んだ方?」 「そこは好きです。最後、あんなに置くと思ってなかった。俺の最初、入る所なくなったけど」  信号は赤かった。凪は紙の端へ指を置き、袋へ戻した。  青になった。曲がって来る車があり、僕らは待った。 「明日、見ててください。俺、持主の方、止まったら」 「うん」 「撮れてない方も」  僕は袋を返した。彼が一度、僕の方へ顔を向けた。二人で渡った。  家では母が風呂を沸かし直していた。僕は玄関に座ったまま、ルカの電話へ出た。 「都、姉さんがいるから俺は帰っていいって」 「明日の道具は」 「工藤さんへ。名古屋の映像で話したことも、もう聞かれてる。手、見せたくないって言ったのまで」  母が卵焼きを温めるか訊いた。今日はそのままでいいと言って、電話を切った。鞄の客の紙が曲がっていた。濡れていない所へ出してから、靴をしまった。 第十三章 切る方 月曜の朝、都の姉と劇場へ行った。小鈴は机の布を二袋へ分け、別の会場へ電話していた。凪の提出した後半にも彼女の名がある。印刷へは入れないでほしいと言うと、今日の分はもう止められないと返された。 「前半は出したいです。でも、続けてでは。まだ私、後ろへ出るって返事してないので」  電話を切り、枠を残すための三千円を振り込んだ。チラシへ線を引き、三分の二枚だけを自分の鞄へ入れた。 「今日の部屋は取った。こっちは三人で」  僕は青い型紙を出した。病院へ持って行けば、都が切口を直せる。原田さんが午後便へ載せてくれると言った。 「写真撮ったら、先に相手へ」と姉が言った。「紙ごと戻すのは、もう間に合わないから」  小宮さんが出してよいと確認した二袋を車へ運んだ。源さんの台はまだ作業室にあった。入口のガラスの向こうには、白いシャツが掛かっていた。      *  都はゼリーの蓋を二度引いて、僕へ渡した。 「そこ、切るんだよ」  別の端から開けると、指へ飛んだ。都は頬を向けず、机を寄せてと言った。姉が型紙を広げ、電話を相手へつないだ。 「ここから全部裁ち直す額じゃないでしょう。切ってある分、私がやったんだよ」  都は相手の線を消し、自分の切った所を見せた。僕の携帯で写真を撮った。直す前の方も撮るよう言われ、二枚を続けて送った。  ルカが袋を持ち上げた。 「もう出せる?」 「まだ。ここ、いま説明してる」  彼は戻した。都が通話を終えた時、原田さんから、載せるならあと十分と文が来ていた。 「私の携帯、返してもらえる日、聞いて」  姉が、まだ返せないと言われたと答えた。警察が畑野さんから回収した携帯だった。 「前の袖の写真、あれにしかない。凪の動画は姉さんに来たけど、止めた一枚も欲しい。取っていい分、先に聞いて」 「俺の方に来てるのなら」とルカが言った。 「袖の方。日曜の文と、鞄の写真は私、送ってない」  彼は携帯を出しかけて止めた。都は姉へ、写真を受け取れるか先に訊いてと言った。 「源さんの上着、また縫ってとは言わないんだね」  都が僕へ言った。 「写真、見た?」 「まだ、傷の方は」 「見た。私の線を、別の切れ目が横切ってる。ほつれた方じゃない」  僕は右の背へ付いた白い糸を取った。八時九分だった。細い縫い目は閉じていた。 「源さん、ひばりへ来た?」  都の鉛筆が止まった。 「来たら全部言うつもりだった。来なかったよ」  都は、払済みの控えへ自分の紙を使おうとした畑野さんを止めた。彼が控えを見せてと言ったので、携帯を開き、まだ払ってもらっていない額を出した。 「返してって言った。岸さんに見せるなら、私が説明するって。紙も抜いた。私の分だから」  抜いた端が裂けると、彼はもう一枚あると言った。都が携帯へ手を伸ばし、殴られた。奥へ押されたあとも、携帯は戸の外にあった。 「開く番号は言った。返すって言うから。でも、こっちが払ったっていう方は、言わなかった」  都は鉛筆を取り直した。岸さんとの電話が続く間は、畑野さんが戸の下を足で押していた。 「放すと出るぞって、何回も。八時四分から、三十四分。岸さんの方にも、もう警察が聞いたって」 「そのあと?」 「棚、引く音。それで出られなくなって。三十八分までは、あの人の声した」  源さんはその三十八分まで、会場で笑っていた。僕は署で見た白い靴下と、薄茶色の上着を思い出した。 「鞄は、持って入れた?」 「外。薬が入ってるから、渡してって言った。出してくれなかった」  写真にはコートが掛かり、鞄は窓の前に置いてあった。都が見られなかった側から撮った写真だった。僕は携帯を出し、姉へ渡した。都は型紙の方へ、机を寄せ直してと言った。袖の動画は姉の携帯にあった。姉は、いま直した型紙の切口も、撮り直した。  原田さんから電話が来た。 「午後便、やめる」  僕は間に合わないと答えた。姉が無料の車の欄を閉じ、借りる方の額を都へ見せた。受け取るはずの額が減った。 「袋を出すだけだったよね」 「ごめん。源さんが来たか、今、聞きたかった」  都は型紙を畳まなかった。 「俺の車なら」とルカが言った。 「そっち、取って。帰る時も姉さんので」  都は姉へ携帯を返した。僕は原田さんへ掛け直し、金曜の布の便を頼んだ。相手がそこまで待てるか先に聞けと言われた。      *  署で小宮さんが、岸さんへ渡った台の寸法を出した。畑野さんから二十時二十四分に送られ、源さんの声が付いている。 『箱を下ろしたら俺もそっちへ行く』  最後に小鈴が、そっちは私の会場、と言った。 「昼、録ってました。僕もいて。本を返す前です」  畑野さんは都の戸を押さえながら、これを送った。源さんがひばりに来なかったことを、都は鉛筆を止めて答えた。あの電話の間、源さんは別の二階で笑っていた。  小宮さんは源さんの上着の写真を出した。二つの糸玉の間を、刃の切れ目が横切っていた。傷は一か所で、内部の出血が死因だと聞いた。 「八時九分には、ここ、閉じてました」  僕は切れ目を避けて指を置いた。毛布の白い糸を取った場所だった。 「そのあとを見てください」  凪が劇場から戻ったあとの画だった。源さんは綴じ紐を切り、凪の束も切って、ナイフを箱の上へ置いた。持主の二度目を読み終え、紙を机へ伏せる。右の背が画の端へ入った。  糸玉の間は閉じていた。  次の画では、その椅子が空いていた。凪が戻る客を読み、閉じた箱の縄の下に、薄茶色の端があった。斜めの隙間が走っている。  僕は上着の写真を見た。さっき切れ目を避けた指が、もう机の上にない。 「袖の端じゃ、ないですか」 「どの袖ですか」  小宮さんへ答えられなかった。  箱から足を下ろす源さんの画をもう一度見た。顔を窓側へ残し、帰る客を先に見ていた。朝も顔はそちらにあった。僕は腰へ手を入れ、肩の下の布を畑野さんが持った。 「服だけなら、置けますよね」  僕が言うと、小宮さんは、客を撮った続きも朝の画も確かめている、と答えた。  凪が源さんを呼んでいた。僕はその声が止まるまで、箱の方を見なかった。  金曜の布の便を、ここでは決められない。原田さんへ掛け直し、都の姉へ相手の返事を送った。試着は金曜の午後に替えられる。借りる車の額は残っていた。  凪から文が来た。二時半、読み合わせの部屋へ行きます。署へはそのあと。  鞄に客の紙があった。日曜の夜、僕が仕事の返事から戻ると、凪は次の行へ指を置いてくれた。僕の顔を見て、最初から言ってくれた。 「今日、三分をやるんです。凪と小鈴と」 「終わったら、そのまま来られますか」 「はい」  小宮さんへ、源さんが帰ったと言った所を、凪に聞きたいとも答えた。 「録画のことはこちらで聞きます」  僕は頷いた。鞄へ紙を戻すと、端が留め金に挟まった。いったん開け、指の付いた一行目を内へ入れた。 第十四章 見られる客 借りた部屋の机は三つ、壁へ寄せた。  小鈴が受付へ払いに行く間に、凪は原稿を出した。前半の三分と、自分が続けて出すはずだった後半を離して置いた。 「俺、客の方、一回やりたいんです。今書いてる方も、ここから戻すんで」 「今日、凪は持主だよ」と僕は言った。 「そこはやる。でも俺の最初も、歩さんなら」  小鈴が戻った。受付から借りた布を机へ置き、主人の紙を凪へ渡した。後半は今日は通さないと言った。 「私が冷蔵庫、凪が持主。歩は、一回帰った客が、忘れ物で戻ったところだけ。何か言ったら、そこから返して」 「何でも?」 「家じゃなくて冷蔵庫に戻って来たんだから、入る物で」  戻る客の行には、返事を待つ、とだけあった。次の行を先に探していた僕は、そこへ指を置いた。  凪が受付から二人、連れて来た。次の会場が空くまで待っている人たちだった。 「三分だけです。聞いてもらって、あと、出来た方だけ撮りたいんで」 「聞いてもらう三分なら」と小鈴が言った。「撮る方は、いま返事してない」  二人が前へ座った。僕は鞄を入口へ置こうとして、やめた。片方の人が、何を忘れるんだろう、と小さい声で言った。  持ったまま入った。 「忘れ物です」  一度に言った。凪が顔を上げ、小鈴が何を忘れました、と訊いた。僕は鞄を開けた。仕事の手袋と伝票しかなかった。  何も出さずに閉めると、客席の一人が笑った。  今度はゆっくり、留め金を掛けた。 「忘れた物も、忘れました」  凪が机の前へ出た。僕の鞄を覗き、何も出さずに戻った。 「じゃ、私も。何を返すか、忘れました」  小鈴が笑った。客席へ向け、二人とも忘れたので今日は何も減りません、と言った。凪は先に続きを言い、僕が返すまで紙へ戻らなかった。  速くなった分を最初から言い直さなくても、二人は笑った。  三分のあと、受付の人は次の部屋へ戻った。小鈴が客の用事の欄へ、忘れた物、と書き足した。 「今の、撮ってた?」と僕は訊いた。 「撮ってないです。言われたから」  凪は伏せてあった携帯を取った。 「もう一回。主人、いまの方、残したい」 「先に最後まで」と小鈴が言った。「歩が戻る所、今度は私が読んでみる。冷蔵庫の紙、歩、持って」  彼女が入口へ下がった。凪は主人の最初を言った。小鈴が用事を言わずに立つと、彼も紙をめくった。空欄だった。  凪は前の行へ戻り、膝の上で紙を僕へ向けた。 「忘れたって言って」 「次の客、同じ忘れ物にする?」  凪は僕を見た。 「さっきの人、もう一回呼べます?」 「別の部屋、始まった」と小鈴が言った。  僕は冷蔵庫の紙を机へ置き、鞄を持ったまま客席へ座った。小鈴がその紙を取った。 「ここで見てる」  凪が顔を上げた。僕へ最初を言うと、今度は小鈴へ、どの棚、と返した。僕はさっきの人より大きく頷いた。  凪がもう一度、僕を見る。  凪は僕が頷くのを見てから、次の行へ行った。  僕は鞄を膝で開き、携帯を探すふりをした。画面は見なかった。  凪の声が止まった。 「歩さん、今、聞いてました?」  僕は顔を上げた。 「うん」  小鈴が僕の椅子の前へ来た。僕が鞄を閉じかけると、持ち手を押さえた。 「そこに次の客、入ってる? そんなこと、書いてない」  凪は僕へ近づかなかった。 「歩さん、何を見てたんですか」 「聞かなくなったら、続くか」  小鈴が手を放した。 「どうして」  僕は鞄を膝へ置いた。留め金はまだ掛けていなかった。 「土曜も、こんなふうに源さんが見てたのか、知りたかった」  凪が自分の紙を取った。 「待ってたって、言いましたよ」 「そのあと、帰ったって言ったから。客を録り始めた時にはって。今日、こっちをやったら」 「三分をやるって来たんだよ」と小鈴が言った。  机の紙には、さっき僕が言った忘れ物がある。小鈴はそこを消さず、紙を取った。 「後ろを読まないって、受付にも言った。私、そう返事したから」 「土曜にどこで止まったか、聞きたかった。言わないで来た」  凪は携帯を鞄へ入れた。 「歩さんに見ててって、俺、昨日」 「うん」 「さっき、もう一回出来ると思ったんです。あの人たちが見てた方」  僕は立った。 「ごめん。客、ちゃんとやる。もう一回」 「いまはやらない」  小鈴は僕の紙も取った。最初の行にあった指の跡が、端へ残っていた。  凪は主人の椅子を壁へ寄せた。僕が端へ手を出しかけると、凪は持ち上げて壁へ置いた。僕は手を下ろした。  小鈴は受付へ布を返した。幅を確かめるため借りて来たが、広げないままだった。  僕は客の所へ立った。  凪は顔を上げなかった。次を待つ人も、笑う人もいない。  小鈴が戻り、今週の客は別の人へ聞くと言った。紙は僕へ返さなかった。  小宮さんへ、客の後ろをここで確かめようとした、本人から帰った所は聞けなかった、と送った。背の布を見た時と、朝、箱を開けた所を続けて見たいとも送った。 「もう署、行きます」  凪が鞄を閉じた。僕も行くと答えた。  小鈴が受付へ支払いの控えを返している間に、僕は自分の分を置いた。 「あとで割るって言ったでしょう」  返された金をしまった。凪は先に階段へ出た。 第十五章 聞こえる方 劇場の戸の前で、凪が止まった。  小宮さんは中へ入らせなかった。段ボールはもう出してあり、土曜に凪が避けた場所へ紙の箱が置かれていた。長椅子には白いシャツが掛かっている。 「ここから」  細いガラスが襟より上を切り、袖も見せていなかった。台へ向く人の背に見えた。凪が箱を避けると、白い肩が台へ寄った。  僕も通った。戻ると肩も戻った。 「俺が動いてたんだ」  凪は戸へ近づき、源さん、と呼んだ。白いところはガラスから外れた。  返事はなかった。  僕は先に戻ったと思ったなら声を掛けてほしかった。掛けても、このシャツは答えない。源さんは二階で凪の紙を待っていた。      *  小鈴が受付へ来た。印刷所に後半から自分の名前を抜くよう頼んだが、今日の分は戻せなかった。三千円の控えを鞄へ入れ、僕から少し離れて座った。  凪は原稿を出しかけ、小宮さんを見た。 「金曜、出来た分を見せるって返してるんです。二回目の声、使っていいか、源さんの姪の方へ聞くのは」 「その件は、いまは先へ進めないでください」 「俺の映像に入ってるんですけど」  小鈴が鞄の口を閉じた。凪は顔を上げ、原稿を机へ置いた。  小宮さんが、源さんの上着の写真と、客を撮った画を並べた。縄の下から薄茶色が出ている。  凪の手は原稿の最初へ行った。僕もさっきまでそこを見ていた。客をもう一度やれば、源さんが見なくなった時の凪が分かると思っていた。 「朝の方、先に見たいです」  小宮さんが画を替えた。僕は二階の戸を押す前まで戻してもらった。  戸は開かず、鍵の人が回した。ルカが椅子を運び、僕は窓を押した。凪の携帯が低い棚へ置かれるまで、箱へ届く手はなかった。  縄がほどけ、留め金を外した。薄茶色が側板と一緒に倒れた。  僕の手が映った。 「そこで止めてください」  源さんの腰へ、両手を入れている。  畑野さんが肩の下の布を持った。毛布は腰の下まで続き、二人で身体を下ろした。右の肩から脱げた上着の背が、毛布と一緒に板へ折れ出ていた。  僕は画の自分へ手を寄せた。そこを持てば、源さんの腰が載る。服の端だけを引いていたのではなかった。 「その布、夜の方にもありました」  小宮さんが客の画へ戻した。縄の下に、斜めの隙間があった。 「僕、服だけなら置けるって言いました。朝、そこへ手を入れたのに」  凪は顔を上げた。 「源さんは帰って、その上着だけ置いたんですか」 「俺が読む方、先に見たら。ここからは言えてます」  凪が原稿を僕へ向けた。取らなかった。 「服を置いたあと、身体を入れたなら、箱をもう一回開けるでしょう。僕が戸を押す前か、椅子を動かしてる間か」  小宮さんは画を朝の最初へ戻した。  そこにはもう、誰かが源さんを持ち上げる手がなかった。戸を開けて椅子を動かす僕らの向こうで、箱は閉じていた。 「夜、鍵を掛けたあとに来た人はいますか」  僕は訊いた。 「鍵の人が一緒に建物を閉めています。朝も、あなたたちの前で開けた。ほかの部屋を使った人にも聞いています」  下の窓は開かず、箱を通した戸は一つだった。二階へ戻ったのは凪、そのあとルカ。ほかに上がった人はいないと、小宮さんは答えた。  凪が帰る所も見せてもらった。ルカは階段で待ち、鍵の人がコンセントを抜く。箱の蓋も側板も開かなかった。小鈴へ部屋を見せる画にも、閉じた箱があった。  夜の布の下には、もう源さんがいた。  小鈴が自分の携帯を机へ置いた。 「九時四分は、私と話したよ」 「その前、二回読んだ方は」  僕が凪へ訊くと、彼は紙の端を押さえた。 「二回目の最後、ゆっくりになって。俺の最初、すぐには入らないんです。でも、そこは、源さんの方が」 「聞いた。昨日、好きだって言った」  凪は一度頷き、携帯へ手を出そうとした。小宮さんが読む画を開いた。  源さんは続きの紙を押さえ、二度目の最後をゆっくり言った。昼の紙の下は白かった。凪が劇場で書き足し、戻って渡してから読んでもらった声だ。  電話が鳴った。 『車、返したか』  小鈴が返した場所を答える。源さんはまだ読んでると言い、客を先に立たせろと返した。  小鈴は自分の携帯から手を離した。 「ここ、私。言った場所、同じ」  小宮さんは電話の前後も切らなかった。源さんが机へ携帯を置く。背の二つの糸玉の間は閉じている。 「ルカは、まだ車でした」  僕が言うと、小宮さんは工藤さんの記録へ替えた。  九時からルカが座席で工具を出していた。八分に名古屋の人が入り、図の穴を言う。ルカは顔を上げて合わせ、顔も肩も画から消えなかった。右の手首を見せろと、もう一度言われた。  途中を飛ばさず、二十分、相手が終わると言うところまで見た。  あの駐車場から二つ角を曲がり、階段を上がる。降りてすぐ走ったとしても、二十一分の箱へ届かない。僕はその道を小宮さんに確かめ、画の終わる時刻をもう一度見た。  朝、ルカは源さんの顔より先に窓側へ回った。土曜にそこから出る源さんへ手を貸した、と聞いていた。僕はその話を後ろへ置き、顔の場所を知っていることを先へ出していた。  客の画へ戻った。九時二十一分。空いた椅子と、縄の下の切れた布。  一分ほどしてルカが来る。 『工藤さん、まだ源さんに掛けたいって』 『帰りました』  画の凪が、原稿の最初へ戻る。ルカの返事を聞いて、同じところからもう一度言った。 「君が読む前に、箱は閉まってた」  僕は凪を見た。 「九時四分、源さんはまだその服で、傷はなかった。電話のあと、帰る所を見たの」  凪は紙を取った。 「俺が止めました。客をやるから。源さんも、来いよって」  小宮さんが、電話のあとに止めた録画のことを聞かせてください、と言った。  凪の指は紙の一行目にあった。日曜の夜にはそこを僕へ向け、続きを見つけてくれた。今も向けた。 「ここ、聞いてもらえば」 「帰った方を聞く」 「帰ってない。俺が」  小鈴が顔を上げた。 「俺の続き、待ってた。俺が出れば、その後、立つから」  凪は紙を机へ置いた。源さんが読んだ最後の爪の跡があった。 「二回目、聞いてもらったら。そこまで、作ったんです」  僕は紙を奥へ戻した。 「今、その客の方は聞けない」  凪の指が紙のなくなった所へ下りた。 「右の後ろから、背へ入れました。ナイフ、箱の上にあって」  左の手を見た。 「俺が刃、開いた。袖、引いたら、源さんが。座ってもらう方へ。戻ってはくれなかった」  小宮さんは、ここからは別に聞きます、と言った。僕と小鈴を外へ出し、凪の携帯を受け取った。  廊下で手を空けた。凪の紙は中へ置いてきた。  日曜の夜、僕の水を飲んだ手を思い出した。新しい方を遠ざけると、凪は笑って、空の方を取った。  ここを出たら水を買うのかと思った。凪の分まで、と思いかけて鞄へ出した手を戻した。  小鈴が原稿の最初を出した。 「今日、忘れた物の客、面白かったよ」  僕は頷きかけた。 「でも、こっち見てないのに頷いた所。あれ、私、使わない」  小鈴は紙を鞄へ戻した。僕の名のある受付の紙は、その下にあった。 第十六章 土曜の九時 僕と小鈴が外へ出たあとも、凪は話した。  その夜のことを、僕は後から聞いた。袖を引いたこと、源さんが救急へ掛けろと言ったこと。掛けた記録はなく、源さんの携帯は箱の底へあった。  凪が述べた夜を、残った声、服、箱の状態と合わせて聞いた。源さんの動きや、明日なら録れると思ったという所は、録画を止めたあとの凪の話だった。      *  九時四分の電話が終わると、源は携帯を机へ置いた。凪は低い棚の録画を止めた。持主の声は二回、そこに残っていた。 「俺、先に客をやります。ここから」  源は椅子へ座り、紙を膝へ伏せた。 「来いよ」  凪が客の場所へ立つ。源が扉を開ける手を上げた。 「冷蔵庫、まだ」  声が切れた。凪は次の行を探した。源の手が紙の向こうにあった。 「待ってるよ」  凪は一枚戻し、息を吸った。源も手を少し下げて戻した。もう一度最初を言おうとすると、さっき言った行が目に入らなかった。 「そこ。客は、まだ戸の外だ」  源が膝の紙へ指を置いた。凪の行だった。  凪は紙を見た。源の指があるところから言えば、つながる。それでも声を出す前に棚へ戻った。 「先に、二度目の方からにしてください」  自分の携帯で声を出した。源が、凪の書いた最後をゆっくり読む。画の中では紙を見ていた。  源は紙を机へ伏せ、立って椅子の座面を上げた。 「おまえの続きは、二回読んだろ」 「俺のは、今、録ってないんです」 「俺が座ってたのは、おまえが来るのを待ってたんだよ」  凪は撮る方へ替えた。低い位置では、立った源の顔が入らない。本を二冊重ね、携帯を載せた。源はその前へ椅子を持って出た。 「それ、下ろして。一回だけ」 「片づける。歩く所、空けろ」  凪が右袖を掴んだ。椅子から手を放してくれれば、座った方へ戻せる。源は椅子を床へ下ろし、袖を持つ指を外した。 「離せよ。袖、また取れる」  凪の手が空いた。 「明日、おまえからやれ。俺が座る前に」 「小鈴さん来たら、三分からじゃないですか」 「その前に来い。月を出して、俺も行く」  源は椅子を壁へ運んだ。 「俺の片づける方も、まだ紙がねえ。明日、小鈴に聞く」  凪は再生を選んだ。源が座って次を待つところで止めた。その座る所だけもう一度録れば、二度目の最後へ自分の客を入れられる。画面を顔の方へ戻すと、椅子の座面がそれを隠した。 「背、向けないで」  源の右肩へ手を置いた。身体を棚へ向けようとすると、源は手を払った。 「肩、放せ。もうやらねえって」  椅子の脚が壁へ着いた。  凪は棚へ戻らなかった。箱の天板から、折畳みナイフを左手で取った。刃を開いた。 「源さん、止まって」  源は振り返り、ナイフを見た。 「それ、置け」  凪は手を下げた。天板へ戻すには肘を少し伸ばせばよかった。柄を持ったまま、右手で椅子の座面を下ろした。 「今も、ここ、空いてます」 「ナイフ置くまでやらねえ」  源は机に残った続きの紙を見た。 「明日はおまえから。月を出したら、俺、座って聞く」  凪も紙を見た。二度目の最後へ、爪の跡があった。明日には録れると思ったという。左手は空かなかった。  右手で紙の端を揃え、源へ向けた。源が取れば、読んだ顔をまた撮れる。 「ここ、まだ戻せます」  源は紙を取らず、机の脇へ足を引いた。 「離れろ。人、呼ぶぞ」  自分の携帯へ手を伸ばした。  凪は紙を離し、右袖をもう一度掴んだ。 「もう引くな」  源が袖を払った。右肩へ手を置き直すと、源は肩も引いた。その手の先に携帯があった。  凪は右の後ろへ一歩寄り、左の肘を引いた。柄を握り直した。  動く背へ刃を入れた。  源が壁へ手を出した。椅子が傾き、凪は空いた右手でそれを掴んだ。刃を抜くと、源は箱の横へ膝をついた。 「電話。凪」  椅子を壁へ戻した。ナイフを天板へ置き、棚から自分の携帯を取った。録画の一覧に、源の顔があった。二度目を開いて、最後を探した。 「救急、掛けろ」  床から声がした。携帯の中では、源はまだ紙を読んでいた。 「待って」  源が机の脚を持ち、自分の携帯へ手を伸ばす。凪が先に取った。 「それ、置け。そっちで掛けろ」  凪は二つ持っていた。どちらからも呼出し音はしなかった。自分の方の声が終わると、もう一度、最後へ戻した。  源の携帯は箱の上へ置いた。      *  凪は自分の続きの紙を天板で裏返した。ナイフの刃を畳んで包み、源の原稿も、携帯の隣へ移した。 「ここ、入ってもらっていいですか」  床へ訊いた。  源は返さなかった。  天板の毛布を取った。腕の下へ差し、肩を返そうとすると、上着が右から外れた。身体は持ち上がらなかった。  毛布を広げ直し、肩と腰を別々に返して下へ通した。足を載せてから側板を倒す。低い斜めの面が出来た。箱の底までは、掌一枚ほどの高さだった。  頭を窓側へ残し、そちらの毛布をまとめて引いた。肩が動く。足は板の端に残った。いったん放し、両足を板へ戻してから、頭の方へ回った。  箱へ背を向け、少しずつ引いた。肩が底へ入ると、上着の背は毛布と一緒に側板へ折れ出た。  着せ直さなかった。源の携帯と原稿を底へ置き、包んだナイフも入れた。  側板を上げる。留め金が一つ掛からない。布を避けようとして下ろしたが、毛布を引けば源の肩まで動いた。  一つだけ留め、底を通っていた縄を取った。源が解いた所で結び、もう一本も同じ所まで引いた。余った毛布を上へ掛けた。  薄茶色の端は縄の下へ残った。  棚の本を戻した。源が読んだ低い位置へ携帯を置き、二度目の最後を聞いた。客の場所は空いていた。  鞄から写しを出した。椅子を机の前へ戻した。  九時二十一分、録画を押した。閉じた箱と空いた椅子が画に入った。客の最初を言う。続けようとすると階段で音がした。  ルカが入った。 「工藤さん、まだ源さんに掛けたいって」 「帰りました」 「映像、長くなって。右も見せろって言われたから、車の中で」  ルカが携帯をしまった。凪は写しを椅子へ置いた。 「最初だけ、聞いてください。そこ、もう一回」  ルカが座ると、凪は戻る客の最初へ戻った。棚の数字が進んでいた。  一度目を言った。ルカが返事をしたので、同じ所からもう一度言った。二度目には、息を吸う場所が違った。 「紙、顔が隠れた」  凪は少し下げ、最後まで言った。鍵の人に呼ばれても言い直さなかった。ルカを待たせ、九時半に鍵を返した。  下へ出てから、二度目の源の最後をもう一度聞いた。そこは消さなかった。 第十七章 返す紙 火曜、工藤さんの店へ青い袋を持って行った。  受け取る人は先に来ていた。二時には出るから、机を空けてと言われた。長いケースを動かし、袋を広げた。僕は金曜の布の便で間に合うかを先に訊いた。 「金曜なら本人が来る。着せて直すから、この切口だけ都さんへ聞かせて」  電話がつながった。都の声が大きくなり、消した線の横へ相手が寸法を書いた。僕の携帯で撮ってよいか、二人へ聞いた。  都が一度戻した。 「右の端まで入れて。そこが、私の切った分だから」  右端が入るまで、携帯を引いた。写した方を相手へそのまま渡した。土曜の袖の映像は、凪から姉へ渡っていた。いま撮った型紙の方を、凪にも見せれば、と指が番号へ行きかけた。相手の番号を開き直した。  袋を渡すと、ルカが奥から二本の工具を出した。源さんの名前を書いた方を、別の紙へ載せている。 「そっちは預ける」と彼は言った。「名古屋の重い組立、別の人になった」 「右、見せろって言われたんだね」  僕が言うと、彼の指が止まった。 「映像の話、聞いた?」 「見た。電話だけなら、戻れたんじゃないかって思ってた。名古屋の人と図を合わせてた方も。源さんの背と、箱の動画も」  ルカは工具を置いた。 「いつから」 「日曜。箱を開ける前に窓の方へ回ったから。顔の所、先に知ってたんだって」 「土曜、そこから出て来たんだよ。俺、手、貸してるって、言ったよな」 「聞いてた。そっちより先に、中へ入れたからだって」  僕は袋の口から手を引いた。 「ごめん」 「都、見つかったって、一緒に喜んだよな」 「うん」 「俺もだよ」  彼は工藤さんを呼び、源さんの一本をここへ預けると言った。自分の方も、送り先を今は決めない。手をもう一度診てもらうという。  僕は待っていた。彼は袋を戻さなかった。 「名古屋へ僕が送る方は、誰へ聞けば」 「いま返事できない。次に何、訊かれるのかと思うから」  ルカは店を出た。工藤さんが送り先を消し、二本を分けて棚へ戻した。  僕は青い袋の人へ電話し、金曜の受取人の名前を確かめた。自分の札を書き終えてから、店を出た。      *  小鈴は新しい会場の机を動かしていた。  今日は源さんの姪へ渡す原稿を取るだけだった。凪が逮捕されたと聞いてから、僕は客の紙を鞄へ入れていない。 「そこ、持てる?」  机の端へ膝を入れた。小鈴が反対を持ち、客席の方を空けた。 「忘れ物の客、残した?」 「書いた。今日聞いてもらう方には、まだ入れない。ほかの人とやってみる」  彼女は二枚、僕へ渡した。源さんの姪へ持って行く写しだった。僕の名前は出演者の欄にない。 「俺、半分出すって」と僕は言いかけた。 「それ、凪の返事」  僕は紙を戻しかけた。小鈴は受け取らなかった。 「渡す方、頼んだよね」 「うん」  来月の主人はサエさんへ聞く。小鈴が司会の服を返しに出る間、僕は椅子を数えた。  受付の人が一つ運んで来た。 「昨日の、鞄に何もなかった人」  僕は顔を上げた。 「面白かった。また戻って来る?」  返事をしようとして、小鈴を見た。彼女は鞄へ服を入れていた。 「いまは、まだ決まってません」  受付の人は椅子を置き、次の部屋へ行った。僕は台詞を言えば、今度も少し笑ってもらえると思った。言わなかった。  紙を封筒へ入れた。小鈴が出るので、僕も一緒に出た。      *  その夜、父が月を運ぶ日は決まったか訊いた。 「まだ。向こうが別の日でいいって」 「夜か」 「舞台の」  父が笑った。僕も笑い、明日、人数を決めると答えた。母が皿を持ってきた。卵焼きは温かかった。  源さんは、割れたら自分へ電話しろと、月の裏へ番号を書いた。僕はそこを消すのか、消さないのか、会社ではまだ聞かれていなかった。  小鈴へ、姪へ渡す原稿は預かったと送った。客の役へ戻りたいとも書きかけた。  都の姉から、土曜の袖の長い方も届いていると来た。凪へ送ろうとした。そこまで打って消すと、宛先だけが残った。  日曜の夜、凪が置いてくれた指の下から、僕は続きを読めた。次に会ったら、その行を一度で見つけたかった。客の紙は小鈴が持っていた。  源さんの声を聞くための凪の文は、開かなかった。僕はその一行を消し、月の受取りの日を決める方へ戻った。      *  都の退院の日、姉が車を借りた。僕は会社の車を借りられず、先にそう答えていた。ルカも病院へ来たが、帰る車は都が姉へ頼んだ。  降りようとして、都が脚を止めた。 「病院の椅子より低い」 「手、貸す?」 「うん。首は触らないで」  僕が足元の袋を取ると、都は姉の腕で降りた。  部屋には、代わった人から戻った見本があった。三件は納品されている。来週その人が使うので返送する。  姉が三件分の領収書をしまった。借りた車の分も同じ封筒へ入れた。都は見本の端を撫でていた。 「上手い。分かってる。でも、私の線じゃなくなった」  鋏を取った。僕が携帯を構えると、切る前を撮ってと言った。  都の鋏は開かなかった。  見本を脇へ置き、次の注文の布を膝へ広げた。同じ所へ鉛筆を当て、少し外へずらす。 「今度は、この長さ残す。鉛筆の線まで入れて」  僕が画面を引くと、都は針を一本抜いた。布の端がずれた。端をいったん戻し、もう一度開いた。 「最初にそこ、見せる」  送る相手の名を姉へ言い、画を見せた。姉が見本を袋へ入れる。都が背を起こしかけて声を出した。  僕は腕を出した。都の手が手首を掴んだ。 「少し待って」  布が落ちた。姉が拾い、机へ置いた。  都はまだ僕の手を持っていた。僕が引かなかったので、そのまま少し起きられた。  僕は窓を開けた。 「ここまで。網戸ないんだよね」  風が入ると布が浮き、都はそこへ掌を載せた。  窓の下の段ボールを畳んだ。ルカが名古屋へ先に送りたかった箱だった。見本の袋は廊下へ出し、僕らは部屋へ戻った。  都が缶を開け、飴を一つずつ寄こした。 「新しい方、ルカの分へ混ぜないで。いまも台に掛けるって言うから」 「別で送る」 「水曜までに見本を送る。今日、相手へ聞ける?」  僕は相手の番号を開いた。  都は布を膝へ戻せず、姉に頼んだ。机の上へ広げてもらうと、次の線へ鉛筆を置いた。僕の手首は、離されたあとも少し痛かった。 第十八章 台を下ろす 小宮さんから、箱の底に包んだナイフも確かめたと聞いた。小鈴の袖と土曜の写真、源さんの上着も確認されていた。原稿と携帯は別々に保管され、僕は自分が持った紙の端をもう一度示した。  灰色の服に付いたのは都の血だった。畑野さんがその服を燃やしたことと、会場へ残った源さんの身体は、別々に聞かれていた。      *  源さんの台は、姪の家の入口を通らなかった。いったん工藤さんの店へ置けることになり、日曜、僕とルカが運んだ。重い方は台車へ載せた。原田さんが先に下の段を押さえ、ルカは引出しだけを左で出した。  劇場で引出しを空ける間、姪は写真を床へ並べた。持主の違う部品を分け、分からない物は袋へ残した。 「家じゃ削れないって、伯父、言ってたでしょう」 「はい」 「削ってた。怒られる前に片づけてただけ。食卓の傷、すごいの」  写真の端にも白い傷が何本もあった。僕が短い紐を持つと、その先に読めない札が残っていた。姪はそれも写真へ並べた。源さんへ聞けばよいと思っていた物が、いくつもあった。  台を押し出すと、ルカの靴が床へ擦れた。僕はまだ上げるかと訊き、台車をこのまま、と言われた。源さんの一本は預け、名古屋の重い組立は別の人になった。ルカが取った次の仕事は、まだ見積りの方だった。彼は床の段へ先に板を当てた。  店では、長いケースをどけた幅へ下ろした。引出しは別で積んで来た。工藤さんが右二段目からと声を掛けた。録音もその順だった。 「そこへ膝、入れるんだよな」  工藤さんがしゃがみ、引出しを押した。途中で止まる。僕が反対側を押さえると、奥まで入った。来月の金具は二つなら揃う。四つはないと、源さんへ返す用事が残っていた。  工藤さんは袋から長い柄を抜き、源さんの名前を書いた紙へ載せた。ルカの一本とは分けてある。  店の客の荷が来ると、僕らは外へ出た。姪は小さい袋だけを持っていた。写真の封筒は僕へ預けた。 「小鈴さんの箱、伯父、入ってた?」 「土曜に。客を運べって、自分で。小鈴が三分なくなるからって、止めたんです」 「出て来る役なら、よかったのにね」 「録った方、どうしますか」  姪が僕を見た。 「いまは、持ってる。出すかどうかは、私もまだ。伯父、客の顔を見て立つって言ってたんでしょう」 「はい」  僕は封筒を開かなかった。源さんの声は残っていて、凪の出すつもりだった方も、そこへ残る。  ルカが地面を見た。僕は封筒の持つ所を替えた。  小鈴から電話が来た。三分の持主をサエさんへ頼み、自分が冷蔵庫を読むという。源さんの声は使わない。 「今度の客、歩、一回やる?」  僕は封筒を持ち直した。 「戻る方?」 「戻るかは、客席に訊く。あんた、帰る所まで、最後までやって。私が何を忘れたって訊くから」 「鞄は」 「今日、何持って来たの」 「写真の封筒」 「じゃ、その封筒は姪と決めて。稽古には、手、空いたままで来て」  僕は行くと答えた。姪へ話すと、原稿、私にも、と言われた。  姪は小鈴の上演へ行くと言った。友達も一人、誘ってみる。僕が日を教えると、彼女は予定を入れ、店の中へ顔を向けた。台の方は、入って来た客の荷で見えなくなっていた。      *  畑野さんから、灰色の服の札を外さないでほしいと文が来ていた。現物は警察が持っている。一般の面会が出来ると連絡を受け、休みをもらった。  彼は僕が座る前に名を呼んだ。 「服の話、読みました」 「札、写真には残ってた?」 「はい」 「取ると、どの公演か分からなくなる。榊さんに頼めばよかった」  今の袖へ手を掛けた。そこには札がなかった。 「茶碗も、焼いたんですね」 「下だった。服だけ先に燃やして消すつもりだった。火が区画の奥まで入るとは」 「都の血を消すために」  畑野さんは袖を放した。 「岸さんに見られたら、金を返すより先に聞かれる。都を出したら、台とは関係ない紙だって全部言うから」  彼は部屋へ布団を入れ、夜の受付へ行くつもりだった。源さんが水曜は昼に寝ろと読んだ紙を覚えていた。 「日曜、ひばりでやってから。三浦さんも来るから」  僕も一回だけやった芝居を覚えていた。台詞を忘れた畑野さんを、源さんが待った。 「都の文、二つとも、送ったんですね」 「返すつもりだった。携帯も」 「九時十八分の方は」 「火が消えてから。外で。ルカがまた掛けて来たから。あのまま、ひばりまで来ると思って」  僕は朝の倉庫を思い出した。箱を下ろし、署名を受け取り、会社へ戻った。そのあと畑野さんは、都の携帯を持って外へ出た。 「写真は、昨日撮ったのを送った。電話じゃ、また掛けて来るから」 「鞄を、窓の前へ置いて?」 「薬があるから渡せって、中から。戸を開けると出るでしょう。コートも鞄へ掛けて。人がいる所は、撮らなかった」  都は戸の中にいた。撮った人は、白い戸を見ていた。 「どこで送ったんですか」 「喫茶店から外へ出た時。姪へ掛ける前に。荷物もそこへあるって」 「都も、そこへいるって」 「帰らないならって、僕が」  彼は止まった。源さんが畑野さんの台詞を待ったことを、僕も覚えていた。今は、次に何を言うかまで僕が渡したくなかった。 「台、返したら」  畑野さんはそこで止まった。僕は鞄へ手を入れなかった。写真をもう一度見せれば、話を続けてくれると思いたくなかった。  時間を告げられると、彼は袖を持った。 「歩、札だけは」 「僕からは頼みません」  僕は立った。駅のベンチへ座り、携帯を出した。畑野さんの文が開いた。閉じて、鞄の写真を見た。  次の電車が来ても、立たなかった。      *  畑野さんの生活の物を出す日、僕は劇場へ入った。  警察の確認を終えた物を家族が引き取る。三浦さんも来ていた。次の仕事の紙は封筒に入ったままで、送る住所をまだ聞けないと、付き添いの人へ話していた。  源さんの写真は、次の上演で姪へ返す。小鈴には友達が一人増えると伝えていた。畑野さんの封筒は、家の引出しへ入れた。許してほしいとは書いていなかった。面会で話したあとも、その短い文は変わっていない。  流しのタオルは乾いていた。茶碗を写した一枚が透明な袋に入っている。現物はまだ返されていなかった。僕はその写真を荷物へ入れてよいか、引き取る人へ聞いた。  畑野さんが夜を過ごした場所には、コンセントが二つあった。延長コードを抜くと、もう一つから扇風機の線が出ていた。  冬は、どうしていたんだろう、と僕は思った。聞けなかった。  榊さんは入口で箱を数えていた。源さんから頼まれた物は、姪へ別の見積りを出している。生活の物の最後は枕だった。袋へ入れると半分が外へ出たので、僕は底へ押さず、口を広げた。  ルカが戸を持った。僕が通ると、すぐ後ろへついた。袋が柱へ引っ掛かり、彼が少し戻って、と言った。  枕を車へ入れた。僕らが戻ると、榊さんが劇場の扉を閉めた。僕の鍵は、荷物を出す前に返していた。  鍵の音がした。僕はポケットへ手を入れた。いつもの所に、指へ当たる物がなかった。  ルカが下へ落ちたテープを剥がした。貼紙の右下が扉から浮いていた。彼はそこを押し、粘らなくなったと僕へ言った。  僕は手をポケットから出した。角を一緒に押したが、指を離すとまた浮いた。 終章 二回目 会場の机は一つ減った。  小鈴が前へ客席を寄せ、あとから自分が座る椅子を忘れたと騒いだ。僕が予備を出すと、それ、後ろのお客の、と返された。  凪は会場へ来なかった。ルカも名古屋の下見でいなかった。都は、台の最初の組立は別の人になった、と言った。 「もう、こっちの家賃も自分で払う。納品、二つ減るんだよね。車ある人だけ、探してる」 「僕の会社へ、見積り出そうか」 「出して。運ぶ日、まだ変わるかもしれないけど」  都は携帯をしまった。ルカと何を決めたかは、僕へ全部話さなかった。  都は鞄を椅子の下へ置いた。型紙はもう入っていなかった。小さい缶を出し、蓋を開けた。包まれた飴が、何粒か残っていた。 「持ってって」と言われ、僕は一つ取った。彼女は自分の分も取り、蓋を閉めた。  サエさんが来た。ソファのカバーはまだ縫い終わっていない。金の布は、派手すぎるから、内側へ入れるという。 「見えなくなるね」 「座ったら、少し出る。あんた、外から見るだけだから」  彼女は僕の飴へ手を出し、一つもらうと都へ言った。  サエさんが持主、小鈴が冷蔵庫を読む。僕は、物を取りに来た客が一回帰り、忘れ物で戻る所へ出る。凪の続きではなく、小鈴が三分の中へ直した紙だった。  サエさんは紙を持って歩いていた。僕が役を確認しようとすると、いま字、探してる、と指を上げた。眼鏡を掛けると、主人の最初の行が見つかった。僕は自分の一枚目を出した。  源さんの写しは、今日は使わない。小鈴が直した原稿には、僕の客が二回戻る方と、一回で帰る方があった。戻る方を客席が選んだ時には、サエさんへ合図してと言われた。持主が扉を閉める所で、サエさんは机を持たないと決めた。紙を持つ方の手が空かないためだった。  小鈴は三分と言っていたけれど、僕が二回戻れば、何分になるかはまだわからなかった。  会場の人が、そろそろ、と扉を開けた。  小鈴が先に出て、客席へ、一度帰った客を戻していいか訊いた。  後ろの人が、戻らなかったら何するの、と訊き返した。 「客が戻らなかったら、持主と冷蔵庫で片づけます。私、そっちはまだ知らないところもあるので」  サエさんが紙を持ち上げた。片づける方の一枚が見えた。 「じゃ、戻して。あとで片づける方も聞きたい」 「今日は一つ。次、また来て」  小鈴が返すと、別の人が、それ商売だ、と笑った。僕は二回目の頁へ指を入れ、抜いた。一回目からだった。  サエさんが紙を揃え、僕を見る。僕は紙を高く上げすぎていた。 「そこ、顔、見えない」と言われ、少し下げた。  客席に、源さんの姪がいた。空けておいた席ではない。最後にもう一人、友達を連れて来ると連絡があり、小鈴が椅子を足した。  僕の最初の台詞は短かった。急いで一度に言い終え、小鈴がこちらを見るまで、紙の字が目へ入らなくなった。  サエさんが扉の話をした。小鈴が帰りかけ、途中で僕を向いた。僕は紙をめくった。  二回目に来る客の最初を、見つけられなかった。  サエさんが咳をした。台詞の咳なのか、待ってくれたのか、僕にはわからなかった。小鈴が僕の名前ではなく、客の用事を聞いた。  客席の一人が少し笑った。僕は鞄へ手を出しかけた。今日は持っていない。紙の方へ戻すと、小鈴はまだ、何を取りに来たのか待っていた。  僕は顔を上げた。 「忘れた方を、訊きに来ました」  サエさんが、私も忘れた、と返した。客席が笑った。小鈴は二人を見て、扉をもう少し開けた。