雨を閉じこめる 第一章 返却済み 「返却済みって、どなたに返したんですか」  箱へ書かれた赤い字を、私はもう一度見た。  受話器を肩へ挟んで蓋を開けると、写真立てが二つと、厚い封筒があった。探しているカセットは見えない。私は椅子を引き、机の下へ潜った。 「少々お待ちください」 「待ってますよ」  律が隣の椅子も引いた。膝をつく場所が広くなったので、私は奥へ手を伸ばした。電話のコードが首へ掛かる。 「灯、動かないで」  襟を掴まれた。律の指がコードを外す間、私は封筒の底を持っていた。その下から、〈三輪和夫 八月〉と書かれた背が出てきた。 「ありました。ご主人のお名前の、八月と書かれたものです」 「それです。ですから、返してほしくて」 「すみません。こちらにありました」  六月最後の月曜日だった。  石川町駅から坂を上った所に、大学が借りている古い家がある。来週、ここに残った資料を図書館へ運び、分室を空にする。私は今月から、その前に借り物を持ち主へ返すアルバイトに来ていた。  電話の相手は三輪幸枝さんだった。夫の声が入ったカセットを、去年から待っている。 「お返しする前に、再生できるかだけ確かめて――」 「聞くんですか」 「もしテープが切れていたら」 「切れていても返してください。直せる人、探しますので」  私はケースを水平に戻した。持ち主へ返したあとにも、このカセットには行く先があった。  律が受領簿を開いた。去年の十一月、田辺依子、という署名がある。三輪さんのお姉さんだった。 「お姉さんへお渡しした記録があるんです。それで、箱にも」 「姉が持ってても、私はもらってませんから」  返事を考えているうちに、取りに行けばいいですか、と訊かれた。 「いえ、お送りします」 「今日?」  引き出しに封筒も切手もある。足りなければ自分で出せばいいと思った所で、西崎さんの声がした。 「宮原。送料、先に聞いて」  入口で弁当袋を持っていた。私の手元へ目を向け、首を横に振る。 「発送できる日を調べて、お電話してもよろしいですか。宮原といいます」 「灯さん? 字幕をつけた」 「はい」 「では、お願いします」  切ると、律がウェットティッシュを一枚差し出した。私の両膝に埃がついていた。 「そこまで取りに行ったんだ」 「見てたじゃん」 「だから」  律は四年生で、私より一学年上だった。図書館でも働き、写真を頼まれると人の集まる所へ来る。今日はカメラを持たず、受領簿の頁を一枚ずつ戻していた。  西崎さんは箱を回した。 「田辺さんが引き取った箱。置く所がないから、ここで預かった」 「中にあるのに、返却済みって」 「消して。その物、まだ戻ってないんだから」  律がマジックを取った。赤い字へ線を引き、別の面に田辺さん預かり、と書く。 「箱を返すんじゃなくて、物ごとに見て。持ち主へ返す。大学へ残す。決まってない。この三つ」  西崎さんは紙を三枚置いた。二十六歳で、院に残りながらこの事業の事務をしている。電話番号はほとんど携帯に入っていて、私が机の控えを探すより先に出てくる。 「自分で送料出さなくていい。事業から出る」 「いくらまでですか」 「まず俺へ言って」  私は切手の引き出しを閉じた。 「今日、五時には抜けるから。困ったら、こっちの番号」 「先生じゃなくて?」 「大学の事務。先生はつながらない日、ある」  西崎さんが紙へ番号を書いた。携帯が鳴り、画面を見る。 「映画、三人で?」  私が訊くと顔を上げた。 「何で」 「通知、見えちゃって」 「ああ。研究室の。俺が取らないと、みんな取らないんだよ」  返事を打ちながら笑った。 「宮原、映画、見る?」 「見るのもあります」 「そりゃそうか。夜の回、安いから。今度、来れば」  律が受領簿から目を上げた。 「何を見るかが先じゃないですか」 「そっち、まだ決まってない」  二人とも笑った。私も、何を見るか分かってからと言った。西崎さんは別の画面を開き、候補を二つ送っていた。片方は、私がもう見たものだった。  空いた箱の底に、写真を借りた時の紙もあった。和夫さんの名の下に、依子さんが連絡し、本人へ確認したと書かれている。写真八枚。さっき見つけた封筒には七枚しかなかった。  西崎さんへ見せると、最後の展示先から戻る分だと言った。 「木曜。箱が来たら、枚数合わせる」 「これも三輪さんへ?」 「原票は先生に見てもらう。写真と混ぜないで」  私は二つの封筒を用意した。同じ家の物を別々にするので、片方だけ間違えて返しそうだった。  返却済みを消した面がまだ乾いていなかった。去年の十一月には田辺さんへ渡し、今日は同じ箱から出てきた。その間、誰が何を返したことにしたのだろう。 「去年、これを返した時の紙も、見たいです」 「先生の所。木曜に聞いて」  西崎さんは弁当袋を机へ載せた。  私は木曜の欄へ、写真八枚の下にその用事も書いた。三輪さんへ戻る物が全部揃っても、赤い字をつけた理由は戻ってこない。  受領簿を持って窓際へ行くと、沙帆がヘッドホンを首へ落とした。 「そこ、載せないで」 「空いてると思った」 「空けたんだよ。午後、取りに来る人の」  小野寺沙帆は私と同い年で、音楽系の学部にいる。机の横へコードが束ねてある。私はその隣へ置こうとして、彼女に同じ顔をされた。 「三輪さんのは、触らないで返してって」 「じゃ、触らない」  沙帆は画面へ戻った。  二年前、五分の映像を作った。彼女が音を切り、私は字幕を短くした。先生に五分に収めるよう言われ、その通り収めた。  三輪さんがほっとしたのは、姉が病院へ泊まってくれ、自分が家へ戻れた時のことだった。私が削ったのは〈病院から〉。前の画で分かると先生に言われた。前の画には、水害で壊れた家が映っていた。三輪さんの夫は、その水害で亡くなっている。  出来上がった物を見た人の何人かは、夫の死にほっとしたのだと受け取った。  私は字幕のファイル名より、七枚の写真の番号を長く見た。どちらも、自分の仕事で使った物だった。      *  田辺さんへ電話がつながったのは昼過ぎだった。 『音を移してから渡そうと思って。妹の機械、動かなかったの。そのままになってたのね』 「聞けなくてもいいと、おっしゃってます」 『そう。急に言うから、あの人』  向こうでレジの音がした。田辺さんが、袋はいりません、と答えた。 『明日、午前は? 私も顔を出すから、一緒に持っていきましょうか。ほかに写真もあるし』 「カセットも、そのまま持っていっていいんですね」 『ええ。その方が早いわね』  三輪さんへ折り返すと、十時なら、と言った。十一時半には出るので、という。  手帳へ時刻を書く。律がこちらを見た。 「明日、一緒に行っていい?」 「助かる。写真、分からないのあるから」 「番号、合えば分かるよ」 「うん」 「そのあと、元町へ寄りたいんだけど」  私はペンを持ったまま待った。 「服。見てほしい」 「私でいいの」 「よくなかったら、別の日にする」 「いい。悪いって言ってもいい?」 「そこは言い方、あるじゃん」  十時の下へ、元町、と書いた。  西崎さんへ勤怠の紙を出すと、電話を始めた時刻を訊かれた。つながるまでの十五分を消したと言うと、その間に何をしていたか訊いた。 「一覧、直してました」 「じゃ、入れといて」  線を引き直す間、西崎さんは机から封筒を出した。大学の別の部署の宛名があった。出すのですか、と訊くと、先生に読んでもらってから、と答えた。  彼は紙をしまう前に、印刷の見積を抜いた。 「これ、自分で払うんですか」 「研究会に出す冊子。配るぶん、先生が見る前に入稿するわけにいかない」 「高いですね」 「表紙、一色増やしたから」  西崎さんは見積をこちらへ向けた。 「背に題が欲しくて。棚で見えなくなるの、嫌なんだよね」  私は値段の上の小さな図を見た。細い本の背へ、西崎さんの名前があった。  私は自分の紙を持ち帰った。十五分が戻っただけで、明日の服を見る時間まで長くなったような気がした。      *  夜、冷凍のうどんを食べながらゲームを始めた。くらげはもう待っていて、画面の端で丸い兜が跳んでいた。 『二分もあったら、一回落ちれる』 「落ちるために待ってたの?」  一年近く組んでいるのに、本名も住んでいる所も知らない。ときどき後ろに人の声がする。私へ紹介されたことはない。  二人で荷車を押し、崖の所へ来た。右と言われて右へ動かす。もう一度右と言われたので、さらに押した。  落ちた。 『右を止めて』 「そこまで言ってよ」 『止まると思った』 「思わないで」  やり直しの画面でうどんをすする。冷めていた。 『今日、何かあった?』 「十五分、給料増えた」 『何したの』 「仕事」 『そりゃそうだ』  明日、律と服を見に行く。名前を出さず話したら、デートみたいになる。そう思われるのも、違うと言うのも、嫌だった。  今度は私が角で止まった。くらげが走り過ぎ、荷車の前へ回る。丸い兜が車輪の下へ見えて、私は声を出して笑った。 『いまの忘れて』 「嫌だね」  手帳はうどんの横で開いていた。元町の字へ袖をかけ、コントローラーを持ち直した。 第二章 片方ずつ 三輪さんは違う靴を片方ずつ履いて、玄関の段へ出てきた。  茶色の平たい靴と、黒い踵のある靴だった。 「どっちだと思う?」  私は持ってきた袋を見た。 「靴」 「あ、歩くんでしたら、茶色でしょうか」 「歩くのは歩くけど」 「私は黒い方が好きです」  律が言った。 「そう? じゃ、黒」  片足を戻し、奥からもう片方を出してくる。茶色を端へ揃えてから、私たちを入れてくれた。  十時を少し過ぎていた。駅からここまで、律は袋を持とうかと一度訊いた。私が断ると、次は訊かなかった。服を見に行くからと、今日はカメラも持っていない。  上着の袖から値札を留めていた白い糸が出ている。三輪さんは引いてみて、取れないと分かると、そのまま袖を折った。 「このあと集会所へ。昔、洋服売ってた友達が、着ないのを持ってくるんです」 「今のも、そうなんですか」 「これは買ったのよ。着なかっただけ」  私はカセットを出した。三輪さんが背の字を読み、耳の横で傾ける。律が少し身を乗り出した。 「振っちゃ駄目?」 「あんまり強くは」 「中で音が混ざるわけじゃないんでしょうけど」 「混ざらないです」  律が答えた。  テレビの下の引き出しへカセットが入った。  写真は七枚だった。最後の一枚が木曜に戻ることを伝え、机へ並べる。古い台所が三枚、庭が二枚、人の写った物が二枚。  三輪さんは鍋のある所を指した。 「こんな所に置いてたんだ」 「水害の前のお宅ですよね」 「今は駐車場。見に行っても何もないの」  庭の端に男の人の背中があった。私が訊こうとすると、玄関でチャイムが鳴った。 「開いてるわよ」  田辺さんが買物袋を両手に提げて入ってきた。 「重かった。帰りのこと、買う時は考えないのね」 「また大根?」 「半分は私の」 「一本の方が安かった?」 「そう」 「じゃ、安い方をお姉ちゃんが持って帰って」  田辺さんは笑いながら台所へ行った。袋の中から冷蔵庫へ入れる物だけ選び、大根は残す。律が立ちかけると、手で座らせた。 「その靴、去年痛くなったでしょう」 「帰りはバスにする」 「去年もそう言ってた」 「今年は、する」  三輪さんが湯飲みを並べた。私は茶色を勧めた口を閉じたまま、お茶を受け取った。  田辺さんは机を見ると、あと一枚は縁側だったかしら、と言った。 「和夫さんが座ってる。幸枝、写りが嫌だって」 「嫌がったの、お姉ちゃん」 「私も写ってた?」 「寝てたから忘れてる」 「ああ。じゃ、戻らなくてもいいわ」 「私は欲しい」  声が重なった。律が下を向いて笑い、田辺さんも、眠い顔してたのね、と笑った。  一覧へ、縁側、三人、と書く。田辺さんは写真を動かさず、先のカセットをどこへ入れたか訊いた。三輪さんが引き出しを指すと、あそこなら分かる、と頷いた。 「受取の欄へ、確認を――」 「その前に、これ。大学へ言ってもらっていいですか」  茶色の封筒が机へ来た。地域の広報紙の見本と、返送用の小さい封筒が入っている。  赤い付箋の下に三輪さんの顔があった。写真の脇に、夫を亡くし、ほっとしたと語る、と書かれている。  私は湯飲みから手を離した。 「来月、出るそうです。字が間違ってたら電話してくださいって。字は、間違ってないでしょうけど」  律が紙を少し寄せた。私は次を読まなかった。 「大学の展示をご覧になった、って」  田辺さんが言った。 「私が電話する。どなたかしら」 「お姉ちゃん、この前も電話したでしょう」 「この人には、まだ」 「展示の方。次のには直るって言った」 「今週、先生に会うから。ちゃんと」 「これは金曜までなの」  三輪さんの指が電話番号へ落ちた。  私は、私の字幕からだと思います、と言った。 「〈病院から〉を削ってしまって。そのために、ご主人が亡くなったあとみたいに」 「その話は聞いてます」 「申し訳ありませんでした」  三輪さんが私を見た。上着の糸をもう一度つまむ。 「で、これはどうしたらいいですか」  見本へ指が戻った。  私は携帯を出しかけ、代わりに手帳を開いた。 「分室へ持って帰ってもいいですか。金曜の締切も伝えます。今日、どうするかお電話します」 「三時過ぎに。出ちゃうので」  電話番号の横へ書き足した。  田辺さんは台所から、先生には私からも、と言った。鍋の蓋を一つ取って、置く所を探している。 「先生、用事が増えると忘れるから。原票も秋のも、その時に」 「秋のって、お姉ちゃんが声かけてた方?」 「聞き書きの会。月に一度。今度は私がやるの」 「私も、行くことになってる?」 「写真のこと、分かる人がいてくれたら助かるでしょう」 「そう。でも、私はまだ」  三輪さんは袖を戻しかけた。糸がまた出たので、折り直す。 「先生に来てもらわなくても、できるんじゃない?」 「ええ。来てくださる人がいればね」  田辺さんは大根を袋から出した。転がりそうになり、律が端を押さえた。 「包丁、そっち?」 「勝手に半分にしないで。明日持って帰って」 「今日持って帰るわよ」 「また忘れるから」  大根は切られなかった。田辺さんは台所の引き出しを閉め、包丁の方はもう訊かなかった。  私は見本を鞄の上へ入れた。受取の紙を出すと、三輪さんが名前を書いた。田辺さんが横から、もう少し上、とはみ出した字を指す。  三輪さんは紙を回し、大きな幸のあとへ二文字を詰めた。 「書く所、もっと大きくしてください」 「直します」  律が私を見た。今度は何を直す話か、間違えていなかった。      *  十一時前、三輪さんがテレビの引き出しをまた開けた。 「音を移せるって、姉が言ってたんですが。うちの機械、動かないの」 「CDをかける物は、お持ちですか」 「それはある。昨日、確かめました」  田辺さんが、ほら、と言いかけた。三輪さんはカセットを私の前へ置いた。 「来週、姪が来るので。前に一緒に聴いたの、覚えてるって」 「金曜までに作って、お持ちします」  言ってから、久住くんへ訊いていないことを思い出した。 「できるかは、見てもらってから。できなければ、テープだけ金曜に」 「じゃ、お願いします。途中から違う音が入ってるって言ってたでしょう。それも、そのままでいいから」  メモを二枚書き、一枚を渡す。家で聴くため、金曜返却。署名の欄よりずっと大きい字になった。  立つと、三輪さんは黒い靴で段を降りた。律に、服を見に行くの、と訊く。 「選ぶのが遅くて」 「買わないで帰ってもいいのよ。誰も怒らないから」 「怒ってないわよ」  奥から田辺さんの声がした。三輪さんはお茶の盆を持って戻っていった。      *  元町の店で、律が白いシャツを三枚、同じ腕へ掛けた。 「違い、分からない」 「襟」 「襟があるのは分かるよ」  一枚を戻し、もう一枚も戻しかけた所で、薄い緑を取った。 「これ、どう」 「いい」 「早い」 「白よりいい。もう白の違い、覚えられない」 「服の相談、向いてない」 「今言わないでよ」  鏡の前で自分へ当てたあと、律が私にも当てた。値札は白より安かった。 「緑にしよう」 「値段見た?」 「いま見た」 「その前に言ってくれたら信じたのに」  試着室から、いる、と声がした。  私はカセットのある鞄を持ったまま、いる、と答えた。カーテンが開き、律が折った袖を見せる。少し大きかった。 「いいと思う」  さっきより長く見て言った。律は鏡へ向き直し、それから買うことにした。  店を出ても袋の口が開いている。 「まだ白、考えてる?」 「うん」 「戻る?」 「戻らない」  昼をどこで食べるか訊かれた。答える前に、律の携帯が鳴る。 「航が、こっち来るって。颯太もいる」 「そうなんだ」 「行く?」  画面を覗くと、まだ返事は打っていなかった。 「ゲームセンター。ご飯、そのあとになるけど」 「行く。お腹すいたら、先に食べる」  律が笑って指を戻した。私へ見せた緑の服は袋に入り、次に誰へ見せるのか、まだ訊けなかった。 第三章 百円玉 「自分のあります」  久住くんが財布を閉じた。航は両替機の前で千円札を持っていた。 「その一枚と替えて。崩したら返すから」 「なら、その千円、入れればいいじゃないですか」 「じゃ、そこ空けて」  半歩寄らせて札を入れ、硬貨を掴む。それからこちらを見つけ、手を上げた。  蒼井航は律と同じ四年生だった。背が高く、分室で人が足りないとまず彼へ訊く。来られなくても、誰かを見つけてくれる。今も硬貨を数えるより先に、私たちを台へ呼んでいた。 「何買ったの」 「服」 「見せて」 「あとで」  律が袋を後ろへ回す。 「灯が選んだ?」 「白を何枚も見せられました」 「白、持ってるの分かってるから」 「私、そこ言ってない」  久住くんまで少し笑った。  久住颯太くんは工学部の二年だった。機械の前だと先生も彼のいる方を見てから触る。何もない所で会う時は、背筋を伸ばしている。 「カセット、CDにできる?」 「何のですか」 「三輪さんの。金曜に返したくて」 「いま持ってます?」  頷くと鞄を見た。航が、午後分室で見れば、と言い、台へ百円を置く。  律がその一枚を取った。 「最初、私と灯」 「俺のお金」 「はい」  自分の財布から百円を出して航へ返した。航はそれを台へ入れた。  ファンが回り、赤いパックが浮く。律は持ち手を腕ごと引いた。 「そんな振らなくていいよ」 「やってみたいんだよ」  縁へ当たり、自分の側へ戻った。私は一点取った。 「いま見てた」 「パック?」 「いい感じに浮いてるなと思って」 「見てていいよ」  二点目は私の方へ入った。嬉しそうだったので、私も笑った。  次は左を見て右へ打つつもりが、反対の縁へ当たってきれいに戻り、私のゴールへ落ちた。 「灯、もう一回」  航が言った。 「見なかったことにして」 「三人いる。無理」  律は笑い過ぎてパックを取れなかった。私は黙って一点取る。 「ひどい」 「試合中だから」  五対四で勝った。律は航の袖を引き、もう一回と言った。  先に俺と颯太、と航が向こうへ回る。初めは速い球が続いたが、三点差になると航の球が遅くなった。 「ちゃんとやってください」 「やってるよ」  次も遅かった。久住くんは手で押さえ、あと一分と出た表示を指した。  航が律を見た。律は台から離れ、腕を組んでいた。 「ごめん。じゃ、いく」  そのまま航が勝った。  久住くんが自分の百円を出す。 「もう一回、いいですか」  航は手を引き、彼に入れさせた。今度は喋らなかった。パックが縁を打つ音が続き、久住くんが一点取ると、律が私の袖を掴んだ。 「見た?」 「見てた」 「あれ、私もやりたい」  袖を掴んだまま、次の球を見る。私は腕を動かさなかった。  律は携帯の画面を止め、久住くんが百円を出した所を私へ見せた。 「顔、いい。これ、写真にしてあげる」 「負けた所、入れないでください」 「そこは動いてるから」  負けた久住くんは、最後違う方へ打ちました、と自分の手を見た。航が私の失敗をまた言ったので、それは終わった、と答えた。  律が、あの一点教えて、と頼む。久住くんは航を見て、強く打たれるとできないんですけど、と言った。 「俺、脇で見てる」  航は私の隣へ来た。硬貨を二枚重ねる。 「灯、まだやる?」 「お腹すいた」 「俺も」  声を掛けると、律は今ちょっと、と言った。教わった側と違う方へ打っていた。      *  小さい総菜屋で、魚のフライを四つ買った。コロッケが一つ、おまけでつく。  航が貼り紙を見つけたので、分けるのは私に回った。 「分けた人、最後ね」 「そうなんですか」  久住くんが訊いた。 「いま決めた」  割り箸で四つにしようとして衣が崩れた。大きさを比べる形ではなくなり、四人で順番に拾った。  久住くんがフライを口から離した。航が飲物を出す。まだ熱いです、と彼が言い、律も自分のを割った。  航が携帯を台の端へ置いた。さっきの一点を律が撮っていたらしい。 「これ、灯も見て」  近づくと、硬い音が大きく鳴った。律が音量を下げた。 「耳、近い」 「自分で持つより、置いた方が見えるじゃん」 「音は、みんな見なくていいから」  もう一度、パックが戻る。久住くんが笑ったので、彼にも見せることになった。航が戻し、同じ音が小さく出た。 「この前、別の映像、仕事先に出した」  航が携帯を伏せた。律はフライを持ったまま顔を上げた。 「有料の?」 「最初の分は、もう。卒業したら一本。田辺さんの秋の会。商店街の聞き書き。見本、先に」 「よかったじゃん」  航は笑った。いつ決まったの、と訊くと、正式には木曜、先生に紙をもらってからだと言った。 「見本には姉の声も入れてる。昔の方、ちょっと」 「澪さんがやるの?」 「一つはね。印刷屋だけじゃ、もったいないし」  私は音のことが分からないので、すごいねと言った。航は、字幕の所、灯にまた頼むかも、と言った。律はフライをひと口食べた。 「明日、午後いる?」  携帯をしまった航が訊いた。 「姉の店の案内、受取りに行ってくれない。木曜に先生へ渡したいんだよ」  お姉さんの澪さんは、前は同じ大学にいた。今は印刷の仕事をしている。私は二年前、映像をこれ以上使わないでほしいと書かれた紙を先に思い出した。 「沙帆も行く。二つあるから」 「行ける」  律はフライを小さくしていた。見ていると、どうしたの、と顔を上げた。  航が、助かると言った。 「訂正も今週、先生と話す。ちゃんと出たら、姉が戻る方も選べるし」 「大学へ戻るの?」 「選べるようには、したいじゃん」  私は広報紙の見本を鞄から出した。三輪さんの所へ同じような文が来ていることを伝えると、西崎さんへ先に、と航が言った。  先生は今日外にいる。それなら、西崎さんのいる分室へ戻る方が早い。 「三時の電話、あっちでする?」  律が訊いた。 「うん。テープも見てもらう」 「じゃ、駅まで一緒」  航が服の袋へ手を伸ばすと、律は明日着る、と言った。 「明日、俺いないかも」 「じゃ、見ないままかも」  袋は私の側へ戻った。私は駅まで、もう少し見ていたいと思った。      *  西崎さんは見本を読むと、電話番号を携帯へ写した。 「三時過ぎに返事するんだね。先にこっちへ訊く」  私が電話しようとしていた手を戻す。久住くんはカセットの窓を見て、再生する機械を借りに出た。三十分ぐらいと言うので、金曜までにできるか訊くと、聴いてからです、と答えた。  三時十分、西崎さんの電話が終わった。 「見本、いったん止めてもらった。担当から三輪さんへ連絡する。直した文を載せるか、記事ごとやめるかは本人に聞くって」 「ありがとうございます」 「三輪さんへ電話して」  私は折り返した。大学の映像は木曜に先生へ、と言うと、分かりました、と返ってきた。テープはまだ全部聴けていないことも伝えた。  今日中に何か答えなければと思っていたのに、明日の電話でいいと三輪さんが言った。切る前にメモの日付を直した。  西崎さんは別の番号へかけ始めた。私の仕事は一つ終わり、彼の電話はまだ続いた。      *  水曜の午後、印刷店のガラス越しに沙帆が見えた。  段ボール箱へ座っている。手を振っても立たない。 「座っていいの?」 「いいって」  奥から澪さんが顔を出し、空箱ならどうぞ、と言った。作業着の袖を上げ、赤いペンを持っている。 「宮原さんだよね。いま包んでるから」  沙帆が膝の横の袋を開けた。飴を一つ取ると、すぐ閉じる。 「それ、お客さんの」  奥から声がした。 「一個」 「昨日から数えて」  レジの皿にも同じ飴があった。 「何で袋から取るの」 「近いから」  澪さんが包みを二つ持って出た。袋を沙帆から取り、皿へ飴を足す。 「ほら、いまこっちの方が近い」 「もう食べた」 「もう一個、取ろうとしてた」  沙帆は箱を降り、カウンターへ顎を載せた。  案内二百、受取の控え百。私は注文書と数量を比べた。私が短くした文から、一行だけ戻っている。内容を再確認する場合がある、と先生に言われた所だった。  澪さんは見本を載せ、角を揃えた。 「仕事の後で、ちょっと待つ?」  沙帆が訊いた。 「今日は帰る。昨日帰れなかったから」 「じゃ、待つ」  私は包みを抱えた。まだ昼を食べていないと話すと、沙帆が三人で、と言った。今その数へ入ったのが、少し面白くなかった。  西崎さんへ四時までに戻ると送る。濡らすな、と返ってきた。      *  食堂で、澪さんは私の包みを空いた椅子へ移した。 「床、濡れてることあるから」  沙帆は焼きそばを頼んだ。私も麺のつもりで選んだが、沙帆が伝票の「丼」を指した。メニューの写真を見直すと、具の下に少しご飯が見えた。 「ご飯、食べなかった?」 「あと一口で電話」 「先に食べたら」 「誰か出てくれたらね。昼休み一人だから」 「もぐもぐって、出れば」  沙帆が本当にやり、澪さんが笑った。私が受取時刻を確かめた電話も昼だった。 「宮原さんのことじゃないよ」 「すみません」 「今、違うって言ったのに」  澪さんは沙帆の水をひと口飲んだ。  明日の七時でいいかと訊き、沙帆が安い所を探すと答える。私は包みの紐を指で押さえた。 「劇場には返事した?」 「まだ。出す音、決まってない」 「金曜までだよね」  応募のメールを沙帆が開いた。音響を手伝う人を探していて、短い音と経歴を送る。 「先生に見てもらったら」  私が言うと、画面が消えた。 「見てもらった。いいと思うよって」 「じゃ、いいんじゃない」 「じゃ、って」  言い直す言葉が間に合わなかった。沙帆はストローの袋を細く折る。 「夏の展示も頼まれてる。そっちの返事もしないと」 「給料は」  澪さんが訊いた。 「交通費」 「行った分でなくなるじゃん」 「そうだよ」  私の丼が来た。二人の皿より大きかった。  別の話をしようとして、航が訂正の話をすると言っていたことを伝えた。大学へ戻る方も選べるように、と。  澪さんが魚へ置いた箸を止めた。 「誰に言ってた?」 「私に。昨日、律と久住くんも」 「またか」  沙帆はこちらを見なかった。 「戻らないよ。店も休まない。申し込むとか、何もないから」 「はい」 「あの訂正は出してほしい。私が勝手にやったみたいに残ってるから。それと、この紙。預けたままの分も」  澪さんが鞄から控えを出した。私が以前見た物より、余白に小さい字が多かった。持ってきた日と、公開を止めたい範囲、説明を求めた相手が書かれている。先生の返事の欄は空いたままだった。 「航には原本を本人に戻してって言った。俺が持って帰るって言ったから、私が先に見るって、また言った」  彼女は控えをしまった。  二年前、分室の前で彼女が先生と話す間、私は字幕を切っていた。先生は後で、先に相談してほしかった、と言った。その時、何を先に相談すればよかったのか訊かなかった。 「私、戻りたそうに聞こえた?」 「航さんが、その」 「うん。ごめん。航に言うことだった」  澪さんは骨を皿の端へ寄せた。  沙帆が自分の皿を動かし、私の丼を覗く。 「多かった?」 「うん」 「言ったじゃん」 「言ったね」  小さい器を頼み、少しもらうと言った。飴も食べたのに、と澪さんが言うと、あれは別、と答えた。  私はまだ箸をつけていない方を二人へ向けた。      *  出ると雨が落ちていた。澪さんが店から袋を持ってきて、包みへかけた。  角で別れる時、沙帆が七時ね、ともう一度言った。 「高いの、分かってる。変な名前も、できたら避ける」  澪さんは笑って見送った。  帰る途中、傘をずらし、私の包みへ寄せてくれた。七時の食事は明日。私も空いている。 「それ、二人で行くの?」 「何が」 「明日」  沙帆は私の持つ包みを見た。 「灯も来る?」 「行っていいなら」 「嫌だったら訊かないよ。澪さんにも、今」  携帯を出しかけたので、こっち先に、と包みを少し上げた。  彼女は自分の分を取った。傘が私の方へ傾き、肩が濡れる。片手で打って、それでも明日の七時、と私へ確かめた。 「うん」  澪さんから、三人ね、と来た。沙帆が画面を向ける。私はその三の字を見てから頷いた。  車が通るので二人で軒下へ寄る。沙帆の携帯がまた鳴った。 「劇場?」 「先生」  一番上の、楽しみにしています、が見えた。  傘を閉じ、沙帆は両手で打ち始めた。自分の包みは膝へ挟んでいる。 「先、行ってていいよ」 「先に置いてくる」 「私の机。空いてる方。あ、待って。何か置いたかも」  私は歩きかけた所で止まった。自分の携帯も鳴った。  包みを軒下の乾いた所へ一度置いた。宅配便の通知だった。その日の受付は、もう終わっていた。 第四章 おかわり 木曜の朝、西崎さんは机を空けていた。  昨日、沙帆と運んだ包みは開けてある。戻るのが遅くなったことを謝る前に、端の束を棚へと言われた。 「今日、最後の箱が来る。そっち、空けといて」  私の携帯が昨日鳴ったのは、宅配便の再配達だった。今夜受け取ることになり、沙帆と澪さんへ、三人で食べる方を土曜にできないか訊いた。澪さんは昼なら、沙帆は何でも、と返した。  沙帆の机にはヘッドホンと蓋をしたカップがあった。 「土曜、十二時半でいい?」  後ろから声がした。私は頷いた。 「今日も澪さんの所へ行くの?」 「音、聴いてもらう。応募の」 「そっか」  沙帆はカップを取り、空いているか傾けた。少し残っていた。 「七時の前に終わるかな」 「ご飯、食べないの?」 「食べるかも。作ってると、忘れるから」  私は再配達の時刻をもう一度見た。土曜なら行ける。今日は七時には部屋へ戻らなければならなかった。  西崎さんが水色のヘアゴムを差し出した。昨日、袋を留めるために使った物だった。 「これ、宮原の」 「ありがとうございます」  彼は椅子から上着を取った。右の袖口がほつれている。 「電車でやった」  引き出しから缶を出して、裁ちばさみで糸を切る。先を閉じたまま袖のほつれへ近づけて、それから開いた。布まで切れそうなので、私は自分の手を引いた。針へ通す時だけ手を窓へ寄せた。それでも入らないようなので、机の糸通しを近づけた。 「ああ、ありがとう」 「直せるんですね」 「これぐらいなら」  通ってからは速かった。裏から二、三度縫い、表へ返し、また戻す。 「そっち、見えなかったですけど」 「俺には見えた」  缶へ針を戻す所で、チャイムが鳴った。      *  最後の箱は思ったより小さかった。  田辺さんが封筒を一つずつ開けた。同じ名前を二度読むと、そっちは家族の分、と言う。西崎さんが送り状へ印をつける。  三輪さんの八枚目は、厚紙に挟まれていた。縁側に夫婦が座り、奥で田辺さんが横になっている。眉を寄せていて、寝ているのか起こされたのか分からない。 「ひどい顔」 「楽しみにしてました」 「幸枝が?」 「はい」 「そうでしょうね」  写真を戻しかけ、田辺さんが手を止めた。 「金曜に返すんだったわね。原票、先生に見てもらってからで」 「写真は先に戻せる。紙は先生」  西崎さんが二つに分けた。田辺さんは手帳を開き、青い付箋を一枚剥がして貼り直した。  小さい案内に、お話を聞く人 田辺依子、とある。 「初めて、そっちへ名前を書いてもらったの。今まで、連絡先ばっかり」  照れたように裏返す。私はもう少し見たかった。 「秋の会、妹さんも」 「写真のこと、知ってるでしょう。来てくれたらね。会場の人も、先生のお名前を借りられるなら声かけやすいって」 「田辺さんがやるんじゃ」 「私がやるの。来てくれる人がいないと、始まらないけど」  手帳を閉じると、玄関から航が飯どうする、と呼んだ。      *  出る前に、久住くんと機器を北町へ戻した。  電源をつなぐ方のスピーカーと、もう片方が一つの箱に入っている。私が箱を持ち、久住くんがコードを持った。横断歩道へ下るので、北町の窓は近いのに、着くまでは長い。  先生が戸を開けた。元は小さい印刷所だったという一室には棚があり、奥に机が二つある。手前は紙を広げる机。奥には電話と小さいプリンター。高い窓は先生の椅子の後ろだった。  机には切りかけのりんごと湯飲みがあった。先生は皿を奥へ寄せ、黒い柄の包丁を小さい流しへ運んだ。 「戻った。あとで、二人で聴くから」  久住くんが机の両側へスピーカーを置いた。コンセントへ差し、つないだ左右の線を後ろへ回す。音を入れる細い線の先だけ、先生へ向けた。 「これ、パソコンでも、貸す録音機でも同じです。端子、こっち」  私の携帯の音をつなぎ、一度確かめた。先生は窓の金具を持ち上げた。少し開く。 「また閉めるんですか」  久住くんが訊いた。 「紙の時だけ。蒸すでしょう。人が増えると」  外の車の音が入った。先生が音量を少し上げる。私は窓の下に立ったが、道路の反対側の人の顔は見えなかった。  線を抜いて返してもらう。スピーカーの方の小さいつまみは、先生が回した所に残った。 「宮原さん、原票も午後、持ってきて。二つに分けた方が分かるね」  私は三輪さんの分の話だと思い、頷いた。 「去年、返却済みって書いたのは、田辺さんへ渡したからですか」 「受け取った名前は田辺さんだね。紙も、午後に見よう」 「三輪さんのカセットは、箱に残ってました」  先生は音の線を机の端へ寄せた。 「音を移してから妹さんへ渡すと聞いてた。田辺さんが来たら、そっちも訊こう」  私は午後に持ってくる物へ、去年の受領の紙も足した。返した名前と、待っている人の名前が違う。それを先生にも見てほしかった。      *  食堂で、西崎さんが店の人へ椅子を足してもらっていた。分室で話す時より声が高く、すみませんを二度言った。  沙帆は先に席についていた。隣へ座ると、昨日の袋の跡がまだある、と私の腕を指す。 「消えるよ」 「まだ消えてない」  律は緑のシャツを着ていた。袖を二度折っている。 「着たんだ」 「どう」 「いい。試着した時も見たけど」 「この前、袋ばっかりだったじゃん」  航が似合うと言った。律は、今度は袋じゃないから、と返した。二人の間でどんな話があったのか、私は知らなかった。  田辺さんは遅れて入り、本日の定食を、と人数を数えた。 「私、焼肉がいいです」  沙帆が言った。 「僕も別で」  久住くんも言った。 「はいはい。好きなのにして。まとめたら早いかと思っただけ」  注文の後、小鉢を一つずつ足せないか訊いた。西崎さんが身を引く。 「そこまで頼まなくても」 「訊くだけ。余ってなかったら、それでいいの」  煮物ならあるよ、と返った。田辺さんが西崎さんへ笑う。 「強いですね」 「恥ずかしい顔、何度もしてるから」 「俺も結構してますけど」 「まだ覚えてるでしょう。忘れてからよ」  航も私も笑った。  先生はお茶がなくなる頃に来た。鞄から長い写真を出し、戻ってきたんだよ、と広げた。同じ部屋の左と右に、先生が一人ずついる。 「双子なんですか」  久住くんが訊いた。 「言われると思った。二人いれば展示は楽なんだけどね」 「パノラマですよね」  律が言った。 「早いな。ほかの人が考える時間なくなっちゃった」  先生は撮る人の後ろを走ったのだと言った。間に合わなかった方もあり、片足しか写っていない。 「そっちが見たいです」 「そっちは出さない」 「先生、仕事してないじゃないですか」  西崎さんが言った。 「二人分してるのに」 「ほかの人にもカメラ持たせてますよ」 「ああ、そうか」  先生が本当に困った顔をしたあと笑った。私は左で持っている箱と、右の箱をもう一度見たかった。皿が来て、写真は丸められた。  先生は私の前の案内見本を取り、短くした所を読んだ。 「最後の一行、戻したんだね。よくなった」  西崎さんへも見せるので、少し嬉しかった。  私は三輪さんの広報の見本のことを訊いた。先生の箸が止まる。 「西崎くんから聞いた。あっちは止めてもらえたんだよね」 「元の映像も、木曜に確かめるって私が」 「見よう。音、ある?」 「あります」  沙帆が答えた。  田辺さんのお茶を注ぐ手が止まった。 「幸枝に聴かせなくても、今のを止めればよろしいんじゃないですか」 「比べるのは、まず私たちで。何を直したか、出す時にも必要だから」  自分の褒められた字幕が、間違った方に並ぶ。私は小鉢へ箸を入れた。食べるよ、と言った相手が分からなかった。  先生が久住くんへ古い椅子の修理を訊く。もう座れます、と真面目に答えた。 「毎晩、眺めてるのかと思った」 「脚の歪み、低い所から見ると分かるんです」 「眺めてから座る?」 「そうです」  田辺さんが、毎晩座ってる方から直してもらいたいわ、と言った。  沙帆がおかわり、と手を上げた。ご飯だった。私はまだ半分あった。      *  戻る途中、西崎さんに保管室の空箱を頼まれた。  廊下で台車を止める。中の床は一段高く、二人で持たないと台車を上げられない。私は空箱だけを抱え、足を上へ置いた。  戸の大きいガラスの下は木だった。枠の所に新しい色が残る。 「これも、直したんですか」 「先月、箱を落として。角が当たったんで」  久住くんが言った。 「先生、中が見える方がいいって。同じ大きさで」  奥の棚からは、まだ重い箱が出ていなかった。前の細い板に箱の底が引っかかる。重い物を台車へ移す時、板を外せば高く持ち上げずに出せるのだと久住くんが言う。  西崎さんが箱を棚へ押し戻した。 「月曜、ここから全部出す。先に、これ取れる?」 「外します。今日、道具あります」  久住くんは鞄から長い釘抜きを出した。平たい先は二つに分かれ、片方の角が小さく欠けていた。曲がった方を床へ向け、平たい先を板の裏へ差す。木が少し浮いた。  西崎さんに箱を持ってもらい、板を引いた。端だけ外れず、久住くんは先を入れる所を変えた。 「ここ、押さえてください」  空箱を足元へ置いた。私が両手を出すと、端を持たないで、と言われた。板の真ん中を押さえる。外れた板が床へ倒れる前に、彼が引き取った。  抜いた釘を缶へ入れようとすると、久住くんが待って、と言った。 「これ、僕の缶じゃないので。混ざると、月曜にまた探します」  いらないコピーの紙を一枚取り、釘を四本並べた。折って包む。長い釘抜きの平たい先にも別の紙を巻いた。 「尖ってる方だけでいいんだ」  私が言うと、彼は持ち手を見せた。 「持つ方まで包むと、次にどっちか分かんなくなるので」  紙を巻いた先を鞄の底へ向けて戻した。 「月曜まで、置いていいですか。もう一枚、向こうの棚にもあるので」 「小部屋の机の下。通る所へ置かないで」  西崎さんが言った。  箱を持って降りる時、後ろへ出す足にまだ床がなかった。久住くんが底へ手を添えた。 「重いの、奥にあります。持つ時、呼んでください」  私は返事をして、空箱を台車へ載せた。  西崎さんは奥に残る茶色の箱へ手を置いた。 「俺の本、これだけで二箱分ある。向こうの部屋、開かないなら、一度家へ送る」 「家、置けますか」 「置けない。でも大学に捨てられるよりは」  久住くんが台車を戻しかけた。西崎さんは首を振る。 「まだ集荷、頼んでない。重いのは一人じゃ出せないから」  白い蓋の薄い箱を茶色の箱の上から取ってくれと言われ、私は一人で横の棚へ移した。茶色の方には古い雑誌の背が詰まっている。私は台車の輪が一段の下へあるのを確かめて、手を離した。      *  沙帆が二年前の音を開いた。  三輪さんは姉が泊まってくれた日を話している。病院から戻り、靴下を脱いだ所まであった。完成した方では、ほっとした声の後に水が入る。 「これ、私がつないだ」 「字幕、私が」  同じように言って、次が出なかった。  先生が後ろへ椅子を持ってきた。元を最後まで聴く。先生自身の、少し短くお願いしてもいいですか、も入っていた。 「私、そう言ってるんだな」 「五分にって、言われたので」 「うん。私が」  先生は完成した方をまた頼みかけ、先に公開を止める連絡をしよう、と西崎さんを呼んだ。  立つ時に、右の人差し指を避けて机へ手をついた。昼にはなかった絆創膏だった。 「包丁、洗うの忘れてて。流しで、先に触っちゃった」  先生は自分で笑った。 「田辺さん、今日の紙、端を汚したらすみません。さっき持った方」 「いいです。出す方じゃありませんから」  田辺さんは二枚の端を揃えた。隅の小さい赤い点を見て、折らずに手帳へ挟んだ。 「私の名前で。どの映像か、そっちで分かる?」 「配信先と展示先で題が違うので。出した分、全部確かめます」 「お願いします」  沙帆はヘッドホンを机へ置いた。私は字幕のファイルを閉じず、保存した。  西崎さんはメールを開き、日付の所へ指を置いた。 「先生、先週送った分も、見ていただけますか」 「ああ、君の。まだだったね」 「来週までに所見が要るので」  先生は日程の画面を開いた。西崎さんが横へ寄る。 「現地へ戻る申請なんです。継続できたら、今度は聞く人を増やせる」  航が封筒の端を持った。 「次は俺も行くって、言ってます。乗り換え、見ておきますね」 「向こうの返事が来てから。駅まで行って、また帰るの、今度は嫌だから」  航が封筒から図を抜きかけた。西崎さんは端を押さえる。 「これ、帰りの線ですか」 「行き。帰りは翌日、こっち」 「じゃ、一日じゃないんですね」 「一日だと会えない人がいるって、春にも言ったよ」  航は紙を戻した。西崎さんの指が、しばらく角へ残った。  先生は画面を戻し、日程を一つ先へ送った。 「事務の担当、誰に引き継ぐ?」 「そこは相談します。まず、読んでいただけたら」 「うん。両方だね」  西崎さんはうなずいたが、画面へ手を出さなかった。  先生が携帯を出した。西崎さんは封筒を持ち、顔が上がるのを待った。 「何曜に送った?」 「火曜です」 「火曜。あった。君が聞き取りに行った所だね」 「はい。ここの引継ぎじゃなくて、研究の方です」 「分かってる。大学へ戻ったら見るよ。見落としてたら、もう一度言って」  先生は画面を閉じた。西崎さんは封筒を、宛名を下にして置いた。口から図の載った一枚が出ていた。  その図に、知らない町の名があった。 「ここ、行かれたんですか」 「二年。バス、一日二本しかない所もある」 「帰れなくなったら」 「泊まる。聞けたらね。行っただけの日もある」  西崎さんが図の外の小さい印へ指を置いた。  航が玄関から、次の箱いいですか、と呼ぶ。 「ちょっと待って」  西崎さんは印の所を一つ説明してから立った。私は町の名前をもう一度読んだ。返却する物の一覧には、その名がなかった。 「返却する音も、研究用の分は残します。名前を外して」  西崎さんが言うと、先生はもう一度携帯を開いた。 「用途、取り直すものがあるね」 「原資料は返します。複写と分けてあります」 「分けたら済むわけじゃないでしょう」  先生の携帯が鳴り、廊下へ出た。西崎さんは封筒を開けなかった。返す物の一覧と別に、複写済み、とある細い欄を見た。名前の所へ自分の手を置いた。  先生が戻ると、田辺さんが手帳から小さい案内を出した。 「先生のお名前だけ、お借りしても」  先生は日付を見た。 「最初三回?」 「聞くだけじゃなくて、聞く方もやっていただこうと」 「いいね。田辺さんが得意な所だ」  田辺さんが笑った。指が角を何度も撫でる。先生が次の紙へ手を出すと、二枚を重ねてもう一度差し出した。胸の前で紙が起きる。 「展示の物も、紹介できたら」 「元の声は、確認を取り直すものがあるから。そのまま持っていかないでね」 「承知しています」 「返す分と説明する分、北町で分けよう。それが終わったら秋の相談も」  田辺さんが見せてくれた申込書には、幸枝さんの名前も印刷されていた。 「もう決まってるんですか」 「会場には先に出さないと。お話、妹が一つしてくれれば、最初が楽なの」  原票には田辺さんの名があった。案内には同じ名が別の大きさで刷られている。私は写真を封筒へ入れ、八枚目の番号を一覧へ書いた。  先生は廊下で田辺さんへ振り向いた。 「雨から台所へ入る所、君が言ったんだっけ。あの並べ方は面白かった。残せる所もあると思う」 「ええ」  田辺さんは紙を手帳へ入れた。先生が去ったあとも、表紙を撫でていた。  航が携帯を出し、西崎さんへ去年の説明を聴かせると言った。 「今度は、最初から入れてある」 「何の」 「研究用に出す時、先生へ聞いた方。原本を返すっていう所も」  私も画面の前へ寄った。先生の声だった。今より早く喋る。 『本人が、見本も使わない、と言ったら、そこまで戻そう。名前を消したらいいという話じゃない』 『原本は返す。訂正も出す。いいですよね』 『そこは、そうだよ』  湯飲みを置く音がした。小さく二度触れ、三度目だけ大きかった。 『でも、私が聴いたってだけで、署名までしたことになるのかな』 『署名じゃないです。確認した人として』 『何を確認したか、君の文へ収まらないよ』  西崎さんが、ここ、と言った。航が少し戻す。 『何を確認したか、君の文へ収まらないよ。ちょっと、手を離して』  机が擦れ、先生が、録音機、まだ止まってない、と言った。航の笑いが入った。 「持って帰ろうとして、先生のコードまで引っ張った」 「そこまで残さなくても」  西崎さんが言った。 「元のは、切らない方がいいんじゃないですか」 「使う分は別。原資料の方は残す」  私は湯飲みの三つの音をもう一度聴きたかった。航は画面を閉じた。去年も同じ話をしていたのだと思った。 第五章 雨の間 航が久住くんへ録音機を借りたいと言った。 「先生との話。毎回、言ったこと変わるから」 「書いてもらえよ」  西崎さんが言った。 「書いてくれたら、苦労しないです」  軽い声だったので、私も笑った。  久住くんは棚からケースを取り、本体の番号を貸出の紙へ写した。電池とカードの空きを確かめ、ヘッドホンを差す所も見る。 「北町へ戻した線、ここにつながります。まず録る方、確かめますね」  赤いボタンを一度押すと、待っている画面になる。もう一度で表示が変わった。久住くんが二言話し、四角い印のボタンで止める。横向きの印を押すと、同じ二言が本体から小さく出た。  航は戻す方のボタンを長く押し、短く押す時と動きが違う、と言った。 「探す時は、押し続ける方。押すだけだと、頭へ戻ります」 「これ、いまのも残ってる?」 「はい。試した分。消す必要ないです。終わったら止めて、そのまま返してください」  紙を航へ向けた。彼が名前を書く間、私は三輪さんの原票と写真の封筒を別々に袋へ入れた。直した字幕の見本も、その上へ重ねる。 「それ、持っていこうか」  航が手を出した。 「私も行く。先生へ確認するのあるから」  木の札の鍵を取って外へ出る。青い札の方は西崎さんが持っていた。同じ戸を開ける鍵なのに、二つを一緒に掛けたことはなかった。  北町の高い窓は道路のすぐ向こうだった。渡るには歩道を下り、横断歩道へ回る。細かい雨の中、私は傘を航へ少し寄せた。 「澪、昨日どうだった」 「大学へ戻らないって」 「うん。それは」  信号で止まると航が隣へ来た。 「ほかの話。仕事とか」 「昼に電話が来るの、嫌だって」 「俺も怒られた、それ」  笑ったので私も笑った。 「魚は食べてた」 「骨あると食べないんだけどな。家だと」 「取ってたよ」 「へえ」  信号が変わる。航は、そっか、と歩き出した。      *  鍵を使う前に、先生が内側から戸を開けた。  印刷した紙を持っている。奥の机へ戻り、紙を広げる方を私へ空けてくれた。 「写真、明日お返ししていいですか」 「いいよ。原票は私が預かる。写真は持ち主へ」  私は袋へ写真だけ戻した。原票に並んだ和夫さんと田辺さんの名を、先生が指で押さえた。  航が録音機を出す。 「あとで文にするんで、録っていいですか」 「どうぞ。まだ決まってない所も入るよ」 「はい」  赤いボタンが二度押された。 「三時二十二分。蒼井航、真壁先生」 「真壁敦史です。所属も言う?」 「それは分かるので」  先生が笑った。電話とプリンターより手前の角へ、機器が置かれる。スピーカーの線はまだどこへもつながっていなかった。 「宮原さんもいる。写真を持ってきてくれた所」  私は袋から字幕の見本を出した。先生が目を向ける前に、航が澪さんの紙のことを始めた。 「原本、本人に先に戻すって、いいですよね」 「いいよ。こっちで持ってる控えとは分けよう。文にするのは、その後で」 「訂正を出すのも」 「出す。ただ、いま君の文を全部読んだわけじゃない」  先生は航の草稿をめくった。上の方に訂正のお知らせ、とある。  私は見本を持って待った。昼の案内はすぐ見てくれたのに、今は私の紙があることにも気づいていないようだった。 「先生、これも。戻した字幕の方です」 「病院から、を入れたの?」 「はい。前の音も残すと、五分四十秒になります」 「四十秒か。それぐらいなら」 「あの時は、五分までって」  先生の手が止まった。 「あの時は、学生の発表と一緒に流す予定だったからね」 「それで切ったんです」 「うん」  私は紙を先生の前へ置いた。航の草稿に重なり、彼が自分の方を引いた。 「先に、俺の方を見てもらっていい?」 「私も、今日、見てもらいたい」  先生が二枚を並べた。私の見本を読み、原票へ目を戻す。私は椅子の横に立ったまま、読んでいる行を見た。 「ここ、声は残ってるんだね」 「あります」 「じゃあ、尺はそのままで。一度つないだ方を見せて」  見本を返してもらった。航がすぐ草稿を寄せる。  先生は最後の頁までめくった。原本を返すことには頷いたが、先生の了承を入れる欄へ鉛筆で印をつけた。 「ここは、まだ」 「直す所を言っていただければ」 「まず原本を戻す。その後、本人に読んでもらって」  航は紙を取った。先生が時計を見て、田辺さんが来る頃だ、と言った。 「五時ぐらいに、また来ます。録音機、置いていっていいですか」 「いいよ。田辺さんとの話も残しておこう」  航が機器へ戻った。先生は、ここで一度止めよう、と言った。四角い印へ航の指が置かれる。 「田辺さんとの話は」 「返す物も違うから、別に。私が使えるなら、後で」 「赤いの、二回です」  先生が頷いた。私は傘を持って戸の内側で待った。  二人で出ると、先生が戸の所まで来て、雨、まだ降ってるんだ、と言った。  信号で、航が私の袋を見た。 「四十秒ならいいんだって」 「今はね」 「先生、そういうの多いよ」  私は見本を押さえた。そうだよね、と答えかけたが、昼に褒めてもらった案内のこともあった。  航は青になると先に渡った。歩調を速め、私も横へ並んだ。      *  分室へ戻ると、四時前だった。田辺さんが手帳を持って待っていた。  沙帆はカセットの最後を取り込んでいた。最後に長く誰も喋らない所がある。もう何もないの、と訊くと、止まる所まで、と答えた。 「本人に、途中もそのままでって言われたから」  返す方と作業の控えへ写し、CDにする順に並べる。私は新しい受取の欄を広くし、三輪さんの住所を封筒へ書いた。  航は濡れた袖で手を拭き、机へ草稿を置いた。先生の了承、と書く所だけまだ空いている。 「澪の前の紙、文章にしたの残ってる?」 「印刷したのは、あると思う」 「あとで見たい。俺の文の前に、本人の方」  束を探す間、田辺さんが北町へ出る支度をした。手帳と布袋をジャケットの内側へ抱える。 「灯ちゃん、六時まで?」 「はい」 「戻るから。窓、雨入ってない?」  紙の端が濡れていた。私が窓を閉めると、沙帆が顔を上げた。  田辺さんは横断歩道へ向かった。北町の戸へ入る所までは、ここから見えない。  私は濡れた一覧を刷り直した。同じ行へ入れていた写真と原票を二つに分ける。紙が二枚になった。  新しい方を送って電話すると、表示は十六時十八分だった。 「先生、新しい一覧を送りました。三輪さんの写真は本人へ、原票は先生へ。そこを分けて」 『机の上のと違うの?』 「はい。二枚目の上に、写真の番号があります。原票と同じ行だったのを分けたので、全部で十四です」 『……来た。二枚になったのか。ああ、八枚目ね。これで全部戻る?』 「明日、私がお持ちします」 『お願いします。紙の方は、田辺さんへあとで説明するから』 「秋の方もですか」 『うん。先に会場へ連絡する。田辺さんの案内から、番号を写してたところ。君の新しい一覧、裏、借りるよ』 「二枚目、まだ下へ写真が続いてます」 『裏へ書くから大丈夫。番号、すぐ見失うんだ』  向こうで紙が揃う音がした。  私は西崎さんが公開を止める連絡をしていることも伝えた。先生は礼を言い、そちらに雨が入っていないか訊いた。 「窓、閉めました」 『じゃ、よろしく』  切ったあと、濡れた紙を丸めて捨てた。航は机で、澪さんの名前のある紙を読んでいた。  西崎さんが、送り先、こっちも、と封筒を寄せた。私は住所録と比べた。さっき北町へ送り直した一覧にある名も、別の番地へ来ていた。  田辺さんのいる北町へ訊こうとすると、あとでいい、と止められた。二人で送り状の数を合わせた。  西崎さんが最後の一枚へ印をつけた時、田辺さんが玄関へ戻ってきた。      *  四時半を少し過ぎて、田辺さんが戻った。  袋を流しの脇へ置く。底から水が一滴ずつ落ちた。 「濡れたわ」  手を洗い、袋の外を布巾で押さえた。私が写真のことを伝えると、お願いね、と振り向いた。 「秋の方、どうでした?」 「字を大きくって。名前の所」  手帳を開いた。案内へ鉛筆の線がついている。お話を聞く人、の下だった。片隅の赤い点とは別に、名前の少し上に細い切れ目があった。下の一枚も同じ所で開いている。切れ目は紙の縁へは繋がっていなかった。紙をずらすと向こうが見え、切れ目の内側から字へ赤黒く滲んでいた。田辺さんは二枚を揃え、その所を下へ折って、付箋の頁へ挟んだ。 「先生が取ったから。返してもらったの。手、汚しちゃった」 「その紙?」 「妹の名前、消すって。まだ相談の途中なのに」  手帳の間から、小さい振込の紙が出た。会場費の欄だけ見えた。 「先に、私が払ったの。もう人も頼んでるのに。やらないなら、先生から言ってって」  田辺さんが紙を中へ戻した。 「何も始まらないうちに、やめる話だけ早いんだから」 「先に、今のを終わらせないと」  澪さんから電話が来た。紙に残すため、録ってもいいか訊くと、残して、と返った。字幕の確認に使う機器を机の手前へ寄せた。田辺さんは隣で、受取欄を見ていた。 『公開しないだけじゃ足りない。見本も出さないって入れて』 「見本も、使用しない」 『そう。弟にも送った。読んだって来たのに、その後、電話にも出ない』  私はその一文を先生へ送ると言った。後ろで田辺さんが、写真は八枚ね、と言った。澪さんとの電話を切り、原票の追記として先生へ送った。録音したまま、自分でも一度読み返した。 「見本も、使用しない。公開だけでなく」 「ねえ、会場の椅子、二十脚だったかしら」  田辺さんの声も入った。八枚の写真を数えながら、二十だったと思う、と答えた。  田辺さんは受取欄の姓と名を一つずつ読むので、私もそのまま録っておいた。  西崎さんは隣の机で、複写の控えを刷っていた。紙が斜めに入り、私に前の蓋を持っていてと言った。外した紙は折れていた。新しい束を入れる。田辺さんが受取欄を指したまま、その音を聞いていた。  航が立った。 「先生、もう空きました?」 「まだ紙を見てらしたけど」 「先に行きます。返すの、今日にしてもらう」  木の札の鍵を取り、五時の約束より先に出た。田辺さんは呼びかけるように口を開き、それから私へ、受取欄できた、と訊いた。  私は二枚の一覧を出した。田辺さんが名前の所へ顔を寄せる。 「幸枝の字、大きいのよね」 「広くしました」 「そう。本人に書いてもらって」  私は頷いた。  少しして、西崎さんの携帯が鳴った。 「何だ。……先に呼べ」  私は顔を上げた。前の蓋がまだ開いていたので、もう一度閉める所を訊いた。西崎さんは電話を耳から離さず、ここを持って、と私の手を上へ移した。  航から写真が来た。  机へ載った紙に、本人へ返す、と鉛筆で書かれている。数字は十三のままだった。紙の向こうの端に、別の紙が斜めに重なっていて、四、の字の頭が見えた。写真は机の縁で切れていた。床も、先生の椅子も写っていない。斜めに重なった紙の下の方に、見本、の字もあった。 〈あった。先生は帰った。あとはこっちでやる〉  私は了解と返した。西崎さんが新しい紙を取り出した。前の蓋を、私が閉めた。田辺さんが、名前の下はこっちへ、と受取欄を指し、私はそこを読み返してから録音を止めた。 「俺も行く。伝票、そっち先に」  青い札の鍵を取って出る。上着は椅子に残したままだった。      *  沙帆が玄関の軒下へ三脚を開いた。  鞄を風の側へ立て、録音機を載せる。窓を閉めた作業室からより、車の音が近かった。 「車、入るよ」 「切れた所を使う」 「向こうの窓も、開いてる」 「声が入ったら、そこも避ける」  田辺さんが私の後ろへ来た。 「寒くないの」  沙帆が指を一本立てた。私たちは中へ戻り、私は伝票を片づけた。田辺さんは一覧をまだ持っている。  遠くで低い雷が鳴った。終わらないうちに、短い音が重なった。 「いまの、いいね」  言ってから沙帆を見た。彼女は動かなかった。  田辺さんが小さい袋を私へ渡す。飴が二つ入っていた。 「よく話すから。食べて」  外で、声のような音がした。車が通る間は分からなかった。行ったあと、細い所だけ残る。同じ調子が、二度あったように思った。 「受取は幸枝に。私の名前、下でいいから」  田辺さんの指が紙へ置かれた。私はその下に線を引いた。彼女の爪の横に、白い布巾の糸がついている。  いったん雨だけになった。紙へ目を戻すと、また人の声のようなものが聞こえる。言葉は分からなかった。何かが大きく擦れ、硬い音がした。少し遅れて、もう一つ。  私は廊下へ顔を向けた。 「何か入った?」 「たぶん、人。あとで聴く」  沙帆は機器のそばにしゃがんでいた。向こうの高い窓には、雨の光だけがあった。  田辺さんは私の紙へ指を置いたまま、そう、それで、と言った。      *  戻った沙帆が長い方を開いた。  寒くないの、という田辺さんの声が先に出た。飛ばさず長さを見ていた。  雷のあと、私の、いまの、いいね、がある。雨の奥で声の輪郭が二度細く上がり、そのあとは何かが擦れる音と、硬い音が二つ聞こえた。 「向こう、何か聴いてる?」  訊くと沙帆は北町を見た。 「分からない。人が入ってたら、使えない」  後ろへ送った。声がなくなると、私は言葉を探すのをやめて聴けた。 「ここから三分」  応募の方へ書き出し、長い方も別へ写す。機器とカードを鞄へ戻し、仕事のCDを私へ渡した。 「三輪さんの。最初と最後は鳴る。途中の所も変えてない」  私はヘッドホンをつけ、夫らしい人の声と、最後の戸が閉まる音を確かめた。会ったことはない。名前の字は見慣れていた。  カセットとCDを封筒へ入れる。沙帆は明日昼から来ると話し、応募は朝、家で送ると言った。 「今日も、いったん帰る?」 「七時の前に。音、まだちょっと」  どこで食べるのか訊かず、私は封筒の口を折った。  田辺さんが沙帆へも飴を渡す。素直な礼が返り、私もさっき同じように礼を言ったことを思い出した。      *  律が窓際へ来たので、届いた写真を見せた。彼女は自分の携帯を出した。 「航、戻るの?」 「戻ってくるんじゃない」  北町の戸が閉まった。木の札の鍵を航が使い、西崎さんは先で待っている。先生が出た所は見ていなかった。  航の鞄は下だけ四角く膨らんでいた。録音機の貸出の紙には、まだ返却を書く所が空いていた。 「先生、金曜いないって言ってたよ」  律が言った。 「そうなんだ」  三輪さんへ十二時までに持っていくと電話してある。私は封筒を自分の鞄へ入れた。  律は先に帰ってて、と言った。 「航さん待つの?」 「うん」  袋から落ちた飴を律が拾った。 「これ、開いてる」  受け取ってポケットへ入れた。訊かなければ、拾ってもらうまでここにいなかったかもしれない。  玄関で靴を直していると、二人が戻った。航の袖が濡れている。西崎さんがマットを踏んだ。 「明日、文の方、頼んでいい?」 「何を書くか、教えてくれたら」 「送る。澪には、まだ言わないで。形になってからにしたい」  声が少し下がった。私は頷き、傘を取った。  魚の骨は自分で取って食べていた、とここでも言わなかった。      *  焼きそばには値引きのシールがなかった。  牛乳を取りに一周しても同じだったので、そのまま買った。帰るとくらげから、今日やる、と来ていた。  始めると、くらげが先へ行く。追えば足場が落ち、待つと今度は二人とも落ちる。 「待ってって言ってるじゃん」 『ここ、止まれないの』 「先に言ってよ」 『さっき言った』 「聞こえてない」  やり直しの画面で、くらげが動かなかった。 『今日はやめる?』 「別に。やるよ」 『楽しそうじゃないけど』 「そういう日もあるでしょ」 『あるけど、私に当たらないでよ』  冗談めかした声が嫌だった。 「じゃ、やめれば」 『うん。いったんやめる』  画面へ一人で残った。  ごめん、と送って風呂へ入り、出ると、また今度、と来ていた。航からのファイルはまだなかった。  田辺さんの飴を一つ食べた。もう一つはポケットで少し溶け、包装へ貼りついていた。 第六章 声の置き場所 金曜の朝、沙帆から送った、とだけ来た。  メールを見てから、劇場のことかと訊いた。そう、と返る。昼から来る、と続いた。  お疲れ、と送って止めた。昨夜どこで食べたのかも、聞きたかった。  分室で鞄から封筒を出した。テープとCD、写真八枚、受取の控え。全部揃え、もう一度入れる。  西崎さんは北町から運んだ紙を分けていた。 「先生、今日は来られますか」 「大学の方の用事って言ってた」 「写真は、このまま返してきます」 「うん」  机には青い付箋が一枚残った。田辺さんはまだ来ていない。手帳を置いていた場所へ付箋を戻し、私は十一時前に出た。      *  三輪さんは戸を開けて待っていた。  家の中でラジオが鳴っている。来週来る姪に何を出すか考えていたと言う。 「前、椎茸、嫌いだって言われたの。母親に訊くと、家で全部食べるって。味が違うんでしょうね」  笑っていたので、私も笑った。  写真を先に取ると、ああ、寝てる、と田辺さんの所だけ寄せた。 「暑い日は、靴下から脱ぐの。お姉ちゃん」  片方だけ、足に靴下がなかった。  三輪さんがCDを出しかけた。真ん中を押すと、と私が言うと、そのぐらい分かります、と返った。 「すみません」  彼女は指で押して出した。私は控えを向ける。 「途中の違う音も、そのままです。順番も変えていません」 「分かりました」  名前を書いて紙を戻す。 「広くなったね」 「書き直しました」 「ありがとうございます」  広報の記事は取りやめることにしたと言う。直した文も見せると言われたが、載らない方がよいと自分で返事をした。  私は大学の映像も止める連絡を始めたことを伝えた。三輪さんは封筒を棚へ置き、写真だけ持った。 「灯さん、お昼は」 「戻ってからです」 「そう。じゃあ、ありがとうございました」  上がるようには言われなかった。私は門を出て、受取の控えを確かめた。三輪幸枝、大きな字の下に小さい日付があった。      *  戻ると、航が私の椅子へ座っていた。  上着を脱いだばかりで、立ったあとの椅子が温かかった。 「先に形、見てほしかった」  訂正のお知らせ。三輪さんの発言の前後が落ちたこと、澪さんの申し出が適切に扱われなかったこと。下には先生がこの訂正を了承した、とある。 「昨日、全部読んでもらえた?」 「文はまだ、直すけど」  私が読み直す間、航は鞄を閉じた。昨日の空欄は埋まっていた。先生の署名はなかった。 「私の名前、入れる?」 「入れたい?」 「字幕を、私が」 「一人のせいにする文じゃないから」  ほっとした自分が嫌になった。私は手をその行へ置いた。  西崎さんが机から見た。 「宮原、もとの申し出の紙、こっちに残ってる?」 「昨日、印刷したのを航さんへ」 「北町の原本は」 「先生がご覧になっていた方は、向こうだと」  航が、こっちにある、と鞄へ手を出した。 「原本?」  私が訊くと手が止まった。  西崎さんが青い札の鍵を取る。 「確認する。先生の控えも混ぜてないか」  上着を取らずに出た。航は鞄を開けなかった。  律が来て、颯太のやつ返した、と訊いた。航が今から、と答える。 「それ、大学のだよね」 「分かってる」  律はどかず、私の机の文を読んだ。航は姉の方だからと言って、紙を裏へ返しかけた。  私は三輪さんの返却欄へ印をつけた。これで全部だった。      *  西崎さんが戻らないので電話をした。  呼び出しが続き、宮原、と声が出た。 「原本、ありました?」  向こうで物が倒れた。机か椅子のような音だった。 「来て。北町」 「先生の所ですか」 「先生が倒れてる。いま救急、呼ぶ」  立った椅子が律へ当たりかけた。西崎さんに呼ばれたと言って外へ出る。横断歩道へ回る所で、携帯を持つ手を替えた。  北町の戸は開いていた。  西崎さんは棚の前にいた。私が入ると奥を見る。 「先生が」  電気のついていない机と流しの間に、靴の先が見えた。  回ると、先生が横向きに倒れていた。白いシャツの背中の方が暗く、床へ色が広がっている。顔は椅子の下へ半分入っていた。  机の脚のそばに包丁が落ちていた。黒い柄がこちらを向いている。 「そこ、踏まないで」  西崎さんは携帯へ、刃物が床にあり、触っていない、と答えた。私も避けてしゃがむ。 「先生」  返事はなかった。肩へ触ると冷たかった。  電話が床へ置かれた。人の声が大きく出る。 「来ました。手伝ってくれる人」  西崎さんが答えた。私は自分の携帯をしまった。  声に言われた通り呼吸を見る。服も背中も動かない。分からないです、と言うと、また指示が来た。  身体を仰向けにする。西崎さんが肩を戻し、私は背中へ手をかけた。引かれた椅子が脇へ当たり、彼がどけた。  机の端へ手をつきかけると、線が腕へ触れた。何にもつながっていない先が、垂れている。私は手を戻した。  先生の胸へ手を重ねる。押すと、思ったより硬かった。 「できてるか、分からないです」  電話の声は続けるように言った。先生の顔を見ずに押した。  西崎さんが外へ人を呼びに出た。航が入り、私の横へ来る。 「交代できる?」 「うん」  同じ場所へ手を重ねた。私は代わってもらったことを伝えた。  律の声が外でした。救急車へここを知らせるよう、西崎さんが頼んでいた。  机の角には、昨日渡した原票があった。名前のある所が上を向いている。床にも落ちた紙があり、どれが澪さんの分か、見分けなかった。  航の息の音が近くなり、私は胸へ目を戻した。数えようとして数字が飛んだ。      *  救急の人が来ると棚の前へ下がった。  西崎さんへ携帯を返す。自分の方には、彼へかけた履歴が残っていた。  警察の人も来た。名前を答え、こちらへ来たのは今、西崎さんに呼ばれて、と話した。 「昨日、先生と話したんです。電話で」  十六時十八分を見せると、あとで伺います、と言われた。  あとでになる前に何か言わなければと思って、昨日の机の角を見た。  録音機のあった所が空いている。スピーカーの細い線だけ残っていた。 「航さん。録音機」  航が鞄へ手を載せた。 「俺が持ってる」  警察の人がそちらへ向いた。航はすぐには開けなかった。 第七章 返す人 先に出てきたのは紙だった。  航が鞄の口へ手を入れ、上の方を取り出す。警察の人が、機器の方からお願いします、と言った。 「大学のです。昨日、久住颯太から」  紐が鞄の金具へ引っかかった。律が手を出しかけ、航は自分で外した。  電源は入れないでと言われ、入れてないです、と少し強く答えた。  私たちは北町を出た。戸口に人がいて、先生は見えなかった。 「颯太、呼ぶ」  律が携帯を出した。 「律」 「大学の物でしょ」  航は紙を脇へ抱えた。角が折れていて、親指で押し戻している。  私は分室の窓を見た。私たちが飛び出してから、開いたままだった。      *  瀬川さんは髪を後ろへ結び、首に細い紐を掛けていた。警察手帳の字より、顔の写真を先に見た。 「ここで、少しお話できますか」  分室の玄関の脇だった。私は、先生、病院へ、と言いかけた。 「確認しています。いらした所から、順に」  西崎さんが原本を確認しに行った。戻らないので電話した。倒れていると言われて来た。  身体を動かした所で、誰が先に手を出したのか分からなくなった。 「肩を西崎さんが。私、背中を」  自分へ触れながら話すと、最初に見た位置を訊かれた。横向きで、顔が椅子の下へ入っていた。椅子は邪魔で、西崎さんがどけた。 「床の刃物は」 「黒い柄の包丁です。触っていません」 「こちらの仕事で、刃物を使うことはありますか」 「カッターなら、箱を開ける時に。包丁は、私、ここでは使ってないです」  持ってきた人を見たか訊かれた。木曜もほかの日も、私は見ていなかった。  先生の傷を訊きたかったが、服の暗い所を思い出し、声にできなかった。 「昨日、先生と電話したんです」  履歴を出そうとして沙帆の連絡を開いた。分室いる、入口何、と二つ来ていた。  戻して十六時十八分を見せる。一覧を刷り直し、二枚になったと先生が読んだことを伝えた。  瀬川さんは送ったファイルも見たいと言った。      *  沙帆が玄関へ来た。 「何があったの」 「先生が倒れてて。西崎さんに呼ばれて」  私は瀬川さんの次の質問を待ってしまった。沙帆は北町を見て、口を開けたまま閉じた。  今の話を先にと言われ、脇へ離れる。鞄からヘッドホンが下がっていた。  木曜の雨を録ったのは彼女だと、私は瀬川さんへ言った。 「軒下で。応募の音を」 「長い方も残っていますか」  沙帆に訊くと、残ってる、と答えた。家で写した控えと、機器のカードにある。  瀬川さんは後で直接話したいと頼んだ。沙帆は頷き、応募へ出したのは声の入っていない三分だと先に言った。  田辺さんが一緒にいたことも話した。外の声のような音がした間、私の一覧へ指を置いていた。 「先生が何か言ったと思いましたか」  瀬川さんが訊いた。 「言葉は分からなかったです。向こうの窓が、開いていたので」  窓から人は見えなかったことも話した。田辺さんの近い声と、遠い方の音は、同じ所には聞こえなかった。      *  久住くんが来た。機器より先に航へ何か言うかと思ったが、後ろに番号があります、と警察の人へ示した。  貸出の紙を大学の人と取りに行く。私の机には三輪さんの控えが載り、返却欄にも全部の印があった。  戻ると、いつ止めたかを航が答えていた。 「北町へ戻った時に。夜、家へコピーしました」 「北町で聴き直した分も話せ」  西崎さんが言った。大学の人と話していた所から来ている。 「夜だけじゃないだろ」  航が口を閉じた。警察の人が、西崎さんにも別に伺います、と言う。 「北町の、スピーカーにつないで。先生の言った所を聴きました」  私は机へ残った線を思い出した。  久住くんが、返す前に消していませんね、と訊く。コピーしたけど本体は、と航が答え、途中で止まった。 「カードもパソコンも、操作した分を確認します。どこへ写したかも教えてください」  警察の人が言った。  西崎さんが別の方へ呼ばれた。私は、北町で何を聴いたかの返事を全て聞ける所にはいなかった。  律が水を買うと言った。 「俺はいい」 「私が飲むの」  航が、じゃあ、と答えた。律は返事をせず出ていった。      *  瀬川さんへ木曜の続きを話した。  三時二十二分に、先生の机へ録音機を置いた。航と一緒に分室へ戻ったのは四時前で、私が先生へ電話した後、田辺さんが戻った。それから航がまた行った。  携帯の写真を見せる。本人へ返す、の字と、先生は帰った、の文。 「先生が書いている所を見ました?」 「いいえ。写真だけです」 「先生が出た所は?」 「見てません。航さんと西崎さんが出た所は」  二人の話しかしていないことに、答えてから気づいた。  田辺さんの案内に、名前の下の線があったことも伝えた。先生に大きくした方がいいと言われた、と彼女が話した。 「木曜に持ち帰った紙ですね。ほかにも見た所はありますか」  私は二枚の内側が同じ形に切れていたことと、赤黒い所を話した。先生に取られたので返してもらった、と田辺さんが言ったことも。 「戻って手を洗って、その紙を見せました。航さんが出る前です。西崎さんは、私と送り状を」  先生と電話した時から、送り状を合わせ、田辺さんが戻るまでを指でなぞった。  瀬川さんが写真を開いた。十四へ直した紙の頭が、十三の一覧の下から出ていた。 「下の紙も、木曜に見ました?」 「数字だけ。先生が、二枚になったのかって言ってたから、あの後に刷ってくれたのかと」  それも写真に写っていた範囲だった。先生自身は、どこにもいない。机の下も写っていない。 「帰ったと、文にあるので」  言ってから、その文も航が打ったことに気づいた。 「これが届いた時、西崎さんは」 「私の隣でした。機械の紙を出してて。電話の途中で」  瀬川さんは写真を戻さず、私がそれを受け取る前の作業を聞いた。私は、先生が帰ったという文をもう一度読んだ。      *  夕方、田辺さんが来た。  北町へ行こうとして止められ、分室へ回ったのだった。私を見つけると先生は、と訊いた。  救急の人が、としか言えなかった。  沙帆が鞄を持つと、田辺さんが強く引いた。二人で同じ取っ手を持つ。沙帆が離し、少し寄った。  瀬川さんが名乗る。田辺さんは妹のことで、と始めた。 「先生、亡くなったんですか」  瀬川さんが、真壁さんは亡くなっています、と答えた。  いやだわ、と田辺さんが言った。もう一度、同じ声だった。 「幸枝にも連絡しなきゃ。先生へ言うこと、まだあるのに」  私は案内の名前の線を思い出した。直してまた見せればいいはずだった。次がなくなったことを、いま私も聞いた。  木曜に持っていた物を確認したいと、瀬川さんが言った。布袋、手帳、案内も。田辺さんはまだ家にあると答えた。 「手を切ったんですか。木曜に」 「私のじゃないの。紙、取った時に」  田辺さんが右の手を出した。指の間が少し白かった。 「包丁は」  別の警察の人が言うのが聞こえた。私は顔を上げた。田辺さんの返事までは聞こえなかった。部屋へ案内されていく。  私の携帯が鳴った。母から、今日帰るのか、と来ている。  いつもなら帰ると打つ。押した胸の硬さが手に戻り、どこへ帰るのか分からなくなった。  廊下で田辺さんの携帯も鳴った。彼女は足を止め、すぐには取らなかった。 第八章 帰らない夜 今日はアパートへ帰る、と母へ送ると、電話が来た。  仕事が終わらない、と答えた。何の仕事かは訊かれなかった。 『明日は?』 「まだ分かんない」 『じゃ、筍のやつ、冷凍するよ。食べるって言ったから煮たのに』  ごめんと答えると、そんなことで謝らなくても、と笑った。私はもう切るねと言った。まだ何か言いかけていた。  沙帆が隣にいた。何も訊かず、分室の入口へ戻った。      *  北町へは入らないように言われた。  自分の鞄は分室の椅子へ寄せられていた。誰が動かしたか訊かず、机の紙を揃えた。  三輪さんの受取控え、返却を終えた一覧、その下に航の案。了承の行を読んでから、三輪さんの分だけ取る。  沙帆が線を巻いていた。 「持って帰っていいの?」 「私の。訊いた」 「雨も?」 「コピー、家にある。カードは明日、話す時に持ってく」  最後を留めると、机の下を覗いた。 「片方ない」 「何が」 「裾のやつ」  自転車の裾留めを一つ指へ巻いている。私もしゃがんだ。ペンの蓋が見つかり、違うと言われる。椅子を引くと、紐が脚に絡まっていた。  沙帆が膝をついて取り、立つ時に私の頭へ肘を当てた。 「ごめん」 「大丈夫」  触っているともう一度謝った。私が笑ったら変な音が出た。 「ほんと、大丈夫だから」  沙帆の手が近づき、鞄へ戻った。  外で航の声がした。初めから全部は聴いていないので、と答えていた。木曜に先生が何を言ったか、まだ本人も知らない所があった。 「応募、返事来た?」 「受付だけ」 「そっか」  聞きたかったはずなのに、その先を言えなかった。      *  律は水を二本持って外にいた。  航はまだ話しているという。家のパソコンも確かめてもらうので、待っている。 「先、帰ってって言われた」 「帰らないの?」 「灯は?」  帰っていいと言われた、と答えると律は頷いた。自分がどうするかは言わない。 「私の所、来る?」  口にしてから布団を干していないことを思い出した。 「今日じゃなくても。航さんと話すなら」 「ありがとう。今日は待つ」  水の一本を取り、律は蓋を開けた。私が背を向ける前に一口飲む。  沙帆が自転車を押してきた。駅まで一緒に行くことになった。  律は立ったままで、私は鞄の紐を肩へ戻した。      *  道が狭く、前から来る人を避けて車道へ片足を出した。沙帆がハンドルを引く。車が行くまで二人で止まった。 「今日、食べた?」  昼を考えた。三輪さんの所から戻り、航の紙を読んだ。そのあとは先生のそばへ行った。 「まだ」 「何か食べてく?」  駅の手前にパン屋があった。沙帆は昼を食べた、まだ働くつもりだったから、と言った。  丸いパンの名前を読む。芋、甘いの、と教えてくれたので、それを取った。  席が二つ空いていた。沙帆は牛乳だけ買い、鞄を膝へ置いた。  パンは温かくなかった。指で押すとつぶれた。 「先生、分かるかな」  沙帆が顔を上げた。 「私、ちゃんとできたのか。先生に」  胸を押した所を言えなかった。 「硬くて。骨、折れたらって」  パンを置く。沙帆は牛乳の蓋へ手を置いたまま聞いていた。 「電話の人、続けてって言ったんでしょ」 「うん」 「じゃあ……」  途中でやめて、蓋を取る。飲んでから私の皿を見た。 「残ったら袋もらおう。食べられる時、食べれば」  私はパンをまた持った。潰れた跡がそのままだった。 「昨日、食べた?」 「何」 「澪さんと。応募の音、見せたんだよね」 「聴いてもらった。何回も。気づいたら店、閉まりそうで」 「何、食べた?」 「カレー。服についた。帰って洗った」  今日は別の服だった。私は袖を見た。  沙帆の携帯が鳴る。彼女は私の皿へ画面を向けた。 「澪さん。明日のご飯、いったんなしにして、って」 「うん」 「三人の方にも送る」  彼女が打つと、私の携帯も鳴った。土曜の十二時半は、またにしよう。私は読んで、分かった、と返した。  沙帆は牛乳を飲んだ。私のパンが袋へ戻りかけていた。 「昨日は、私、荷物待ってたから」 「うん。木曜は帰るって言ってた」 「分かってるんだけど」  少し強くなった。沙帆は顔を上げた。 「でも昨日も、行きたかった」 「そっか」 「うん」  私はパンを口へ入れた。急に甘く、飲み込むまで何も言えなかった。 「次、訊くよ」 「私から、訊く」 「うん」  残りを袋へ入れた。外はまだ明るかった。      *  石川町の駅で別れた。沙帆は右裾に二つとも巻き、ギアがこっちだけだから、と言った。  電車を待ちながら鞄へ手を入れると、控えの角が当たった。朝はこれで仕事が終わるはずだった。  暗い所を通ると窓に自分が映った。髪の後ろが乱れている。肘の当たった所を触った。  部屋で靴を脱ぎ、明かりをつけ忘れた。冷蔵庫に牛乳がある。昨日買った物だった。  湯を出して止めた。服を脱がず、椅子へ座る。  航から、明日文の続き相談していい、と来た。  先生は、と打ち、消した。まだ出してないよ、と返す。  分かってる。だから明日。  すぐ電話になった。 「灯。今日、悪かった」  向こうで律の声がした。何と言ったかは分からない。 「先生のことも、ちゃんと」 「ちゃんと、何?」  返事が遅れた。 「北町で聴いた方のこと。警察に話した。要さんにも、そこは言ってほしくて」 「録音、私に返す方じゃないよね」 「文の話。先生が姉に返すって言った所、灯もいたじゃん」  私は服の袖を引いた。先生は返すと言った。文を読んだわけではないとも言った。 「その後、何て言ったの」  航が黙る。私は返事を待った。 「先生、俺が戻った時、倒れてた」  椅子の背へ掛けたタオルが、近すぎる気がした。 「木曜?」 「うん」 「どうして、先生は帰ったって」 「そこも、話した。俺が悪かった」 「私には言ってない」  向こうの律の声がなくなった。 「先生、いつも椅子、あそこに引いてたじゃん」 「木曜のこと、話して」 「引こうとした。顔、隠れてて。脚が先生の袖に掛かってて、動かすと、腕まで」  向こうで何かが擦れた。律が、航、と言った。 「呼んだ?」 「先生って。返事、なくて」 「救急を」 「番号、開いた。まだ、かけてない」 「かけてないって、木曜でしょう」  航の息が途切れた。 「うん。その時。自分の手、赤くなってて。画面へ触るの、嫌で、袖で」  私は胸を支えた時の自分の手を見た。爪の間はもう洗っていた。 「要さんにかけた。先に呼べって言われた」 「じゃ、呼べたじゃん」 「紙が、先生の下へ入ってた。姉ちゃんの名前、そこだけ見えて」 「先生が倒れてるのに?」 「引いた。破れそうで。先生を起こして、取ればって。起こせなくて」  電話の向こうで、律がもう一度彼を呼んだ。 「灯には、帰ったって送った。紙だけ撮れば、下、写らないから」  私は机の端で切れた写真を思い出した。了解、と送った画面も。 「私から、了解って来たよね」 「うん」  うん、を聞く前までは、違うことを言ってほしかった。 「その後、先生の声、鳴らしたの?」  航は答えなかった。向こうで律が、座って、と言った。航の息が少し遠くなった。 「木曜の方、明日、聴いて。要さんが何を見たかも、別にして」 「自分で訊いて」  言い方を直せなかった。航は訊く、と答えた。 「灯にも、いてもらいたいんだけど」 「警察から、明日電話あるから」 「俺も」  あとでね、と切れた。私はタオルを持ち上げ、また掛けた。  くらげの、また今度、へ何か送りたかった。沙帆へ駅着いた、と訊いてしまい、自転車で帰ることを思い出した。  訂正文のファイルは、その夜も来なかった。 第九章 名前を書くところ 土曜の朝、瀬川さんから電話があった。  木曜に聞いた先生の返事と、昨日の続き。十時に署へ行くことになった。  服を替え、昨日の方を洗濯する袋へ入れかけた。身体を支えた時のことをまた訊かれるかもしれない。出して畳み、椅子へ置いた。  窓から隣の建物が見える部屋だった。私は座る前に先生のことを訊いた。 「胸に、刃物による傷が一か所ありました。出血が亡くなった原因と分かっています」 「私が押した所ですか」  瀬川さんが最初に見た姿勢へ話を戻した。身体を動かす前の服、床、椅子と刃物の位置。  私は横向きの背中の方しか見なかった。呼吸を見てと言われ、そのあと仰向けにした。胸の前をどこまで確かめたかは思い出せない。  手を重ねた場所を示した。昨日と同じつもりだった。 「田辺さんの紙、赤い所がありました。戻った時に」 「預かった物を確認しています」 「手を洗ってたんです。汚したって。先生に取られた紙を返してもらったからって」  田辺さんが包丁を触ったのだと思いたくなかった。先生は木曜、北町から戻った時に指へ絆創膏をしていた。案内の端を汚したと、田辺さんへも言っていた。  木曜の赤い所を見ただけでは、いつついたものか分からない。私はその絆創膏と、二枚を一緒に手帳へ入れた所も話した。  先生の包丁を流しへ運んだ手を覚えていた。りんごを切る物だった。 「昼、紙の端には小さい点がありました。夕方は、真ん中の方が切れてて。二枚、同じ所です」  指で空中へ示すと、瀬川さんが昼と夕方を別に書いた。私はもう一度、昼の紙を見た時を訊かれた。 「木曜に蒼井さんが戻った時も、先生が倒れていたと聞きましたか」 「昨夜、本人からです」  帰ったと送ったのが嘘だったことも話した。 「木曜、自分の手に血がついたって。先生の下の紙を取ったとも」 「宮原さんが、その場で見たのではないですね」 「電話で。昨夜、航さんが」  昨日まで信じていた写真へ目を戻した。今度も航が言ったことだった。  身体を触ったか、机の物を動かしたか、何を持ち出したか。私が金曜に見た物が、木曜も同じ位置だったとは限らない。 「木曜には、救急は」 「その時は呼んでいないと、二人とも話しています」  私は鞄へ手を置いた。航の、紙を先に取った、を思い出す。      *  先生の話として出された音は二つだった。操作を試した久住くんの短い音は、先に確かめたという。  初めの方で、航が三時二十二分と言う。私もいて、写真を先に返す話をした。原本を本人へ戻すことと、訂正文への署名は違った。  田辺さんとの分を別にするから、と私たちが立ち、止めようという先生の声で終わる。 「私、ここまでいました。この後は、分室へ」 「十六時十八分の電話の時は?」 「先生でした。二枚になったのか、八枚目ね、って」  その通話は機器に入っていなかった。履歴と送った一覧を出した。私が先生の声へ直接返事をしたのは、そこまでだった。  次の音が始まった。  雨が強かった。椅子の脚が一度鳴り、航が名前と、木曜、北町、と言った。 『見本も、使用しない。その範囲も、入れて』 『本人が、見本も使わない、と言ったら、そこまで戻そう。名前を消したらいいという話じゃない』 『原本は返す。訂正も出す。ここでいいですよね』 『そこは、そうだよ』  湯飲みが机へ触れた。小さい音が二つ、そのあとで一つ。  小さい二つの音の間に、覚えのある空きがあった。木曜の昼、航が去年の音を戻した時も、私は三度目を待った。 『先生、署名、ここだけ』 『でも、私が聴いたってだけで、署名までしたことになるのかな』 『確認した人として、ここに』 『何を確認したか、君の文へ収まらないよ。ちょっと、手を離して』  机が擦れた。椅子がまた一度鳴り、そこで終わった。 「前に聴きました。先生の所、同じだと思います」  瀬川さんの手が止まった。 「いつ、どちらで?」 「木曜の昼。分室で、航さんの携帯から。去年の説明って」  航の返事は違った。去年は署名じゃないと言い、今は確認した人としてと言う。同じ会話ではないのに、湯飲みと机の音は同じ所を通る。 「去年の声を、木曜に鳴らしたんじゃないですか」 「その元の音も確認します。宮原さんが覚えているのは、先生の発話ですか。それとも、物音も?」 「両方です。先生は最後、録音機がまだ止まってないって。木曜の昼は、そこまで聴きました」  ここにはその声がなかった。  元の音なら何があったか分かる、という言葉を、私は自分で何度も使っていた。元の機器で録った音にも、もう一つの元が入れられる。 「でも、澪さんの言った所は木曜です。私が送った後だから」  自分へ言うように続けた。全部が古いわけではなかった。録音を止めずに、去年の声へ今の航が返事したのだとしたら、雨も入る。先生が倒れていても。 「航さんが殺したことには、ならないですよね」  早くそう言ってほしかった。  瀬川さんは録音の画面を閉じず、先生と直接電話で話した時からを、もう一度頼んだ。  私は十六時十八分の下へ田辺さんの帰着を書いた。切れた案内を出したのは航が再び行く前だった。西崎さんは隣で送り状を数えていた。  瀬川さんが写真を戻してくれた。私は十三の下の紙を見る。先生は電話で、新しい方が二枚になったと言った。手帳にはその時の言葉があった。  紙の頭だけで、そこにいた人の代わりにはならない。 「航さんが持ち帰った紙、先生の机へ残した物もあるんですよね」 「持ち出した物と合わせて確かめています」 「田辺さんの紙だけなら、先に切った指の血かもしれません。航さんが入った時の方を、私は見てません」  瀬川さんが、写真のどこを木曜に読んだか訊いた。私は字の所へ指を置いた。あった、と書かれたから、返す紙の写真だと思った。  先生が手を切っただけならいい。航の声に返事していたならいい。どちらも私が欲しい方の話だった。 「この音を、木曜の生きていた先生の声として聞いた人がほかにもいます。律も。仕事先も」  瀬川さんは名前と連絡先を訊いた。私は知っている方から話した。      *  署を出ると昼前だった。  駅まで歩き、航へ電話した。呼び出しが鳴るごとに切ろうと思った。 「灯?」 「木曜に、呼ばなかったんだってね」  駐車場の端へ寄る。道路の音が減った。 「昨日、私、先生の胸を押したんだよ」 「俺も代わった」  そうだった。目の前で代わってくれた。それが嫌だった。 「先生の声、去年の方を鳴らしたんじゃないの」  航の息がすぐ近くへ来た。 「聴いたの」 「木曜、北町、って言った方。去年の湯飲みと机の音、同じだよ」 「全部?」 「二つとも」  私が答えてから、航はしばらく喋らなかった。 「戻ったら倒れてたんだよ。要さんにも言った」 「何を鳴らしたのか訊いてる。先生が今返事したんじゃないなら、律にも言って」 「姉ちゃんへ、原本だけでも返せたらって」 「紙を取って、それからは?」 「要さんに来てもらって。話の所を」 「それ、救急じゃないよね」 「うん」  私は返事を探さなかった。 「返せば、それだけは終わると思った」 「先生は、どうなると思ったの」  返事がなかった。 「先生の机から取った物、返す。今日、書く」 「先生は、戻らないよ」  自分の声が耳へ返った。航の息だけが続いた。 「聴いた方、出して。去年のと、木曜のと。私が間違ってたら、そう言えるように」 「警察へは出した」 「私にも、比べさせて」  航が黙った。今日会う、とだけ答えた。  私はあとで、と言った。切った携帯が熱かった。      *  午後、西崎さんのいる分室へ行った。  北町には人がいた。入る方へ行かず、横断歩道を渡る。  西崎さんは自分の本を袋へ入れていた。上着は椅子に残り、直した袖の糸が少し余っている。 「金曜、どうして私を呼んだんですか」 「電話が来たから」 「私がしました。原本あるかって」  手が止まった。 「一人じゃ、できないから」  紙を機械から取る。温かかった。 「木曜にも、誰か呼べば」 「うん」 「航さんが電話して、来る前に紙を取ったって」 「聞いたんだ」 「昨日」  私は紙を机へ置いた。 「呼べって言ったよ。電話では」 「じゃ、行った時には」 「もう呼んでると思ってた。呼んでなかった」  袋の中へ入れた本を、また取った。角が袋の縫い目へ引っかかり、二度引いた。 「先生の顔、見ました?」 「航に、離れろって言った。手、胸の所へ出してたから」 「何をしてたんですか」 「紙、取ろうとしてた。上じゃなくて、先生の下の。俺、肩へ触った」  彼は本を両手で持ったまま、机の向こうへ置こうとした。袋が間にあった。 「それで」 「先生って呼んだ。近くで。ずっと、目、開いたままで」  私は金曜の先生の顔を思い出した。自分が押す間は見られなかった。 「電話は」 「航の、机にあった。俺の方、持ってたよ」  左の掌が上を向いた。携帯はそこになかった。 「なのに、何を返すか決めたんですか」 「紙、全部持って帰るなって。先生の分と、俺の分も。どれが何の原本か、航、混ぜてたから」 「先生を、そこへ置いたまま?」 「うん」  袋を脇へ下ろし、本を机に置いた。背には彼の名前があった。 「音、借りた。研究の方へ出す文も、先生、読んでくれてないから」 「私たちが聞いたの、先生の返事じゃなかったんですね」  西崎さんは携帯を出した。私はその手から目を離さなかった。 「木曜も、それ、持ってたんですよね」 「持ってた」  画面の灯りがついた。彼はまだ何も押していなかった。 「手、離せって言ったんだ。俺が。航へ」  西崎さんの指が、自分の携帯から離れた。 「離させて、そのあと?」 「先生の方へは、出さなかった。俺も」  私は昨日の交代の手を見るつもりで、彼の掌を見た。 「今度、ちゃんと分けて出すから」  彼は机の電話へ手を出した。大学へかけ、今週送った所見をいったん引き下げると言った。受話器を戻すと、机の本を袋へ入れ直そうとした。底へ横に置くと口が閉まらない。私は空箱を持って来るため保管室へ入った。  箱を机へ戻すと、久住くんが来た。大学へ返す道具を数え、小部屋の床へ袋を置いた。西崎さんは紺のシャツを出した。靴下も一緒だった。 「服も、上へ入れて送るから」 「洗った方ですか」 「うん。月曜、運ぶ時に使う。研究室、もう置けないって。いったんここへ」  袋へ戻し、本の箱の上を少し空けた。久住くんが蓋を押すと、片方だけ閉まらない。 「ベルト、これ使ってください。本の上なら、服は袋、別に」  黄色いベルトが渡った。私は自分の靴下を思い出した。乾かす前にしまわないで、と母から来た方へ、まだ返事をしていなかった。  玄関が鳴った。  航が薄いファイルを持って入った。 「変えた。先生の了承の所、確認中にする」  机へ載せた。私は読まなかった。 「その前。録音するまで、何をしたの」  航の手がファイルの上へ戻った。 「紙、取った。先生の方へ残すのと」 「そこは聞いた。先生、いたんでしょう」  彼は左の指を自分の掌へ当てた。何かを取ろうとしているように見えた。 「袖、ここへ入った。拭いても、取れなくて」 「どの袖」 「俺の。洗って、いまも、取れてない」  西崎さんが顔を上げた。航はそちらへ向かなかった。 「姉ちゃんの紙、取ったら、その下も出てきた。要さん、これは持っていくなって。俺、一枚ずつ、どれか、訊いた」 「それを先にしたんだ」 「先生の顔、見てられなかった。机の上なら、できたから」  私はファイルの端へ手を出しかけた。机の下に人がいると知った写真を、また思い出した。 「携帯、充電なくて?」 「違う。音、残ってた。去年の。先生が返すって言ったの、ここへ入れたらって」 「ここって」  航は先生の了承と印刷された所を押さえた。 「やってみたら、先生の声、出た。大きく。止めた。窓、開いてるから」  西崎さんは流しの方を見た。いま分室の窓は閉まっていた。 「また鳴らしたの?」 「頭から。俺の方、言い直して。その間、先生の方、見なかった」 「ずっと、返事、待たなかったんだね」  航は指を紙から離した。 「いま、待ってもらう所じゃないの、分かってる」  先生の了承を確認中とした一行の下へ、まだ何も書かれていなかった。 「私が直す方にしないで。澪さんにも、それを見せて」 「要さんにも先に」 「先に送っていいか、ご本人に訊く」  携帯を出すと、航は西崎さんを見た。 「要さんの研究用の方、音、同じ名前で出した?」 「継続の方には、出した」 「先生が今度の原稿を見たって?」 「直す。今、その連絡をしてたんだよ」 「前に、送った分も?」 「その『事務担当に呼ばれて』って、俺のことだろ」  西崎さんが航の文を引いた。航は片方の端を押さえた。 「俺が一人で決めた文じゃない。電話も来たし、要さんにも」 「呼ばれたことにして、後から来た人にするなよ」  航が紙を戻そうとすると、彼は手を離さなかった。 「自分で出す。お前の方に、このまま書くな」 「仕事の方にも、出した」 「澪さんの声?」 「先生が了承したって。木曜に。見本はもう引き上げろって来てる」  航は署名のない所を指で押した。 「姉ちゃん、直接連絡してた」  澪さんへ、いま話せるか、と送った。すぐ電話が来たので、航にも渡した。 「古いのも」  航が言うと、向こうの声が大きくなった。 「はい。前のも、です」  机へ携帯を戻した。航は二枚とも袋へ入れず、机へ残した。西崎さんは、先生の所見を取り下げたと職員へ伝える。窓の方で短く話し、その間に航が澪さんの印刷店の番号を手帳へ写した。  航は自分の紙の『事務担当』を消しかけた。ペンを置き、消さずに持ち上げた。      *  待つ間、保管室の箱を出した。  高い床へ上がる前に靴を脱ぐ。奥の棚の下へしゃがみ、畳んだ箱を引く。  角が戸の内側の棒へ当たった。上の釘から外れ、左側が下へ落ちた。  久住くんが入口へ来た。大学へ返す道具を確認する用事だった。 「上へ戻してください。下がってると戸が閉まらないので」  棒を持ち上げて掛け直した。久住くんは箱の通り道を携帯で撮り、月曜にも台車が要ると職員へ送った。  戸の下は木で、向こうの人の足は見えない。大きい箱を持つ時には、声を掛けないとぶつかる。  箱を抱えて降りる時、底を受け取ってくれた。  作業室の机には紙とペンが残っていた。二人とも、そこから書き始めた様子はなかった。 第十章 六時まで 箱を机の脇へ下ろした。  新聞紙と、底へ敷かれたタオルが残っていた。タオルを持ち上げると一円がある。航が何円、と覗いた。 「一円」 「一円か」  端へ置くと、彼は紙へ戻った。  西崎さんの携帯が鳴った。大学の人へ、北町の物は動かしていない、ここにある分だけ、と答えた。流しの横の小部屋へ入る。戸は閉まらず、航がペンを持って後ろへ行った。  はい、が何度か聞こえ、航は電話の終わるのを待っていた。  澪さんから、少しなら、と来た。  廊下で電話をかけると、洗濯機が止まる音がした。 『今、脱水。三分ぐらいなら』 「航さんの書いた方、送っていいですか」 『うん。読むのは後で。靴下が一枚、またない』  写真で送った。澪さんは受け取ったとだけ言い、別のことを訊いた。 『先生へ預けた控え、残ってる?』 「西崎さんへ渡した日のですか」 『そう。電話でまた説明するの疲れたから。見つかったら、そっちも』  机へ戻って探そうとすると、今はいい、と止められた。 『灯さん、今日、何時に食べるの』 「まだ決めてなくて」 『沙帆さん、麺を買って来たよ。あなたの分もある。仕事の電話だけにしないで、来るなら来るって言って』  航が小部屋の前でこちらを見ていた。私は携帯を口から少し離した。 「私、行きます。夕方」 『じゃ、閉めてもいる。紙、私が読むまで大学へ出さないでね。まだ中身、見てないんだから』  切ると航がどうだった、と訊いた。 「洗濯してた。私、沙帆の音、聴きに行く」 「俺の方は」 「届いた。読むのは後だって。控えも要るって」  航は机の紙を裏へ返した。私は沙帆へ、麺も食べたい、と送った。      *  律が来たのは四時過ぎだった。  大きな紙袋に、封筒と透明な写真袋が入っている。自分の写真を大学へ送る箱に混ぜたくないという。 「帰る時間、決めた?」 「もう少し。俺も片づける」 「何時」 「六時」  律が携帯を見る。久住くんがもう一度来て棚を見たいと言っていた。 「灯もいる?」 「澪さんに説明する方、まだ」 「じゃ、お茶買ってくる」 「私が行く」  航が俺行こうか、と言った。律は封筒を広げ、六時までに終わって、と返した。  私は外へ出た。北町の入口に人がいる。目が合い、手を上げかけて下ろした。  お茶を買った帰りに、田辺さんへ会った。  缶を両手で抱え、肩の袋を掛け直している。 「皆、まだ?」 「律と航さん、西崎さんが」 「よかった。これ、重いの」  缶へ手を出すと、袋お願い、と言われた。お茶を左へまとめ、肩の袋を受け取った。 「秋、大学から返事は」 「今は待ってって。先生がいなくなると、何を待つのか分からないわ」  抱え直した缶が、胸の所で鳴った。 「幸枝へ話すの、私に残った所もあるの。家で預かってた物、探したから」  袋は返却の書類より重かった。私は持ち替え、彼女の後ろを歩いた。      *  缶を開けると、菓子は入っていなかった。  領収書、手紙、折られたメモ。その下からCDのケースが出た。 「幸枝にも、これを聴いてもらおうと思って」  二年前の秋の日付が書かれていた。 「先生と話した音。私も返してって言ったのよ」 「妹さん、聴きたいと?」 「私から言った。今夜、持っていくからって。大学に渡す前に、何を出すか知らせないとね」  西崎さんが小部屋から出た。田辺さんはケースを私へ向けた。 「灯ちゃん、妹の方を作ったでしょう。私も止めた所があるの」  ノートパソコンへディスクを読む機器をつないだ。誰から受け取ったかを書く紙を取る。田辺依子。ケースの日付も写し、音声の録音日という欄へ入れた。  紙の音がした。後ろで車の音が一度強くなる。 『幸枝には私から話します』 『何を話すの』  私は手を止めた。家で聞いた声と同じ話し方だった。  原票を返してほしいと田辺さんが言う。先生は、名前も出る、と答える。私のはいいんです、本人に聞いたって君が言ったんだろう。  紙が動き、次のやり取りの途中で音が終わった。 「これ、去年の方も入ってるんだな」  西崎さんが画面を指した。 「木曜に、もう一度聴いた所じゃないですか」  西崎さんが言った。  田辺さんは私の紙へ眼鏡を寄せた。 「でも、返してって言ったのは私でしょう。妹には私からって」 「はい」 「そこは、その通りだから」  航が、俺が渡しました、と言った。  律が彼を見る。 「木曜に持って帰った方から?」 「去年のも、探して。短い所を」  私は日付の欄へ手を置いた。田辺さんは先に紙の上の名を指した。 「前にも会った日は本当なのよ。そのメモも、ここに」  缶から一枚取る。先生へ会う日と持っていく物が同じペンで書かれ、その下に洗剤の名があった。 「幸枝、全部は知らないから。私がどこまでやったか」  大学に音を預ける手順を訊くため、私は職員へ電話した。ケースを別へ置くよう頼まれ、田辺さんへ伝える。  彼女は携帯を出した。 「じゃ、妹にはあとで。紙の方でも分かるようにして」  机の端に置いたケースへ、缶の蓋は戻らなかった。      *  湯飲みが二度、小さく鳴った。三度目を待っている間に、航は携帯へ手を伸ばした。 「止めないで」  律の方が先に言った。  先生の、録音機、まだ止まってない、という声まで聴いた。去年の航が笑う。いまの航は笑わなかった。  木曜の方へ替えてもらった。先生は同じ所でためらい、同じ所で手を離してと言う。その間へ、今の航の返事があった。 「先生が倒れてる所で、これを鳴らしたの」 「うん」 「私にも、その日に話したって言ったよね」  律は画面より彼を見ていた。  西崎さんが小部屋から出てきた。机の缶は開いていて、田辺さんのCDのケースが横へ出ている。 「先にこっちを出す。航君も、自分の方、今日のうちに」 「一緒の文にしないでください」 「だから別にしてるだろ」  航が紙を取り、折った。私はその前に澪さんへ送りたいと言った。 「俺が送る」 「先に見せてって。ご本人が」 「分かってるよ」  彼は机へ戻し、折り目を伸ばした。  田辺さんがおにぎりを並べた。ちょっと先に食べて、と言って、私の前へも置く。 「幸枝へ持っていく分も、買ったの。今夜、姪もいるから」 「姪御さん、来週じゃないんですか」 「今日も寄れるって。急なのよ。それと、幸枝が印刷店へ行くって」 「澪さんの所ですか」 「音の方、自分で聞くって。私にも言ってくれたら、持って行けるのに」  容器を二つ袋へ戻した。蓋の白い煮物は、おにぎりと違う店の物に見えた。  航が携帯を取った。澪さんから、帰る前にもう一度送って、と来た。 「六時にする。店、閉めてから」  律が、六時は帰るんでしょ、と言った。 「帰る。送る方は、今やっておく」  先生の声を流したこと、澪さんが戻ると言ったこと。航は最後の一文を短くし、送る所の横を押した。日と時刻を選ぶ画面が出る。 「それ、今は来ないの?」 「六時。帰る前に、もう一回、直すから」  律が写真袋を持ち替えた。 「直したら、遅くなるじゃん」 「そのままなら届く。帰り道で、文の方、また触らないでいいから」  律が自分の紙袋を開けた。写真の封筒のうち一つだけ、机の端へ離す。 「それ、前の?」  航が訊いた。 「うん。取り直す方じゃないよ」 「見せて」 「あとで」 「何で」 「今、手、食べ物持ってるじゃん」  航が手を見た。おにぎりの包装しか持っていなかった。それを机へ置くと、律は封筒も紙袋へ戻した。 「六時までに、終わる?」 「終わらせる」 「帰るってこと?」 「うん」  久住くんが自分の鞄を引いた。大学へ返す袋に短い道具を移すと、西崎さんが、もう帰るの、と訊いた。 「六時に閉まります。これ、返さないと次の授業、借りられないので」 「まだ、奥の板があるだろ」 「月曜って言ってました」  西崎さんは携帯を見せた。集荷の受付だった。 「今日、家へ出す。大学の部屋、開かないって。あの箱、ここに残せない」  久住くんが茶色の箱を見た。木曜に一度取った前の板は壁にあり、もう一枚には釘の頭が四つ見える。 「僕、返すのは待てません。板、持ってもらう時間も要るので」 「分かった。道具、長い方だけ置いて。俺がやる」  彼はしゃがみ、自分の鞄を棚の下へ押した。 「板の真ん中、持っててください。端だけだと落ちます。戻す時も、誰か持ってる間に上から釘を入れるので」  西崎さんは半分聞いた所で台車を引いた。廊下へ出すと、輪の片方が浮く。 「一人じゃ、これも下ろせないな」  久住くんが手を出した。袋を床へ置くので、西崎さんがその先を引き取った。 「返す方、行って。鞄はそのままでいい」  長い釘抜きの紙を巻いた先が鞄の底へ入り、柄が口の内側へ残った。久住くんがファスナーを閉めた。  久住くんはおにぎりを持って靴を履こうとし、一度私の机へ置いた。私は立ちかけたが、もう持ち直していた。 「袋に入れたら、海苔、剥がれそうで」  そう言って出ていった。  西崎さんは上着を椅子へ戻した。先日直した袖とは反対側の袖口も、少し開いている。  航が小部屋へついて行った。 「俺の方も、見てください」 「いま、自分のをやってる」 「先に出されると、俺のが後からになるじゃないですか」  西崎さんが机の袋から薄い冊子を出した。表紙の端へ、校正用、と鉛筆で書いてある。 「こっち、読んで。俺にお前の文を読めって言うなら」 「今日ですか」 「今日じゃなくても。持って帰っていいから」  航は初めの頁を開いた。指で二本の線の間をたどる。 「この二つ、同じ日に行ったんですか」 「跨いでる。そこだけ見ると分かんないなら、次の図も」  航がめくりかけた。西崎さんは自分の携帯の予定を開いた。 「こっちは、再来週。向こうへ行く方。春に言ったの、覚えてる?」 「覚えてます。今日は、その返事までできません」 「読むのと、来るのと、同じ返事にしないで」  航は律を見た。律は封筒を数えていた。 「申請も、先生が見たって所から直さないと」 「そこは出す。それと、俺がもう一度行くのは別だろ」 「俺が行く方は、今、返事、できません」 「何で。帰る時間なら、決めてるだろ」  律が手を止めた。航は彼女を見ず、本の頁を閉じた。  西崎さんは画面を閉じず、机へ置いた。 「一人だと、また駅から電話して帰りそうで。お前、次は一緒にって言ったんだよ」  航は本を袋へ入れた。西崎さんが表紙の折れた所を押さえ、手を離す。  律が、六時、とだけ言った。航はそちらへうなずいた。  戸は閉まらなかった。律は写真袋を膝へ載せた。私が彼女を見ると、まだ枚数合わない、と言った。  机の私の携帯へ、澪さんから、次の方を先に送って、と来た。航へ画面を見せた。 「分かった。俺がした所、声でも残す。あとで、聞いて」 「澪さんにも送って」 「うん。長くしない」  航は携帯の録音を始めかけ、印刷店から来た電話へ出た。画面を二度押し、終わってから戻した。 「途中で電話すると、分かんなくなるから。メモは先に止める」 「今のは、録らないの?」 「うん。あとで自分のを続ける」  律が立った。 「灯、外、来て」  軒下で片方のイヤホンを渡された。  先生の去年の声がした。その次に西崎さんが、自分の分は先に出す、と言った。  航が俺の方も見てくださいと頼み、西崎さんが、お前も書けばいいだろ、と返す。そこで止まった。 「今度の、読んであげて」 「澪さんへ先に見せるんだよ」 「それは分かってる。航、何を書けばいいか、もう分かんなくなってる」  イヤホンを返した。律はすぐには巻かなかった。 「私も、今日中に終わらせてほしい」 「一緒に帰るから?」 「うん」  律の緑の袖が、手首へ落ちていた。折っていた所を戻したのだと、私はようやく気づいた。 第十一章 先に行って 戻ると西崎さんが上着を腕へ載せていた。 「今日は、もうやめる」 「要さん、俺が持った分も、ちゃんと書きます」 「書けばいいだろ」  航が前へ来た。 「要さん、あの封筒、出したんですか」 「まだ。出した文は、今日のこと」 「研究の方も、先生が当日見たことになってるでしょう」 「それは別に出す。中、読んだ?」 「全部は」 「一頁目も?」  航が自分の紙を見た。 「今、そっちじゃないでしょう」 「俺が出す方の話だろ。俺が聞きに行った所、何も知らないじゃないか」 「知ってますよ。複写した分の」 「複写じゃなくて。二年、行って聞いた方。お前の音、借りる前から」  西崎さんは机へ戻りかけた。航がまた前へ来た。 「返却の混乱ってだけだと、違うでしょう。先生が倒れてた時、先に見てたの、複写の紙ですよね」 「お前が先に取っただろ」 「取った。だから俺も書くんです」  西崎さんが脇へ行こうとすると、航が腕を掴んだ。 「放せ」  手は離れた。航は道を空けなかった。 「灯には、助けてって言えたんですね」 「そうだよ」 「俺が呼んだ時には、先に紙の方を」 「呼べって言っただろ、電話で」 「来てからです」  航の手が携帯へ出た。西崎さんはそれを引いた。  律が航を呼ぶ。彼は振り向かなかった。 「去年の声は、木曜の返事じゃない。そういう文には、もう直しません」  西崎さんが航の肩を押した。  航が一歩戻ると、西崎さんの右の拳が頬へ当たった。航の肩が廊下の枠へぶつかる。律の椅子が倒れた。 「何してんの!」  私が立つとお茶の缶が転がった。田辺さんが拾う。  航は頬へ手を当てていた。 「顔、見せて」 「大丈夫」 「大丈夫って、殴られたじゃん」  律が腕を取ろうとして、避けられた。  西崎さんは鞄を下ろした。 「病院、行こう」 「今、要さんと行くわけないでしょう」 「航」 「袋、取るから」  航は保管室へ上がった。戸は閉めなかった。  西崎さんがその後ろへ出かけ、律が間へ入った。 「今、近づかないでください」  棚の前で、航は顔をこちらへ向けなかった。口へ寄せた手を離すと、袋の肩紐を掴む。一度で上げられず、反対の手を添えた。  下りてくる航の袋から、冊子の角が出ていた。西崎さんはそれを見た。何も言わなかった。 「帰ろう。私、いるから」 「先、行って」  律は袋を持とうとした手を下ろした。 「六時って言ったじゃん」 「まだ終わってないんだよ」 「帰るって言った」 「今は、帰る」 「袋、私、持つよ」  律が手を出すと、航は肩を引いた。持ち直した紐を彼女へ渡した。 「玄関まで。ごめん」  律は袋を下げた。二人で並んだが、航は彼女の顔を見なかった。  航が私の方を見た。 「灯、文、あとで送っていい」 「何の方」 「俺がしたこと。もう一回、見てほしい」  私は澪さんの画面を彼へ見せた。 「先に澪さんへ送って」 「うん」  靴を履くと、田辺さんが濡れた布を持って来た。 「頬、冷やして。袋へ入れるから」 「いいです」 「一枚だけよ」  航が受け取り、頬へ当てた。布を取るときに白い方を少し見た。私は彼の手がどくのを待たなかった。 「姉ちゃんへ、今日、電話しました?」 「してない。妹と、印刷店の方へ寄るから」 「昨日、俺が渡した音、その日じゃないって、もう言ってますから」  田辺さんの手が袋へ戻った。 「それは、聴けば分かるでしょう」 「分かるように渡したんじゃないでしょう。俺も、そうだったけど」  航は布を渡した。  田辺さんは畳まず、流しの脇に置いた保冷袋の持ち手へ掛けた。 「来る時に、連絡して。幸枝の所、今日は人がいるから」 「そっちへ行くとは言ってません」  玄関で律が袋を渡した。冊子が滑り、航は下から押し戻した。 「それ、置いてっていいよ」  西崎さんが言った。  航は返事をせず、袋の口を折った。  戸が開く。律は動かなかった。私も、じゃあねと言わなかった。傘を持っていないので訊こうとして、もう晴れていたことを思い出した。  戸が閉まった。      *  田辺さんは白い容器を出して数え直した。 「私も行くわ。妹の電話、また待たせてる」  缶は大学の物と分けて置くと言われ、私はそこだけ訊き直した。 「置いていってもいいですか」 「訊いておいて。私の物は、あとで取れるように」  西崎さんへは顔を向けなかった。玄関から三輪さんへ、今から出る、と電話する声がした。おにぎりの袋が片方だけ、机に残っていた。  律は椅子を起こし、自分の写真を数えていた。西崎さんが上着へ腕を入れかけると、律が言った。 「航と、どこで会うつもりですか」 「知らない。病院へ行こうって、言ったけど」 「今、行くって言う人、いるんですか」  彼は袖を下ろした。 「俺が殴った。それは、言う」  携帯で大学の人へ連絡し始めた。私は靴を履き、缶を流しの横へ避けた。 「灯、どこ行くの」  律が訊いた。 「沙帆の所。借りたCD、渡すから。あとで澪さんの店にも」 「土曜、もう閉めてるよ」 「沙帆と、中で音、見てるって」  律は写真を一枚、透明な袋へ入れた。 「私、航、追ってくる」 「一緒に帰るの?」 「知らないよ、そんなの」  私を見たので、私は袋へ目を下ろした。 「ごめん。違う、灯に」  律は紙袋の口を両手で押さえた。透けた写真の裏に、私の知らない字があった。  彼女が出たあと、西崎さんが大学の人へ、まず自分のしたことを話します、と言う。いつもより低い声だった。  私は邪魔をしないように出た。机に田辺さんの保冷袋があった。まだ小さい容器が入っている。あとで持って帰る、と言われた方だった。  冷蔵庫へ入れ、西崎さんへ、袋の方を、と話した。彼は戸の前から、うん、とだけ返した。 第十二章 持ってくる方 印刷店のドアには本日の営業終了が掛かっていた。  横の通用口で沙帆が手を振る。私が袋を見せると、こっち、と机を指した。 「ご飯、まだ?」 「おにぎり、一個」 「こっち、今から」  澪さんが冷蔵庫から袋を出した。家で作るつもりだった麺を持ってきたと言う。 「鍋、小さいから、二回ね」 「私は食べたので」 「量だけ言って。食べたって言った後でも、お腹すいたら」  椅子を借り、袋を足の間へ置いた。  沙帆が自分の音を開く。三分、と言い、澪さんへ、さっきの方じゃない、と続けた。私はヘッドホンを受け取った。  雨は弱くなり、また大きくなる。店の向こうで電話が鳴った。  澪さんが取る。三輪さん、と言い、来るなら表じゃなくて横、と続けた。 「先生へ返してもらう方、自分でも聞きたいって。姪御さんと、ここまで来てる」 「田辺さんは?」 「一緒。さっき、幸枝の家で待ってるって、そっちにもかけたの」  沙帆が椅子を引いた。三輪さんが先に入り、田辺さんが傘をまとめた。姪御さんは夕方の仕事へ行くので、ここからは二人だけだという。 「お茶、お願いしてもいい?」  三輪さんが訊いた。澪さんは、まだお湯、ある、と鍋を見た。 「私も、少し」  田辺さんが隣へ座った。  鍋を流しへ下ろした。湯気が私の机まで来た。 「ここへ来たら、私にも訊いて。勝手に呼んであげるって返事しないでね」 「はい」 「あと、灯さん。六時に送るって、航から来てるけど」  澪さんは自分の携帯を差し出した。添付はなかった。  沙帆の音が止まる。終わりまで聴いたと思ったら、まだ少しあった。 「私、まだなの」 「あ、ごめん。もう一度」 「頭からにする?」 「いまの少し前から」  鍋の音が小さくなった。今度は画面を見ず、終わるところを待った。      *  麺を半分だけもらった。食べる間に律から、会えた、と来た。 〈帰るの?〉  送ると、先に帰ってと言われた、という返事だった。写真は渡した、ともう一つ来る。 〈今、どこ〉 〈駅。電車待ってる〉  私は机の椅子を引いた。澪さんが私の箸を見た。 「電話するなら、置いて。汁、こぼれるから」  店の外で律へかけた。 「航、何て」 「帰る。私とじゃなくて」 「どこへ」 「知らない」  電車の来る音がした。 「写真、要らないって言われた?」 「欲しいって。だから渡した」 「その写真」 「火曜の。久住が、ちゃんとやってくださいって言った後の」  律から写真が来た。パン屋のドアの脇に、航がいる。分室から持って出た袋を片手に下げ、もう片方の手をこちらへ出していた。頬の赤い方を見ようとして撮ったと言う。 「パン、買ったの?」 「まだ。今から買うって。私、もう行くって言ったから」 「一緒に食べなかった?」 「写真、渡しただけ。私も、帰りたかったの」 「消してって言われた。灯、先に、顔、見て」  私は画面を開いた。律は電車へ乗るから切る、と言った。  私は分かったと答え、店へ戻った。  澪さんも携帯を持っていた。 「灯さんに頼んだら早いって。私に送る分、まだなのに」  私が返事を打とうとすると、麺が伸びるよ、と言われた。  沙帆は次の音へ線をつないでいた。いまのは応募したものと違い、部屋の中も入れていると言う。 「あとで、それ、聴く」 「先、食べたら」  私は麺を取った。三輪さんは少しだけもらい、田辺さんはもう食べた、と断った。 「これも、先生へ渡してたから」  田辺さんが財布から控えを出した。会場へ払った方だという。 「私が払ったのよ」 「分かってる。私が払ったことには、してないでしょう」  三輪さんは控えを返した。 「半分だけでも、返せると思ってたの」 「私が聞きたいのは、声の方」  澪さんが空の皿を取った。田辺さんは控えを財布へ戻した。  窓の外に宅配の車が止まった。人が茶色の箱を載せる。上の箱へ黄色いベルトが渡っている。午後、西崎さんが本の上へ服を詰めた箱だった。  西崎さんが右の手で台車を押さえていた。左へ白い布が巻かれている。 「手、どうしたんだろ」  私が言うと、田辺さんが窓を見た。 「殴った方?」 「左です」  車が角の向こうへ行く。西崎さんは大学の方へ歩いた。  久住くんから、大学の道具は返った、と来た。自分の鞄はまだ分室、と続いていた。  六時を少し過ぎて、澪さんが、来た、と言った。航の文だった。  私にも届いていた。先生が倒れていた時に先に資料を取った、と始まる。律にはまだ来ていないらしい。 「今、航、どこ」  澪さんが電話をかけた。出なかった。  久住くんから、窓口へ西崎さんが来たので鍵は本人、ともう一つ届く。職員へ話があって待っているという。  田辺さんは立った。 「私、袋忘れてる。冷蔵庫へ入れてくれたの、取って帰る」 「明日でも」 「傷むでしょう。あれ、明日には持って行けないから」  三輪さんは椅子を動かなかった。 「私はここで読む。私の所、あの子、何て書いたの」  澪さんが自分の画面を渡した。田辺さんは妹へ戻りかけ、鞄を持ち直した。 「じゃ、先に。袋、一緒にするから」  田辺さんが出た。三輪さんは画面の一行へ指を置いた。自分が送った電話の所だった。      *  私の鞄を開くと、財布の下へ手帳がない。  机へ全部出し、借りたCDの袋もめくった。分室で持っていたのは覚えている。分室で澪さんの言葉を書き、そのまま置いたのだと思った。 「今日、戻らなきゃ駄目?」  沙帆が訊いた。 「先生の電話の所も、入ってて。明日、持っていくので」 「明日、朝、行けば」  澪さんは画面から顔を上げた。 「私、店、閉める。駅までなら一緒」  私は職員へ連絡した。分室の施錠は最後に出る人へ頼んだが、鍵を窓口へ返すのは月曜になるという。自分の鍵で入っていいか訊くと、私物を取るだけなら、窓も見てほしいと言われた。  久住くんへ、手帳を取りに戻る、と送る。工具の袋を置いたままなので、まだ開いていれば取りたい、と返ってきた。  沙帆が空の容器を集めた。 「私、先に持って帰るね。自転車だから」  澪さんへ、麺、あとで、と言う。何の返事かを訊くと、晩御飯代、と返ってきた。  私は自分の分を机へ置いた。澪さんが釣り銭を出す間、店のシャッターの音を聞いていた。  分室へ戻る角に、宅配の車はもういなかった。濡れた道を壁へ寄って通った。荷物がなくなれば、久住くんも月曜には困らない。  手帳だけ取ったら帰り、沙帆の音を最後まで聴こうと思った。 第十三章 戻った部屋 分室の前に西崎さんがいた。  私を見て、手帳、と言いかけ、戸を開けた。 「航が倒れてる。救急は、今」  中から田辺さんの声がした。 「学生さん。大学の。二十いくつだったか、分からなくて」  保管室の入口へしゃがんでいた。携帯を耳へ当て、私を見ると空いた手を上げた。 「灯ちゃん、航君、いくつ」 「分からないです」  戸の向こうに航がいた。  棚の前の板も、茶色の箱もない。紺のシャツの前が開き、胸へ赤い所があった。  田辺さんの横を通った。 「航さん」  肩の下に袋があった。頭のそばへ紙が広がっている。顔を覗いたが、目が合わなかった。  久住くんが後ろから来てしゃがんだ。田辺さんの電話の声が小さく漏れていた。 「いま、二人来ました」  西崎さんが携帯を受け取り、スピーカーにした。左の手の平から手首へ白い布が巻かれていた。上着の袖は、その上で切れている。  声に訊かれ、分からないと私が答えた。久住くんと、教えられたことを一つずつ続けた。私は床へ膝をついた。  昨日、代わってもらった手だった。  西崎さんが携帯を床へ置いた。もう一度、呼吸を、と訊かれる。私は顔へ寄った。 「分からないです」  胸の真ん中へ手を重ねた。電話の声が押すように言った。昨日と同じ所だった。久住くんは血の出ている所へ布を当てていた。私は航の顔へ目を戻さず、手を動かした。  左を出しかけた西崎さんが、代われる、と言った。 「今、続けます」  彼は電話の声へ、学生が続けている、と答えた。  田辺さんは立ち、入口へ寄った。保冷袋が足に当たり、持ち上げた。 「田辺さん、鞄、そこへ置いて」  久住くんが言った。  田辺さんは自分の鞄を胸へ抱えた。保冷袋だけを、廊下へ置いた。  航の携帯は手の先にあった。暗い画面へ、私たちの影が動いた。      *  救急の人が来た。入口の台車が寄せられ、私たちも道を空けた。  田辺さんが携帯を受け取った。手から落ちかけ、両手で持った。 「私、ここで待ってていいの」  訊かれて、私は分からない、と答えた。救急の人は航の所にいた。  戸のガラスの下の角に裂け目があり、透明なテープが渡してあった。白い蓋の薄い箱だけが棚に残っている。  久住くんの長い釘抜きは、先を紙へ包んで鞄に戻されていた。柄が口の内側にある。壁の二枚の板も、そのまま床だった。 「自分の道具です。木曜に使いました。今日は大学の方だけ返しに」  久住くんは鞄へ触らず、警察官へ示した。  西崎さんが言った。 「茶色の箱を二人で出しました。航君が戻ってきたから」 「どこで、再び会いましたか」 「パン屋です。外で一緒に食べた。その後、戻った」  私は律から渡された写真を思い出した。航の袋の口から角が出ていた。 「箱を出してから?」 「集荷の人へ。俺は大学へ行きました。職員へ説明する方を持って。窓口で久住にも会ってます。戻ると、田辺さんがいた」  警察官が保管室を見た。 「この服は」 「俺の。白い方、俺が汚したので。手を巻く時に。洗って返すって」 「着替える前は、胸の傷は」 「その時、俺の手が切れたばかりで。自分の方しか。航は一人でも、服、着られるから」  私は紺の襟を見た。律の写真の胸は白かった。 「白い服は、どこですか」 「箱へ。服も入れて送る方。本の上」  警察官が巻いた布を見た。 「袖は、鋏で切った。航が。腕、入れられなくて」 「その鋏は」  西崎さんが机へ行きかけ、止まった。 「端に。置いてありました」  田辺さんの鞄が鳴った。誰からか、彼女は見なかった。  警察官が戸のガラスを見た。箱の角が当たり、西崎さんが手を切った。航が布を当て、救急相談の番号へかけた、と本人が話した。 「戻って、傷の所を見たんですか」 「田辺さんが電話してて。俺が携帯を借りて、来た二人に」  私は六時のメールを見せた。読み終える前に出た、と話す。あの文を送った人から、まだ続きがあると思っていた。 「私たち、その後に店を出て。田辺さんは、先に」 「袋を取りに来ただけなの」  田辺さんが言った。 「冷蔵庫へ、灯ちゃんが入れてくれたでしょう」  私が頷くと、鞄を抱え直した。  私は律へ電話した。写真はあった、と先に話した。彼女は何も言わなかった。倒れている、と続けると、どこ、と返ってきた。 第十四章 抜粋 澪さんは店へ戻り、鍵を閉め直したという。  私が分室へ入った頃に電話をしていた。着信に気づかなかった。袋に手帳が入っているか、確かめて、と言うためだった。  もう見つかった、と私が答えると、そこじゃないでしょう、と彼女は言った。 「ごめん。航のこと、いま、聞ける人に代わって」  警察の人へ電話を渡した。  沙帆は自転車で来た。鞄へヘッドホンの線がまだ出ている。 「律は」 「電車で戻ってる」  北町へ目を向け、沙帆はそちらへ行かなかった。  田辺さんは廊下の椅子にいた。三輪さんからの電話へ、まだ病院は分からない、と答えた。  瀬川さんが来ると携帯を渡した。先に救急へかけた履歴だった。六時の文が来たあとに店を出て、ここで航を見つけたという。 「袋を取って、帰るつもりだったの」  瀬川さんが鞄を見る。田辺さんは膝から下ろさなかった。 「その中も、見せていただけますか」  口を開け、財布を取った。細い包みが、財布の下へ残った。  彼女はその上へ手を戻した。 「これ、私の布で」 「はい」 「鋏も入ってます」  瀬川さんが机の方を示した。二人がそちらへ移り、私もついていった。田辺さんが包みを置く。布へ赤い所があった。 「どうして、鞄へ入れたんですか」 「拾ったの。床にあったから」  包みが開かれた。田辺さんはそちらを見て、私へ顔を戻した。 「航君が、顔、冷やしたでしょう。それよ」  航が受け取り、田辺さんへ戻したことを話した。その時には赤い所を見ていなかった。 「これを入れた後に、救急へ?」  瀬川さんが訊いた。  田辺さんは頷いた。自分の掌を、膝の上で拭いた。      *  律が病院へ行くと言った時、私は彼女の肩へ手を出した。  律がその手を払った。 「ごめん。今、触んないで」  手を戻したあと、謝られた。私は頷いた。 「さっきの、写真」  彼女が言いかけた。 「ごめん、今、写真の話、待って」  そう答えると、律は自分の携帯を見た。  私は待って、と呼びかけた。顔が上がる。 「殴った後に、会ったんだよね。航さんと」 「会った」 「元気だった?」  律は少し黙った。 「喋った。歩いた。元気って、いま訊かれても」  私は頷いた。彼女が出る時、今度は触れなかった。      *  夜、律から亡くなった、と来た。  私は流しへ手をついた。律へ、帰るの、と送ったのが今日のことだとは思えなかった。 〈明日、行っていい〉  うん、と返した。次に、いまの音、と来た。 〈あれ、私が切った〉  画面を見ていた。何を、と打てなかった。      *  日曜、律はパンを二つ持って来た。  台所へ椅子を置き、携帯を出した。私は袋を開かなかった。 「長い方、警察へ渡した。灯のこと、入ってる」 「聴く」  西崎さんが、お前も書けばいいだろ、と言った。その後、航は私にまとめてもらうつもりだと答えた。 『あいつ、頼まれた通りにきれいにしてくれるから。中身まで口を出さないし』  律は止めなかった。私は紙パックへ、包んだままのストローを当てた。  悪く言ってない、助かるって話、と航は続けた。 「昨日、これ聴いてたら、私、違うこと言ったかもしれない」 「うん」 「読んであげてって、律が言ったんだよ」 「言った」  携帯が机へ置かれた。 「私、灯がそんなふうに言われるの、聴きたくなかった」 「私だけ、知らないまま」 「そうなる」  私はストローの包みを破いた。短い方が床へ落ちた。  律は拾おうとしてやめた。私が取って机の端へ置いた。 「航にも、言った。パン屋の前で」 「何を」 「灯に頼めば早いって。また言ったから。まず澪さんへ送ってって、私も言った」  パンの袋が私の腕へ触れた。 「私、嫌なこと聞いたら、航を嫌いにならなきゃいけない気がしてた」  律は窓を見た。 「楽しかったんだよ。私」 「私も楽しかったよ」  声が大きかった。 「だから嫌なんじゃん」  久住くんのフライから湯気が出たことを思い出した。航が飲物を渡し、律が私の袖を掴んだ。  また行けると思っていた。  パンを開け、ひと口食べた。すぐにもうひと口食べたかった。 「律も食べて」  彼女は袋を開けた。机の携帯は暗くなっていた。 第十五章 渡した写真 私がパンを食べ終えると、律は紙袋から一枚出した。同じ写真を二枚印刷したうちの片方だった。 「こっち、灯にあげる」 「航さんに渡したのと、同じ?」 「うん。久住がもう一回って言った時の顔、いいじゃんって。これが欲しいって言ったの、航だから」  写真の端に私の肩があった。久住くんが百円を持ち、航の手がその方へ出ている。  私が机へ置くと、律は写真を少し回した。 「灯も、いるよ」 「肩だけ」 「入れてあげたんじゃん」  私は写真の端を押さえた。律の指は、まだ角にあった。 「折らないでって言った。パン屋の前で。戸、引いてて、入れないから」 「押す方だよね」 「そう。教えたら、分かってるって」  金曜、沙帆と入った店だった。 「今から買うなら、そのまま電車に乗れるじゃんって。六時、一緒に帰るんでしょって言った」 「帰ろうって」 「ずっと。なのに、俺、戻らなきゃって。本を返すって」  律は私の飲み物を見た。 「家で読んだらって言ったの。そしたら袋、開けた。最初の所、折ってあって。意味、分かんないから、一つだけ訊くって。それで終わりって」 「分室へ?」 「うん。誰の本かは、訊いてない」  私は西崎さんの本の袋を思い出した。 「要さんの?」 「知らないって言った」  律は少し強く言った。私は口を閉じた。 「警察には、その話、した」 「うん」 「灯が昨日、元気だったって訊いたじゃん。私、写真を渡したんだよ。それを言いたかったのに」  写真の上から手を離した。航の手は、久住くんの百円へ届く途中だった。 「渡せたんだね」 「渡した。だから、先に帰ってって言われた時、さっきの写真、もう一回見せてって言えなかった」  私は皿を流しへ運びかけた。律の皿はまだパンの紙が載っていた。 「私と帰るために、戻ったんじゃなかったんだよね」  律が言った。  パンの代金を訊くと、こんな日にまで、と返ってきた。  払うと言った。  律はその後をやめ、レシートを捜した。丸まった端を伸ばして、私のパンと飲み物を指した。  硬貨を数える。一円が足りず、十円を置いた。 「そこまで、なくていい」 「お釣り」  律が財布を開けた。九円を私の掌へ置く。指が触れ、硬貨を握ると手は離れた。 「ごめん」  顔を上げると、財布をしまっていた。 「細かいの、出させた」 「うん」  どちらも笑わなかった。  こんなふうに払いたかったわけではない。レシートを持つ律へ、やっぱり、と言いかけてやめた。      *  署で、瀬川さんへ航が本を返すために戻ると言ったことを伝えた。 「そのお話も伺っています。宮原さんは、その本をご覧になりましたか」 「手に取ってません。分室で渡してる所なら、見ました」  先に航の傷について聞いた。胸の刺し傷が亡くなった原因で、頬の殴打と肩の衝突は、その傷とは別だった。 「服、白い方じゃなかったです」  私は紺の胸の前が開いていたことを話した。西崎さんが貸した、と最初に言ったことも。 「その服と、運び出された物を確かめています」  瀬川さんが、見た時の顔もお願いしますと言った。  私は分室を出る航の頬を話した。肩のぶつかった所も。顔を見ようとして、袋の肩紐の方を長く見ていた。  写真では、航の袋の外へ薄い冊子が開かれていた。  袋の口の所で頁が一枚折れている。パン屋でまだ何も買う前だった。  背へ西崎さんの名がある。 「それ、西崎さんが作った方です。棚で見えるようにって、私にも話して」  瀬川さんは誰から、いつ聞いたかを訊いた。月曜の机の見積のことを話した。 「土曜にも、渡す話をしてました?」 「航さんに渡してました。読んでって。最初の図を航さんが訊いたんです。日を跨ぐ所」  私は写真へ指を置いた。 「西崎さん、その時は次の予定を見せて。図の続き、見てなかったです」  私は写真の冊子から、航の袋へ目を戻した。  先生の了承のある紙を持ち帰るために戻ったのかと、私はまだ考えていた。開いた本と別の用事を、律の見ていない所へ足そうとしていた。  瀬川さんが次の写真を出した。机の紙と、保管室の入口だった。  私は、西崎さんが室内へ入ったと言った所を話した。 「二人で箱を出したって。私は店の窓から、二箱が車へ載るところを見ました。西崎さんは右の手を台車へ出して、左へ布があって」  その時、田辺さんは同じ机にいた。窓へ顔を上げ、殴った方、と訊いた。私は左ですと答えた。  帰る前、田辺さんが現場で持っていた物を訊かれた。保冷袋を取りに行くと話したのは、六時のメールが来た後だった。  瀬川さんは、彼女から布と鋏を預かったと話した。私は頬へ当てた濡れた布のことを訊かれた。航が一度返し、田辺さんは袋の持ち手へ掛けていた。 「鋏は、航さんのそばにあったんですね」 「床にあった、とおっしゃっています」 「救急へかける前に、鞄へ」 「その順序も伺っています」  田辺さんは袋を取りに来た。布に鋏を包み、携帯を取り出した。その後に西崎さんが戻った。  私は自分が着く前の二人を考えた。どちらも、胸を押す私の後ろにいた。  血のついた鋏を持つ最後の訪問者と、六時には大学にいた西崎さんの間を、私は何度も戻った。  帰りに西崎さんから、大学の人へ出す文に名前を入れられるか、と来た。  私が押した所なら自分で書くと返すと、助けた所まで入れて、と続いた。 〈私が電話で答えた所は、自分で伝えます〉  画面を閉じた。      *  澪さんの部屋へ行くと、沙帆がドアを開けた。  湿った服の下を通った。澪さんは袋からタオルを出していた。 「昨日、航の電話、出なかった」  私が座る前に言った。 「こっち、作業してたから。あとでかけるつもりだった」  携帯の履歴を見せる。私たちが食べる前だった。 「出たら、また怒ってたと思う。今も、それは言いたい」  タオルを大きい袋へ戻した。 「私へ送るって、私に言ってたんだよ。灯さんにも頼むって。そっちが先なのか、またって」  砂糖を出そうとして立った。沙帆が棚から取る。 「そこ、知ってたんだ」 「昨日も、取った」  私は持ってきた文を机へ置いた。澪さんは見たが、すぐには取らなかった。 「今日は、出来上がりを持ってきてって言ってないから」 「はい」 「持ってきたのは、助かる。あとで、私が見る」  洗濯は今日しなければならないという。沙帆が袋を持った。私は家族のタオルが入った小さい方を受け取る。  階段で持ち替えようとすると、澪さんが待った。 「急がなくていい。それ、乾いてないから、服につく」  昨日、航の袋の肩が濡れていた。そう思いかけて、私は自分の手を見た。  見た袋と見ていない袋が、頭の中で同じになっていた。 第十六章 誰と食べた 月曜、大学の職員から、分室の仕事を今週は止めると来た。  最後に荷物を運ぶ日は、まだ決められない。頼まれた原票を返す仕事も、職員へ移すという。 「三輪さんへ作る音は、続けていいですか」  私たちが家で作る物で、大学へ残す分とは別だと話した。先に本人へ確認してください、と答えられた。  今週の給料の欄が空く。勤怠の紙を持って署へ行く時、自分の手帳も出した。先生の声を聞いた日と、航の胸の前を見た日へ、違う印があった。  瀬川さんへ、今日から分室には行かないことを伝えた。土曜の店から分室へ戻る道を訊かれ、店の窓と、車が角へ出た所を描いた。箱のベルトの色は思い出せた。田辺さんが窓を見た所も。運転席へ乗る人の顔は、描かなかった。      *  署を出ると、昼のパン屋の前に久住くんがいた。  今日のアルバイトまで時間があると言う。新しい道具はまだ買っていなかった。 「お金、今月、ちょっと」  私は謝ろうとしてやめた。  久住くんが先に店へ入った。私は入り口にある時刻の貼り紙を見た。土曜も開いていた。  パンを選んでいると、店の人が私を見た。 「大学の方?」 「はい」 「さっき、話して来たんです。土曜の二人。あの若い人たち、あの後だったのね」  私は袋を取る手を止めた。  店の人は久住くんを見て、そちらとは違う人、と言った。背の高い方の後に来た人が、上着を腕へ掛けていたという。私は西崎さんだと思った。 「二人で、来たんですか」 「先に一人。背の高い人。後からね。袋、買う前に、もう持ってた。これも持って帰るんだった、って」  私は律の写真袋を思い浮かべた。 「先の人が選んでる間に、後の人が来たんです。甘いの、あと二つしかなくて。一つずつ袋に入れたら、一緒でいいって」 「食べたんですか」 「外で。あの端。雨、上がってたから」  奥の窓へ小さい紙袋が重なっていた。私のパンを包む人の手が動いた。 「会計は後から来た人が。先の人が、ここで食べるって、外を指したんですよ。戻るって言ってたから、差入れかと思ったら」  袋を渡された。私は代金を出すのが遅くなった。      *  店を出ると、西崎さんから文が来ていた。 〈昨日の、名前を入れる所。手を巻いてくれた方も、続けて書きたい〉  私は店の横へ寄り、電話した。久住くんは少し先でパンを食べていた。 「航さん、自分で書くって言ってましたよね」 「俺の手の所は、俺からじゃないと。灯が見て、電話に答えてくれた所から続ければ」 「私が見たのは、倒れた後です」 「うん。そこまで、繋がるように」  パン屋で渡された袋が、電話を持つ手へ擦れた。 「一緒に食べた所も、書くんですか」 「そこ、聞いた?」 「店の人が」 「俺も、謝ったよ。聞いてたか、分からないけど。頬、反対へ向けて、自分の袋、間へ置いた。パン、もう一個、あるって言ったら、自分で取った」 「本の返事は、したんですか」 「二つの日に跨ぐ所、何でここだけ線が戻るのかって。図、貸した本に載ってるだろって言った。俺の方も、まだ読んでないのに」 「それを訊きに戻ったんですよね」 「先に集荷、出さないと。本も返せないからって。手伝えるって」  久住くんが袋へ手を入れ、食べ終えた紙を押し込んだ。 「航さん、帰る服は」 「俺の手で、白い方、汚した。帰るなら着ていけって。自分の服は洗って返せるから」 「着て来た方は、箱に?」 「そう。服もある方。袋に分けて」  私は窓から見た茶色の箱を思い出した。 「手を巻いてくれた所は、瀬川さんへ話します」 「そこ、残して。殴った後だったから」  切ると、久住くんが私へ手を出した。 「それ、持ちます。電話、まだあるなら」  パンの袋だった。私は渡しかけ、首を振った。 「もう終わった。ごめん」 「僕、次の授業出てから、早番なので」 「棚、戻すのは、いつなら」 「板を持ってくれる人が決まってからにしてください。行って待つの、今週は困るので」  私は手帳を出しかけた。大学から、最後に荷物を運ぶ日も決まっていないと来たばかりだった。 「決まったら、先に訊くね」 「はい」  久住くんは肩の鞄を上げ直した。返ったのは鞄だけだという。長い釘抜きは調べるために残された。 「短い方を買おうと思って。授業へ持ってくるので」 「西崎さんに、頼めば」 「いいです。自分で買います。あれが返っても、使いたくないので」  大学の方へ歩き出した。私も途中まで同じ道だったので、追いついた。      *  袋の中で、パンがまだ少し温かかった。  前を通る人が来て、久住くんは壁へ寄った。私も袋を持ち替えた。  並んで歩き出すと、久住くんが先になった。駅の方へ曲がる角で、彼は振り返った。私は向こうのホームへ上がると話した。 「じゃ、また」 「うん」  久住くんの手が上がった。私も袋を持つ手を上げた。  ホームへ上がり、瀬川さんへ、パン屋の人から聞いたことを伝えた。店の人へはもう訊き、集荷の時に運転手が見たことも確かめたという。  その日の夕方、航の携帯の音を聴くことになった。手を切った時の救急相談は、航が電話していた。航を見つけて救急へかけたのは田辺さんだった。西崎さんは戻ってから、その携帯を受け取っていた。  私はもう一度署へ行った。久住くんは授業とアルバイトへ行く。      *  航の携帯から取り出した音を聴いた。本人の画面を触らず、瀬川さんの机の機器で再生した。保存されていた二つのファイルだった。私は、途中で電話すると、メモは先に止める、と航が言った所を思い出した。  先の方で、先生の声を流したのは自分だ、と言った。戸と台車の音がする。 『ベルト、これでいいですか』  西崎さんがもう少し下、と返す。次の部分では、二人とも近くにいた。 『そっち、押さえて』 『俺、こっち持つから、手、出さないでください』  何かが擦れ、西崎さんの声が短く上がった。 『痛い。ちょっと、待って』  戸の所、と言い、布が動く。 『電話、します』 『しなくていい。これ、押さえれば』 『手、出してください。自分で押さえて』  ここで先の録音は終わった。  次のファイルまでに、航から救急相談の番号へかけた履歴があると瀬川さんが言った。7119だった。西崎さんが手を切り、航が受診する所を訊いた話も、別に確かめているという。  通話の声はここにはなかった。左の袖を切り、布を巻いた所は、西崎さん自身が話していた。  次のファイルは、航の、自分で続ける、という声から始まった。 『茶色の箱は、棚から出しました。要さんの手は、布で押さえています』  航が、台車へ載せた、と言った。西崎さんが、もうそれはいいから、と返す。 『さっき殴られました。手、巻いたからって、それ、なくしたことにしないでください』  紙を動かす音がした。 『本、ここ置きます。折った所、まだ分からないので。後で返事ください』 『置いてくの』 『今日は帰ります。鍵は』  西崎さんが机、と答えた。 『道具、ここでいいですか』 『久住の鞄。釘、紙で包んで。自分で持つ方、上へ』  紙が擦れ、硬い音が小さく鳴った。 『来週、向こうへ行くの、俺は行けません』  西崎さんが、再来週、と返した。 『それもです』 『本、そこまで見たんなら、もう一回』 『読む方、まだやめるって言ってません。泊まる方は行けません。姉ちゃんに渡すの、俺、自分でやります』 『お前の方、灯に頼むって言っただろ』 『頼んだ。俺が先生の声を流した所は、自分で書きました。これから姉ちゃんに電話します。それを要さんから説明しないでください』  私は机の音を聴いていた。航の声がそれより近かった。 『先生が見たって所も、自分で話します。要さんが聞き取りに行く相手、電話、分かりますか』 『今かけるのはやめて。順番があるから』 『要さんの電話では、俺が行く方は断れないじゃないですか。自分でかけます』 『こっち、見て。二人って、向こうへも』  西崎さんの声はそこで遠くなった。航が、いったん止めます、と言った。 『今、そっち、見ないでください。俺の電話です』  そこで録音は終わった。  私は椅子へ座り直した。布を巻いた後に、来ない、と答えていた。二人で出した箱は、向こうへ行く返事とは別の物だった。 「その相手へ、電話は」 「繋がった通話はありませんでした。何のためにかけるという話だったか、先方にも確認しています」  集荷の人へ箱を渡したのは西崎さんだった。私は店の窓で、左を布へ包んだ彼の手を見た。 「その時、田辺さんは店でした」 「伺っています。六時のメールが来た後に出た所も」  私は航の携帯を見た。澪さんが六時にかけても、出なかった方だった。  私は手帳を閉じた。先生へ何をしたか話すため、航は自分の声を残していた。その後、自分で電話するところを、録ろうとはしていなかった。  署を出る前に、西崎さんから原稿の写真が届いた。先生の所見を除いた方だという。  それを大学へ回してほしい、と続いた。職員から灯の意見も欲しいと言われた、とある。  私は職員へ直接かけた。頼んだのは別の所の確認だったという。西崎さんの原稿は、自分が読むために受け取り、大学へ送ることはしなかった。  駅へ着くまで、パンは食べなかった。 第十七章 家で聴く 三輪さんには火曜の午前に伺うことになった。  電話では車の音が長かったと言われ、私はどの分かを訊いた。金曜に返した、家で聴く方だった。  沙帆へ連絡すると、三輪さんが切る所を決めてからと言う。できる日は連絡してくれることになった。      *  月曜の夜、部屋へ戻り、冷凍庫のご飯を一つ出した。  牛乳を流しへ置くと澪さんから電話が来た。紙を届けたこと、両親が途中から電話したことを話した。 『大学にも、出す前に見せてって言った。灯さんが書く方も』 「まだ、頼まれていません」 『そっか。ごめん』  私は卵を取り出した。皿へ割ると黄身が崩れ、殻を捜すふりをした。 「何から書けばいいか、今、分からないです」  返事を待つ間、向こうでハンガーのような音がした。 『航の文は、あのまま出さないでね。私が映像のせいで学校やめたって、そこも』 「違うんですか」 『違わなくはないよ。作ったのも嫌だったし、先生に会うのも。でも、それだけになると私、何もしてないみたいじゃん』  声が速くなった。 『授業、休んでた。仕事も掛け持ちだったし。来年なら戻れるって訊かれると、そういう返事、私もしたんだよ』  水曜、戻らないと彼女は言った。その前には戻ると言った日があった。航はそちらを覚えていたのかもしれない。 『別に書かなくていい。私が下手に言った所まで、なかったみたいにしなければ』 「はい」 『あいつ、謝りに来るんだよ。私が先生に怒った話すると、じゃ俺から、って。私は、あんたに何かされたって言ってないんだけど』  笑いかけた声が止まった。  私は卵の黄身を箸で寄せかけ、やめた。 「澪さん、ご飯、食べました?」  少しして、食べたよ、と返る。 『魚じゃないけど』  顔が熱くなった。 『ごめん。灯さんにも訊こうと思ってた。おにぎりだけだったから』 「今、食べます」 『じゃ、切るね』  食べる間、携帯は机に置いたままだった。      *  火曜の三輪さんは、前より薄い上着で門に立っていた。  暑いから先に入ってと言われ、私は鞄を抱えて玄関へ行く。机にCDとカセットがあった。写真は棚の方だった。 「八枚、揃ってました?」 「ええ。お姉ちゃんのも」  笑っていた。私は封筒を出してもらわなかった。  ケースに数字が書き足されている。別の紙にも、車、帰ってきた、雨、と数字が並んでいた。 「止めてから書くと、どこだったか分からなくなるのよ」  機械の前へ座り、一番上へ合わせてもらう。  車が通った。誰かが鼻をすする。間を置いて、三輪さんが道を尋ねた。 「着くかと思うと、まだなの。ここ、家で聴く方だけ短くして」  私は範囲へ印をつけた。彼女は戻してと頼み、もう一度車の音が出る。 「私、何か言ってるね」 「残しますか」 「残して。車だけの所。こんな短い声まで取ったら、何でそこへ行ったか分からないわ」  先につけた印へ線を引いた。三輪さんは、あとで読める、と訊く。読めますと答えた。  次の数字は雨だった。音の中の男の人の言葉が重なり、最後まで聞き取れない。 「今の、何て」 「分からないです」 「私も。ずっと聴いたら分かるかと思ったけど」  三輪さんが機械を止めた。 「その後、私が怒るのよ。そこは取らないでね」  私は頷いた。まだ聴いていない所だった。  机の時計は、十一時を過ぎていた。 「今日は車の所まで、ですね」 「ええ。午後に姪が来るの。次は一緒に聴けるかしら」  CDを渡され、カセットはここへ置くと言われた。私は来週までに連絡すると答えた。  椅子の脇の袋から、小さい容器が二つ出てきた。 「お姉ちゃんが昨日置いていった。私が作るって言ったのに」 「大根ですか」 「そう。一本の方が安かったって。食べられないぐらい買って、こっちへ来るの」  私は笑った。三輪さんも笑い、容器を袋へ戻す。 「あと、音を持ってくるって。土曜に言ってた。先生に返してって頼んだ所、私も聴いておいてって」  私はCDの袋を持ったまま止まった。 「それ、大学でも預かりました。去年と、二年前の方を、航さんが探して」 「昔のを探したって言ってたのよ」 「木曜の後の録音に入っていた先生の声も、去年のものでした」  三輪さんはテレビの引き出しを見た。カセットを出す所とは別の、小さい引き出しだった。 「持ってきてない。昨日も、忘れたって」  携帯を出した。私が何を言えばいいか考える前に、姉の名を押した。 「お姉ちゃん。土曜に言ってた音、今日持ってこられる?」  私は数字の紙をしまった。 「今日は姪が来るけど、夜なら。……そう。大学に置いてるのね。じゃ、お姉ちゃんから話して」  少し間が空いた。 「私、聴きたいの。返してって頼んだところだけじゃなくて、その前も」  電話は終わらなかった。三輪さんは玄関の方へ歩き、私にも靴を履くよう目で知らせた。 「先生が言ったこと、お姉ちゃんが嫌だったこと、私の分もあるでしょう」  私は鞄を抱えた。彼女が焼き菓子の袋を渡し、頷いた。門へ出るまで姉への電話は続いていた。  大学から連絡が来た。自分の受領の紙を直すため、写しを送ってほしいと頼んだ。  私は田辺さんへ、返却済みの箱を去年引き取った時、先生から何を言われたのか訊いた。三輪さんの話をもう待っているだけではいられなかった。去年の先生の声を当日の返事として使ったのは航だった。田辺さんが箱の赤い字を消さずに戻したのは、それより前だった。  返事は少し寄れないか、だった。秋の案内を見てほしい。妹の所にいたなら、ついでに。  私は文を二度読んだ。三輪さんが何と言ったかは、向こうでも聞こえていた。 第十八章 煮える間 田辺さんから、受領の欄だけ見て、と来た。  案内は持ち帰れない、と返すと、じゃ今ここで、と続いた。  水曜の午前は署へ行った。瀬川さんが確かめたかったのは、私が仕事先へ送った字幕だった。  机に三輪さんの見本を置かれ、長い方を削り、短い方も削った行を読んだ。 「ご本人に見てもらいましたか」 「音は。私の作った方は、まだ」  まだ、と言って、紙へ指を置いた。 「出す前には、見てもらってません」  瀬川さんは私が送った元のファイルを開いた。どこを切り、どこをつないだか、行の順に答えた。  帰る前に、木曜に先生へ送った一覧の話になった。持ち帰った物の中に、二枚ともあったという。 「航さんが、澪さんのと一緒に」 「ご覧になりますか」  机へ出された二枚目には、写真の八番の線があった。裏へ返されると、会場の名と鉛筆の番号がある。  十六時十八分、先生はこの裏を使うと言った。番号を写していたところ、と。  その時にはもう、昼に汚した田辺さんの案内とは別の紙だった。 「先生、先に会場へ連絡するって言ってました。秋の方を」  私は電話の続きを話した。田辺さんは北町にいて、西崎さんは私と送り状を合わせていた。航は澪さんの控えを読んでいた。  この番号も航が持ち帰った。先生の了承を作るつもりで持った紙が、会を止めようとした先生の用事まで机から消していた。  瀬川さんへ午後の訪問を伝えた。田辺さんから来た文も見せた。 「受領の欄だけ、と言われました」  訪問の後にも、連絡すると言って署を出た。  近くの店でお蕎麦を食べる。携帯へ、食べた、と来たので、お蕎麦を、と返した。      *  玄関で焼き菓子の袋を見られた。 「姪が来るから、買うって言ってた。もう渡してくれたの」 「一つ、いただきました」 「座って。お茶にしよう」  机には秋の案内が広がっていた。眼鏡のケースで端を押さえている。鍋の蓋が鳴り、田辺さんは火を弱めた。  玄関に近い椅子へ座る。鞄は隣へ載せた。  小鉢には大根とにんじんがあった。 「お蕎麦、食べたので、少しだけ」 「はいはい。少し」  一つ食べると熱かった。おいしいです、と答えた。  田辺さんが笑う。 「一本、やっと終わるわ」  私も笑いかけた。火曜、三輪さんの机にあった大根と同じだった。  案内の受領の所を読む。返事待ちの下に三輪さんの名がある。 「去年、カセットを受け取った時、先生は箱ごと返したんですか」 「私へ。持って帰る物を出して、ここで預かる物は残した。置く所がないから」 「妹さんのカセットも、残したんですよね」 「音を移してから渡すつもりだったの。返すのは返すって、何度も言ったわ」 「それで、返却済みって」 「私が受け取ったでしょう。名前、書いたんだから」  田辺さんは眼鏡を外し、耳の後ろへ指を入れた。 「灯ちゃんも、カセット持って来て、また持って帰ったでしょう。音を移してって言われたら。それ、同じじゃない」  金曜にもう一度行く、と私は三輪さんへ言った。あの時、金曜までにできるかも知らなかった。 「土曜、鋏を鞄へ入れた時、帰るつもりだったんですか」  田辺さんは缶の蓋へ手を置いた。 「そこも、話しました。警察には」 「鞄、ずっと持ってましたね」 「離したら、見られるでしょう」  蓋が缶に入らず、角を替えた。 「布だけ洗って返せばいいと思ったの。先生の時みたいに、また何を持ったか訊かれたくなくて」 「鋏も、洗うつもりで?」 「そこまで考えてなかった」  手が止まった。 「航君の顔、見たの。私、何してるんだろうって」  私が胸を押す間、田辺さんは入口へ寄っていた。携帯だけを西崎さんへ渡し、鞄は渡さなかった。 「電話で、年を訊かれたのよ。知らないの。何年も、学生さん、航君って」  彼女は蓋を缶の脇へ置いた。 「妹からもかかってきた。出たら帰れなくなると思った。もう帰るつもりはなかったのに」  去年の欄には田辺さんの名前だけがあった。三輪さんはそのあとも待ち、私へ電話した。 「いつ戻すのか、聞きたかったんだと思います」 「先生へ聞いてくれたら、私へ言ってくださったのに」  先生へ届く用事に、自分も入っていたい声だった。私は机の上で、妹の名前が印刷された案内を見た。 「会の映像、航さんの仕事でしたか」 「最初は手伝うって。こちらで頼むなら、ただではいけないから」 「先に、払って」 「半分。残りは出してから。先生が間に入るから安心してって、会場へも言ったの」  田辺さんが眼鏡を掛けた。細い紙を束から取り、自分の名の所を押さえる。  貸した、とも預けた、とも書いていなかった。 「妹の家も、私が頼んで入ってもらったでしょう。その分が、会へ来る人の見本になると思って」 「三輪さんは、見本には」 「家の音は家だけでいいって。昨日、直接言われた」  彼女は紙を束の下へ戻した。 「私が病院へ泊まったのも本当よ。和夫さんが亡くなってから、家へ一人で入れなくなったの。灯ちゃん、あの時の幸枝は知らないでしょう」 「はい」 「お店もお医者さんも。電話すると、本人へって言われるから、出られないって、また説明して」  携帯を取る。画面は起きなかった。 「あの人が出られるようになったら、私がしたこと、いらなくなるわけじゃないでしょう」  私は箸を小鉢へ置いた。 「先生、先に会場へ電話するって、私にも言ってました」 「電話しようとしたのよ。木曜に。その場で」 「会場へ?」 「先に、こちらで取り下げますって。お金のことは後でって」  田辺さんは卓上の缶を開けた。会場へ払った控えを一枚、指の腹で伸ばす。 「私の貯金から。先生に、半分でいいから今決めてって、頼んだの。妹が来る車も、私が先に頼んだから」 「返してもらう方を、先に」 「先に電話されたら、みんな私に聞くでしょう。私がやる会なんだから。電話を置いて、お金の所を見てって」  控えを缶へ戻した。蓋は閉めなかった。  会場の番号を今日の一覧へ写したのは、後で相談するためではなかった。  先生が手を切っただけならいいと、私は思っていた。田辺さんの赤い紙をその方へ寄せていた。  火の弱い鍋がまた鳴った。  田辺さんは立ち、蓋を持ち上げる。私も立とうとすると、まだ熱いお茶、と呼ばれた。  机の案内へ小さい円を一つ描いた。 「ここ、見やすくして。今ならまだ出せるから」  私がその紙へ手を出さずにいると、彼女は束を持ち上げた。二枚を重ね、こちらへ向ける。 「ここだけ。目の前へ出せば、分かるでしょう」  小鉢の上を紙が通った。先生も昼、次の用事へ移ろうとしたところを、同じように呼び止められた。 「机へ置いてください」 「持って。そこへ字を足してもらいたいの」  紙が胸の前まで来た。私は椅子を少し引いた。 「木曜、二枚とも、同じ所が切れてましたね」  田辺さんは下の紙を戻しかけた。 「取られたの。さっき言ったでしょう」 「先生の指の血は、端の点でした。昼、折らずに挟んでました。帰ってきた時、字の所まで切れて、そこが赤かった」 「手を汚したのは、私。先生が、もう電話するって」  案内が机へ戻った。私の前ではなく、彼女の小鉢の横だった。 「先生へも、こうして見せたんですか。電話を置いて、こっちを見てって」  火が小さく鳴った。 「私がいたのに。私に頼んだ会なんだから」  紙を重ねたまま、人の胸の前へ戻す。昼の点とは別に、二枚へ同じ切れ目が入る。私が金曜に見た包丁は流しにはなかった。先生の身体のそばの床にあった。 「先生の前に、その紙があったんですね」  田辺さんは返事をせず、鍋の方へ戻った。  にんじんの長い方を、流しの板へ載せる。包丁が同じ幅で下りた。 「今夜、幸枝に全部聞くって言われたの。灯ちゃん、そこだけいてくれない?」 「帰ります。まだ作る音も、決まってなくて」 「ちょっと、電話するだけだから」 「私が説明するのは、作った字幕の所です」  言ってから、また説明の話をしていると思った。鞄の紐を肩へ掛けた。 「秋は、私、手伝えません」  包丁が止まった。  田辺さんは片方の手からにんじんを置き、包丁は持っていた。 「先生がいたら、先生へ聞けたんでしょう」 「先生にも、訊くことはありました」 「私がいなかったら、あの家へ入れなかったのに」  彼女が机へ来る。包丁の先は下を向いていた。流しからここまで、持ってくる物ではなかった。  私の携帯が机で震えた。 「大学から来たので、帰る時刻を」 「ちょっと待って。今、そんな連絡しなくていいでしょう」  田辺さんの空いた手が画面へ出た。  私は一歩引いた。携帯は机に残った。  包丁の柄が、机の縁へ触れた。先は私の方へ起きる。 「置いてください」  声が細かった。彼女は案内を見る。 「ここ、時間の所だけなのに」 「包丁です」  田辺さんが、あ、と言った。  包丁を板へ戻すために向きを変えかけた。机の携帯がもう一度鳴ると、また私を見た。  私は玄関まで退いた。靴を履く間も、彼女の右手を見ていた。 「灯ちゃん」 「私、今、帰ります」  同じことしか言えなかった。  田辺さんは流しへ行く。包丁の背を板へ載せ、手を離した。妹の名が出た携帯を取った。 「幸枝? いま、灯ちゃんも」  私は戸を開けた。自分の携帯を机へ忘れていた。      *  道で息をついた。  焼き菓子も携帯も家の中だった。二つのために引き返すと、今度は本当に待つことになる。  近くの店へ戻り、電話を借りられないか訊いた。店の人はどこへ、と訊く。  警察へ、と言うと席を示された。  瀬川さんへ、今見た動きを話した。包丁を持って近づき、置くよう言うと戻しかけ、携帯が鳴ってまたこちらへ向いた。私は玄関へ退いた。置いたのはその後だった。  その後に、木曜の話をした。先生がその場で取り下げの電話をしようとした。田辺さんが今日、自分でそう言った。  言いかけて、木曜の二枚の紙の話へ戻った。昼は隅に小さい点。夕方には名前の上が二枚とも切れ、その内側が赤かった。 「私、いま、机に置かないで持たされたんです。田辺さんに。先生も、見てって、その紙を」  言葉が続かなかった。瀬川さんが、こちらへ来られますか、と訊いた。 「携帯も、取りに行けません」  店の人が水を置いた。私は右手で受け取り、電話を持つ手を替えた。  電話を切ると、私は店の人へ頭を下げた。 「携帯、ないんですか」 「置いてきてしまって」 「家ですか」 「人の家です」  それ以上訊かれなかった。お蕎麦の代金は払っているのに、何か注文しなければと思った。  お茶を頼んだ。まだ熱かった。 第十九章 まだいる 翌日の昼、署で携帯を返してもらった。焼き菓子の袋も戻った。ひとつ減っていた。数えた自分が嫌だった。  その後、瀬川さんへ服のことを訊かれた。透明な袋の中で、白いシャツが広げられていた。襟の方を見て、律の写真で見た物だと答えた。写真は本人から受け取っているという。  胸の所に穴があった。周りの赤い所は、袖を汚しただけには見えなかった。 「西崎さんが、手の血で汚したので洗うと」 「その説明も聞いています」  私は手を袋へ出さなかった。見たのは、土曜に紺のシャツを着ていた航だった。白い服がどこへ行ったかは、西崎さんの説明で知った。 「荷物は、家まで行ったんですか」 「二箱とも、確認しています。服は上の箱の袋です」  店の窓から二箱を見た時、田辺さんは同じ席にいた。文が来て、服がその後にどこかへ行ったのではなかった。  私は手帳へ、箱が先、と書いた。その下に六時の便りと、田辺さんの訪問を足す。帰ってから本文をもう一度読む、と話した。  午後、搬出の下見に入る職員へ頼み、私も分室へ行った。長い釘抜きは久住くんへ返す準備に入っていた。板を取るのに使った物だった。  職員が机の手帳を引く。頭のそばへ広がった航の紙は、もうなかった。私は空いた所へ、自分の鞄を置いた。  棚の板を戻す時には久住くんにも来てもらうという。私は、今日のアルバイトで、まだここへ来られない、と答えた。彼には大学の道具を返す方とは別に、自分の用事がある。      *  部屋へ戻ると、戸に母からの不在票があった。再配達の時刻を選び、冷凍庫のご飯を二つ出した。  西崎さんの電話が来た。 「宮原。久住の道具、返った?」 「鞄だけ返ったって。道具は、まだです」 「あいつ、また使えるかって。俺から言ったら、出ないんだよ。道具は悪くないから」  霜の残る器を机へ置いた。 「直接、言ってください」 「出ないんだよ。電話」  私も出ない方へしていた。不在着信を一つ、また一つと増やした。 「大学の説明、今週、聞き取りだけで終わるかって、職員へ訊いて」 「何のためですか」 「向こうへ行く方。大学の聞き取りと、同じ日にされたら間に合わない」 「申請の方も、続けるんですか」 「代わる人をお願いする。原稿も見てもらう。先に、向こうへは一人で行ける日に変えたい」  私は器をレンジへ戻した。扉へ肘が当たった。 「灯。そこまで一緒に止められるの、違うだろ」  呼び方が変わった。 「私に、決められません」 「決めるんじゃなくて、訊いて。まだ向こうから返事が来ないんだよ」 「私、今日は、自分の携帯を返してもらったばかりです」  電子レンジの灯りが消えた。  西崎さんは田辺さんの家でどうした、と訊いた。まだ話せないと答えると、でも自分の方は誰へ訊けばいい、と返した。 「職員の方へ」 「さっき言っただろ、返事が来ないって」  私は椅子へ座った。  向こうでも、何かを置く音がした。 「航が、俺の手、押さえてくれたんだよ。殴ったのに。人が倒れて、見つけただけの所ばかりになると、あいつまで違う人になる」 「それは、訊かれたら話します。最初の電話も」 「代わろうとはしただろ」 「はい」 「そこまで消さないで」  私は自分の手を見る。胸を押した時、交代しようとしてくれた手は布に包まれていた。 「書きます。代わろうとした所」 「その前も」  返事をしなかった。航が布を巻く時、自分を殴った人のためだけにいたのか分からない。帰って、六時までに終わらせようと言われていた。 「宮原、来られる?」  私は膝へ手を置いたまま返事をしなかった。 「町へ行く方。聞き取りの記録だけなら、お前もやってる。会えなかった所へ行って、話を聞くだけ。今のままじゃ、人を増やす方も始められない」 「私、行きません」 「まだ日を言ってないだろ」 「日にちを選ぶ方も、しません」  私は職員の連絡先だけを送った。西崎さんは、向こうへは二人と話してあったんだよ、と言った。 「航さんが来る、って」 「一度、来るって言ったから」  そのまま待ち、私の返事がないので、向こうから切れた。  その後、研究の原稿が届いた。大学へ出す説明とは別のファイルだった。  最初の頁には、聞き取りに行った町と、日を跨いだ移動の図がある。三輪さんの声も私の字幕もなかった。  下まで読んだが、行くと決めた日に誰が待っていたかは図だけでは分からなかった。  質問を一つ打ち、送らずに置いた。いま尋ねたら、もう一度、継続の話へ戻りそうだった。      *  ご飯へ卵を落とした。熱だけでは固まらず、器ごとレンジへ戻した。  くらげから、今日は家の用事と来た。了解と返し、バイトの先輩が亡くなったと打つ。  送ってから、何をしてほしいか分からなくなった。 〈今、一人?〉  一人と答えた。よくしてもらったけれど、裏で私を軽く扱うようなことも言っていた、と続ける。  嫌な先輩だな、と来て腹が立った。 〈それだけじゃない〉 〈それしか聞いてないから〉  器を出した。縁が熱かった。  四人でゲームへ行った話を打つ。誰が負け、誰が手を抜き、もう一回と硬貨を出したか。あの人が来ると、誰と話していいか分からず立っている人がいなくなった。  長いので半分消した。また書いた。  それも嘘だったのか、と打った所は送らなかった。 〈いい人だったって言ってほしいわけでもない〉  返事はしばらく来なかった。卵の端だけが硬くなり、箸で押すと丸く外れた。  食べ終わると、返事うまくできない、明日なら話せる、と届いた。  ありがとうと返し、器を洗った。      *  律から、私物を受け取る時は写真も持ち帰ると来た。  大学からまだ日を教えてもらっていない、と答えた。  航の声、消した、と打ちかけて止まる。消してほしいか、消さないでほしいか、どちらも自分へ訊けなかった。  明日の午後なら関内へ行ける、と律からもう一つ届く。  受取の日の話だと思って、まだ決まらないと返そうとした。 〈灯、会うのは嫌?〉  会いたい、と送った。  それだけで携帯を置きかけ、店を律が決めるのを待たずに自分で一つ調べた。いつもとは別の所を送る。  再配達の時刻にはまだ間があった。二つ目のご飯を冷蔵の方へ移した。  翌朝、大学の職員から、西崎さんが原稿の話もしたいと言っている、と来た。私は夕方なら行けると答えた。瀬川さんへも知らせた。訊きたいのは研究だけではなかった。 第二十章 もう一杯 律は店の前にいた。  緑ではなく、白い短い袖だった。二人で入り、熱い紅茶と冷たい方を頼む。 「私、そっちがよかったかも」  グラスが来ると、律が言った。 「まだ飲んでないじゃん」 「灯が持ってる方、よく見える」  私はカップを彼女の方へ寄せた。律は取らず、鞄から携帯を出した。 「消さなかったんだよね。あの時、消してって言われたのに」  画面に航がいた。袋を持ったまま、少し横へ顔を向けていた。 「顔、ちゃんと見せてくれないから。殴られた方、まだ赤くて。母さんにでも見せてって。勝手に撮って」  航の空いた手がこちらへ上がっていた。  私は画面を持たせてもらった。 「家族へ、送った?」 「やめた。澪さんには見せたけど。これ、残していいと思う?」  その手の向こうに、まだ赤い頬があった。 「私に送ってくれた方も、ある」 「うん。あっちからも、消せって言われたら、どうしようって思った。今は、言われないんだけど」  私は画面を律へ返した。 「消してって、私、言わない」 「そうだね。灯は言わないね」  彼女は画面を伏せた。私は寄せたカップを自分の方へ戻した。 「ゲームの方、机に置いてる」 「端、切らないでよ。灯がいないと、あの時じゃなくなるから」 「肩だけだって」 「そこにいたじゃん」  律はグラスを持った。氷が動いた。      *  グラスの氷の真ん中に隙間ができた。  律が残った紅茶を飲み、私のカップを見る。 「冷めた?」 「飲める」  ひと口飲んだ。 「先生のこと、航じゃないって思ってる?」 「声の方は、去年の」 「知ってる。だから、よかったみたいに言わないで」  私はそんなふうに言ったつもりはなかった。 「木曜、何度も音、聴いてって。私にも。先生がああ言ってるからって」  律はストローを抜いた。 「一緒に聴けば、一緒に覚えると思ったのかな。私のこと好きだった所も、それ?」  先に帰って、と彼女が言った所を思い出す。 「楽しかったんでしょ」  口にしたら、律が顔を上げた。 「灯も、楽しかったでしょう」 「うん」 「私、灯が航と笑ってると嫌だったよ」  私はカップを戻した。 「律が航さんと話してる時、私も」  彼女は頷いた。それで済ませるのが嫌だった。 「私がそこへ行くの、二人に悪いかなって」 「悪くないよ」 「今なら、そう言えるじゃん」  律がストローを紙へ戻す。 「私、今だけいい人になってると思われるのも嫌なんだけど」  私も、そう思ってほしくて言ったわけではない。  返事を探していると、律が先に飲物を持った。空だった。  二人で見た。もう一杯頼む、と律が言った。私はメニューを取り、甘い方へ変えた。      *  それぞれの分を払って外へ出た。  駅へ行く道で写真の話をした。 「何撮ればいいか、今、分かんない」  律が携帯の裏を見た。  信号の向こうで人が大きな袋を抱えていた。袋の角が前にいる子の髪へ当たる。 「邪魔だね」  青に変わると、その子が袋を押し、持つ人が振り返った。律は、よかった、と歩き出す。  私は同じ道を渡った。 第二十一章 行かない返事 金曜の朝、澪さんへ電話した。六時に届いた文を開いていた。夕方、分室で見た文章と同じだったか訊いた。 「同じ。帰る前にもう一回直すって、言ってたから。次があると思ってた」 「送る方は、先にやっておくって」 「うん。あとで触ったら、帰るの遅くなるからって」  日と時刻を選ぶ画面を、航は四時過ぎ、分室で開いた。六時に律と帰る方、澪さんへ説明が届く方を、一緒に終わらせるつもりだった。  私は最後の行を読んだ。説明になっていない所があると、航自身が書いていた。受け取った時、まだそれを書き直している人がいると思っていた。 「帰れなかったんだね」  澪さんが言った。私は返事をしなかった。 「直すって言ったのに。そのまま来た」  瀬川さんへ連絡し、律から聞いたことを伝えた。今日どこへ行くか訊かれ、西崎さんの研究を職員のいる部屋で見ると答えた。 「終わったら、連絡をください」  手帳を閉じ、鞄へしまった。  午後、律と別れてから、大学へ向かった。甘い飲み物の後に、まだ少し喉が渇いていた。      *  職員がいる部屋だった。窓へ向いた机に西崎さんの原稿があり、横へ路線の画面を開いた携帯が置いてあった。 「持ってきてくれたんだ」  左の手に、小さい絆創膏が残っていた。 「ここの図、二つの日に跨いでる所、泊まったんですか」 「そこは終電がなくなったから。こっちは別。先方が夕方しか空かなくて」  頁を戻し、私が違う方へ引いた線を指でたどる。 「この町、二度」 「三度。いちばん下、断られた時。駅まで行って戻った」 「そこも、入れるんですね」 「行けた所だけにしたら、すぐ次へ行けたことになるだろ」  新しい図が来た。会えなかった日に線があり、その後へ細い矢印が出る。 「こっちだと、分かります」  西崎さんは携帯を取った。 「そういうの、向こうでも訊けると思う。前とどう違うか、会えた人だけじゃなくて」 「私が行く方は、しません」  彼は一度、画面を見た。人数を選ぶ欄を開く。 「じゃ、一人にする。日だけ合わせてくれれば、後で別の人を探せるから」  指が出て、一人を選んだ。数字が二から一へ変わる。 「航さんにも、そうできたんですか」 「断られたよ。お前も聞いたろ」 「箱の後に、自分で断るって」 「終わったから。それだけ終わったら、帰るって」  西崎さんが頁を戻した。 「手、巻いてくれたんだよ。殴った後なのに。あいつ、自分から」 「はい」 「一緒に戻ったんだよ、一回帰ってから」  その二つは、なくならなかった。 「白い服は、箱を渡す前に胸を貫かれてます。手の血をつけただけではないです」  彼の指が止まった。 「田辺さんは、その二箱が車へ載る時、澪さんの所にいました。私と三輪さんと。後から来て、鋏を鞄へ入れ、救急へかけた。でも、あの服は、もうなかった」 「俺も大学に。久住が会ってるだろ」 「六時の文は、分室で先に書いてました。その前に、何をしたんですか。二人で箱を出し、手を巻いた後に」  西崎さんの左の手が机へ出た。 「服、貸したんだよ。白いの、洗って返すって」 「着て帰れる方へ、戻したんですね」 「帰るなら、着ていけって。あいつ、自分で着られるから」  彼は襟元へ手を出した。いま着ているのは、別の服だった。 「俺の服、着てたろ。持って帰っていいって言った方。返すって、あの時は言わなかった」  私は紺の襟を思い出した。胸の前が開いていた。電話の声へ返事をしている間、航の顔へ、何度も戻った。 「袖を切った鋏を、机へ置いた。その後、自分で断るって言った」 「電話、見ないでって。俺が先に説明するから、待てって。自分のことだけ、勝手にあっちへ」  彼の手が私の鞄へ出た。職員がその手を見ていた。  西崎さんは手を机へ戻した。 「番号まで、出したのかって」 「自分でかける方を、止めたんですね」 「先方へ二人って伝えたのは、あなたでした。航さん本人には、まだ訊いてなかった人へ」 「返事を待ってたら、また取れないだろ。二人で行くって、一度言ったんだよ」  彼の右の手が原稿の角を押す。図が机へ平らになった。 「俺の服を着てたんだよ。お前が来た時も」 「見ました」 「俺が、持って帰れって言ったんだよ」  指が原稿の角から離れた。 「航が、こっちに何かしてくれた所まで、お前の文ではなくなるの」 「手を巻いてくれたことは、話します」  彼は私を見た。 「そうだよ。そこは、書けるだろ」  原稿を押さえていた手が、私の前へ出た。 「宮原。図の直した方、そっちは見て」  別の頁が来た。二年はなかったことにならない。ここで返事をすれば、誰にどう持って行くかを、また訊かれる。 「今日は、持って帰りません」  図を机へ戻した。  職員が私を呼ぶと、西崎さんは、まだ向こうの人は待ってるんだよ、と言った。  私は携帯を鞄から出さず、立った。      *  廊下の別の机へ座った。職員が水を持ってきてくれた。  瀬川さんへ電話した。西崎さんの言ったことを、聞いた順に話した。 「袖を切ってくれた人へ、あの鋏を使ったんだと思います。服を着せて、白い方を自分の箱へ。それから大学へ行った」  そこで声が止まった。白い服に穴ができた瞬間を、私は見ていない。傷ができた瞬間にもう話せなかった、と決めたわけでもない。  私が考えたのは、田辺さんが後から初めて刺した説明に、先に出た服の場所がないことだった。先生の声を流した航が、今度は自分の声で断る方へ動こうとしていた。そこへ使える鋏が、手当てをした机にあった。  三輪さんからも来ていた。短くしてくれた分、こっちで聴く時間も掛かるのよ、とある。私は一度笑い、作り直す日を決めて送った。  翌週、田辺さんと西崎さんが、それぞれの殺害の件で逮捕された。  田辺さんは先生へ電話を置いてほしかったと話したという。木曜の案内は、二枚を重ねた時に刃が通った。会場の控えは台所の缶へ残り、彼女が払った分は先生が殺されても返らなかった。  田辺さんが土曜に鋏を鞄へ入れたことも、救急へ電話したことも、残った。胸を貫かれた白い服は、彼女が来る前に運び出されていた。  西崎さんが電話を代わったのは、服を箱へ入れ、大学から戻った後だった。私へ手を代われると言ったことも、記録に残った。  母へ、航が先生を殺していなかったとだけなら、少しほっとすると思った。それだけを送りかけ、送らずにかけた。  小鉢を食べた所から話した。母は、今はどこ、と先に訊いた。  家、と答えた。まだ靴を履いたままだった。 第二十二章 持って帰る その週、大学から私物を受け取る日が来た。  職員のいる時間に持ち主ごとに分けるという。私は律へ送り、久住くんにも送った。午前は授業、と返る。沙帆は蓋のついたマグカップを取りたいと言った。 「置いてたの?」 『飲みかけてた。鞄へ入れられなくて』  自分の希望を返すと、三輪さんへ電話した。頼まれた音はまだ作れていなかった。 『来週までに電話、って言いましたね』 「はい。今日、電話を」 『忘れたのかと思った』  私は謝った。沙帆へ金曜夜に作る時刻を確かめ直し、もう一度連絡すると答えた。  木曜へ電話、と書いた。三輪さんが忘れたのかと思ったと言った声が、もう一度耳へ戻った。  西崎さんからの電話は、もう来なくなった。大学からは職員のいる時間に受け取るよう連絡があった。      *  澪さんには横浜駅で会った。  弟の家へ、自分の本を取りに行くという。手伝えるか訊くと、重くなかったらと返ってきた。  折り畳みの袋を一つ渡され、先に食べていい、と地下の店へ入った。  私は普通の麺、澪さんは辛い方を取る。少しもらって水を飲んでいると、彼女は普通の方を食べていた。 「先生のこと、聞いた。お母さんからも大学からも」  箸を置いた。 「航が、先生が倒れてる所で、声を流してたんだね。私に返す分を取るために」 「はい」 「私に電話すればいいのに。出なかったかもしれないけど、仕事してたら。それでも」  私は返事を待った。澪さんは水を飲んだ。 「最後の紙は、自分のこと書いてたんだって」 「私も、聞きました」 「それで、ちゃんとしてた、にはならないんだけど」  麺を一口食べ、口を閉じたまま鼻へ手を当てる。私は水を彼女の方へ寄せた。 「航さん、西崎さんの本を、返すって言ってました」  澪さんが水を置いた。 「読んだの?」 「最初の所、分からないと西崎さんへ言ったって。もう、二人で食べた後に」 「それ、聞きに戻ったんだ」  私は返事をしかけた。 「そうだったら。あいつ、私にもそうなの。分かんない所、付箋にして。次に会った時、一緒に見ようって。私、読む暇、あったりなかったりなのに」  箸を取った。 「私が要る所に貼ったんじゃないんだよね。いつも」  食べようとした麺が器へ戻った。 「西崎さんにも、自分の文を先に読んでって、言ってました」 「それで殴られた所、灯さんが見たんだね」 「はい。その後、分室を出て。私、じゃあね、言わなかったんです」  澪さんは頷いた。 「私は出なかった。電話。あとで、また話せると思って」  水を取って、少し飲んだ。 「どっちも、あの時、怒ってたんだよね」 「はい」 「今も怒るよ。返したら終わるんじゃないんだからって。でも、もう一回、読んでって言われると、読みたくもなると思う。私」  私は自分の麺を見た。  航の袋には、律が渡した写真があった。西崎さんが読んでほしくて渡した本も、返すと言った後に開いていた。  西崎さんの電話の言葉を澪さんに一度に話したくなった。何を訊き、何へ答えたのか。  彼女の手が止まっていたので、私は箸を取った。 「灯さん、冷めるよ」  言われてから自分の器を寄せる。私が食べると、澪さんも残りを口へ運んだ。  袋を畳んで返した。本が何冊あるのか訊くと、分かんない、と答えた。      *  弟の家の戸へ着くと、澪さんが立ち止まった。 「何があるか、知られたくない物、あったらどうしよう」 「外で待ちますか」 「でも重いの、持ってもらうんだよね」  袋を見せた。まだ何も入っていなかった。  鍵が開く。部屋に大学の箱はなかった。画面の前に椅子があり、背へ服が掛かっていた。澪さんは持ち上げ、私に見えない向きへ畳む。  本を二冊取り、頁を開く。細い付箋が何本も上へ出ていた。 「取っとこうかな」  取らずに袋へ入れた。  私は出された本の向きを変えた。底が狭く、三冊目から斜めになる。 「これ、私のじゃなかった」  一冊戻そうとして隣を倒した。あー、もう、と小さく怒り、直した。  片方の靴下が床にあった。もう片方を椅子の下で見つけ、二つを揃える。しばらく手に持っていた。 「こんなん、持って帰っても」  その後、服の袋へ入れた。  私の持つ本は思ったより軽かった。重いと言うのも違うので、何も言わなかった。  出る前に、澪さんが椅子を引いて机の下を見る。何も取らずに戻した。 「来週、もう一回。灯さんは、来なくてもいいよ」 「連絡、ください」 「うん。重くなったら」  鍵をかけた。  電車で袋を膝へ置き、駅が変わるたびに口を開きかけて閉じた。  横浜へ戻る前、澪さんが私を見た。 「楽しかった話も、まだしていいんだよね」  私は頷いた。 「今日は、しないけど」  袋の口が、彼女の膝でまた折られた。 第二十三章 白い画面 木曜、三輪さんへ電話する前に沙帆から返事が来た。  金曜の夜は三十分しか作れないという。私は預かったCDと、数字に印をつけた紙を出した。  全編を返したCDは家で聴く物と別に残す。カセットは三輪さんの家にある。もう一度確かめて電話した。  土曜の午後に伺う約束になった。できなければ午前に連絡する。      *  大学から、自分のした作業を書くよう頼まれていた。  航の案を開くと、先生の意向を受け、とある。一行消すと、次に先生の了承の下で、と続く。  全部を選びかけ、閉じた。  新しい画面を開く。何を残せるか考える前に、自分が落とした行を上へ書いた。      *  図書館の空いた机へ沙帆が来た。  私は大学へ出す文を読んでいた。彼女はヘッドホンを出す。 「言い訳っぽくない? これ」 「まだ。聴いてるから」  片方だけ外して答え、また戻す。私は自分の文へ目を下ろした。  意味が変わるとは考えていなかった、と書いていた。残した一行なら読めると思った。消した行と、つけた字幕を二つ並べた。  久住くんは少し遅れて来た。ノートを開き、アルバイトのシフトを沙帆へ訊いた。 「金曜、代われます。面談、午後なんですよね」 「まだ時刻、返事待ち。でも頼みたい」 「じゃ、先に店長へ言ってきます」  立ちかけたところへ律が来た。鞄から写真袋を出す。 「灯、ご飯、行く?」 「ここ、終わったら」 「何時」  私は時刻を見た。まだ最後の行を書いていない。 「あと二十分」 「じゃ、私、写真、見てる」  向かいへ座る。あの土曜にも何時、と訊いた。  西崎さんの研究を、大学へ提出する紙へ入れるか迷っていた。見本の音を使ったと私が思っていたが、彼の二年分の聞き取りは別にあった。私が読まなかったものを、なかったと書けない。  そこで手が止まる。  律は写真を袋へ戻す。私の文は読んでいなかった。画面を少し彼女の方へ向けた。 「これ、読んでほしい」  律が顔を上げた。 「いま?」 「あとででも」  彼女はうなずいた。 「私のは、まだ見せない。覚えてない所、灯に見せると、何かちゃんとなりそうで」 「うん」  私は最後に自分の名を書いた。沙帆は耳の片方を外し、今日、自分の三分を聴いてほしいと言う。  久住くんが電話を終えて戻る。もう店長には頼んだと言った。 「まだ面談、決まってないけど」 「空いたら戻せるので。先の方が頼めます」  沙帆は携帯を見た。私たちの二十分とは違う予定が、そこにはある。  沙帆の電話が鳴った。  画面を見て、今出る、と立つ。廊下で耳へ当て、窓の方を向いていた。  戻ると座る前に劇場、と言った。 「会いに来てくださいって。一度」 「決まった?」 「まだ。会うだけ。でも、会ってくれる」  鞄を引き寄せる。 「何着ていこう」 「白いの、貸そうか」  律が自分の袖を見た。  下へ着る物も借りることになり、合わなかったらごめんと沙帆が言う。律の肩へ手を置いて、離す。 「そんな違わないか」 「今、何、測った?」 「だいたい」  律が笑い、私も笑った。  久住くんが灯さんも行くかと訊いた。沙帆が私だけ、と先に答える。 「今度、音、聴かせて」  私は言った。 「新しいのもある」 「じゃ、新しいの」  沙帆は頷いた。律が帰りのご飯は、と訊いた。  安い所、今月もう、と沙帆が言う。私も久住くんも同じだった。  律が挙げた二つの店から、知らない方へ行きたいと私が答えた。  久住くんはノートを鞄へしまう。店長へ送った予定が、携帯の画面にまだ開いていた。      *  翌晩、沙帆の部屋でCDを作った。  借りた白い服は鞄へ畳んであった。律は自分の写真を見直したいと、来なかった。  数字の紙を開き、車の区間を聴いた。  三輪さんが道を尋ねる前の、車だけの所を短くする。帰ってきた、という声を残し、雨はそのまま。  切ってつなぐと、行った先が急に近くなった。 「あ、止まる所、なくなった」  沙帆が戻す。  車が止まり、誰かが息をつき、三輪さんが声をかけた。そこからにすると少し長くなった。  私は数字の横へ新しい印をつけた。 「三輪さんにも、ここ、もう一度聴いてもらう」 「土曜に間に合う?」 「作れる所まで持っていく。それで駄目なら、また」  元の全編とは別の名で書き出す。初めとつないだ所、最後を確かめ、家で聴く分、とケースへ入れる。  沙帆が時刻を見た。 「三分、聴いて。今度の方」  私は椅子へ座り直す。仕事の音が閉じられた。  雨が流れた。部屋で録った小さい音も奥に混じる。途中で彼女が画面を見たが、私は終わる所まで聴いた。  顔を向けられる前に、もう一回、と言った。 第二十四章 雨漏り 三輪さんの机へ、写真が八枚並んでいた。  律と私が座ると、一枚だけ寄せる。縁側の二つの椅子に夫婦が座り、その奥で田辺さんが横になっていた。片手を額へ置き、顔をしかめている。 「寝てたんですか」 「起きた所。お茶が冷たいって。自分が寝てたんじゃないって、私、言ったの」  三輪さんが笑った。  律も顔を寄せた。田辺さんは小さく、三輪さんが手前へ大きく写っている。  写真は重ねて棚の方へ戻された。 「新しいの、こっちね」 「はい。家で聴く分です。前に返した全編も、そのまま」  二つのケースを並べてもらった。  三輪さんがプレーヤーを寄せ、先に蓋を開ける。私が手を出す必要はなかった。 「押すだけでしょう」 「はい」  車が走った。  私はつないだ所を待つ。車が止まり、ひと息の後、道を尋ねる声がした。戸が開き、食器が触れ合う。 「着いた」  三輪さんはリモコンを膝へ置いた。  私がどこを直したか話す前に、次の声へ聴き入る。私はケースの蓋を閉じた。      *  雨が強くなった。  金物へ一粒落ち、もう一粒が続く。 『何でそっちに置くの』 『そこに落ちるからでしょう』  夫婦の声だった。 『こっちの方が音がいいな』 『音はいいから、直してよ』 『雨やんだら』 『やんだら忘れるじゃない』  三輪さんが笑う。 「忘れるの。ほんとに」  物を引く音がした。底を擦らないで、と録音の中でも三輪さんが言う。少し離れて夫が答え、終わりは聞き取れなかった。 「直す道具じゃなく、また鍋を持ってくるの。数、増やせばどうにかなると思って」  律が笑い、私も笑った。  器が替わり、雨の音も変わった。  同じ紙へ三輪さんが短くしてほしい所を書き足す。今日は車のつなぎをもう一度聴くことになり、彼女が戻した。      *  大学の訂正文も本人へ届いていた。  あの言葉を言った時の話は載せ、家の音は家で聴く、と三輪さんが答えた。映像の再確認は担当者と日を決める。その場へ私のパソコンは出さなかった。  玄関で律へパンの袋が渡った。六つあった。 「冷凍しとけばよかった。昨日、焼いたの」 「今日、食べます」  律が答えると、バターが多いから何もつけなくてよいと言われた。 「灯さんにも、ね」 「半分、灯に渡します」 「そう。お願い」  私も半分いただきますと答えた。  もう一度謝ろうとした言葉は、その後へ置く所がなかった。      *  駅へ行く道で袋を開け、潰れていないか確かめる。律が私へ見せてから口を折った。 「川の方、行っていい? 撮りたいのがある」  少し遠回りして大岡川へ出た。  戸の閉まった店の前で、彼女は携帯を出す。ガラス越しに奥の丸椅子を撮っていた。  私は戻って、パン持つ、と手を出した。少し迷って渡された。  しゃがんだ膝へ緑の服の裾が掛かる。一緒に買った方だった。 「汚れるよ」 「もう、汚れてる」  立って自分の裾を見た。  私は木陰で母の文を開いた。荷物、届いた? とある。届いた、冷凍庫も空けた、と返す。 「こっち見て」  顔を上げるとシャッターが鳴った。 「待って。変だった」 「見てから言って」  画面が来る。  腹の前へ紙袋を抱え、腕が変に曲がっていた。口元だけ笑った顔だった。 「もう一枚」 「どこが嫌?」 「律も入って」  彼女は画面を見て、それから隣へ来た。  伸ばした腕の先に二人の顔が入る。私が袋を反対へ持つと、肩へぶつかった。 「あ、ごめん」 「いい。押して」 「どこ」 「ここ」  指を伸ばし、携帯が動いた。画面の二人がぶれた。  律がもう、と言う。笑っていたので私も笑った。今度は音がしない。 「押せてないじゃん」 「分かってる」  言い返した所で彼女が押した。      *  分室の搬出が再開したのは、しばらく後だった。  大学に残す物、持ち主へ返す物、引継ぎ先がまだ決まらない物。職員と一緒に、箱を少しずつ運んだ。  田辺さんの電話の記録が束で残っていた。返事待ちの下へ西崎さんの字があり、同じ箱の相手へ何度も二人で連絡している。  私は職員へ渡した。捨てる紙に混ぜなかった。  西崎さんには会っていない。  自分の研究原稿も本も、大学へ残す物とは別に袋へ入れていた。もうその袋はなかった。  縫い直した上着は、まだ私物へ戻っていない。服の状態を確かめるため、預けられていた。私は返る日を訊きかけ、誰の用件か聞かれた。 「私の物じゃ、ないです」  担当者は次に運ぶ箱を指した。  私はそちらの番号を読む。      *  床を拭くと、窓際に机の跡が濃く残った。  久住くんがバケツを持って行き、戻った手で額を拭く。 「水、止まらなくて」 「蛇口?」 「ぎゅっと回すと、また出るんです」  沙帆が流しへ行った。水音が止まり、久住くんが見に行く。私は雑巾を畳んだ。  沙帆の録音機は返っていた。今日は持ってきていない。劇場で会った人が、長い素材の方も聴きたいと言ったという。 「どこまで?」 「応募の雨。あっちじゃない。今度、部屋の音も入れた方」  私は頷いた。  律は掲示を剥がしていた。一枚の端を破り、指で合わせる。テープを差し出すと、裏からねと言われた。 「分かってるよ」  彼女は笑わず、テープを取った。  前の日曜、写真の写しを二人で見た。航の肩が端へ写る一枚を、律は捨てなかった。私は口を半分開け、何か説明している。  ひどい顔と言ったら、別のにするかと訊かれた。その一枚を受け取った。  机に立てる写真と同じ所には、まだ置いていない。      *  空いた部屋を四人で見た。  久住くんが何か言いかけ、やめる。沙帆は先に廊下へ出て、もう帰ってよいかを職員へ訊いた。  鍵が掛かるのを玄関で待ち、外へ出てから私が訊く。 「土曜、空いてる?」 「仕事。何?」 「遊びに行きたい。駅の向こうの」 「ゲーセン?」  久住くんが顔を上げた。  律は夜ならと言う。私は夕方でと返しかけ、母へ電話する約束を思い出した。 「夜、駄目だった。日曜は」 「昼なら」  沙帆が携帯を出す。律も行けるという。 「今度、卓球ある所でもいいですか」  久住くんが訊いた。 「できるの?」 「少し。中学でやってただけで」 「ほら、できる人の言い方じゃん」  沙帆が笑った。律が店を調べ、私は日曜は雨らしいと話した。 「屋内でしょ」  沙帆が返す。      *  夜、くらげは開始早々に崖から落ちた。 『今のなし』 「見た」  私は端へ寄って引き上げる。伸びてきた手を掴むと、二人とも落ちた。  しばらく声がなく、回線が切れたかと思う。 『そっちも落ちると思わないじゃん』 「重い」 『同じ重さです』  声を出して笑い、隣の部屋を思い出して口を押さえた。  あと十分で抜けると、くらげが言う。 「早いね」 『明日早い』 「何時」 『知ったら起こしてくれる?』 「無理」 『じゃ寝ます』  まだ十分あると抗議した。戻ってきたので、今度は私が先に橋を渡る。  窓へ雨が当たり始めた。  ヘッドホンを片方ずらすと、雨樋の水が聞こえる。開けた窓から写真立てへ細かい水が跳ねた。  私は立って窓を閉める。  二人の写真が少し斜めに入っていた。直す間、画面でくらげが跳ぶ。 『おいてくよ』  椅子を引き寄せた。 「待って」  返して、橋の向こうへ走った。 了